六場 囚われの鬼神

 あくる朝、王仙羽と陳芹は蔵書殿に赴いた。城府に隣接しているこの建物は宮殿か何かのように壮麗で、屋根の彫り物は黒と金で塗られている。ともすれば城府の建物よりも豪華なくらいだ。

 長大な階段をのぼり切り、開け放たれ巨大な入り口をくぐって中に入ると、そこには別の扉の前に執務用の机がぽつんと置かれていた。机には男が一人座っていて、何かの文書を読んでいる。


 二人が近付くと、男は顔を上げて眼鏡を直した。

「お早う、陳芹チェンチン。こちらは例の道士殿かな?」

「せや。よろしゅうな」

 初老のこの男は、 他の住人たちほど王仙羽に敵意がないようだ。王仙羽は男が自分に向き直ると、拱手して一礼した。

「お初にお目にかかります。碧雲観より参りました、王仙羽ワンシェンユーです」

「どうも。私はここの管理人の姜洋ジャンヤンです。老不殤ラオブーシャン大人から話は聞いております。さ、こちらへ」

 姜洋と名乗った死霊術師は、立ち上がると背後の扉へと王仙羽を導いた。姜洋が取手を握り、扉を開けると、そこには驚くべき空間が広がっていた。



 蔵書殿は、天井までうず高く積み重なった階層構造になっていた。階段で結ばれた各階は回廊になっており、どれも一面の書棚で埋められている。ここから天井までもかなりの高さがあったが、驚くべきは最下層に至るまでの無数の層だった。

 入り口のあるこの階もまた、他の階と同じような回廊になっている。どの階にも小さな机が設置されているのは、そこで座ってゆっくり書物を読めるようにということだろう。姜洋は目の前の手すりから上半身を乗り出すと、上を向いて「リン冰子ビンズ!」と呼びかけた。

 凛冰子というと、昨日の老不殤ラオブーシャンの物騒な決定に出てきた名前だ。一体どんな人物なのかと、王仙羽はこっそりあたりを見回した——すると、ふいに周囲がすっと寒くなった。次の瞬間、青い長袍をまとった男が三人の目の前に出現する。

 王仙羽は小さく息を飲んだ。だが陳芹と姜洋は気にならないらしく、陳芹に至っては

「よお、冰仔ビンちゃん! 久しぶりやな!」

 と陽気な声を上げている。ところが、冰仔ビンちゃんこと凛冰子の方は、陳芹を見るなり整った顔を思い切り歪め、手に持った扇子をピシャリともう一方の手のひらに叩きつけた。

「お前……!」

ワン道長、彼は凛冰子。ここのです」

 姜洋ジャンヤンがすかさず割って入ると、凛冰子はフンと鼻を鳴らし、扇子を持った手を重ねて一礼した。秀麗な目元にスッと通った鼻筋が目を引く美男子だが、どうやらその美貌に見合った自尊心の持ち主らしい。

 凛冰子は黒い長髪を半分だけ結い上げて丸くまとめ、残りは背中に流していた。ゆったりした長袍に扇子を持った姿はまさしく風流を好む文人といったところだが、その肌はまるで死人のように真っ白だ。

「姜洋様、物というのは……」

 王仙羽が尋ねると、姜洋が口を開く前に凛冰子が

「音に聞いたまま、読んで字のごとく『物』よ」

 と言い放った。

「私は元より陰霊城いんれいじょうの人間ではないのでね」

「そもそも人間かどうかが怪しいけどな」

 陳芹が口をはさむ。凛冰子はキッと陳芹を睨みつけた。

「黙れ! 誰のせいだと——」

「おお、怖い怖い。半分死んどるわりに血の巡りがよろしいことで」

「何だと⁉︎」

 陳芹チェンチンがおどけて言うと、凛冰子はいよいよ怒りを露わにする。どうやら陳芹は、凛冰子をからかって遊ぶのが好きらしかった。凛冰子も凛冰子でからかわれるままに怒りをつのらせ、今や色のない頬に赤みが差していると錯覚してしまいそうなほどいきり立っている。

「やめなさい、二人とも。蔵書殿では静粛にすべしとあれほど言っているだろう」

 姜洋が割って入ると、凛冰子は鋭く息を吐いて扇子を広げた。口元を隠し、プイと王仙羽たちから顔を背けた凛冰子に姜洋が言う。

ワン殿はお前が相手をせよと、ラオ大人から命じられたのだろう。わきまえよ」

 姜洋にきつく言われると、凛冰子は即座に「申し訳ありません」と顔を背けたまま言った。

「お前もだ、陳芹。お前の無礼を老大人にご報告すればどうなるか、分からぬとは言わせんぞ」

「はいはい、すんませんでした」

 二人揃って身の入っていない謝罪だったが、それでも陳芹は凛冰子を挑発するのをやめた。姜洋はやれやれとため息をついて眼鏡を直すと、凛冰子にあとを任せて持ち場に戻っていった。



 凛冰子リンビンズは扇子をたたむと、渋々といったふうに口を開いた。

「さて、王仙羽ワンシェンユーと言ったか。何を探している?」

「人の寿命に手を加える方法です。どのような術を使えば生死の理から外れた存在が生まれるのかを知りたくて」

 王仙羽が答える。すると凛冰子は冷笑を浮かべて、白い腕を露わにした。

「ならば私を見るが良い」

 王仙羽は、訝しみながらも真っ白な手首に指を二本押し当てた。ひやりと冷たい皮膚は死人のそれでいくら探っても血の巡りは感じられず、しかし生きている者と同じように内力は循環している。眉をひそめた王仙羽に、凛冰子は言った。

「これが奴らの餌食にされた者の末路だ。私が『物』だというのはそういうことよ。私は連中の使役する傀儡なのだ」

 凛冰子はそう言うと長袍の裾を翻し、話は終わったとばかりに歩き出した。

「凛先生? 待ってください、もう少し詳しくお話を……」

 王仙羽が慌ててあとを追う。

「先ほど陳芹チェンチンが言ったように、私は半分死人だが残りの半分は生きている。生きたままの三魂七魄を細工すると、上手く行けばこういう代物が出来上がる」

 凛冰子は素っ気なく言うと、扇子を開いて軽くあおぎ始めた。

「ただし魂が損なわれると精神に異常をきたすゆえ、心身をともに保存したい場合、基本的に破壊されるのは魄の方だ。ともに土に返るべき魄がなければ肉体は朽ちることができず、残された魂の永遠の器と化すからな」

「それで破壊された魄を術で補ったんがこいつっちゅうこっちゃ。こいつは陰霊城でも珍しい、生ける屍や」

 陳芹がすかさず口をはさむ。凛冰子は陳芹を睨みつけた。

「……まだ他に用はあるか、王仙羽ワンシェンユー

 凛冰子が低い声で問う。王仙羽がないと答えて礼を言うと、凛冰子は返事もせずにふっと姿を消した。



 そこからは、ひたすらに知識とつてを頼る日々だった。王仙羽は陳芹の案内で傀儡の扱いに詳しい者や魂魄を操る術に長けた者、鬼や僵屍の闇商人にまで会いに行った——しかし、誰のもとに行っても、答えは一貫して同じだった。この陰霊城で生きながら死んでいると言える者は凛冰子リンビンズただ一人、三魂だけを残して七魄を破壊するのは神技にも等しい。もしそれを可能にする術があるのなら、是非とも教えて欲しいものだ——と。


 陳芹チェンチンは、陰霊城なら探すのは楽だと言ったものの、何日か留守にしては情報を持って王仙羽に会いに来て、場合によっては人に会う手筈を整えてくれる、といった調子だった。あるとき、姿を見せた陳芹に、王仙羽は凛冰子についてこんなことを尋ねた。

「あの方は、死霊術の心得はあるのですか?」

 ところが陳芹は、それを聞くなり顔色を変えて

「何言うとんねん!」

 と大慌てで言った。

「あいつは死霊術は使われへん。ていうか、あいつは死霊術がこの世でいっちばん嫌いなんや! 聞いたんがわしで良かったな、道長、せやなかったら今頃メタクソにやられてるで!」

 陳芹曰く、傀儡として陰霊城で暮らしている者は皆城外の出身で、彼らに死霊術を教えることは固く禁じられていた。ほとんどの者は武術の心得もなかったが、ここでも凛冰子は例外だった——「高潔の徒」だった(と陳芹は言った)凛冰子は、死霊術という邪道の方術に支配されていることをひどく恨んでいるばかりか、死霊術にまつわる全てを嫌悪し、憎んでいる。それを聞いた王仙羽は、慌てて前言撤回した。彼の記録は黒塗りかもしれないが、木簡の人物にはなり得ない。むしろ最も遠い存在だ。


 王仙羽は調査を続けたが、一向に手がかりは得られないまま時間だけが過ぎていく。そんなある日、王仙羽は陰霊城を揺るがす事件に巻き込まれてしまった。

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