七場 暗夜の乱

 王仙羽ワンシェンユーは老不殤の家の一室で、夜中だというのに読み物を続けていた。机の向かい側では、凛冰子リンビンズが王仙羽の書きつけを勝手に読んでいる——蔵書殿で出会ってからというもの、凛冰子は隙あらば持ち場を離れて王仙羽を手伝うようになった。聞けば、彼を使役しているのは老不殤ラオブーシャンその人で、姜洋は部下として従うよう命令されているから従っているだけだという。

「あの女の設けた制限の中でなら、どう動こうと私の自由だ。ならば連中の不利になるよう全力を尽くしてお前を補佐しても、それを禁じられていないのだから咎められる筋合いもなかろう」

「女? 老不殤は女人なのですか」

 王仙羽が驚いて顔を上げると、凛冰子はぞんざいに頷いた。

「私も最初は分からなかったがな。一部の連中に言わせればだ」

 凛冰子はそう言うと、文机の端に足を乗せた。王仙羽が眉をひそめて筆立てを退かしたのも気にも留めていない。

「だが、こんな下法の術を百年も修行していたのでは昇天もできまいよ。たとえ死ぬことがあったとて、地獄の王たちが処遇に困るだけだ」

 凛冰子が冷淡に笑う。会話はそこで途切れ、二人はそれぞれの手元に視線を戻した。沈黙の時が流れる——しばらくして、王仙羽が凛冰子の白い顔を見やった。

「そうだ。凛先生、老不殤があの木簡の人物という可能性についてはどう思います?」

 しかし、凛冰子は考えるまでもないといったふうに

「ないな。面白い仮説ではあるが」

 とだけ答え、顔すら上げなかった。

 会話は再び途絶え、二人はまた黙り込んで読み物を再開した。とはいえ、もう何日も調査は膠着していて、これ以上収穫もありそうにない。集中力もそろそろ限界だ。王仙羽ワンシェンユーは書物を持ったまま、コクリ、コクリと船をこぎ出した。



 ふと、どこからか爆発のような音が聞こえてきた。続いて夜のしじまをつん裂く鋭い悲鳴が上がる。王仙羽は我に帰ると、眠い目をこすって扉の方を見た。

「何事だ?」

 凛冰子リンビンズが怪訝そうに呟いて、机から足を下ろす。するとそれに答えるように、例の童僕が部屋に入ってきた。

「陰霊城が襲撃されています」

 童僕が淡々と告げる。

「襲撃?」

 凛冰子が眉を吊り上げる。王仙羽は、続く童僕の言葉で完全に目が覚めた。

「迷屍陣から連れ出された僵屍が街を襲っています」


 王仙羽は弾かれたように立ち上がると、凛冰子と童僕を置いて部屋を飛び出した。回廊に出ると、喧噪が少しだけ明瞭になる。王仙羽は庭に出ると地面を蹴って、屋根にひらりと飛び乗った。

 家々の影が連なる中、方々で緑色の光が閃いている。聞き覚えのある咆哮がどこからか聞こえてくる——どうやら街を襲う僵屍たちを、死霊術師たちが迎え撃っているらしい。

 眉をひそめる王仙羽の隣に、ふっと気配が現れた。振り返ると、凛冰子がすぐ隣に膝をついている。

「凛先生、これは一体……」

「分からぬ。分からぬが……あやつらがだと? そんな馬鹿な」

 凛冰子はじっと考え込んで何やら呟いている。その時、王仙羽ワンシェンユーは家の前の暗い道で何かが蠢くのを見た。


 バン! けたたましい音がして、二人は一斉に門に目を向けた。暗がりの中、何かが家に押し入ろうと門に体当たりしているのが辛うじて見える。二人は同時に屋根から飛び降りた。

 バン! 門が一際けたたましい音を立てた。大量の砂埃が舞い、門の限界を教えてくる。王仙羽は右腕を振るうと、その手に長剣を握りしめた。

 凛冰子は扇子を握りしめ、じっと門を注視していたが、やがて一言

「来るぞ」

 と呟いた。それと同時に門が破られ、一体の僵屍が庭に転がり込んできた。



 僵屍は、獣のように唸りながら焦点の合わない目で庭を睨んでいる。二人が息をひそめて見ている中、僵屍はけたたましい咆哮を上げると四つ足で王仙羽に向かって突進してきた。王仙羽は左手に剣指を作ると、顔の前に構えたそれを振り下ろす。指先から放たれた剣気が僵屍の眉間を直撃し、僵屍はもんどりうってひっくり返った。

 生きた人間や獣であれば眉間を撃ち抜かれたら即死だが、僵屍は庭の端まで吹っ飛んだだけですぐに起き上がる。王仙羽は剣を構えて僵屍に飛びかかり、両者は回廊の手前で激突した。でたらめに振り下ろされる腕を剣で払い、掴まれた手首を捻って逃れ、空いた胸元に掌を叩きこむ。ドン、と鈍い音がして僵屍は後方に飛ばされ、王仙羽も跳ね返りを利用して後ろに飛び退いた。再び地面を蹴る足に力を込め、一瞬のうちに僵屍のすぐ前まで移動する。王仙羽は、その体に深々と剣を突き立てた。僵屍はそんなことはお構いなしに、唾をまき散らしながら喚き、至近距離にある王仙羽の体に爪を立てようと腕を振り回している。王仙羽は右に左に攻撃をかわすとその体を蹴り飛ばし、剣を深々と押し込んだ。切っ先が胴体を突き抜け、僵屍は王仙羽に押されるままに後退し、ついには柱に縫い留められる。


 不意に、背後から一陣の冷風が吹いてきた。「退け」と声がすると同時に王仙羽は冷風に場所を開ける。現れたのは、それまで王仙羽と僵屍の戦いを静観していた凛冰子だった。凛冰子が閉じた扇子を暴れる僵屍の眉間に突き立てると、途端に僵屍の動きが緩慢になる。王仙羽が見ていると、扇子の触れたところから薄氷が張り始め、僵屍そのまま氷漬けにされてしまった。



 門は破られたが、侵入したのはこの一体だけだ。王仙羽は剣を引き抜くと、改めて僵屍に目を向けた。

「……あれ、この僵屍」

 王仙羽は、ある違和感を覚えた。黄色く濁った、だらりと半開きの目の中心に、黒い瞳がある。

 だが、迷屍陣で見、交戦した僵屍は、どれも目が白く濁っていたはずだ。

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