二場 泰山の使い

「な……⁉」

 突然の告白に、今度は王仙羽ワンシェンユーがたじろぐ番だった。

「なら、あの鬼たちは皆お前の……!」

「ちゃう、あいつらはほんまにただの飲み仲間や。享楽にしか興味のない鬼は陰の気が薄うて使いもんにならん」

 平然と否定した陳芹チェンチンに、王仙羽は少し落ち着きを取り戻した。死霊術師は、生前の恨みや死の間際の強い恐怖などによって強い陰の気を帯びている鬼を好んで使役する。酒を飲むことにしか執着のない酒鬼が脅威でないのは、たしかに陳芹の言う通りだった。


 王仙羽は陳芹の首から指を離すと、経穴を突いて拘束を解いた。怪しいと思って踏み込んだのだが、どうやらとんだ空回りだったらしい。

「陳芹殿、その……」

 謝ろうと口を開いた王仙羽に、陳芹はひらひらと手を振った。

「ええて。まだ若いんやさかい大目に見たるわ。それに、まだ江湖に出てきて日も浅いんやろ?」

「どうしてそれを?」

 整った眉を怪訝そうにひそめた王仙羽に、陳芹は彼のうわさをそっくり伝えてやった。曰く、王仙羽は容姿端麗、瀟洒な立ち姿の美丈夫で、ひとたび剣を持てば凛々しい剣客の顔になり、羽が舞うような剣さばきは天から舞い降りた仙人のよう——初めて己の評判を聞いた王仙羽は、途端に顔が熱くなるのを感じた。己の頬が焼けた石のように思える。

「おお、よお照れとるなあ」

 陳芹がからかうように言う。

「そんな、仙人だなんて……私なんてまだまだ若輩者だし、まだ山を出てひと月なのに……」

「江湖のうわさっちゅーんはそういうもんや。ところで兄ちゃん、あんた、名前は何て言うねん」

「王仙羽です。その、皆さんがよくうわさしているという道士のワンです」

 やはりそうか。陳芹はさりげなく綴りまでを聞き出すと、心にしっかりと刻み付けておいた。そんなことは思いもよらない王仙羽は、あることを思い出したようにそうだと手を叩いた。

「死霊術師ということは、陳芹殿は、お仲間のうわさをご存じではないですか?」

「お仲間? 誰のどんなうわさや」

「実は、ある人を探してほしいと頼まれていまして。死霊術師ということしか分かっていないのですが、その者は自分の魂魄に術をかけたそうなんです」

 王仙羽の言葉に、陳芹は「はあ?」と返した。

「何言うとんねん? 敵やったらともかく自分に術かけるて、そないアホなこと誰もせんで」

「でも、たしかに自分の寿命に細工をした者がいるのです。証拠だってあります」

 そう言って王仙羽が取り出したのはひとつの木簡だった。紐をほどいて広げると、本来文字が書いてあるはずの中は一面墨で塗りつぶしたように真っ黒だ。

「何やこれ。けったいやのう、誰からもろたんや?」

 首をかしげる陳芹に、王仙羽はさらりと告げる。

「冥府の役人が持ってきました。三魂七魄に手を加えた罪で裁くために、私にこの木簡に本来書かれていた人物を探して捕らえてほしいそうです」

 冥府の役人と聞いて、陳芹はぎょっと目を見開いた。三魂七魄とは、一人の人間に宿っている霊魂の数だ。魂は精神をつかさどる陽の霊で、対する魄は肉体をつかさどる陰の霊を指し、三つの魂と七つの魄が一体となって一人の人間を形作る。人が死ぬと、魄は肉体とともに土に返り、魂は冥府に下って裁きを受けるが、その理から外れたものが時として怪異を引き起こす。

 そして死霊術は、主にこの三魂七魄とそれに連なる怪異を扱う方術の通称だ。まだ地上にとどまっている魂魄を使役して人為的に怪異を引き起こし、また生者の魂魄を意図的に傷つけて——特に魂が損傷した場合、回復は極めて困難となる——害を成す術であるために、死霊術は道士を中心に武林で広く疎まれており、さらには泰山府君とその配下の鬼たちからも恨みを買っているとまで言われているのだ。もしも王仙羽が、本当に冥府の役人とやらに仕事を頼まれているのだとしたら大事だ。

「ちなみに、その役人が来たっちゅうときのこと、詳しゅう聞いてもかまわんか? ここで喋るのもなんやし、火ぃのとこでゆっくり話そうや」

 陳芹が言う。王仙羽は快く頷くと、陳芹について焚火の方へと向かった。




***




 それは、王仙羽ワンシェンユーが山を下りて半月ほどが経ったある夜のこと。   

 鬼を始め、陰間の存在には人一倍敏感な王仙羽は異様な気配で目を覚ました。ぼんやり開けた目に飛び込んできたのは部屋の中をふわふわと漂う一つの鬼火だ。王仙羽は驚いて跳ね起きると、一声叫んで護符を取り出した。

「何者だ!」

 王仙羽は指先に内力を集めて護符を飛ばし、入り口と窓を瞬時に塞いだ。鬼火が戸惑うように動きを止めた間に、左右の壁にも護符を貼りつけて、あっという間に部屋全体を封じ込めてしまう。寝台を飛び降りて右手を振り下ろせばピンと空気が張り詰めて、白銀の光芒とともに長剣がその手の中に現れる。

「異界の住人よ、何の用だ? 私の命を贄とするつもりなら、それに値する覚悟ができているのだろうな!」

 所在なさげに浮かんでいる鬼火を脅すように、王仙羽は切っ先をぴたりと突きつけた。鬼火はしばらくじっとしていたが、やがてため息をつくようにスルスルとほどけて痩躯の男に変化した。

 顔色の悪いその男は、古い時代の衣服を着、首に先の千切れた麻紐の輪をかけていた。豪奢な服とどこか威厳を感じさせるたたずまいからは、この鬼が生前それなりの身分だったことを示している。しかし、どのような身分だったにせよ、首に紐をかけているということは、この男はすなわち首を吊って死んだ縊鬼いきだ——彼らの多くは自力で冥界に下れないため、生者に首をくくらせて身代わりにする。王仙羽は左手を払い、新たに護符を取り出した。

王仙羽ワンシェンユー殿、何故そこまで警戒される?」

 鬼が静かに口を開いた。

「我は泰山府君の命を受け冥府から遣わされた者、此度は特別の用向きがあって訪れた次第。其方の寿命を取り上げるつもりはない」

「ならばお前が東岳大帝の使いであるという証を見せろ。いたずらにその名を語るなら容赦しないぞ!」

 その手に乗るものかとばかりに、王仙羽ワンシェンユーは大声で言った。切っ先がギラリと物騒な光を放つ——だが、鬼は全く影響される素振りを見せず、幅広の袖の中を悠々とまさぐってひと巻きの木簡を取り出した。

「この木簡は府君が直々に、其方への依頼をしたためたものだ。最後に署名もある。ここに置いていくゆえ、あとでじっくり検分するが良い。

 改めて言おう。我は府君の使いでリーチーエンと申す者、貴殿の助力を賜るべく府君の命を受けて参った次第。どうかその剣を納めて話を聞いてはくれまいか」

 李知恩はどこか話しにくそうに、いちいち口を大きく開けてものを言う。王仙羽からは、血の気の失せて久しい口が一文字発するごとに、口の中でやけに長い舌がのたうつ様子がちらちらと見えていた。泰山府君からだという木簡を机に置くと、李知恩は拱手して頭を下げた。


 王仙羽ワンシェンユーは、剣を持つ右腕を背中に回した。どうやら、東岳大帝——泰山府君から文書を預かっているということはただの縊鬼ではないようだ。だが王仙羽は警戒を解かず、李知恩と名乗るこの鬼をきっと睨みつけた。

「なら、その木簡をこの場で読み上げろ。話はそれからだ」

 李知恩は、王仙羽を静かに見つめ返している。やがてその手が袖の中に入れられたと思うと、今度は別の木簡を取り出した。ブンと袖を振って、李知恩はそれを投げてよこした。王仙羽はとっさに木簡を受け止めたが、手に持ったそれは現実的な重さを持っている。

「そこまで疑うなら、先ずはそれを読むが良い。我々がそれを部外者に見せることはないのだが、此度は例外だ」

 李知恩が言う。王仙羽は、言われたとおりに木簡を広げて並んだ文字に目を通し始めた。

「……何だこれは? 黒塗りだらけで読めないぞ」

 思わず呟いた王仙羽に、李知恩が「さよう」と返す。

「これはある男の命を記したものだ。何者かによって情報を塗りつぶされ、名前、命日、死因、そのどれもが読めなくなっている」

「それって、単なる冥府の管理不足なのでは」

 首をかしげる王仙羽ワンシェンユーに、李知恩は「否」と言った。

「単に文字を墨で塗りつぶすだけでは、冥府の文書は黒塗りにはならぬ。この者の魂魄そのものが変質していない限りはいかなる細工も通用せぬのだ」

「つまり、この者の寿命は手を加えられていると。そう言うのですね」

 王仙羽ワンシェンユーの言葉に、李知恩は再び頷いた。

「さよう。そこで我々拘こうこんに、府君より直々に命令が下ったのだ。この者を見つけ出して捕らえ、協力者ともども即刻府君のもとに引きたてよとのことだ。魂魄に細工を施して死の定めを逃れようなど、府君の顔に泥を塗り、冥府の尊厳を侵したも同然」

 李知恩は、机に置いた木簡を取り上げてくるくると広げた。

「ここに府君より賜った命を読み上げる。しかと聞かれよ」

 李知恩が読み上げたのは、呪文のような詩のような、波のようにうねる不思議な文言だった。それでいて内容はすらすらと頭に入ってくる——先に李知恩が言った、泰山府君に楯突いた男を捕らえて連れて来いというのが全体の趣旨で、その男が死霊術を扱う術師であること、死霊術を以て犯した罪状が長々と述べられている。生きた人間がすでに死んだ者の魂魄を操ることも冥府の面子にかかわるらしく、泰山府君が死霊術師という存在をひどく敵視しているらしいことがその一言一句から読み取れた。

「……以上だ。これでそちらの条件は飲んだ。あとは返答をお聞かせ願おう」

 李知恩はそう締めると、木簡を巻き直して机に戻した。

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