第二幕 仙羽、陰霊を訪ねる
一場 迷わずの入り口
死霊術師の牙城とも言われるこの場所をその目で見た者は、江湖の英雄、武林の名士はおろか、邪教の教祖にすらいないという。城門への道は濃い霧で隠され、神仙さえをも惑わす迷いの陣で守られている。この陣をくぐって街に出入りできるのは死霊術師のみ、あとの者は踏み込んだが最後、永遠とも思える時間を彷徨ううちに命を落とし、力尽きてもなお出口を探し続ける
そして今、
「……この道の先に、陰霊城があるんですね」
王仙羽が呟く。その若い気迫とみなぎる正義感に押されてここまで来てしまった陳芹は、やれやれと頭を振った。
「ほんまにもう、ここがどういう場所か知っとって、よう来る気になったもんやで。せや、この峡谷を進んださきの迷屍陣を抜けたら陰霊城や」
王仙羽はあいまいに頷いたまま、じっと峡谷を見つめている。陳芹はため息をついて言った。
「……あんな。もう何を言うても気は変わらんのかもしれへんけど、
「でも、私が行かずにどうやって目当ての人を見つけるんですか? 虎穴に入らずんば虎子を得ずと言いますし」
「せやからわしは、この虎穴は罠だらけで、虎子のおるとこにたどり着く前に死んでまうて言うてるんや! お前ほんまに怖いもん知らずやな! それとも今時の若いのはみんなそうなんか?」
陳芹は、出会ったときのことや、二人で道を行く途中に遭遇した王仙羽の行動で、この若い道士がずば抜けて怖いもの知らずということを痛感していた。怖いもの知らずと言うよりも、無鉄砲と言った方が良いのかもしれない。見えるから慣れているのか、例えば木に首を吊った人の傍に鬼がいれば飛んでいって払い、虎が出るという森には進んで分け入って哀れな餌を導く鬼を捕らえ、そのまま虎も倒して森全体の邪気を払ってしまう。さすがに虎との戦いには苦労したらしく、整った顔に目立つ傷を作っていたが、その命知らずの正義感には陳芹はほとほと呆れるばかりだった。虎なんて放っておけばそのうち死ぬのに、まさか人を食いすぎて化けるとでも思っているのかと冗談交じりに尋ねると、王仙羽は真面目くさって答えたのだ——この地に住む人々が怪異に脅かされ、その原因も分かっているなら、逆に除かない理由がない、と。
「……まあ、虎を進んで倒すようなヤツやからなあ……」
「それで、この渓谷を抜けたら、本当に陰霊城に着くんですね?」
その曇りのない双眸は、陳芹には勿体ないほどの使命感に満ち溢れている。
「ほんまにええねんな? 仮に迷屍陣を無事に抜けれても、長老や他の連中がお前に何するかはわしにも保障できひんで?」
最後の念押しにも、
「覚悟はできています。行きましょう、陳芹殿」
そう言って道服の裾を翻し、一字巾と黒髪をなびかせて歩き出した王仙羽の背中を、陳芹はしばし呆れたように見送った。やがてため息をつくと、そのあとを追って陳芹もまた、目の前に広がる薄暗い峡谷へと歩き出した。
***
細く殺風景な道の先からは、時折瘴気混じりの重い風が吹いてくる。
「
「ああ。やから何の備えもないモンが入ったら、中で迷うとるうちに毒にやられて僵屍になってまうんや。わしらは城の外に出るときは絶対解毒薬を持って出てくけど、それでも長居するんは危険やな。ちゃんと薬持って出てった奴でも、中で迷ったっきり出てこおへんのがたまーにおる」
「これがその解毒薬や。霧が濃くなる前に飲んどき」
王仙羽は礼を言うと、薬をぽいと口内に放り込んだ。続いて内功を用いて薬効を引き出すと、途端に全身が粟立ち、猛烈な吐き気とともにひどく苦い風味が鳩尾からせり上がってきた。王仙羽は咳き込み、慌てて道の端に避難した——だが、ひどい空えずきの他には何も出てくるものはなかった。冷や汗が大量に噴き出すわけでもなく、寒気や吐き気も何事もなかったように治まって、経脈を冷たい湧き水が流れているような不思議な心地良さだけが残っている。それでも体は嫌な疲労を訴えて、王仙羽はズルズルとその場にうずくまった。
「大丈夫か、道長」
陳芹の声に、王仙羽はゆっくり首を回した。まさか吐くほどとは思っていなかったのか、陳芹がきまり悪そうにこちらを覗き込んでいる。
「……これ、一体何から作ったんです?」
「それは秘密や。まあ、自分らは絶対使わん材料やとだけ言うとこか」
「うえ、マッズ。でもまあ、これでちゃんと陣を抜けれたら僵屍にはならんから、多少味が悪うてもご愛嬌ってとこやな」
「そうですか……」
王仙羽は、丸薬を素直に飲んでしまったことを少し後悔した。人体に害を成すことはないのだろうが、どちらかというと毒を以て毒を制する類の代物のような気がする。やはり死霊術師の使う薬は自分たちのものとは根本的に勝手が違うようだ。
しばらく休憩を取ったのち、二人は再び歩き始めた。薄暗い中、乾いた砂を踏みしめて歩くこと一体何刻経ったのか、瘴気混じりの風が吹いてこなくなった代わりに、あたりが霧に包まれ始める。振り向けば来た道はもやがかかったようによく見えず、行く先も白く濁った霧が立ち込めるばかりだ。ついに二人は、陰霊城を守る最大の関門、
「
と唱えて呪符を宙に放った。淡い黄緑色の炎を上げて燃え始めた呪符を、陳芹は二人を囲むよう五角形に配置する。
「普段は邪悪を使役するのに、こういうときだけ遠ざけるのか」
王仙羽が思わず呟くと、陳芹が突っ込むなと手を振った。
「決まり文句なんやからケチ付けんとってくれ。これ決めた奴かて、毒を以て毒を制すぐらいのことしか考えてへんかったんやで。知らんけど」
話している間にも二人の周囲はどんどん霧に覆われて、一歩も動いていないのに完全に視界が真っ白になってしまった。立ち止まっていてもこの有り様だ、これはうかつに入れば命はないというのも頷ける。陳芹は一面の霧を見回すと、何やら指を折って計算し、よしと呟いて王仙羽に向き直った。
「ほな行こか。こっからは、絶対わしのあとから離れるなよ。命綱と明かりはあるが、何が起こるかは保証できひんからな。何があっても、わしの歩いた道を、わしが歩いたとおりについて来るんや。分かったな」
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