◆


 毎週木曜日の下校時、春臣はいつも一人だった。


 正確には、下校班があるから本当に一人きりというわけではない。春臣の所属する下校班は七人で編成されている。ただ、毎週木曜日は四年生以下の児童が五限で下校するため、六限のある五、六年生だけで下校することになっていた。四年生以下を抜かすと、春臣の下校班は五年生の児童四人だけになる。同じ地域に六年生はいなかった。


「やーい、ひっつき虫」

「うわあっ、やめろよう」


 数メートルほど離れた後方で、同じ下校班の男子三人が戯れている。服にくっつく草を投げ合って盛り上がる声に構うことなく、春臣はどんどんと歩みを速めていた。


 五年生だけで帰る日は、春臣以外の三人がこうして遊ぶせいで帰宅時間が遅くなっていた。最初の頃は「早く行こうよ」と促していた春臣だったが、その度に「真面目だ」だの「お坊ちゃん」だのとからかわれるため、梅雨に入ったあたりからは何も言わずにさっさと帰ってしまうことにしていた。集団下校を無視することに対する後ろめたい気持ちは多少あったけれど、それよりも早く家に帰りたいという気持ちが勝っていた。


 現状は、黄金色の稲穂が揺れる秋になっても、変わることはなかった。誰も大人に言わないのだから、変わらないのは当たり前だった。

 だから、毎週木曜日の帰り道は、春臣はいつも一人で下校していた。


「何一人で帰ろうとしてんだよ、春臣」

「お坊ちゃんだから、塾でも行くんだろ?」

「いやいや、春臣くんは天才だから塾なんていらねえよ」


 変わったことと言えば、時折三人がこうして春臣に絡むようになったことくらいだろうか。二メートルほどの距離を保ちつつ、三人は後ろからひっつき虫を春臣に向かって投げ始める。ちくちくした草が首などの素肌に当たるのが気持ち悪かったが、春臣は無反応を貫いた。


 小学四年生の頃から、春臣はクラスメイト──特に男子から、成金のお坊ちゃんとからかわれることが多くなった。ちょうどその頃、父が一代で造り上げた貿易会社がそれはそれは繁盛していたのだ。


 父の実家は老舗の商家だった。成金なんてものはただの言いがかりで、実家で商売の基盤を学んだ父の立ち上げた会社が、とんとん拍子で軌道に乗った結果だった。父の商才は誰もが認めるものだし、家族の誰もがそれに奢ることなく慎ましく暮らしている。春臣自身も、自分が金持ちのお坊ちゃんだなどと思ったことはなく、また家族のことを周囲に対して自慢することもなかった。


 単なるやっかみからくる嫌がらせである。それでも、春臣のおとなしい性格もあってか、クラスの男子からの悪意は一年経った今でも続いていた。


 正直、春臣自身はそのことをあまり深刻に考えていなかった。陰口やからかいはあっても、物を隠されるだとか暴力を振るわれるだとか、そういった物理的な被害はなかったためだ。あったとしても、こうしてそこら辺の草を投げてくる程度である。ばからしい、子どもっぽい悪戯しかできない奴らに構うことはない。年齢の割に大人びた思考を持っていた春臣は、そう考えて一蹴することにしていた。ただ、そんな自分の態度が、クラスメイトたちの気を逆撫ですることになると気づけるほど、春臣は大人ではなかった。


「ちょっと、アンタたち、春兄になにしてんのさ!?」


 無心で歩く春臣の頭に、キインと頭に響くような高音が入り込む。

 聞きなれた甲高い声にはっとして声のした方を向けば、十メートルほど離れた所から少女がこちらへ駆けてくるのが見えた。春臣の幼馴染である石丸すみれだ。短く切った黒髪をぶわぶわと揺らしながら、すみれは猛スピードでこちらへやってくる。呆然とする春臣と、同じくぽかんと口を開けている三人の男子との間に入り、すみれはきゅいっと勢いよく停止した。


「す、すみれかよ……」


 三人のうち、日頃から春臣に絡むことの多い少年が苦い顔をする。今日も彼が一番に春臣に対してひっつき虫を投げていた。


 春臣の服についているひっつき虫を一つ掴むと、すみれは自分の足元にぺいっと投げ捨ててしまう。じとっと三人を順番に睨みつけ、彼女は瘦せっぽちの体で仁王立ちをしながら「いやな奴ら」と呟いた。その場にいる誰よりも背が低いのに、すみれは誰よりも堂々としていた。


「行こ、春兄」

「う、うん……」


 くるりと踵を返すと、すみれは春臣の手を引いて通学路を歩き出す。小さな手に引かれるまま、春臣はろくな抵抗もできずに後を追った。


「まったく、春兄はもっとしゃっきりしなきゃならん! あたしが来なかったら、黙ってひっつき虫つけながら帰るつもりだったの?」

「いや、まあ、あはは……」

「あはは、じゃないよ! もう。春兄のそういうところ、ちゃんとしたほうがいいと思う」

「うん、そうだねえ。すみれさん、ありがとう」


 のほほんとお礼を言う春臣をじいっと見つめて、すみれはぷいっとそっぽを向く。ごにょごにょと「いいけどさあ」と言うのに、春臣はくすりと微笑んだ。


 そんな二人の背中を見て、苦い顔をしていた少年がわなわなと震えだす。残りの二人はハラハラした表情で少年と春臣の背中を見比べていた。


「気に入らねえなあ、春臣。すみれとはしゃべれて、俺たちとはしゃべれねえってかよ」


 わざと大きな声で言う少年に、そちらを振り返りかけるすみれを春臣が止める。


「すみれさんが構うことないよ」

「でも……」

「いいから。行こう」


 頷くすみれに微笑みながら、春臣はちらりと横目で少年を見た。少年は悔しがるような、恥ずかしがるような、よくわからない表情をしている。もしかしたら、彼のことを今日初めて視界に入れたかもしれない。内心で苦笑しつつ、春臣はまた前を向く。


 一方で、冷たい一瞥をもらった少年はカーッとその顔を一瞬で赤くした。まるで鬼のような形相で春臣の背中を睨みつける。そばにいる二人はもう泣きそうだった。


 この少年が春臣につっかかる理由は二つあった。もちろん、春臣のこういった大人びた態度が気に入らないというのが一番の理由である。次点にあげられるのが、このすみれという少女と春臣の関係だった。堅物で少し冷たい印象のある春臣がすみれにだけは柔らかい表情をすることも、勝気で生意気なすみれが春臣にだけかわいらしく振る舞うことも、少年には二人の雰囲気すべてが気に入らなかった。結局のところ、嫉妬していたのだ。


「この……ッ、ばかにすんじゃねえよ!」


 少年は足元の石をひっつかむと、春臣に向かって振りかぶる。


「おい春臣ッ! 避けろ!」


 それを見て、泣きそうになっていた二人組のうちの一人が慌てて叫んだ。

 尋常ではないようすに春臣とすみれは揃って振り返る。


「何してんだよ、お前!」


 振りかぶった腕をもう一人の少年が引くが、同時に石は小さなてのひらを離れていた。腕を引かれたせいか、少し低い軌道で石は春臣の方へ飛んでいく。ものすごい速度で向かってくる石を、春臣はどこかぼんやりとしたようすで眺めていた。


 ──当たったら痛いかな。でも、大げさに痛がってみせれば、この子どもっぽいからかいもなくなるかもしれない。まあ、いいや。


 そんな気持ちで避けることをやめた春臣の前に、小さな影が割り込んだ。


「──すみれさん!?」


 我に返った春臣が影の名前を呼ぶのと、ガッという鈍い音が響くのは同時だった。ぐらりと小さな少女の体が傾く。春臣は慌てて倒れこむ細い体を支えた。


「すみれさん! 大丈夫!?」

「春兄……いたいよう……! いたいよう!」


 すみれは右目の上を抑えてしゃがみ込む。どうやら石は右のこめかみ辺りに当たったようだ。頬をぼろぼろ流れ落ちる涙に赤いものが混じっているのに気づいて、春臣はぞっとした。よく見れば、白い小さな手の隙間から真っ赤な血がたらりと流れていた。春臣は心臓をぎゅっと掴まれたような心地になった。


 すみれが血を流している。自分を庇ったせいで。


「何ぼうっとしているんだ! 早く大人を呼んで来い!! 血が出てる!!」


 呆然とこちらを見ている三人を見上げ、春臣は半ば八つ当たりのように叫んだ。初めて聞くような春臣の怒声に、三人はびくっと肩を揺らすと慌ててそれぞれ別の方向へ走っていった。

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