食べない鳥




「おーい」



「おいって」



「おまえだよ、お・ま・え!」




「おい!!!!」





バン、と叩かれたデスクの音に、私は驚いて周囲を見回した。





「週の頭からそんな調子じゃ、困るんだがね!」





あれ、私の机に中年の太い、結婚指輪をはめた手がある。




その主を辿ると、今にも血管が切れそうなほどに怒っている課長に行き当たった。






「あ。。。課長…」





「あ、じゃない!!!さっきから呼んでるだろうが!!!」





ビリビリする程大きな声で、課長は怒鳴った。





「…すみません」




私よりも周囲の人々の方が縮こまっている。






「ったく。今日中にこれ、終わらせてくれよ!じゃないと帰れないからな!」





そう言ってどさっと置かれた書類の山。






「あ、、はい。」





私は小さく頷いて、ぼんやりとそれを見つめた。





「…その様子じゃいつ終わるかわからんな。」






課長はやれやれというように首を振って、自分の席に戻って行く。






「ちょっと…花音…大丈夫?」





こっそりと隣の憲子が訊ねるが、目を合わせる事無く頷いてみせるだけに止(とど)める。




こんなんじゃ、だめだって。



頭ではわかっているんだけど。




つくづく自分は社会人として失格だって実感するけど。




心がそれに付いて行けない。




考えることをやめてしまって。




空白だけが、頭の中を支配している。




機能することを拒むように。




頭が動いてなければ、勿論身体も動いてくれないわけで。




私の手は朝から、キーボードを悪戯に叩いては停止してを繰り返していた。





元々仕事人間ではない私は、それに没頭して他を排除できるほど器用じゃなく。





休憩しようと自販機の前に行けば、ミルクティーを避けることくらいしかできない。





そしてミルクティーを避けようとすると、自販機の前を通ることすら嫌になってきて。




結局自分のデスクに座ったまま過ごしている。




何も生み出さない。




だけど、力もない。




腑抜けと言われても仕方ない。




「花音、お昼、行こうか」




昼を過ぎた辺りで、憲子が声を掛けてくれる。




「…ごめん、いいや。食欲、ない」




「そんなこと言って!ほとんど食べてないんじゃないの?顔色悪いよ?」




「食べたく、ない。」





駄々をこねる子供のように、俯いて呟く私に憲子は溜め息を落とす。





「…わかった。でも、、そのままじゃ、身体壊すよ?仕事にも支障を来たしているし…。気持ちはわかるけど、切り替えなね。」





そう言うと、憲子は踵を返してオフィスを出て行った。







憲子には、日曜日に一部始終をかいつまんで電話で話した。



家まで直ぐに来てくれて、貸してもらった胸でわんわん泣いた。



元々予定通りのことの筈だった。




中堀さんと上手く行くだなんて、みじんこ程にも予想していなかった。




二週間、彼の為に動いて。



そして、さよなら。



シナリオ通り。




なのに。



なんで。




私はこの事実を、受け入れられないんだろう。





「―全部、、夢だったら、いいのにな。」






ほとんど誰も居なくなったオフィスで一人、デスクに肘をついて呟いた。





中堀さんとさよならしたこと。



中堀さんとキスしたこと。



隣に居れたこと。





いや。



もっと、前。





中堀さんと、ぶつかって、出逢ってしまったこと。





今となっては、夢のようだけど。




その夢は、余りに胸を締め付けるので、忘れてしまうことすらできない。





成す術がない。




思い返すことも、忘れることもできない。




ただ、頭の奥に、間違いなく、ある。





本気で、好きだった、人。



もう、暫くすれば。



時間と共に、気持ちも風化していくだろうか。



傷も段々と癒えていって、中堀さんのことを忘れることができるだろうか。




あぁ、そんなこともあったなって笑い飛ばせる日が来るだろうか。






「櫻田、今夜行ける?」





ぼけーっとパソコンの画面を見つめていると、自分の名前を呼ぶ声がした。





「え?」




誰もいないものと思い込んでいた私は、驚きながら顔を上げる。







「課の飲み会があるって、聞いてなかった?日にちなくて週頭で悪いんだけど…ちょっと早めにクリスマスと忘年会かけてって。」





見ると、同じ課の藤代君が、ファイル片手に私を見下ろしていた。





私の同期でもある。





「あー…」




確かに。



バタバタしていて全然忘れてたけど。



少し前に聞いた気がする。




で、全然出る気もなかったけど、返事をするのも忘れてた。






「多分、出欠席出てなかったから、一応参加ってことにしてた気がするけど…」





言いながら、藤代くんは私のデスクの上に高々とのっかっている書類に目をやった。






「終わる?」





もちろん。




終わらない。





と思う。




呆然としている私を見て、藤代くんはくすくす笑う。




「貸して。手伝ってあげる。」





「あ、でも…」





「だから、飲み会は参加してね。俺今回幹事でもあるんだよね。」





舌を小さくべっと出して、藤代くんは私の机の上の書類をごっそり手に取った。






他には、誰も居ないオフィス。




藤代くんは自分の席に戻る。






「お昼、は?」





慌てて目で追って訊ねると、藤代くんはこちらを見て、片手に10秒チャージのゼリーを掲げた。





「これで済ましたから、平気。」





「それで、、持つの?」





「失恋?」




心配して訊いたのに、逆に質問し返されて面食らう。




「な、何をっ、突然…」





「櫻田って顔に出るよな。最近大分マシになったけど、入社したての頃はひどかったよな。」






図星な上に、顔に熱が上ったことを自覚する。



学習能力のない私。





「そんなことっ、、ないもん…」





「…で、今回は何があったの。」





小さく口を尖らす私に、藤代くんは忙しなくキーボードを叩きながら、もう一度訊いてくる。



今回は、って。




同期だから、私のこれまでの噂もきっとよくご存知でいらっしゃることだろう。







「……言いたく、ない」




「あ、そう。」




「………」





あ、そうって。



そうやって言われるとなんか、後味悪いんだけど。





「やっぱり、やるよ、それ。」





私は立ち上がって、藤代くんの席にまで取りに行く。






「いいって。だから嫌だったことは夢にしちゃいな?」





「!?聞いてたの?」





「さあ?」




最悪だ。



独り言を聞かれるなんて。




藤代くんは涼しい顔しちゃってるけど。





========================





「ほんと、随分早く終わったわよね。」





乾杯のビールをまだ飲みきれないまま、憲子の声に私はむせた。





イタリアンレストランを貸し切った会場は課の人たちでいっぱいになっている。






『俺が手伝ったことは、内緒ね』





後からそっと渡された出来上がりと一緒に、約束させられた。



そんな藤代くんの姿は、私の席から離れすぎもせず、かといってくっついてもいない所にある。




ちらっとその方向へ目をやると、偶然にも向こうとばっちり合った。





「聞いてる?」




慌ててぐるっと回した首を元の位置に戻す。






「花音ってば!」




「あ、うん。」




「はぁ、ほんと、立ち直りが悪いなぁ」




「ご、ごめん」




謝りながら不自然さを隠すためにビールをぐびぐび飲んだ。


そのまま、淡々と会は進み、清算を終わらせて他の人に続いて外に出る。




「二次会、どーする?」




憲子に聞かれて、私はふるふると首を横に振った。




「やめとく。明日も仕事だし。」




今夜はやけに酔う。



だけどどこかでシラけている自分がいる。




場の雰囲気についていくことができない。





「だよね…日にちの関係で週の頭になっちゃったけど月曜はないよねぇ。私誘われちゃってるから、ちょっとだけ顔出さなくちゃいけないんだけど…花音、ひとりで帰れる?」




「もちろん、そんな飲んでないし。」




「ごめんね。。元気、出しなよ?」




そう言われても返す言葉が見つからず、曖昧に笑って小さく手を振った。




「かの…」



「憲子ー!!」





私を見て何かを言いかけた憲子を呼ぶ声がする。





「ほら!呼んでるよ!早く行ってあげて」





背中を押すように言うと、憲子は少し迷って頷いた。





「また、明日ね」




「うん。」





ぱたぱたと走る憲子の後ろ姿を見送りながら、自分の吐いた白い息が空気に混じったのが視界に入った。





「帰ろ…」




呟いて踵を返した所で。




「櫻田」




後ろから声が掛かった。




「…藤代くん」




走ってきたのか、藤代くんは少し息を切らしている。





「今日は、ありがとう。」





私が忘年会に無事に参加できたのも、藤代くんのお陰だ。





「いや…二次会、行かないの?」




「…うん、明日も仕事だし。藤代くん幹事なんでしょ?早く行かないと皆に追いつけないよ。」





私がそう言っても、藤代くんはその場を動こうとしない。





「…どうしたの?」





不思議に思って訊ねると、藤代くんは意を決したように私をまっすぐに見た。





「あのさ。俺で良かったら、いつでも…胸貸すから。」





「え?」





思っても見なかった不意打ちな言葉に私は驚く。




一瞬どんな意味か、考えられなかった。




「やだなぁ。私のことなんて放っておきなって。悪名高き尻軽女ですよ?」





からかうように言うと、藤代くんは少しむっとした表情をした。



中々彼のこういった顔は珍しい。





「そういう言い方はしない方が良い」




あれ。



もしかして、今。



私怒られた?





「俺、櫻田のこと、そういう風に思ったことないから。言いたかったのは…吐き出す相手にはなるってこと。じゃ気をつけて帰れよ。」





私の返事を待たずに、藤代くんは言うだけ言って、元来た道を走って戻っていった。




この感じを、私は知ってる。



男の子が優しい。



頼られたいって言ってくれてる。




もしかしたら、すごく私のことを好きでいてくれてるかもしれない。




うんと頷けば、抱き締めてくれるかもしれない。




いつからかはわからないけど、私を見ていてくれたのかもしれない。





このヒトと一緒になったら、幸せが待ってるかもしれない。





もう見えなくなった人影に背を向けて、駅までの道のりを歩き出しながら、私は俯いて歩き出す。




自分の足取りは、頼りない。




冷えた空気が、冷たくて冷たくて仕方がない。





ふわふわと好き勝手に飛んでいた私。



いつも通りなら、こんな展開願ってもない。



寂しすぎるから。



だから、傍に居てくれるなら、どんな人でもいいって思っている筈。




今の私はまさに弱り時。



狙い目。




すぐにまた捕獲できる瞬間。





誰でもいいんだもん。



誰でもいいから、傍に居てくれれば。







…いつもなら。







「だめだなぁ…」





目頭が熱くなる。



下を向いているから、涙は重力に逆らうことなくぽたりと落ちる。







貴方の、甘い香りが、私の羽を奪ったらしい。




次から次へとふわふわ飛んでいけたのに。



私は翼をもがれて。



もう、次へ飛ぶ元気も意思もなくなった。



空を見ようと思うこともない。




さよならして、まだほんと数日しか経ってないけど。





貴方に会いたいなぁ。




どうにかして、会えないかなぁ。




道端で偶然、とかでもいいから、ないかなぁ。





あぁ、やっぱり。




ちゃんと好きって言えば良かった。




振られたら、今よりはまだマシだったかな。






なんで、言っちゃいけなかったの?




なんで、言わないでって言ったの?






本当に、さよなら、なの?






どこかで、まだ、最後じゃなかったんじゃないかって思うの。






携帯にまた普通に連絡が来るんじゃないかってそわそわするの。







会いたいの。





ねぇ、今、この瞬間、貴方はどこにいて、何をしてるの?




同じ冷たい空気に当たってる?




少しでも。



今日一日の中で、ほんの一瞬でもいいから。




私のことを思い出してくれたかな。




家に帰り、部屋の電気を付けて、エアコンを入れる。




泣くな泣くなと思いながらも、結局泣き過ぎて、顔はぐしゃぐしゃだ。




思い出すと、涙が止まらないから。



思い出すのは避けているんだけど。



じわじわと勝手に思い描かれてしまって。



すごい好きなんだと思い知らされる。





「引きこもりになりそう…」





コートをハンガーにかけ呟く。




冷たい水で絞ったタオルを目に当てて、椅子に座った。






『さよなら』






耳に残る声と笑顔が、目を閉じると浮かんでしまう。




枯れた涙は幾らでも湧いてくる。







「はぁー」





大きな溜め息と一緒にテーブルに突っ伏すと軽い音を立てて、何かが床に落ちた。




「あ。」




足元に落ちている黒い小さい物体には、見覚えがあった。




かなり、忘れてたけど。




私はそれを拾い上げると、まじまじと見つめた。





―事の発端、とでも言うべきか。




別れ際に、中堀さんのくれたメモリーカード。



テーブルの上に置きっ放しにしていたらしい。





『よく映ってた』なんて言っちゃって。





ホント、意地悪な人。




最低な人。




だけど、憎めない人。





「もう、要らないか」








一人言(ご)ちて、そのままゴミ箱に投げ捨てた。




同じように、自分のこの気持ちも記憶も、一緒い捨てれたらいいのにな、と思いながら。




時計の針は22時を指している。



テレビをつける気は更々起きない。





私はまた突っ伏して、片手で携帯をいじりながら、ふと思う。




―電話くらい、かけたっていいかな。




それともやっぱりそれはしない方がいいんだろうか。




中堀さんにさよならは言われても、やっぱりちょっと伝えたいことがありましたって言ったらどうかな。




往生際が悪いかな。





だけど、声が聞きたいな。




もう一度櫻田花音と呼ばれたい。





いや、花音って呼ばれたいな。




名前だけでは一度も呼ばれなかった。




他は皆、花音ちゃんって呼んでくれるのに。





―いいや、かけちゃおう。一回くらい、間違えましたって言ったって通用するよ。うん。




酔えてない気がしたけど、普段とは違う決断力の強さと、後先を考えることのできない思考に、やっぱり確実に酔ってるんだなと自覚する。





佐藤一哉の名前はしっかりと電話帳に残っていて、それを見るだけで気分が高揚する。





「えいっ」




大した迷いもなく、私は通話ボタンを押した。






「……はは」




呼び出し音は、聞こえる筈もなく。




使われていない電話番号だと、無機質な女の人の声だけが流れた。





「そうだった…」




中堀さんは、詐欺師だから。




ひと仕事終えた後で。



この番号が繋がるわけがなかった。




ぷっつりと切れた線が、はっきりと見えた気がした。




ただ、番号が、使われていないと言うだけだけど。





この街に居れば、偶然が私たちをまた逢わせてくれるだろうか?





そこまで考えて、思考回路が真っ白になった。





電話は繋がらない。



じゃあ。



家は?




あれ。




中堀さんて、この街に、居るの、かな?




当たり前に居ると思い込んでいたけれど。




もしかして―




慌てて私はコートを羽織り、バッグを掴んで家を出た。




手が震えて施錠に時間がかかる。





落ち着け。




落ち着くのよ、花音。




自分自身に言い聞かせた。




志織さんはイギリスにいっちゃったんだから、中堀さんが動く必要はない筈よ。




それに動くって言ったって、こんなに早くは居なくならない筈。




クラブの仕事だってあるんだろうし…。





脳は合理的に様々な解釈をして、私を落ち着かせようとする。




だけど、冷や汗が止まらない。




漸く鍵を閉めると、一段抜かしでアパートの階段を駆け下りて走った。





少し前まで満月だった月は、今夜欠け始めている。




私は無我夢中で大通りまで走り、タクシーを捕まえた。





「あっのっ…中央駅のっ近くの、、背の高いマンションまでっ」





息切れしている私を怪訝な顔で見るものの、深く追求することもなく、無愛想な運転手は頷き、車を発進させた。



駅の周りに大きなマンションはひとつしかないので、ある意味わかりやすい場所で助かった。



住所とか、そういうの、二回しか行ったことないし、よく覚えていない。



…どちらも素面ではない状態だったし。




夜の道を眺める余裕もなく、私は進行方向の信号が赤になることのないように、ずっと睨めっこしていた。




「ありがとうございましたっ」




タクシーを降りるとすぐにコンビニを通り過ぎ、エントランスに上がった。




乱れた息を整えつつ、集中インターホンを鳴らす。




1107、1107…




記憶の中にある中堀さんの部屋番号を何回も唱えて確かめた。




酸欠のせいではない、手の震え。




電話の時と同じように。



鳴ることのない、インターホン。




それは、家主の不在を告げていた。




無駄だと分かっていながら何度も何度も同じ番号を押し続ける。



エントランスホールはとても明るい。




でも、私には暗く見える。




やがて私は何度も押したボタンから、力なく腕を下ろした。





「嘘…」




呟いてよろよろと後ずさり、後ろの壁に背中をぶつけた。





嫌な予感は、的中していた。





手が、冷たい。



冷たい、寒い。




手の先まで血が通っていないのではないかと思うほど、冷たい。




そんな自分の両手を合わせて、祈るように唇に当てた。






「ほんとに…夢みたい、、、」





最初から、いなかったみたい。



今までの時間が嘘みたい。




真っ白だ。



いやだいやだいやだ。




確かに、あったのに。




貴方と過ごした時間は、確かにそこにあるのに。




噛み締める、時間も与えられないまま。




真っ白に塗り替えられている。





私が貴方を好きなこの気持ちは―




塗り消すことなんて、




他のもので、塗り替えることなんて、できないのに。




私はそのまま、暫く動くことも泣き崩れることもできなかった。




心に穴がぽっかりと開き過ぎて。




現実を受け入れることが、できなかった。






それからどのくらい経ったのかはわからない。




案外直ぐだったのかもしれない。






「あれ?」




広いスペースに、知っている声が響いた。




いまだぼんやりとする思考で、反射的に声の主を振り返る。






「燈真…さん…」





正直、逃げたかった。



でも、それ以上に身体が重く、その場に貼りついたように動くことができなかった。






「もう、会わないと思ってたんだけど、会っちゃったね」





人の良さそうな笑みを溢す燈真を、私は無表情で見つめる。





なんで、この人はここに居るんだろうとか。




それすら、考えることもなく。





ただ、ぼんやりと見つめた。



「アオならもうここにはいないよ」




淡々と言っているようだが、どこか嘲笑うような調子が含まれている。





「あの…どこに…」




「教えるとでも思う?」





思わない。




思わないけど。




少しの希望に縋るように、思わず訊ねてしまった。





「もう、会えないから。忘れた方が良いよ。」





冷たく突き放すように言われた言葉は、心に突き刺さる。



私はさっきから立ち尽くしていて、燈真はポケットに手を突っ込みながら自動ドアの前でそんな私を見ている。





「…契約…」





「―え?」





やがて、ずっとひっかかっていたキーワードが、口から零れた。






「契約違反って…なんですか…?」






燈真の目が僅かに見開かれた気がする。




エントランスホールとはいえ、床は大理石のようだ。




冷たさはダイレクトに伝わった。



「ふーん…そっか。アオはそんなことも、花音ちゃんに話してたわけか。」




考え込むようにして呟いた後、ホント危なかったんだな、と燈真は小さく溢した。





「そー…だね。とりあえず、、花音ちゃん…今開けてあげるから、中に入らない?」





ここのマンションには、集中インターホンのあるエントランスと、鍵で開く自動ドアの向こうに更に広いホールが設けられており、ゲスト用なのか、大きなソファが置かれている。




燈真はそこに座るよう、促した。




意図が掴めず、私は躊躇いつつも、勧められるままにソファのはじっこに座る。





向かい合わせに燈真も腰を下ろした。






「…今から、、、俺が言うのは、単なる世間話、だ。誰の話でもない。」





燈真はそう言うと、腕と足を組み―






「おまけ、だよ?」





この状況に似つかわしくないワードを発した。





「…おまけ?」




繰り返して、私は首を傾げる。




「そ。おまけって、なくてもいいけど、あったら嬉しいでしょ?そんな感じで、聞いてて。」




一体これから何が話されるというのか、皆目見当がつかない。





燈真は自分の家のように、寛ぎきっている。






「20年位前。ある街のゴミ捨て場に、幼い男の子が、血だらけで立っていました。」





慣れた手つきで煙草に火を着けながら、燈真は絵本でも読んでいるかのように話し出す。





「通りがかった人の通報で保護された男の子は、なんとこの世に存在していませんでした。」





灰色の煙が宙に漂い、煙草の匂いが嗅覚を刺激する。





「名前も、なかったのです。」





燈真はどこか遠くを見るような目つきで、私の反応を気にすることなく続ける。





「身体中痣だらけ、煙草を押し付けられた痕、目は腫れて、標準からかけ離れた体重。彼は母親と、そしてその恋人からネグレクトと暴力を受けていました。皮肉にも―」





ここで、話し始めてから初めて、燈真は私をちらっと見た。






「その母親は、彼が保護された日に、恋人の男の手で殺されました。」







合って、直ぐに逸らされた視線。





自分の中の予想が、確信に変わる。






これは―



この話は、、もしかして―




「彼は真実を知ることのないまま、施設の職員の養子となって名前ももらって、それなりに成長していきました。それでも、どこからでも情報は漏れてしまうもので―大きくなった頃、彼の出生の秘密は再度影を表わします。」





馬鹿丁寧な言葉遣いが、やけに鼻に付く。




何故だか無償に泣きたいような、怒り出したいような気持ちになった。





「高校生の頃、彼は真実を知りました。そして、自分の居場所が表舞台にないことを悟ります。どうせつまらない世界だから、生きていても生きていなくても、彼自身にとってはどうでも良いことなので、かなり荒れた日々を送ります。」





ここで、燈真は人差し指をピンと立てて、私に見せる。





「それを見かねた友人が、ある提案をしました。『母親に復讐しないのか?』と。」





外は風が出てきたらしい。



ガタガタと、ガラスが音を立てた。





「生まれてきたこと自体を恨んでいる彼は、母親のせいで世界からも受け入れられないでいる。復讐する権利は十分にありました。けれど彼はこう言います。『できるわけがない』ってね。」





燈真の煙草が、大分短くなっている。





「ところが、方法はある。母親を裏切ることができる上に、金にも困らない方法がね―」






「まさか…」





今まで黙っていた私だが、声を出さずには居られなかった。





「彼には他にも才能があったので、友人は彼を世界にのし上げてやる手助けをする代わりに恩恵を受けることなど、条件を決めることができました。ルールは二つ。」





そう言うと、燈真は立ち上がる。





「本当の名前は捨てることと、深入りしないこと。」





眩暈が、する。




薄く笑っている目の前の人間が信じられない。





「結果、彼は生きる理由を見出して、今幸せに暮らしています。めでたしめでたし。」





「そんなことないっ!!!!」





いつの間にか流れていた涙。



叫びと共に出た声。



立ち上がった身体。





私の内側から、やるせなさが、怒りが涌き上がる。






「―何が?」





燈真は相変わらず笑みを湛えたまま、首を傾げた。





「何がって…中堀さんはっ…」




「ストップ。」




言いかけた私の前に、大きな掌が出される。





「俺、言ったよね?これは世間話で、おまけだって。誰の話でもない、ね?」




「そんな…」




「さ、おまけの話はこれでオワリ。さよなら」





そう言うと、燈真は私に背を向けて、マンションのエレベーターホールに向かう。




「貴方に利用されただけじゃないですかっ」




その背に向かって、私はぐしゃぐしゃの声で叫んだ。




燈真は私の声なんかお構いなしに、足早に去っていってしまう。




そんなの友達じゃない。



友達なんかじゃ、ない。。




もう、居ない人への復讐の為に、生きる、なんて。



そんな哀しいこと、ない。




それが生きる理由、なんて。




人を傷つけることで、自分が救われることなんて、ひとつもない筈なのに。





誰かを傷つければ、自分も傷つくのに。





「そんなんじゃ―…」





今更涙を我慢しても遅いのに、私は唇を噛み締める。





「中堀さんが…かわいそう…」






その甲斐なく、涙はばらばらと零れた。






嘘を吐く度に、別れる度に、彼は一体何を思っていたんだろう。




負の連鎖は、彼をがんじがらめにしてしまっていないだろうか。






―『言わないで』





今なら。




今、あの時に戻れるなら。





その意味を、理解することができたのに。





抱き締めてあげることができたのに。




元々人気のないホールに、私は一人で泣いている。



今このマンションに帰ってきた人が、私を見たら、間違いなく警察に通報するんじゃないだろうか。





後から冷静になればきっとそう思うんだろうけど。



今の私には到底無理な話だ。





頼りない足取りで、私は自動ドアを抜け、エントランスを抜け、階段を下りる。





一段、また一段。





中堀さんに、会わなくちゃ。



脳はさっきから叶わない願望を繰り返している。




ああ、でも会えたからと言って、なんて言えばいいんだろう。




彼の傷は癒えてなんか、いないのに。




ぱっくりと口を開けたまま、瘡蓋(かさぶた)にすらきっとなってはいない。




愛されてこなかったから、愛せない。




そんな人に、逢ったことがない。




だから、感情を理解することができない。




やっぱり。




成す術は、ない。





何のことはない。





私は来た道を、戻るだけ。





真実に少し触れることができたのに、負け犬のように尻尾を巻いて家に帰る。




途方に暮れて、家に帰る。



電気を点けっぱなしで出て行ったアパートの私の部屋まで、階段を上るのが、辛かった。



縋れるものは、何もなくなってしまった。



残ってるものは、ゼロになってしまった。



重たい心を抱えた身体を引き摺るようにして、なんとかドアの前まで辿り着いて、鍵を開けた。




どうやって、ここまで帰って来たっけ。




そんなことすら、覚えていなかった。





部屋に入った途端、力なく、膝を着く。




その際に、何かにぶつかったようで。




ガコン、と音がして、中身が散らばった。





「いた…」





ぼぅっとした頭で、それを見ても、何なのか一瞬わからなかった。





「…あ」





ゴミ箱。



ゴミだ。




その中に、やけに目に付く。




黒い、カード。




メモリーカード。




さっき、自分の手で捨てたそれを、なんとなく、拾い上げた。





何故だか。




中身を、ちゃんと消してから捨てなくちゃ。




なんて、急に思い始めてきて。




力の入らない手を床に付いて、ふらふらとパソコンを起動させた。




差込口にメモリーを入れて、読み取るのを暫く待った。





自分の恥ずかしい写真なんて、笑えるけど。




これが、他人様の手に渡らずに良かった。




現実逃避なのか、なんなのか、どうでもいい安堵感に急に襲われる。





「…あれ…?」





てっきり、記録枚数は1とだけ表示されるものと思っていたのに。




画面に出てきた数字は、それより、少し、多かった。




私はメモリーカード内を見る事無く全消去しようとしていた手を止める。





「私、そんなに沢山撮られてたのかな…」





一枚だけって、言ってなかったけ。






首を傾げつつ、画像を開いた。




開かれたファイル。



目に飛び込んできた画像に。





「これ…」





言葉を、失った。





私は慌てて部屋の隅に置いたままだったバッグを引っ繰り返す。





「ないない、、、、ない…」




どこ、行っちゃったんだろう。




中身を床にぶちまけたまま、今度はクローゼットを開けて、掛かっているコートをひっぱり出した。




そのポケットに手を突っ込み、中身を探る。




直ぐに、紙の感触が伝わった。






「…あった…」





すぐさま、そこに書かれている連絡先に電話を掛ける。






《もしもし…?》






数回のコールの後、比較的早く、相手の声が聴こえた。






「タカ…?」





《……その声は…もしかして…カノン、ちゃん?》





息を呑んだ後の声には、驚きが含まれていた。





「うん…、あのっ…」




気持ちばかりが先走って、言葉が上手く出てこない。





《何か、あったの?》





えーと、すごく急いでいるから、、一言で表わさなきゃ。





そうだ。



これしかない。





「助けて…!」






外は、寒い。



欠けた月は、高い位置に。



私の部屋の有様は、めちゃくちゃ。



ゴミ箱は倒れて、中身は床に散らばっている。



バッグの中身も同様に。




パソコンの画面に映し出されている画像は開いたままになって。






壁に掛かる、時計の針は、1時を過ぎていた。




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