タイムリミット

時間切れ





「…そろそろ、起きたらどう?」




高い声が、私を夢の中から呼び覚ます。



いまだはっきりとはしないけれど、身体の感覚はある。



今まで見ていた夢の余韻が残っている。



けれど、どんな夢だったかは覚えていない。




なんだか、とても、悲しい夢だった気がする。





「…泣いてるの?」




開いた目を覗き込むようにして訊ねたのは、葉月、だった。




言われて初めて、自分が泣いていることに気付く。





「あ…れ?私…?」




慌ててがばっと起き上がると、眩暈がした。




「まだ、酒、残ってるのよ。弱いのね」




少し小ばかにしたように葉月が言うのでカチンと来る。




「貴女がっ、出したからでしょう?!私の何が気に入らないのか知らないけど文句があるなら面と向かってはっきり言いなさいよ!」




大声を出すと、吐き気がする。



実際は擦(かす)れた声しか出ていないけれど。



「……人聞きの悪いこと言わないでくれる?崇にチャンスをあげただけ。…でも、その様子だと、何もされてないみたいね。がっかりよ。」




冷ややかな声で、腕組みをしながら葉月は答えた。




「なっ…!どうして…」




言いながらも、言葉に詰まる。



なぜなら、目の前の女の子に自分が何かをしてしまった覚えがないからだ。




私を見下ろす冷たい目に、ぞくっとした。




「…零の傍から消えてくれない?」




少しの沈黙の後、呟かれた言葉は衝撃的だった。




「どういうこと…?」




理解できない要求に首を傾げると、葉月ははぁ、と溜め息を吐く。





「そのままの意味よ。アナタが居ると邪魔なのよ。零は私のものよ。」




「え…?」




その時、ノックの音が響く。





ピタリと止まる会話。





静かに開く扉と、ドアノブの音がして。




「…葉月、、お前そこで何やってんの?いい加減にしなよ。」




諌めるように入ってきたのは、燈真だった。




「別に。謝ってただけよ。」




しゃあしゃあと嘘を言ってのける葉月に、私は眩暈が倍増した気分だ。




「もう出てくわ。…じゃあね…カノンさん。」




燈真とは顔を合わせずに、部屋から出て行った葉月を目で追うと、こちらを見ている燈真と視線が交差する。





「…気分、どう?少しは落ち着いた?」




「あ…はい。。。大分…」




「俺が居ない間に…ごめんね。葉月に任せるんじゃなかったな。」





いつかのように、困った顔で申し訳なさそうに謝る燈真に少しほっとした。




燈真は私の居るスモーキーレッドのソファに近寄り、その肘掛部分に腰掛ける。





「…ところで、零に来るなって言われてたのに、どうしてまたここに来たの?」




からかいを含んだような声ではあったが、燈真は笑っては居なかった。



急に一度和らいだ筈の空気が、舞い戻る。



その言葉に籠められた意味がなんなのか、わかりかねた。




「そ、れは…」




「もしかして崇に会いに来たの?」




「ちがっ…」





言われて気付く。



自分がどうしてここに来たのか。



今更ながら、気付く。







今、一体何時なんだろう。



あれからどのくらいの時間が過ぎたんだろう。



窓も何もないこの部屋には、時間を知る術はない。






「今、、、何時ですか??」





果たして今は【今日】なのか、【明日】なのか。



【昨日】なのか。




わからない。



燈真の目が、宙を彷徨う。




「崇に会いに来たんじゃないってことは、、、俺ってわけでもないよね?」




私の質問に答える気がないのか、それとも私が質問に答えてないからなのかはわからないけれど、燈真は自分の話を続ける。




「っていうことは…」




考えるように巡らされていた視線が、再び私と重なり合う。




「零に会いに来たの?」




初対面の時に纏っていた暖かさは、最早残っていない。



葉月と兄妹なんだと聞いても、ピンとこなかったが、今なら頷ける。




それでも、どうしてそれが、零に、中堀さんに繋がるのかがわからない。



私が一体なんだというんだろう。




「…そうだとしたら、、何か問題があるんですか?」




思いっきり眉間に皺を寄せて、私は睨みつけるように対峙した。




「…花音ちゃんはさぁ…零のことが好きなんだよね?」





かわされたと同時に、つきつけられた真実。




自分の意思とは裏腹に、顔に血が上ったのがわかった。





「あ、やっぱり図星?」





自分の浅はかさに唇を噛んだ。




理由はわからないけど、この人に、この気持ちを知られることは、賢明ではないだろう。




後悔しても、もう遅い。




「零は、駄目だよ。」




短くそう言うと、燈真は慣れた手つきでポケットから煙草を一本取り出し、火を着けた。




「……葉月さんと、、、付き合ってるから、、ですか?」




心にひっかかってどうしようもない小骨を吐き出すように、訊ねる。




「葉月がそう言ったの?…あいつも馬鹿だよね。」




嘲笑うように煙を吐き出しながら、燈真が呟く。





「零は、そーいうの、受け付けないから、好きになったって無理なんだ」





「……本人も、そう言ってました…」




「へえ、花音ちゃんには話したんだ。これまた珍しいね。」





燈真が片眉を上げた様子を見ると、本当に意外に思っているようだった。






「なんで、そうなったのかは、知ってる?」





「…いえ。。。」





知らないと、なんとなく相手が優位に立つようで、癪に障るが、渋々認める。




そんな私の気持ちを知ってか知らずか、燈真は得意げに笑う。





「それは、さすがに話してないか。」




燈真の吸う煙草の先端が、ジリと赤く燃えた。




「零に会うのは今日で最後、でしょ?」




何でもお見通しなのか、と思うほどに。



両手を上げて降参したくなるほどに。



燈真は全てを見透かしている。




「…どうして…」




なんで、知ってるんだろう。




益々眉間に皺が寄る私を、燈真は可笑しそうに見ている。





「そんなに怖い顔しないでよ。【最後】だから、ちゃんと教えてあげようって言ってんの。」




一見、親切そうに見えるけれど、この男の親切は、恐らくかなり高くつく気がする。





「いや…結構です…」




断ると、益々楽しそうに、燈真が笑い声を立てる。





「花音ちゃんはほんと面白いねぇ。…まぁ、そう言わずに。きっと、俺と会うのも、最後、だからね?」





燈真が人差し指で煙草の先端を叩いて、灰が床に散った。





何を言っても、無駄な気がして、私は黙る。




更に燈真の言葉に、今がタイムリミットの最終日であることを知り、少しの焦りが募り始めている。




一体今は、【今日】の何時なのか。




早くここから出なければ。




「花音ちゃんには、お父さんとお母さんが居るでしょ?」




今までの話と、脈絡がないように聴こえる質問に思わずきょとんとしてしまった。




「零にはそれがない。どっちも。」





「え…?」





まるで世間話でもするように淡々と話す燈真の言葉に、聞いてるこっちの胸が痛む。




いつか、自分の髪の色のことを教えてくれた時の彼の顔が浮かんだ。




―片方、だけじゃ、なかったんだ。




両方、親が、居なかったんだ…




あの時、聞く事が出来なかった続きに、胸がぎゅっと締め付けられる。






「普通、人は母親から愛されることを学び、愛することを学ぶんだ。自然とそれは身についていく。だけど零にはそれがない。」





言いながら、燈真は短くなった煙草をコンクリートの冷たい床に放り投げる。





「愛された記憶が、あいつにはない。必要とされたことがない。捨てられた記憶しかない。」





いつの間にか、一言も聞き漏らすまい、と耳を欹てている自分。



手の先が、冷たくなっているのがわかる。





「零は、人を愛さないんじゃない。愛せないんだ。」





言ってから、燈真は腰掛けていたソファから、立ち上がる。





「あいつのことを本気で好きなら、好きって言わないことだね。それは零にとって…いや、空生にとって、トラウマだ。男に対して女が抱く感情は、自分が母親からもらえなかったものであり、殺された母親が他人の男に捧げた嫌悪すべきものだ。」






私に背を向け、放った煙草を靴でぐりぐりと踏みつける燈真を呆然としながら見つめた。




聞きなれることのないワードが、自分の心を貫いた。





―殺された?





「それってどういう…」





燈真はドアの前までゆっくりと歩くと、こちらを振り返る。





「さ。そろそろ時間だよ?今、16時を過ぎたところだ。」





そう言って、ドアを開け、出て行くようにという仕草をした。




これ以上話す気はない、と主張しているようでもあった。





だが、やっと時間を知った私にも、もう話す猶予は残されていない。




すぐさま立ち上がると、傍に置いてあった自分の鞄を引っ掴んだ。





ここから家までタクシーでも30分。



家から空港まで最寄の駅から1時間はかかる。




「足元、気をつけてね」




ふらつく足取りで燈真の脇を通り過ぎる際、囁かれるようにして忠告された。




「お気遣いっ、どーも!」




私は澄ました表情の彼をきっと睨み、おぼつかない足に力をこめる。



出た所は階段で、内心がっかりする。





「俺の忠告は正しいよ?」





カンカン、音を立てながら、手すりにつかまってなんとか降りていると上から声が降ってきた。




声の方に目線を上げることなく、私は真っ直ぐ進行方向を見つめる。





けれど。





「これを破ると、あいつは取り返しがつかなくなるからね。」





続く穏やかではない言葉に、一瞬足が止まってしまう。




が。




とにかく時間がない。




小さく首を振って、私は階段を降り切った。




真っ暗で光の入らない階下は、どこが出口かわからない。



真夜中の華々しさや賑やかさが嘘のように、静まり返っている。





「…どうしよう…」





戻って、燈真に訊くのも癪だ。



焦燥感が手伝って、立ち止まったまま泣き出しそうになる。






このままじゃ、間に合わない―






頭を抱えたその時。






「あっ、カノンちゃん!起きたんだ?」





明るい声と共に、既に陽が落ち始めているとはいえ、外の光がその場に流れ込んでくる。






「…タカ?」





逆光になって見える影に目を細めながら呟いた。





あそこが…出口。




わかったと同時に私は走り出す。





「お、っと…て、え!?」




突進する私に、タカは状況が飲み込めずに狼狽している。




「どいてっ」




「ちょっ、どこいくの?」




タカの横を擦り抜けて外に出ようとすると、腕を捕らえられた。



「放してっ、時間がないのっ!」




掴まれた腕を力の限り振り回すと、タカは驚いた顔をする。




「落ち着けっ…って!」




「落ち着いてなんかいられないっ!最後になっちゃうかもしれないのに!!」





早口でまくし立てる。





「……零のとこ?」





小さく吐かれた溜め息が、私の胸を何故か縮こまらせた。





「わかった。でも、これ。持っといて。俺の連絡先。」





予想に反してタカは頷いただけで、小さな紙切れを私の手に握らせて、腕を解放した。




私は意図が掴めずに、タカを見つめる。




「カノン、ちゃんは…零のことが好きなの?」





燈真に訊かれた時とは、違う、空気で。




タカが訊ねた。





お互い見つめあったまま。





私は小さく頷く。





「…そ…っか」





一瞬の後、それだけ言うと、タカは私の肩を掴んで出口に身体を向けさせた。





「いってきな。」





「…タカ?」






トン、と背中を押されてから落とされた言葉に、思わず振り返るも。





「何かあったら、俺のこと、頼ってくれていいから」





その言葉だけを残して、ドアは閉じられてしまって。



タカの顔を見ることは、叶わなかった。




昨夜、あの後どうなったのか。



タカとどんな会話をしたのか、覚えていない。





ただ―





ぼんやりとした意識の中で。




タカを切なく思った気がする。




あれは、夢だったんだろうか、と。




腑に落ちないまま、とにかく足を走らせた。




大通りを出てタクシーを捕まえる。




陽が落ちる間際。



街は橙色に染まっていく。



夜がすぐ傍まで迫ってきていて、薄暗さがそれに混じる。



車窓から見ていると、ものの数分で辺りを黒が占領した。




家に着くと、お風呂に入り支度を整えまた外に出た。




真っ暗な道を息を切らしながら、走る。




土曜日の駅のホームは人でごった返していたが、空港方面は比較的少ない。



ちょうど来た電車に飛び乗ると、ドアの脇の手すりにもたれかかりながら、外を眺めた。




席に座ることはできなくとも、満員電車よりもスペースが開いていた。




腕時計を確認すると、時刻は17時40分。





―良かった、間に合う。





張り詰めていた緊張が溶け、やっと私はひと息吐く。



車内の温風が、走ったせいで紅潮している頬をくすぐる。






『俺の忠告は正しいよ?』





頭の中で、何度も燈真とのやりとりが繰り返されている。




どういう意味だったのか、わからないまま、中堀さんと会う。




好きと、伝えることは自分の中で固まっている意志だった。




なのに、今、その決意が揺れている。




それは他でもない、燈真のせいで。




今一度、正しいのかと考える。




だって。




私は、余りにも。




中堀さんのことを知らなさ過ぎる。




タタン・・・タタン・・・



電車のリズムに身を任せながら。





近づいてくる彼と会う場所に、さっきまで抱いていたものとは違う緊張が涌いてくる。





最後、なのかな。



中堀さんと会うのは、これで本当に最後、なのかな。




二週間はあっという間だった。




最初は逃れたくて仕方なかったけれど。




今はもう少し延びないものかと考えている。




私は本当に図々しい女だ。





真っ暗な景色に、金色の髪を思い出す。





憂いを帯びた目と、悪戯っぽく笑う目と。



演技している目と。



本当の目。




優しくない時と、



優しい時。




手首を掴まれた感触。



唇に触れられた数。




私の名前を呼んだ、声。





手すりをぎゅっと握りしめる。




窓に映る自分の姿は、なんて顔をしてるんだろう。




もう、いいや。




会ったらなんて言おう、とか。




どんな顔して会おう、とか。




どう言って引きとめよう、とか。





考えられない。






ただ、会いたい。




また、会いたい。




会って、触れたい。




貴方を、見たい。




その後のことは、その時に考えればいい。




今は。




ただ、貴方に、会いたい。




直通の電車から降りると、私は出発ロビーに向かってエスカレーターを上りながら、携帯を耳に当てる。




通話ボタンを押す手が震えていることには気付かないフリをした。



手先はすっかり冷えているのに、浅く汗をかいている。



呼び出し音に、自分の心臓の音が重なって聞こえる。





《…乃々香?》






やがて、向こうから、聴こえてきた声。




ほんの数日前だって聴いた筈の声なのに。




可笑しいくらいに懐かしく聴こえて。



不思議なくらいに耳に馴染んで。




ただ、それだけで。



視界がぼやけた。





《空港に、着いた?》





唇を噛んで、涙を堪える。




私は。




最後まで、貴方の力になりたい。




だから。




ちゃんと、【妹】を演じるね。





「うん。着いたよ!お兄ちゃん、何処?」





どうか、声が震えていませんように。




お願い、私。



どうか、中堀さんと会っても、涙が出ないように頑張ってね。





《出発ロビーのチェックインカウンターのすぐ脇。》





携帯を耳に当てながら、言われた場所をきょろきょろと見回す。





「《乃々香!》」





携帯と重なって響く声に、心臓がドキンと跳ねた。




本来なら、自分が先に見つけたかった。



それなら、少しだけ、心を整えられるような気がしたから。




だけど、声は後ろから。



近づく足音も、ほら、こんなに沢山の人の中でも、わかる。




泣くな。



泣くな花音。



ぎゅっと爪が食い込むほど拳を握り、俯いて目を閉じる。




目を開けたら。




ちゃんと、佐藤乃々香になるのよ。





そう、暗示をかけて。







「乃々香」






今度はすぐ近くで、声がした。



携帯の通話はもう切れている。




自分の意識が過剰に反応しているせいか、背後の気配を強く感じた。






―がんばれ、私。






私はぎゅっと瞑った目を開いて、振り返り―







「ぎりぎりになっちゃって、、ごめんねっ」






黒髪の兄に笑いかけた。





少しも逸らすことなく、私と目を合わせる中堀さんは、相変わらず強(したた)かな笑みを湛え、





「こっちこそ。迎えにいってやれなくて、ごめんな。」





人が良さそうに、謝った。






それを見て。




最初の頃は、その演技をしている中堀さんが好きだったんだよなぁと思う。



だけど、今は、金髪の彼以外、考えることが出来ない。



私が焦がれるのは、天使の偽者、ではなくて。



悪魔の本物の方だった。







「本当に、ごめんなさいね。」





その直ぐ隣で。




志織さんが眉を下げてこちらを見ていた。





一瞬、自分よりも長く中堀さんと居た志織さんに、嫉妬の気持ちが生まれる。



あの人に触れる事が出来るという妬みをかき消せるよう、明るい声を出すことに努めた。






「そんなっ、謝られることなんかないですっ。それより、お別れすることが、、残念です。」





あの人の香りが。



胸を切なくして、心を揺さぶって、気が狂いそうになる。






「私も…残念よ。だけど休んじゃったからその分頑張らないと、ね。」





小さくガッツポーズを作ってみせる志織さんから、悪意はひとつも感じられず、こんな人になれたらいいなと心底思う。




同時に、こんな人ですら、中堀さんの心をもらうことができないなら、私なんかよっぽど無理だ、と思った。





「乃々香ちゃんも…手術、頑張って。元気になるのよ?じゃないと怒るから。」





怒った顔がこんなに似合わない人も珍しい。



腰に当てて見せた手と、下手につり上げた眉が可笑しい。





「志織さんが怒っても、恐くないです」





さっき芽生えた焼きもちなんか吹っ飛んじゃって。



あぁ、もう、いっそのこと、この人が、中堀さんのことを幸せに…本当に幸せにしてくれれば良かったのにとさえ考えながら笑った。






「馬鹿にしてるわねぇ?私が怒ったら恐いんだから!」





頬を膨らませる志織さんの横で、中堀さんは穏やかに微笑んでいる。




「そろそろ行かないと。」





手荷物の検査を行う場所が混雑してきたのをちらっと見て、中堀さんが志織さんに言うと、志織さんはうんと頷く。





「…じゃあ、またね。乃々香ちゃん。」





「色々と、ありがとうございました。」






私は深くお辞儀をした。




今、志織さんはどんな気持ちで居るんだろう。




複雑な心境だ。




この先、彼女の想いが叶うことはないのだから。





「荷物、貸して。そこまで持つから。」





中堀さんはそう言うと、志織さんの脇にあった鞄を持とうとした。






「…一哉」





寂しげに俯いていた志織さんは、静かに恋人の名前を呼び、中堀さんに飛びつく。





中堀さんの背中に回した手がぎゅっとなるのを見て切なくなる。





華奢な身体を、中堀さんがそっと覆う。




―最後の、別れ。




私は二人っきりにしてあげなくちゃ、とその場から少し距離を空けた。





本当に、これで良かったのかなと、自分自身に問いかけながら。




志織さんのタイムリミットは、ここで終わった。



私の時間は、あとどれくらい?



どのくらい残ってる?



中堀さんは、いつもこんな風にして何度も別れを経験してきたのかな。



そうやって、どの人とも手を繋ぐ事無く今まできたのかな。




黒髪の男の人。



誰もが好きになるけど、誰も好きにならない架空の人。




ぼんやりしていると、目を真っ赤にして中堀さんから離れた志織さんが視界の脇に入ってしまい、慌てて自分の目を逸らした。




次に泣くのは、きっと自分だ。




でもどこかで、その瞬間を確信しきれて居ない自分に呆れる。




もしかしたら、はまだ自分の中にある。



それくらい、彼を諦められないでいた。



だけど、自分の想いを伝えるべきかどうかは、まだ決めかねていた。



でも他にどうやったら、中堀さんの心を繋ぎとめておけるだろう。



さよならしないでいられるだろう。




丁寧に拭きあげられた床をじっと見つめ、そう遠くはないタイムリミットに実感が涌き始め、緊張が募った。



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「お疲れ」





ロビーの椅子に座って手持ち無沙汰に行き交う人々を見ている私の目の前に、ミルクティーの缶が差し出された。




ドキリとして、それを持つ腕の主を見上げると、当たり前のように中堀さんがそこに居て私を見下ろしている。





「あ、ありがとうございます」





緊張しながらそれを受け取ると熱がじんわりと掌に広がった。





「…よく…わかりましたね…」




隣に腰を下ろした中堀さんが持つ缶コーヒーに、視線を奪われつつ言うと、中堀さんが首を傾げる。





「何が?」




「その…私がミルクティー…」




「あぁ、ガキだから、そーかなって」




「………」




少しくらい、嘘でもいいから優しさが欲しいと思ったり。




同等扱いされない悔しさで唇を噛む。



大体貴方一体幾つなのよ?!



心の中でむっとしながらプルタブに手を掛けた。




でもそんな苛立ちはすぐにしぼんでしまう。




「いただきます」




「おー」






口に広がる甘い味が胸を切なくして。





中堀さんも、隣でコーヒーを飲んでいる。



私はそんな彼をちらっと見る。



中堀さんは前を向いているから、視線は交わらない。






「あの…本当に、、良かったんですか?」





「何が?」






こちらを振り向くこともせずに、中堀さんは訊き返した。






「…志織さん…」





中堀さんが横目でじろっと私を見る。






「…やっぱりなんでもないです…」





無言の圧力に、自分のした失言を後悔する私。





中堀さんはまた視線を前に戻す。





「…それ、飲んだら送ってく。」





小さな溜め息と一緒に、呟かれた言葉に心が貫かれたように感じた。



止まってしまったのではと思うほどに。



で、できるだけちびちび飲もうっと。



セコい時間稼ぎをしながら、私は隣の中堀さんを目に焼き付けようとする。




濃紺のコート。



さらさらの黒い、髪。



体の線。




触れたい。



でも、触れられない。



小さな距離なのに、大きく感じる。




温もりも覚えたい。



だけど、叶わない。






「…何?」





とっくにコーヒーを飲み終わっていたらしい中堀さんが、視線に気付いて不機嫌に振り返る。





「あ…っと、いや、なんでもないです」





不自然なほどに目を明後日の方向に逸らすと、不服そうに中堀さんが私のピーコートの裾を引っ張る。




ひっぱる、とか。



その行為自体がもうドキドキ過ぎて、心臓が持たない。



今日一日で、私の寿命、どれだけ縮んだろう。



責任とってくれないかな。





逸らした目をゆっくりと戻すと、中堀さんがさっきよりも近い距離で私を見つめている。





「なっ!!なんですかっ。ち、近いです。」





「ありがとう」





間髪容れず、やけに素直に吐かれた言葉が、別れの輪郭を私に感じさせた。






「な、中堀さんに、その言葉は似合いません!」





それを追い払いたくて、私は素直になれずにそっぽを向いた。





「なんだよ、それ。」






私はじわりと目に溜まった涙をなんとか逃せないものかと思案しながら、呆れたような笑い声をだけを聞いた。





ここまで我慢していたものが、溢れ出そうで恐かった。






「でも、ほんと。失敗も多々あったけど、助かった。」





そんなことを少しも気付かない中堀さんは、感謝の言葉を紡いでいく。





「失敗もあった、は余計です!」




かわいくない私は顔を飛行機の見える大きな窓に向けたままで、駄目だしをする。




「…っとに、あんたはいつも不機嫌なんだな。」





呆れたような声で言われて、不本意ながら振り返ってしまった。





「そ、そんなことありません!」





「いや、最初からそーだよ」





何を思い出しているのか、難しい顔をしながら中堀さんは宙を仰ぐ。





―た、確かに。




私はいつも中堀さんの前でしおらしい態度なんてとっていない気がする。




自分で思い返してみても、散々な記憶しかない。





「何せ、殴られたしなー」




いまだ顔をしかめつつ、頬に手をあてて見せる中堀さんを見ないフリする。




図星過ぎて何も言えない。




私は黙ってぬるくなったミルクティーを飲んだ。


小さくなって、缶と向き合うが。



自分で作った筈の沈黙が、痛い。



中堀さんのことをチラッと見ると、悪戯っぽく笑って私を見ていた。







「!」





益々私は縮こまる。





「ま、飽きなかったよ。」





言いながら、中堀さんは立ち上がって、私と向かい合わせになり、手を差し出す。





「もう…、空でしょ?」





嘘ついたのがバレた子供のように、がっかりした。





「…はい」




なんでわかったんだろう。




甘いミルクティーは、実はとっくに終わってしまっていた。





でも、少しだけ、時間に猶予があった気がするのは、中堀さんの優しさからだろうか。







渋々、私は空になった缶を中堀さんに渡す。




何も言わずに、中堀さんはそれを受け取ると、すぐ傍のダストボックスに入れた。



そして、戻ってくるなり、言った。





「さ、行こうか。」





行きたくない。



とは言わせてくれない立ち姿勢の中堀さん。



本当は、帰りたくないと言えたらいいんだけど。



今、私が素直になったら、中堀さんは受け入れてくれる?





座ったまま、少しの間、中堀さんと見つめ合う。



その瞳に、どんな感情が混じっているのか、不器用な私に読み取ることは出来ない。







「…どうしたの」





「…いえ。」





黙る私を見て不思議そうに瞬きした中堀さんに、咄嗟に否定した。






だめだ。




とてもじゃないけど、言えない。




恐い。




今言ってしまえば、この場を去っていってしまうんじゃないかと、恐い。



こんな雑踏の中で、ひとりぼっちにされたら帰れない。




燈真の言葉も頭にまだひっかかっている。




私は椅子から立ち上がって作り笑いをした。





「なんでもありません。行きましょう。」





少しでも、傍に居たい。




少しほっとしたような表情の中堀さんに、胸が痛む。




―面倒な女だと思われたくない。




もう十分に思われているはずなのに、私の臆病はこんな所で顔を出してきた。




半歩先を行く中堀さんの後をついて、どうにかあの左手を掴めないものか、と思案する。




それだけの願望も自分では叶えることが出来ない。




だって、私はなんでもないから。






駐車場に行くのに空港の外に出た瞬間、途端に冷たい北風が髪を揺らした。






「さむっ」





顔に貼りついた髪の毛を払いのけながら思わず呟くと、中堀さんはふっと笑う。






「もう風邪、ひかないようにね?治すの大変だったんだから。」





「なっ!あれは中堀さんがっ…キ…」





反論しかけて、言葉に詰まった。



すれ違う人が多かったからだ。






「んー?なーに?」





絶対分かっているのに、わざとらしく知らないフリをしている中堀さん。




ムカつく。



微妙な距離。



歩幅は私に完全に合わせてくれているけれど、ぴったりとは寄り添わない。




あーあ。



もう着いちゃった。



もう少し、こういう風に歩いていたかった私は、前方に見えてきたものを見て、がっかりした。




遠くからでも、もうわかる。



中堀さんの車はしっかりと覚えてしまった。








「さ。乗って。」






「え…」




てっきりいつも通り後部座席に座るものだとばかり思っていた私は状況が飲み込めず立ち尽くす。





「俺、彼女居なくなったし」




さらりと言ってのけた中堀さんは、助手席のドアを開けて私に乗るようにと促した。





ここにきて、ご褒美!?




絶対に中堀さんのただの気紛れだろうけれど、私は一気に有頂天になる。




「お、お邪魔します…」




口がにやけないように必死に頬に力を入れつつ、中堀さんの見守る中、助手席に座った。




少し小ばかにしたような笑いが聴こえたけど。




実はその笑い方すら、ちょっと好きだったりする。




そんな私は、もう、末期だ。



バタン



閉じられたドア。



中堀さんも運転席に乗って、遮断された外気。




車でなら、道さえ混んでいなければ、家まで30分で着いてしまう。




助手席に座るのはくすぐったい気持ちだけれど、うかうかはしていられない。





ちょっと、気持ちを引き締めなくちゃ。





「!」




ちらっと横を見ると、中堀さんとばっちり目が合った。




助手席は心臓に悪い。



なんてったって運転手の隣だもの。



こんなに近いんだもの。




ドキドキしながら、無言で見つめていると。






「シートベルト、してくれる?」





「!!!!…すみません…」





中堀さん…笑いを噛み殺してる。





…駄目だ。




完璧に舞い上がっちゃってる。




恥ずかしさから俯きつつ、カチリとシートベルトを差込口に入れた。





車窓から道路に引かれた白線が見える。





「あの…帽子…ありがとうございました」





窓から目を離し、運転している中堀さんの横顔に言う。





「ああ、あれ。…どこがそんなに気に入ったの。」




どこがって…。



私は返す言葉に窮する。




だって、あれは無地だし。



キャップだし。




中堀さんが被っている時は格好良いけど。



私には実は全く似合わない。



もっと言わせてもらうならただの口実だったし。



本来なら私が欲しかったのはニットキャップ、とかで。



あったかいやつ。



中堀さんのキャップみたいなのじゃ、ない。





「つ、ツバの広さ…」




仕方なくそう言うと、




「…へー」




中堀さんが首を少し、傾げた。




そうですよね。私だってそう思います。



自分の蒔いた種とは言え、痛過ぎる。




再び、沈黙が車内を支配する。



私はもう、居た堪れない。



何か、会話、会話…




考えながら、ずっと頭に引っかかっていることがある。






どうせ、最後なら。



ひとつだけ、訊きたいこと。





「あ、のっ!」





「何?」





やばい。



緊張度がマックスだ。



だけど―





「さ、さっき!言ってたこと、、、なんですけどっ」





訊きたい。





「さっきっていつ?ってか…そんなに大声じゃなくても聞こえるよ。」






ちらっと横目で私を見て、五月蝿そうに顔をしかめる中堀さん。





しまった。




だけど、今の私には、ボリュームまで気を遣う余裕はないのです。





「か、、風邪のっ…時の…こと、、ですっけど…」





自分で言いながら、顔が、かかかっと熱くなった。




中堀さんは何も言わずに、続く言葉を待っているようだ。






「ま、前の…き、キス…は、、キスじゃないって、、言ってました、けど…、あの時、、したキスは、、キスの内に入りますか?」





上手くは言えてない。



それは自覚している。



だけど褒めたい。



よくやった。



我ながら、ナイス度胸だと思う。





けど。




「………」




沈黙が痛いです。




どういう反応が返ってくるかは未知数だった。




だけどどうしても訊きたかった。




『消毒』と言ってされたキスは。




あれは、キスだとカウントしていいかどうか。



キスだとしたら…なんでされたのか。




自分が特別扱いされたとかそんな勘違いはしていない。




していないけれど。






「入るんじゃない?」





暫くして中堀さんはあっさりと頷いた。




特に、大したことではないかのように。





―め、めげない。






自分を奮い立たせながら、私は次の質問をする。






「どうして…したんですか…」





私にしたところで、メリットはない筈なのに。







「風邪ひきたかったから」





「!」





直ぐに返って来た返事に、私は固まる。




そ、そーいうことだったのか…?





「…って言ったら、納得する?」





目は前を見たままで、中堀さんはにやっと笑った。




危なかった。



騙される所だった。





「ひどいですよ!私、真剣に訊いてるのに―」





一瞬停止したかに思えた胸を撫で下ろしたのも束の間。





「どんな答えが欲しいの?」





中堀さんの笑いが、自分の思っていたものではなくて、少し冷たい感じだということに今更ながら気付く。





どんな…って…




私はどう答えて欲しいんだろう。





穏やかに思えた空気が、張り詰めている。




訊かなければ、良かった?







「中堀さんにとって……どうだったのかが、、純粋に、、知りたかっただけです…」






思ったままの、素直な気持ちを伝えたかった。




計算高いわけでもない。



その先を期待しているわけでもない。





ただ、あの時。




中堀さんは、どういう気持ちだったのか。



知りたかったの、と。



少しの間、沈黙が漂う。



暖房がかけられているというのに、私の手は冷たい。



景色を見ることも、中堀さんの横顔を見ることも出来ずに、ただ握った拳を見つめていた。




どうすればいいのか、もう、よくわからなかった。




中堀さんはこの手の話になると大体口を閉ざすかはぐらかすような気がする。



それくらい、女には興味がないということなのか。






「…あんたはさ…」





呟くように落とされた言葉に、顔をあげることもできないまま、耳だけに神経を集中させた。





「あーいうのに、意味をつけないと、駄目な女なの?」





「…え?」





中堀さんが何を言いたいのか理解できない。





「俺にとっては、キスは何の意味もない。あの時も―」





言いながら、ギアを動かした中堀さん。





「崇にされたことがムカついたから、しただけ。他意はないよ。」





車が、停止、した。




私の思考も、止まる。



他意は、ない。



ってことは…




何の、意味も、ない。




「は…」




乾いた笑いが、自然と零れる。



頭のどこかではわかってたような気もする。



他に、とても良い答えが思いついてたわけでもない。




中堀さんが、愛を囁いてくれるだなんてこれっぽっちも思ってない。




けど。




私にとって。



キスはやっぱり。



意味のある行為で。




だから。




「だったら…」




万が一でも、その時だけでも。





「期待、、させるようなこと…しないで、、ください…」






その一瞬だけでも。



私のことを、見てくれていたんじゃないかって。




あぁ、やっぱり。




自分は期待してたのか。





俯いていた顔を上げて、中堀さんに目をやると、私より前から、彼は私を見ていた。




その顔は、笑ってもいなくて。


だけど、怒っているわけでもなさそうで。



薄暗いせいで、しっかりと見ることも出来ない。






「ぬか喜び、させないでくださいっ」





いつの間にか頬を伝う温かいものに、自分は笑ったり泣いたり忙しい女だと、頭の隅で思った。



本当は。


最初からずっと、泣いていたんだっけ。




貴方を好きになりたくなくて。




貴方と会えなくて。




貴方に伝えたくて。




貴方が、欲しくて。





―俺の忠告は正しいよ?




警告が、鳴り響く。




けれど、長い間締め付けられた心は熱を持ち過ぎていて。




外に出たいと、言うから―





「私はっ、貴方が…」





好きなのに―





言いかけた言葉は、中堀さんの唇のせいで、音になることは叶わなかった。




浅い、口づけ。



散った、涙。




驚きの余り、目を閉じることも忘れたまま、中堀さんの綺麗な顔を見つめていた。






「言わないで」





息がかかる位の距離で。



中堀さんが、囁く。



少し、苦しそうな声で。



擦れた、声で。





「―これ」




やがて取り出された一枚の小さなカード。





「約束のメモリ。消したって言っても、信じないだろうから、あんたにあげるよ。よく、映ってたしね。」





さっきの切ない顔は、すぐに消えて、中堀さんはいつもの意地悪い笑みを溢した。





呆然としたままの私の手に、中堀さんが握らせる。





「さよなら。」





そう言って外された、シートベルト。





もう、家の前だったのか。



途中から景色を見る余裕もなかったんだと気付く。






嫌だ。



さよなら、なんて嫌だ。



大粒の涙が、勝手に落ちてくる。






「泣くなよ、櫻田花音。喜ばしいことだろ?契約終了、だ。」





恐らく、中堀さんは肩を竦めて見せたに違いない。





だけど、中堀さんの姿はとっくに涙でぼやけて見えてない。





ここ、までか。




私の時間は、ここまで、か。




時間切れ、か。




手の内にあるカードを、自分の力でぎゅっと握った。





諦めなくちゃ、いけないのか。





奪われたキスを怒ることもできないまま。




想いを伝えることも、許されないまま。





自分の気持ちに、最後まで嘘を吐くべきなのか。




「う、嬉し泣きですよっ」




分かりやす過ぎる自分の嘘に、笑える。



震え過ぎている自分の声と。



慌てて拭った涙の温かさ。




どちらも、ひどく滑稽で。






「あー、清々します!もう、色々悩んだりしなくて良くって!」





そう言いながら、私はバッグを取って、ドアを開けた。





降りる間際に、中堀さんを振り返る。




中堀さんは。




「さよなら」





再度囁かれた別れの言葉と共に。



ただ、優しく笑っていて。




それが無性に胸を熱くさせた。




込み上げてくるその熱が、また中堀さんに見つかってしまう前に。





「…さよなら」





やっとのことで紡いだ4文字と一緒に、ドアを閉めた。




バタン。




車を見送る余裕もなく。



もちろん振り返ることだって、もうできず。




一目散に、階段を駆け上って。



自分の家の前で。





「ふっ…うっ…」





崩れ落ちた。




冷たいコンクリートの廊下が着いた足から熱を奪っていくけれど。




ぱたぱたと染みを作る涙の方が、よっぽど熱かった。



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