詐欺師の憂鬱


タイムリミットまであと5日







クラブの屋上の手すりに背中を預けて空を仰いだ。




吐き出した煙草の煙が、高くなった月にかかる。




今夜は星がきれいに見えるのに、それを台無しにしてるのは自分か、と思った。




電話を切ってから、どれ位の時間が経ったろう。



ふと時間が気になって、腕時計に目をやると、日付が変わっていることに気付く。






「…まずいな」





零の時間は過ぎてしまったわけか。



ということは、下ではちょっとした騒ぎになってるのかな。





「ま、いっか」





ひねた笑いで、呟く。




零のサボり癖は昔から有名な話だ。





階段を駆け上る音がしたな、と思ったら続いて、





「零ー??」





俺を呼ぶ女の声がした。





「ねぇー!零ー?零ってば!あ、いた!」





見つかった。



俺は逃げるワケでも、そっちの方を見るわけでもなく、ただ空を見たまま、煙草を深く吸い込んだ。






「ちょっと、返事くらいしてよねっ。皆下で探してたよー?」





ぷりぷりと怒る小さな黒髪の女をちらっと見て、




「うるさい」




とだけ、返した。




「うわ、ひどっ!」




でも、この女はめげない。





「葉月の声は、、、頭に響くんだよ」




よく伝わるように、耳を塞ぐ仕草をして見せた。




「知ってるし!よく言われるし!」




いや、褒めてねーんだけど。




得意気にVサインする葉月に呆れる。





「ここで何してたのー?今日は気分がノらないの?」





五月蝿く問い詰めてくる葉月に、いささか面倒臭さを感じ始める。





「んー…まぁ、そんなトコ」




どっかいってくんないかな。




「ふーん…」




つまんなさそうな返事をして、俺の隣まで来た葉月は、何を思ったのか突然俺に抱きついた。




「…やめろよ、煙草の灰掛かるぞ」




「いーもん」




抱きつかれた方とは逆の手で煙草をもてあそび、溜め息を吐く。




「離れろよ」




「じゃ、キスして」




葉月は大体いつもこう言う。




俺も面倒だから、それで終わるならと応じてさよならする。




―面倒だなぁ。




思いながら、上手く上がったカールする睫毛が閉じられるのを確認し、顔を近づけた。




その瞬間、首に巻きついてきた葉月の腕。




日曜日の光景が、脳裏に過ぎった。





「…どうしたの?」





数センチ先で、俺の異変に気付いた葉月が、不思議そうに瞼を開いて見つめる。





そんな葉月の肩を少し強く押しのけた。





「わり。やめとく」





ぽかんと口を開けたままの葉月を置いて、下に降りようと出入り口に向かった。




―なんだ?




ここ数日感じている自分への違和感に、若干の焦燥感が加わる。







「カノン!!!!」






ちょうどドアノブに手を掛けた瞬間に、背後から叫ばれたその名前を聞いて、思わず足を止めた。



「って、誰なの?零の…本命?」




こないだの日曜日。



俺が葉月を置いていったことを、そしてその時の状況を、葉月はよく覚えているらしい。




「まさか。」





振り返らずに答える。




「嘘!ここの所、零なんか変だもん!絶対女絡みでしょ!」





口を尖らせて葉月が抗議しているようだが。





「葉月にカンケーない。」






そう言った声が届いたか届かなかったかはわからないけど、大人しくなった葉月。






「じゃーね」





俺はドアノブを回して、味気ない階段の手すりを掴んだ。





―なんで女っていうのはいちいち詮索するんだろうな。




葉月の指摘に若干の苛立ちを覚えつつ、足元にくわえていた煙草を投げ捨て、靴で踏んだ。




カンカンと音を立てて鉄の階段を下り、重たい扉を開ければ、直ぐに人の賑わう声や、音楽が聴こえてくる。





「お、俺の影武者が頑張ってる」





クラブの二階は、基本関係者以外立ち入り禁止になっているのだが、そこからは会場全体がよく見渡せる。



鉄の手すりに頬杖をつきながら、暫く代わりのDJが演奏しているのを見ていた。





「こんなとこにいたのか」




ふいに背後から声がして、振り向くことなく応える。





「今日は帰ろーかな。」




「おいおい、まじかよ?せめてファンの子たちに顔だけでも見せてやったら?泣いてる子、いたよ?」





俺はキャップを深く被り直し、首を振った。




「いや、面倒」



そう言い捨てると会場を通らずに外へと出ることができる裏口に向かおうとした。





「何々?なんかちょっと不機嫌じゃん」




「…俺はいつもこうなの。燈真とは違うから。じゃ、ね。」





燈真の返事は待たずに、俺は足早に階段を駆け下りる。なのに、声だけが追いかけてくる。





「俺があんなこと言ったから、怒ってるのー?」





「…うるせーよ」




届かないと分かっていながら呟いて、外に出た。




相変わらず、空には星が綺麗に光っていて、空気は冷え冷えとしていた。





屋上で見た時よりも、空は高くなって、自分がよりちっぽけに感じる。





―俺は夜の方がやっぱり好きだな。





夜は輝く月と星が主役だから。




空は真っ暗で、何も見えないから。





そのことを再確認するような、綺麗な星空だった。





あてもなく歩き出しながら、あの日の事を思い出した。




―遊んでそうな女だ、と思ったんだよな。




志織のことでどうやったら金を引き出せるかと思案していた時のことだ。




よく歩道橋の上で煙草を吸いながら、道行く人を観察していた。



朝、大体人は無防備な顔をしている。



一心不乱に会社に向かう姿は、一見兵士のようだと思うのだが、その表情は疲れ切っている。




だけどたまに朝っぱらから一人でにやけているのも居て。




その中の一人が、櫻田花音、だった。





決して人目を惹くようなタイプではないが、悪くはない。




男ウケする部類だろう。





ただ、にやけている。




一人で。





―変な女。




大方、彼氏でも出来て、色んな出来事の余韻を噛み締めているんだろう。




必死で、笑いを噛み殺そうとして、マフラーで隠している。





何がそんなに嬉しいんだか。



上からその様子を呆れながら見て、煙を吹きかける。





女って、わかんねぇ。




男に何かしてもらったら、喜んで。



何かされたら、哀しんで。




いずれ、あんたも泣く羽目になるよ?




今の内、せいぜい喜んでなよ。




本当に自分勝手だけど、そんなことを思っていた。




その時はそれだけで、別に気になんかなっていなかったし、次に志織と会った朝、再度歩道橋の上を通るまで、すっかり忘れていた位だ。




人通りの少ないこの場所は、傍観者を決め込むことができるせいか、通る度に一服したくなる。




頭の中でシナリオは大分出来上がっていて、あとはそれらしい役者を揃えるだけだと考えていた。




―どうすっかな。



ジッポーで火を着け、一口吸いこむと、手すり越しになんとなく下を眺める。





あ。





たまたま目に留まった微かに見覚えのある顔。





ただ、その変わり様に驚くというか、やっぱりというべきか。




―思いっきり、落ちてるな。





こないだ見かけたのはいつだったか。




確かあれからそんなに経っていないと思う。






なんつーか…





…早すぎだろ。




喧嘩か?





明らかに肩を落として、とぼとぼと歩く姿は覇気がない。





―じゃないな。別れたか?






ほんと阿呆だな。




なんでこうも第三者の目からわかりやすい顔をしているんだろう。



この世の不幸を全て背負い込んだ悲劇のヒロイン、みたいな。




隠そうとか、思わないのかな。






角を曲がってその後ろ姿が小さくなるまで見てから。





―あの女なら、上手く使えるかな。




役にハマるか思案する。



知り合いの人間は絶対に使いたくなかった俺には、ちょうど良い人材に思えた。





男に感情が左右されそうで、コロっと騙されやすい感じの。




そのまま、恋人のフリでもして、良い様に使えばいい。




―それで、あんたはまた泣く羽目になるんだけど、騙されたあんたが悪いんだよ?





紫煙を鋭く吐き出し、俺は口角を吊り上げた。




それから、通る時間帯をはっきりさせて、角を曲がる際に不注意にも俯く癖があるのも確認。



今一番付けこみやすい時期だということも加味すると、ちょうど良いタイミングのように思えた。



志織とは、妹の事できちんと揉めておいたし、舞台は整っている。






―今日、だな。





冬が深まりつつある金曜日。




さて、どんな偶然を装って、彼女に近づくか。





ぼやけていたビジョンが急に輪郭を持ち始める。





―ぶつかるまでは、いい。



上手くそのバッグがひっくり返れば大成功、なんだけど。




その反応で、採用か不採用か考えよう。




まー。。。




なんとか、なるだろ。




駄目だったら、駄目で、そん時は次を探せばいい。




―来た。




寒そうにマフラーに顔を埋め、横断歩道を渡る女を見つけると、俺は何食わぬ顔をして、歩道橋の階段をゆっくりと下りる。




腕時計で時間を確認しながら、





―上手く、いってくれよ。




心の中で念じる。




そして、角を曲がったと同時に声を上げた。







「うわっ!」






案の定俯いている女が、目の前に居たという計算通り過ぎる出来事に笑えた。





その一瞬に、バッグの位置を確認し―





ドン!バサバサッ





無事、ターゲットに接触。





「いったぁ…」




周囲の人が皆俺達の脇をすり抜けていく中、女の微かな声がした。




―ちょっと突き飛ばしすぎたかな。




でも、コレ位じゃないと、バッグがひっくり返らないからね。




見事に散らばった書類に俺はほくそ笑む。






役者はできれば働いている感がしっかりある人間が良かった。




それから、駅から近い会社に勤めていること。




まぁ、毎朝駅から歩いて来る人たちから選んだんだから、この条件に当てはまるのは当然なんだけど。





カスカコーポレーション、か。




櫻田、、花音。




社員証は、間違いなく使えるね。




利用しない手はない。




「すいません、大丈夫ですか?」




―俺は良い人間じゃないけど、良い人間のように振舞うことは出来る。




手を差し伸べながら女を気遣う俺を、もう一人の自分が嘲笑う。




所詮、造られた自分。



それは、もう、しょうがない。




本当の俺なんか、誰も、求めちゃいないんだから。





…にしたって…。




俺の頬が少し引き攣る気がする。



なぜって。



転んだままの女が、俺を見ている筈なのに返事をしないから。





「―あの、大丈夫ですか?」




とりあえず、もう一度。




「だ、だ、だいじょうぶれっす!」





この女。



俺の差し出した手を取る事無く、立ち上がった。




なんか、噛んでるし。




「良かった」




とりあえず、笑いかけてから、道路に散乱する書類を拾う。



ついでに、社員証は一番最初に拾ってさりげなくコートの袖口に隠しいれる。





「あ、す、すみません」




全く気付かない女は、申し訳なさそうにそう言うと、慌てて自分も拾い始める。




遅いし。




女の拾い方は明らかに効率が悪い。





風の強い日じゃなくて助かった。




書類が意外とあるから、吹き飛ばされたら面倒なことになりそうだった。






「はい、どうぞ」






そんな心中はおくびにも出さず全て拾い上げると、吹っ飛んでるバッグと共に女に差し出した。





「あ、あありがとうございます」




どうでもいいけど、なんでさっきからこの女はどもるんだ。



―遊んでそうな女、なんだけどな。



第一印象よりも、なんかとろい。



ま、いっか。



なんでも。



使えれば。




俺の中で本採用が決定。





「痛いところ、ないですか?」





ここで、腰がちょっと、とか言えばそのまま病院付いていくっていうのもアリかな。




あれだけ突き飛ばしちゃったから、相当痛かったはずだ。





「だ…だいじょうぶです。ありがとうございます」




ほぉ。そう来るか。


まぁ、そうか。




一人で変に納得しながら、じゃ、やっぱり社員証だな、と考える。




だけど今は、まだその時じゃない。




とりあえず、ここはさっぱりとさよならしようか。










「あれ」



気がつくと、自分の下を何台もの車が行き交っている。



とっくに夜中なんか過ぎているのに、まだこんなに起きてる人間がいるのか、と漠然と思い、はっとする。




いつの間にか、例の歩道橋にまで来てしまったらしい。




階段を上っている時にすら気付かず、無意識だったのか。




「どんだけだよ」




自分自身に突っ込みながら、仕方なくポケットをまさぐると、見つかった煙草に火を着けた。





深く息を吐き出し、手すりに肘をついた。





―クラブに近いこの一帯は、施設を出たばかりの頃の俺の遊び場で。



庭のようによく知る街だ。




隠れようと思えば隠れる場所なんていくらでもある。




志織の家からも近い。



ただ―家といってしまうと、少々語弊があるかもしれない。




志織の親がマンションをいくつも所有しているからだ。



つまり、細かく言うなれば、志織の場合、ただ単に今回帰国している間だけの借り住まいにしか過ぎない、というわけだ。



ホテル感覚の方が近いと思う。




だから。




向こうから居なくなってくれる―なんとも都合の良いターゲットだった。




この街には何の未練も執着もなかったが。



ただ、世話になったあの人が、死んだから。



ちょっとの間帰ってこようかな、と思っただけ。





ある程度仕事して、ある程度騙して。




また、少しすれば、野良猫の様に、またふらふらと何処かへあてもなく彷徨う。



好きな場所に好きなだけ、留まる。



―そのつもりで、居たんだけど。





煙草の灰が、ぽろっと落ちて風と共に舞った。







世間なんか、騙し合いが上手な奴ほど上に行くシステムになっているわけで。



誰かを必要と感じた時点で、自分自身が駄目になる可能性は大だ。



何故なら、嘘を吐くなら独りきりでいることが大前提だからだ。



独りで吐く嘘ほど、完璧で鉄壁なモノが出来上がる。



真実を知るのは自分以外いないからだ。



なのに。



なんで、今俺はこの嘘をアイツと共有する羽目になったんだか。




苦笑を通り越して、呆れる。




まぁ、要は、勧誘失敗、したから、だ。




途中までは上手く行っていた。



俺はミスをしていない、と思う。



気の良い紳士を装い、会社にまでわざわざオトシモノを届けに行ってやったんだから。




受付に内線で呼び出してもらい、アイツが来るのを待っている時の事を思い出す。




下を向きながら顔を隠すように歩いてくる女、発見。





―なんなんだ?




誰にも気づかれないように一瞬だけ眉を顰めた。





なんで、そんなにコソコソ歩く必要があるのだろう。




そういえば、受付嬢も名前を出した時にあんまり良い顔しなかったな。



俺には愛想を振り撒いていたけど。




―人選、ミスったか?




若干不安要素が頭を過ぎる。



…とにかく、もう少し、様子を見ることにしよう。



実際時間が、あまりなかった。



わざと志織と鉢合わせするために、橙真の店を使っていた。



勿論志織は橙真のことを知らないわけだけど。



以前に教えた隠れ家的なあの店を、志織は結構気に入っていて、特に金曜の昼は必ずと言っていい程利用しているらしい。



詳細な時間は店員に適当な嘘を吐いて声を掛けてあるから、わかっている。



志織が日本を発つのは、二週間後、だ。



できるなら鉢合せは今日中に済ませてしまいたい。




舞台を整えている俺の思惑通りに、ターゲットは今の所動いてくれている。




さぁ、あとはあんたが動いてくれさえすれば、全てはうまく行くんだ。




俺に惚れてくれれば、ね?





「おっと」




俯いて歩く女にぶつかるのは容易い。




「…すみません」




けど。



「あ、ちょっと。」



俺を見る事無く立ち去ろうとする女の腕を軽く掴んだ。




なんでこの女。。。





謝る時は人と目を合わせてって、習わなかったのか?



人の事、いえないけど。




「え」




小さな驚きの声と共に、女が顔を上げて漸く俺を見た。




その目には、ただ、驚き。



ま、そーだろう。



俺は、とりあえず社員証を差し出す。



相手がパニックに陥っているのが目に見えるが、、俺にはそれに付き合う時間はねーんだよ。



さ、本題に入ろう。




「お昼、これからですか?」




言いながら、腕時計を確認する。



このまま行けたらベストタイムだ。




唐突過ぎるのは百も承知だ。




ただ、運命だとかなんだとか、そういうのを大事にするあんたらには十分過ぎるシチュエーションは作ってやった。




そして、恐らく、あんたはその中でも一番騙されやすい。




だろ?




案の定、




「…いいんですか、私が行って…」




好感触。




ぽかん、とする女を見ながら、俺は自分の名前をうっかり受付に伝えてしまった事に気付く。





―あ、しまったな。中堀って言っちゃったな。




懐かしいその名前。



ずっと使って居なかった、その名前が出てきてしまったのは、多分、この地に帰ってきたから。




ま、いいか。




多分、この女には、そんなにてこずらねーよ。




どうせ、騙す女の前で、俺は名づけてもらったように、闇を抱えない青年を演じてるんだからさ。




大嫌いなあの名前を使っても、いーか。





「そうだ、自己紹介がまだでしたね。失礼しました。私の名前は中堀 空生と言います。」





言ってから、気付く。




女にこの名前を教えたのは、初めてだったな、と。



に、したって。





俺は笑顔を貼り付けながら、この女が中々しぶとそうだ、という事実に気がつきつつあった。






反応が、遅い。





何をそんなに迷うことがあるのか、目の前の女は首を縦に振らず、何か迷っている仕草をしている。





勤務時間でも気にしているのかな。





「直ぐ近くなので煩わせはしませんよ。」





だから、早く頷けって。




腕時計をまた確認してから、視線を上げるとそんな俺を見つめる女と目がばっちり合う。




断る気、か?



俺は不安げに揺れるその瞳を、安心させるように笑いかけた。



絶対に悪い印象は持たれていない自信があった。



むしろ、良い方だろう。



それでも、断ろうか、と考えるということは。




恐らく理由は警戒心、だ。




じゃ、俺が先に口を開こうか。





知ってるかな。



名前って、すごく力を持っているってこと。





「さ、行きましょう。櫻田花音、さん。」





見る見るうちに顔を真っ赤にさせた女が意外で、少し驚いた。



男慣れ、していると思うのに。





「…はい」





続いて直ぐに、小さいけど確かな返事が聞こえた。




―そう、それでいい。




よくできました。




俺はにっこりと笑って踵を返す。



橙真の店は本当にこの会社から直ぐ近くだから、便利だ。



今の所ぎりぎり時間通り。




「ほら、近いでしょう?」




押し黙る女を余所に、できるだけ明るい声で優しく言う。





「え…?」




女は驚きの声と共に、俺の後ろの建物に目をやった。




が。




顔が、険しい。




そして、何を考えているかが、申し訳ないけど外部にだだ漏れだ。




ほんと、何なの。このヒト。



俺、どんだけ悪い人物になってるんだよ。



明らかに怯えきってる感じの表情しちゃってさ。



まぁ、確かに橙真のこの店も看板も何もないから、ちょっと問題あるけどさ。





段々可笑しくなってきて、つい、声を立てて笑ってしまう。




はっとした女が目を見開いたまま、俺を見た。






まずい。けど。




やっぱりあんた、おかしな女みたいだ。





「…すみません。笑っちゃって。…さっきから表情がコロコロ変わるのでつい」





一応謝罪の言葉を述べてから、





「本当に、食事する所ですから、安心してください」




と、言い添える。



その瞬間、女の顔がまた真っ赤になった。




あぁ、やっと俺の笑いの意味を理解したんだな、と思った。



そのくらい、とろければ、上手く騙せそうだ。



俺は違う意味でも笑いながら、店のドアを開けた。



カウンター席に着く際に、奥にある志織の居る席が視界の隅に入る。




―お、ばっちり。志織は見たな。




予定時刻通りの流れに、安堵した。





「一哉…」





適当に、女にメニューを説明し終えると、俺の嘘の名前を呼ぶ声が。







しいて言うなら、もう少しボリューム下げて欲しかったけど、贅沢は言わない。





俺は今気がついたようなフリをして後ろを振り向いた。





「ねぇ、この方が?」





志織が女に、もとい、櫻田花音に掌を向ける。




んー、それはナンセンスだな。



心の中で駄目出し。



それは、いらなかった。




良い女は、そういうこと、しないよ。





多分、そこに座ってる女は阿呆だから、大丈夫だけど。



「少し、席を外します」





小さく櫻田花音に耳打ちして、志織の向きを変えさせた。





「驚いたな。志織、ここ使うことってあったんだ?」





俺がその情報を店員から得ていることなんて知らない志織に、心底驚いているフリをする。





「そんなことは、どうでもいいのよ。あの子、もしかして…」




「しっ、乃々香は俺が病気のことを他言しているなんて知らないんだ。さっきみたいなことされると…」





そう言って、困った顔をしてみせながら、志織の肩を優しく掴んで奥の席に座らせた。





「じゃ、やっぱり…妹、さん、なのね?」





黙り込む俺を見て、志織は溜め息を吐く。





「あれ、会社の制服でしょう?あの子、まだ、働いているの?」





俺は苦虫を噛み潰したような顔をして、志織の向かいの席に腰を下ろす。





「まだ、今の所、容態は落ち着いているんだ…。」




「でも、爆弾を抱えているようなものでしょう?いつ何があるかわからないじゃない」




「わかってる。でも、仕方ないんだ。。少しでも…働かないと…」




俺は俯いて、膝の上に置いた拳を握る。





「…ねぇ、お願い。私をもっと頼って。」



やがて、懇願するように、志織が口を開く。




「…その話は、もう、やめてくれって…」




「だって!私にはそれだけの資力があるんだから!」




次第に志織の熱が上がる。




「でも、これは、俺たち家族の問題だから…」





「私もその家族に入れてくれればいいじゃないっ!」




「え…」




志織は自分の発した言葉に、頬を紅潮させた。





「あ、そ、いや、あの…私、何を言ってるのかしら…そういう意味じゃなくて…」




いいね。



女っていうのは、そんなんでいい。



ヒスと共に、感情と共に、欲望が出てくる。



それでいい。




「そういう意味って、、どういう意味?」




俺がそれを存分に利用してあげる。




「…私、貴方と将来のことを、、考えたいの…」




赤く染まったままの頬に片手をあてて、困ったように呟いた志織。



志織は外見は申し分ない。



中身もちょっとおっとりしているお嬢様気質。



世間の男ならば大体が、今の仕草も『かわいい』と思うのだろう。





「恥ずかしいわ…、こんなこと、、女の私から、言うつもりじゃなかったのに…」




残念ながら、俺は何も感じないけど。





「…そんなことない。言わなかった俺が悪いんだ。だけど、俺、乃々香の親代わりだから、、」





一哉の気持ちには、そのエキスを入れてあげるから。





「わかってる!だから、今は妹さんのことを優先させて欲しい…それで、、私も力になりたい。。だって、一哉の大切なヒトなんだから。」




だから、かわいいそのままで、俺に尽くしてね?




「……わかった…。じゃぁ、、、格好悪いけど…志織に頼らせてもらう…」





渋々といった感じで頷く俺に、志織の表情が明るくなったのがわかる。




「喜んで!」




合格。






「…じゃ、詳しいことはまた今度。今日は私この後約束があるから、もう行くわね?」




いそいそと鞄を肩に掛けると、志織は席を立つ。




「うん。じゃ、外まで送る」



「え、いいわよ!妹さんが居るんだから」




そう言って歩き始める志織の横に並びつつ、





「別れがたいから。」





にこりと笑いかけた。




「…もう。」




また薄く頬を染まらせる志織。




「…色々と、、悪い。」




入り口に向かいながら志織に言うと、




「何が?」




本当に何もわからない様子で訊き返された。





「だから、、その…乃々香のこと…」





「まだ言うの?一哉の妹さんの為なら、私何でもできるわよ。」





小さくガッツポーズをする志織に、素直に笑った。




本当にやりやすい女だ、と。



―あそこまでは、上手く行ってたのに。





白け始めた空を眩しく感じながら、俺は首を傾げた。




「どこをどう、ミスったのかな」




小さくなった煙草をぐりぐりと手すりに押し付ける。




さぁ、役者は揃った、なんて、ご満悦になって後ろを振り返ったら、いやに不機嫌な櫻田花音がすごい勢いで出口に向かってきたんだよな。




何がなんだかわからずに名前を呼んでも無視。




俺、何かしましたっけ?



って感じで。





想定外過ぎる動きに、一瞬ついていけなかった。



この、俺が。






その上。



なんでこんなに必死にならなきゃいけないんだと内心思いつつ、やっと追いついたと思ったら―。





その時の感触をやけにリアルに思い出して、思わず眉間に皺が寄る。





―思いっきりぶったたかれて、『気安く私の名前を呼ばないで』だもんなぁ。




まじで、あんな格好悪いこと、初体験だったな。




女に叩かれたこと、なんて。


一度もない。



…母親以外には。




歩道橋の階段を一段一段静かに下りながら、俺は乾いた笑いを漏らした。





あの瞬間、俺は勧誘失敗に気付いた。



恐らく、理由は、相手を馬鹿にしすぎたこと、だ。




どうも、櫻田花音は、ただの阿呆ではなかったようだ。




もう少し、上乗せして計算しとけば良かった。




実際は、中々鼻の利く奴だったらしいから。




だけど、あそこで退くわけにもいかなかったんだよなぁ。




何せ、志織とはもう面識があることになっていた。




「中央公園近くのグレーのマンションわかります?あそこまで」




ちらほらと眠たそうに走るタクシーを手を挙げて捕まえると、中に乗り込み、行く先を告げる。




窓の外から見えるまだ目覚めたばかりの街に目をやりながら。





あの日の午後、走り回って、網を必死に張り巡らしたなぁ、とぼんやりと思った。





どうしても、櫻田花音に会わなくちゃならなかったから。



あいつに乃々香を演じてもらわなくちゃ困るから。


だから、少し時間がかかるとしても必ずもう一度接点を持つチャンスは出来るだろうと確信していた。




だけど。




まさか。




その日の夜にもう一度会えるとは、さすがに思っていなかったけど。


俺を招いての演奏=クラブパーティーの夜。



DJとして、俺は結構知名度が高く、普段の客に加え、聞きつけたファン達も集まってきて、会場は中々の熱気に包まれていた。



俺はアナログターンテーブルを好んで使う。



レコードがかさばるんだけど、自分の思い通りに動かせることや、音の良さ、深みが出ることを理由に、できることならこれがいい。



機材は既にセットされていて、他のDJが前座って呼んで良いもんかわからないけど、まぁ、やってくれてる。





零(ゼロ)の時間に、俺のパーティーは、始まる。




それは、誰が決めたことでもなく。



本当に、なんとなく、で。



一番盛り上がり始めるこの時間に、たまたま俺がふらっと演奏するようになっただけ。




それが、いつの間にか、広まって、このクラブでの零の時間は特別な意味を持つようになった。



その流れで、俺は零と呼ばれる。




―そろそろ、か。






俺は時間を確認すると、演奏中のDJの肩を叩き合図し、誰にも気付かれないよう入れ替わった。





クラブでは、前の曲と次に掛ける曲が違和感なく繋がるように、客が途中で踊ることを止めてしまわない様に、二つの曲をまるで同じ曲が続いているかのようにミックスすることも多い。




でも俺はカットインが断然好き。


特にブレーキを使ったカットインが。



瞬時に曲を変える、この瞬間がたまらない。




俺の、音だ。って。



言葉がなくても、全員に伝わる。



久々の懐かしい場所。



そこでの演奏はまずまずで、気分が高揚しなかったと言ったら嘘になる。



昼間の出来事なんかすっかり頭から抜けて、夢中になって目の前の事に没頭していた。





「お疲れ」




2時を少し過ぎた頃、演奏を終え、他のDJや客に声を掛け合いながら、引き止められては軽い話をしたりして。



燈真にボンベイサファイアのロックでももらおうかな、とカウンターに目をやった、ら。



―あれ?



俺は一瞬視界の先の出来事を理解することができなかった。





カウンター前に立ち上がる男。



その片方は崇、だ。



んで?



その隣のカウンターに座っている女、は。




…昼間に俺を殴った女じゃないか?


あいつ、こんなとこで何やってんだ?




自然と眉間に皺が寄るのを感じながら、俺はカウンターにゆっくりと近づく。




「カノンちゃん?」




甘ったるい気持ち悪い声で、崇が名前を呼んだのが聴こえる。



べろべろに酔っ払った感じの女。



まさに、あれは崇の格好の餌食だ。





おい、昼間の時みたいに、崇のこと、殴れよ。





「行こう」





なのに。



どこか、切なげに瞳を揺らすと、手を引かれて頷こうとしている櫻田花音。






「―う「だめ」





驚いた顔をする燈真と崇に気付かないフリをしながら。





あんた、やっぱり阿呆な女だよ。





細い腕をしっかりと捕らえ、心の中で毒吐いた。





ガチャリ。



タクシーを降りて、重い足取りで家に入るとそのままベットに直行。





―あー、眠い。





元々寝不足な事が多い、俺。




だけど、寝つきも人一倍悪い。





枕に顔を埋めながら。




散々だった、あの日、この部屋で。



話し合いすら出来ない、全く使い物にならない女をどうして、奪ってきてしまったのか、と反省したことを思い出す。



クラブを出た所で、直ぐに櫻田花音は気持ち悪いと騒いだ挙句、タクシーの中で気を失い、仕方なく家に連れてきたら見事にやってくれたんだよな。



着ていた服を全部クリーニングに出して、女物の服を知り合いの店に頼んで調達してもらって、ほんと、『散々だった』以外に表わせる言葉が見つからない。





そして―




案の定寝つけずに、そのまま女の寝顔を見ながら、俺には断ったのに、崇にはなんで付いて行こうとしたんだろうと考えたが、結局理由がわからなかった。



軽い、女だと思うんだけど。



そうじゃ、なかったり。



もしかしたら、たまたま俺と会ってたあの時だけ、体調が悪かったとかで、



起きた後になれば、少しはマシな、もとい、利用しやすい女になってるかな、と思いきや。




櫻田花音は目覚めもかなり不機嫌だった。




次第に瞼が重くなる。





―このままだと上手いこと寝れるかもしれない。





俺は、いつになくすんなりと眠りに入ることが出来た。









なんだか、最近、あいつのことばっかりで。




どうも調子が狂うんだよな、と、気付かない想いを遠ざけたまま。






いつしか、夢を見ることもなく。




暗闇へと。




深い眠りへと、落ちていった。

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