空を生きる





母親の顔は、覚えてない。




家にいる男はいつも違ってた。




室内はいつも煙と酒の匂いが充満していた。



その頃は、それがなんなのかすら、知らなかった。



それが、いつも通りの風景。




時々、血が散る。




俺の、だ。



痛みがわからなくなるくらい、痺れるくらい、殴られたり蹴られたり、した。




何歳だったか、覚えてない。




いつも、隅っこで、誰の邪魔にもならないよう、誰の迷惑にもならないよう、誰にも気付かれないよう、息を潜めて座っていた。




でも、居るってだけで、邪魔らしい。





名前で呼ばれたことはない。



何故って?



名前がなかったから。



俺には名前すら、ついていなかったらしい。



空気みたいな存在なのに。



空気よりも、うざったかったらしい。




生きていること自体が、いけなかったらしい。





ゴミ捨て場に、独りで立たされた俺は痣だらけだったようで。




近所の人が通報したのか、警察に保護されることになった。




当時は、それも、よくわからなかったけど。




とにかく、背広を着た人の所に行ったような気がする。



あれは、児童養護施設の人間だったんだな、と後から知った。


俺は、生まれたことすら、世間に知られていなかった。




だから、少し騒ぎになった。





『君の、お母さんの名前は言えるかい?』





椅子に座らされて、机を挟んで年配の男が訊ねる。




答えられるわけないだろう。




生まれてから、声をかけてもらえた記憶がないのに。




言葉、なんて。




俺以外の為にあるんだと思っていた。



俺には、言葉は必要ないんだと思っていた。





人と、目を合わせることも、ほら、こんなに難しいのに。




その直ぐ後か。




電話が鳴って、付き添いで来ていた警察官が出ると、その顔に緊張が走ったのがわかった。





それから俺の目の前に居た男に何事か耳打ちすると、警察は部屋を出て行く。




残って俺を見つめる男は、優しい目をしていたが、心なしかさっきよりも少し憂いを帯びていた。






そして、静かに口を開く。






『今日から、ここで暮らさないか?』






正直、俺は、どうでも良かった。




生きていてもいなくても。




どこで暮らしても、暮らせなくても。




ただ、出されたものを受け止めていくだけだ。




そうやって、今まで来たんだ。




言葉を話さない俺は、言われることを首を縦に振るか横に振るかで済ませた。





人の輪から離れて、いつも、空を見ていた。







あれは、いつのことだったかな。




施設に入って直ぐのことだったのかな。




それとも、少し経ってからのことだったか。





いつもみたいに、施設のグランドにあったジャングルジムのてっぺんに登って空を眺めていると。





『そこに、いってもいいかな?』






下から声が掛かった。




見ると、施設に来たばかりの頃、初めて話した男が、俺を見上げていた。



男の名前は中堀といった。




大柄な体つきとは反して、穏やかな物腰と声で人に接する。




俺の金色の髪の毛は目立つから、周囲の子供が俺を遠巻きにし、いじめっ子が引っ張ったりからかったりしても、中堀は何も言わずに止めるだけで、正直俺はこの中堀が好きじゃなかった。




だけど、決まって、必ず最後に優しく言うんだよ。





『とても綺麗な色だね』って。




嘘だろって、思うんだ。




だって、母親の交際相手はどれも俺の髪の毛を至極嫌ってた。




母親自身も。




だから、俺も嫌いなんだよ。この色が。




だから、キライなんだよ、あんたも。





だから、ジャングルジムのてっぺんにいってもいいか?と聞かれたら嫌なワケで。




俺は何の反応もせずにまた空を見た。





暫く後、カン、カン、と鉄の棒に足を掛ける音が、聞こえる。





内心舌打ちをした。






『結構、高いんだね』






軽く汗ばみながら、男が俺の隣に座って呟く。





俺はちらっと目だけでそれを確認したが、すぐに逸らした。






『…君は…、お母さんに、会いたいかい?』






唐突にも聞こえるその質問にすら、俺は何も感じず、そして何も反応しなかった。


真っ青な空。



白く流れる雲。



それが、段々と赤く色づいても、



男はそこから動かずに、じっと、俺の返事を待っていた。




とうとう、俺は男と目を合わせ、



相変わらず穏やかなその表情にささくれだつ思いを感じながら。




首を横に振った。






『…そうか』





男は小さく頷き、それを受け止める。




それから直ぐに言葉を繋げた。







『…君に、、名前をあげよう』







========================



―嫌な目覚めだな。



薄暗い部屋の中、うんざりしながら目を覚ます。



片手で頭を支え、昔の記憶にひきずられそうになるのを堪えた。






「ん…奏(そう)…?」




「おはよ」




「っやだ、見てたの?ふふ」





傍らで眠る女をなんとなく見ている格好になっていたせいか、そう言われた。




別に、寝顔なんて、見てないけど。



その他の風景と変わんないんだけど。





「俺、行くね?」





心とは裏腹に、にっこりと笑って、そっとキスをすれば、目の前の女は頬を赤らめて、節目がちに俯く。






「…次、いつ会える?」





ワイシャツのボタンを閉めながら、俺はうーんとね、と考えるフリして答える。





「…また、連絡する」





背広を羽織って、支度を整え、俺は部屋を後にした。




外はまだ明け方。



街は青く染まって、夜と朝の境に居る。






「…くそ」






片手をポケットに突っ込みながら、久々に見た昔の夢と、隣に居た女に吐き気を催していた。





提げた鞄には、多額の金が入った封筒。




女って言うのは、容易く騙されて。



その力の下に支配されて。




それでも幸せなんだろうか。





愛ってなんだよ。



好きってどんなんだよ。




そんな感情、要らねーよ。



俺にはわからない。



知ろうとも思わないし、知りたくもない。




「お、零じゃん。」




角を曲がったところで、馴染みの声が聞こえた。




顔を上げると、崇が煙草を吹かしながら、向こうから歩いてくるところで。




にやついてこちらを見ている。




「…よ。」




短く返す。





「今度、ルナでDJやるんだって?いやー、何年ぶり?」





崇が懐かしむように訊ねる。





「さぁ…暫くこっち来てなかったからな…どのくらいだろ。」





曖昧に答えると、崇がバンバンと背中を叩いた。





「売れっ子は大変だねぇ!ルナにはお前のファン居すぎて困ってるんだぜ。葉月も待ちわびてるよ、今度のイベント。」





「あ、そう。てか、痛い」




俺が顔をしかめると、崇がパッと手を放す。




「あ、わり。」




馬鹿力。



崇とは、いわゆる腐れ縁ていう奴で。



施設を出る頃、クラブに入り浸っていた時に知り合った男だった。



軽くてフザけた奴だけどそれなりに良い奴だ。



女癖は素晴らしく悪い。



ま、俺も人の事言えた義理じゃねーけど。





「で?そっちの仕事も順調なわけ?」




へらへらした笑いはどうにかならないものかといつも思うけど、忠告は敢えてしない。





「まーね。ボチボチ」





「燈真(とうま)が心配してたぜ。いつか刺されんじゃないかって。」





燈真も同じつるみ仲間だが、俺等より少し年上で、世渡り上手の優男だ。



色々な法律も知っていて、中々どうして役に立つ。





「大丈夫だって、んなヘマしねーよ。」




冷えた笑いで、返した。





「…本気で好きになったりとか、しねぇの?」




崇が小馬鹿にするように訊ねる。




「ないない、あるわけない」




手で振り払うように否定すると、崇がくくっと声を立てて笑う。




「っとに、だったら関わんなきゃいいのに、わざわざリスク背負うこともないんじゃねぇの?」




核心を突く質問に、一瞬返す言葉に詰まった。



崇自身は、計算でもなんでもないんだろうけど。





「…暇潰しの…ゲームだよ」





崇に感づかれる前に、かろうじて言葉を発した。



「昔からそうだけど、零のやることはわかんねぇーわ。金は腐る程稼いでんだろうに」




やれやれ、という格好をして、わざとらしく溜め息を吐く崇に呆れる。




「お前に言われたかねーよ」




「いや、でも零には感謝してるよ?零がクラブにイベントだけでも戻ってきてくれれば、会場は華やぐからね」




舌をぺろっと出して唇を舐める崇は、最早たちの悪い狼にしか見えない。




崇曰(いわ)く、俺目当ての客を食いものにしてっているらしい。




どうぞご自由にって感じだ。




俺は何にも執着しないし、誰にも興味がないし、ただ、仕事をするまでだ。





「あ、そういやさ」




何かを思い出したのか、珍しく崇が真顔になった。




段々と陽が昇り始め、辺りは白みを帯びていく。




人がぽつりぽつりと目につき始めた。





「…何?悪いけどそろそろ、俺行かないと…」





言いかけて黙り込んだ崇を余所に、俺は腕時計で時間を確認する。




「あ、いや、その…」




慌てて崇は俺を引き止めるように言葉を繋げるが、歯切れが悪い。





「なんだよ?言えよ?」




俺は眉を顰めて、崇を見る。





「零の…父親代わりが…」




そこまで聞けば、崇が何を言わんとしているのかすぐにわかった。





「燈真に聞いたの?うん、死んだよ。」




別に言いにくいことじゃない。



胸の痞(つか)えなんてものもない。




「おま…なんでそんなに冷めてんだよ」




崇は結構熱い、いや暑苦しいタイプだから、こういう俺によく驚く。




「いや、だって、仕方ないだろ?人は死ぬものじゃん」




「そ、そうだけど…、大丈夫なのかよ?」




気遣うように、俺を見る崇に少し笑える。





「何がだよ?」




「何が…って」




崇の視線が宙を彷徨う。




「…俺、急ぐから。またな」




「あ、おいっ」




崇の横を通りぬけ、背中を向けて歩き出す俺を、崇は声だけで引き止めようとする。




数メートル先まで行った所で、俺は振り返って、切ない顔でその場に突っ立ってこっちを見ている崇に笑顔で言った。





「大丈夫だよ。俺は誰かが死ぬことに、慣れてんだ」





========================




まだ、静まり返っているグランドに入ると、靴が砂埃で汚れた。





―中堀秀俊さんが、、事故で亡くなりました。




俺の所に連絡が入ったのは、一週間位前か。






なぁ、アンタはほんと、御人好し過ぎてて、笑えないんだよ。




道端の仔猫なんか、どうせ生きてたって、親が見放したら死んじまうんだよ。




ふらふらと道路に出ちまったそいつを庇うことなんか、ないんだよ。



その為に、アンタが死んじまったら、困る奴哀しむ奴、沢山いるんじゃねぇの?





だから、俺はアンタが嫌いなんだよ。





野良猫の事なんか…




…俺のことなんか、放っておいてくれれば良かったんだから。



水色に塗られたジャングルジムは、錆だらけになっていて。



握ると鉄が手にこびりついた。





「低…」




一番頂上まで上って、思わず呟く。




もう、どのくらいここに来てなかっただろう。




子供の時に感じたてっぺんへの達成感は、大人になると残っていなかった。




何でそこに変わらずに空はあるんだろう。



他の全てのモノは、形を変え、廃れていくのに。




全部見ているような顔して、本当は何も見ていないんだろ?




だから、そうやって、いつも澄まして俺を嘲笑うんだろ?



「は…」




自嘲の笑いがこみ上げる。



でも、口の端を吊り上げる力は無い。





本当は、もっと早く、アンタに会いにくれば良かったのになぁ。



俺はアンタと顔を合わせて話をするのが苦手なんだよ。




アンタに名前をもらったあの日から。







『アオが良いと思うんだ。』





御人好しのその顔で、得意気に言ってたな。





『空を生きる、アオ。空は広くって、どこまでも続く。途方に暮れることもきっとある。だけど、生きろ。それで、青く染めるんだ。』






澄んだ、青に染めるんだ。




そうやって、君だけしか持っていない良いモノを人に分けてあげるような、人間になるといい。




―空生。





後から、俺が施設に来た時には、母親が死んでいたことを知った。




周囲の大人たちはその理由を俺に伝えることはしなかった。




だけど、今は情報社会だ。




調べようと思えば直ぐに分かる。




ついでに言えば、お節介で悪意のある奴等が、訊かなくても教えてくれる。






『お前の母親、一緒に暮らしてた男に殺されたんだってな』






知ったところで、母親への嫌悪感や女への嫌悪感が膨らんだだけで、何の役にも立たない情報だったけど。





あぁ、でも。



あの時。



アンタが俺に付けた名前の意味が、漸(ようや)くわかった気がしたんだ。




広い空は、世界であり、人で。




どこまでも広くて、続く。




その中は決して青くはない。



白くもない。



どす黒くて、雨も降る。



俺はそんな中から出てきたから。



だから、生きることに執着を感じていないけれど。




それでも。




途方に暮れるほど、苦しいことや辛いことがあっても。



生きろ。



そして、あの日二人で見ていた突き抜けるほどの青を。




陽の光の下、澄んでいる青を。




俺の青を。



お前の青で。




お前の世界を、お前の色で。



染めていけよ。




―アンタはそう、言ったんだろ?





だから、アンタと顔を合わせて話すのは嫌だったんだ。




俺は、陽の光が好きじゃないんだよ。




黒く染めても、陽に当たれば少し透けるこの髪が。





その下で光るこの髪が大嫌いだから。





陽の光の下には居たくないんだ。





俺は空みたいに青く生きてないんだよ。




生きれてないんだよ。




暗い闇に溶け込んでいたいんだ。



紛れて見えないように、息を潜めているほうが楽なんだよ。




…アンタの願ったようになんか、全然生きれてないんだよ。





だから、アンタの目を見て話すことが、ずっとできなかった。






だから、この名前が、俺は嫌いなんだよ。

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