日曜日の偶然






タイムリミットまであと7日







彼氏が居ない時の日曜日の朝は、大抵ゆっくり二度寝を楽しむことにしている。



でも必ずと言っていいほど、寝すぎてしまい、だるくて一日何もやる気が起きず、ダラダラとテレビを見て終わる。



そして夕方の子供向けのアニメが始まると、明日からまた一週間が始まるのかと憂鬱になる。





「…今日は…出掛けるか…」





案の定身体がインプットした時間に起きてしまった私は、ベットからむくり、起き上がった。



確かティーバッグを切らしていた。



あと、冷蔵庫の中に野菜がない。



いや、肉もない。




つまりは。




食べる物がない。






買い物は面倒臭い。



サプリメントで人間生きていけないものか、と時々考える。



だけど、やっぱり美味しいものを食べたい気持ちもある。





「気分転換にもなるかな…」




テレビのリモコンをコロコロ変えながら、呟いた。




昨日のことが思い出される。



正直、あまり良い気分ではなくて。



重い鉛でも飲み込んでしまったかのように、鳩尾(みぞおち)の辺りがずーんとしている。




宏章に未練は少しもない。



だけど、昨日の一件で、余計ぐちゃぐちゃになった気持ちを整理する気になれない。



突き詰めていってしまえば、後戻りできない気がして。






ちょっとのんびり朝ごはんして、洗濯掃除を済ませると時計の針は10時少し前を指している。




「これでいっかな。」




いつもは垂らしてある髪をシュシュで高くまとめ、あったかいマフラーを巻いて、グレーのコートを羽織った。



鏡を見ながらシャネルの口紅を引く。



お気に入りの一本は、自分本来の唇の色に一番近いものを選んでもらったもので、不自然じゃない上、とても可愛い色なのだ。



財布や携帯、エコバッグなど持ち物をチェックしてハンドバッグに詰めると、黒いロングブーツを履いて家を出る。





「とりあえず…帽子、欲しいな」




鍵を閉め、私はひとり呟いた。




外出の際に、ふわふわで温かい帽子が必須な気がしているからだ。



特に今年の冬は。




スーパーは荷物が多いから、一番最後に寄ることにして。




とりあえず、駅に出るか。




相変わらず寒い北風から顔を隠すようにマフラーに埋(うず)め、歩き出す。





これだけ寒いと、頭の中も冷えて空っぽになる。




でも気がつくと、いつも中堀さんのことを考えて、胸を苦しくさせている。





悪循環。





深入りはしない、って決めたのにも関わらず、ドツボにはまった感じ。




陽の光を受けて透き通る髪の感触が、まだ指先から消えてくれない。




同時に、宏章に掴まれた肩に出来た痣が痛む。





以前の自分なら、喜んで宏章とまた付き合ったんだと思う。




寂しさを埋め合わせる為に。




なのに今自分が、そんな考えを微塵も持ち合わせていないことに気付く。




多分、中堀さんと出逢ったからだ。



あの人が良い、と想ったからだ。




「あーあ…」




不毛な上に、持ち続けると有害な気持ちにどうしていいかわからず溜め息を吐いた。




そして、ふと立ち止まり、辺りを見回す。





「はっ!」




私は人目をはばからず、思わず驚きの声を漏らした。





なんで、ここに?




私ってなんて間抜けなんだろう?




無意識にポケットに突っ込んだICカードを確認。




習慣というものは恐ろしいもので。



更に言わせてもらうとすれば、考え事も禁物だ。



なぜなら、私のように日曜日にまで会社に来てしまうような輩が現れてしまうからだ。




しかも来たくもないのに。






「自分自身が信じられないよ…」




心底呆れ果てて、なんだか元々無かったやる気も失せる。




仕方なくもう一度駅まで戻ろうとして―




ある案が思い浮かんだ。





「そういえば…あの、お店行ってみよっかな。」




中堀さんと一番最初にランチしようか、と誘われて入ったものの、何も食べる事無く出て行った隠れ家レストラン。




あれからなんとなく避けて通っていたので、結局一度も行っていない。




でも、ちょっと興味ある。




あんまりお腹空いてないけど。




ここから近いし、美味しかったら、憲子にも教えてあげようっと。






全体的に黒っぽい、無愛想な建物は、当たり前に同じ場所にあった。



教えてもらわなければ、ここが食べ物を売っている所だとは思えない。



まず、入ろうだなんて考えないだろう。



どこかの会社か、はたまたちょっとお洒落な御宅か、謎の建物だ。





一体何ていう名前のお店なんだろう。





頭の中でこのお店の名前予想をたてながら看板のない黒の扉に手を掛けた。






「いらっしゃいませ」





こないだとは違う店員さんが、お辞儀をして迎え入れてくれる。



お昼よりも少し早めの時間だったせいか、お客は比較的少な目で、席にすんなり案内してもらえた。





先日はカウンターだったけど、今回は小さめのテーブルと一人掛けソファというお一人様席だ。






「あれ?もしかして…カノン、ちゃん?」




メニューを手にとってどれにしようか悩んでいると、隣から声が掛かる。




「―え?」




私は誘われるようにして、振り向いた。





「あ。」





さぞかし私は驚いた顔をしているだろう。



そして隣で同じように驚いている表情をしているアッシュブラウンの髪の顎髭優男。





「…トーマ、さん…」





なんて偶然なんだ。




まさか、こんなところで、彼に会うとは。





トーマさんも、私と同じようなお一人様席で、コーヒーを飲んでいた。



手には読みかけの文庫本がある。





「お昼ごはん?ですか?」





手付かずのベーコンエッグマフィンが白いプレートにサラダと共に盛られていた。





「ううん、ブランチ。俺、朝弱いんだ。」





トーマは、少し罰が悪そうに笑った。





「カノンちゃんはランチ?」





「あ、はい。ちょっとここのお店、気になっていたので…」





「そーなの?…じゃ、注文まだなのかな?」






頷くと、トーマは躊躇いなく店員を呼んだ。





「適当におすすめ、色々持ってきてあげて」




急いでやってきた店員に、トーマがそう一言告げる。




「はい」




店員は返事をして、直ぐに立ち去った。





「あの―…?」




そんなやりとりを真横で見つつ、首を傾げる私。





「…こないだは、大丈夫だった?」





そんな私を知ってか知らずか、トーマは少し困ったように訊ねた。






「…え?」





一瞬、何のことだかわかなかったが、直ぐに思い当たる。





「そっ、その節は、あの、その、なんといいますか、お見苦しい所をっ、す、すみませんでしたっ」





あたふたしながら、私はメニューをテーブルに放り出してトーマに謝った。





「いや、謝るのはこっちでしょう。…タカの悪い癖なんだ。」





トーマは更に眉を下げて肩を竦めた。





「俺の酒を飲みに来る客に声掛けちゃ、毎回あんな感じだからさ。だけど…今回は随分とお気に召したようだね。」





頭を下げた姿勢から、伺うようにトーマを見上げると、彼はにやっと笑った。





「カノンちゃんに会いたいって騒いで五月蝿いよ。おかげでカウンターに誰も寄り付かない。」





楽しんでるんだか困っているんだかわからない表情でトーマはわざとらしく溜め息を吐く。




絶対前者だけど。




返答に困り、私は再度床と対面した。




だって、中堀さんにもうクラブに行っちゃいけないって言われたし、正直タカとは合わす顔もなければ、会いたくもない。




「零も来なくなっちゃってねー。へそ曲げちゃったみたい」





トーマがのんびりと続けた言葉に、私は心が痛む。





違うんです、そうじゃないんです、こないだ休んだのは私がご迷惑をお掛けしたからなんです。





床を見つめつつ、心の中で思うが、口には出せない。






「カノンちゃんはどっちを選ぶのかな?」





突然の思ってもなかった質問に、がばっと顔を上げた。




頭の後ろで手を組みながら、トーマはやっぱり面白そうに私を見ている。






「別にっ、ど、どっちも選びませんっ」





私は全力で否定して、それから小さく付け足す。




「と、いうか、選べません…」





申し訳ないけどタカのことは眼中にないし、中堀さんは振り向いてもくれない。




「失礼致します。」





ちょうどそこへ、店員さんが来て、私のテーブルにパスタとバゲット、スープ、コーヒー、サラダ、等々が次々に並べられていく。





「え、これって…?」






頼んだ記憶のないものたちに、私はただ瞬きをぱちくりと繰り返していた。





「それ、俺の奢り。俺のお店に来てくれてどーもありがとう」





店員さんがお辞儀をして立ち去った後、トーマがニコニコしながら言った。






―俺の、お店?





直ぐには理解できなかった、が。






「えーー!トーマさんのお店なんですか?」





余りの驚きに出た声が裏返った。





「うん。たまに来てね。ま、俺はただのオーナーだけど。」






トーマさんって一体何者?




自分の頭の中で驚きがエコーし続けているのを感じながら、目の前の料理にごくりと唾を飲んだ。





「まぁ、それは置いといて。俺、内心驚いてるんだよね。」





テーブルの上に頬杖を突いて、トーマが呟くように言った。




「―え?」




既にフォークを手に取りちゃっかりいただきますの姿勢で私は聞き返す。





「零はあんなだから、特定の物や人に執着することがないんだ。来る者拒むし、去る者は追わない。」





トーマが何を言わんとしているのかわからず、私は無言で湯気の立つペスカトーレにフォークを突き刺した。





「零とカノンちゃんはどこで知り合ったの?」




まさに赤いパスタを口に運び込む直前で、トーマが訊いてくるもんだから、私のお腹は残念がっている。




「え、えと…、駅、から…会社に行く途中で、、ぶつかって…あ、私の勤めている会社、すぐそこの、、なんですけど」




それでもフォークを下に戻すこともできず、宙に浮かせたまま、かろうじて答えた。




「へえ、そうなんだ…?俺興味あるんだよね。零は今までどんなことがあろうと、自分の実名を教えたりしなかったしそれに…」




お、その先は、パスタよりもちょっと興味があるぞ。




「それに?」




今度こそ、私はフォークをお皿に戻して、きちんとトーマを見る。




なんてゲンキンな女なんだ、私。






「自分のターゲットだろうが、誰だろうが、タカに靡いた女をわざわざ取り戻すなんてことは、一回も見たことがないよ。多分…タカもね。」





「…?それって…?」





どういうことだろう。私は首を傾げる。






「だから、他の男に行った時点で、零はアウトなんだよ。どんな理由でも、どんな状態でも。別に最初から好きでもなんでもないんだけど、他に行ったらアウト。ターゲットでもなんでもなくなる。赤の他人。」





へ?





益々わからない。







「潔癖、っていうのかな。触りたくもないっていうか…興味が失せるんだよね。なのに、カノンちゃんに限っては、初めてクラブに来た夜、タカを止めてる。タカが驚くのも無理はなかったんだよ。」







今度こそ、私はパスタをくるくると丸めて口に放り込みつつ考えた。





つまり?




私は、特別?ってこと?



え、え、そう思ってもいいのかな?




だめだめ、口が緩んじゃう。






「でも、さすがに、あの夜のタカのあれはないでしょう?タカもよく零相手に喧嘩を売ったよね。」




一人ムフフとほくそ笑んでいる私に気付かないまま、トーマは続ける。




「あれから、零はどうしたのかな?もうカノンちゃんにちょっかい出すの、止めたかな?」





またしても、話を振られて若干咽(むせ)た。





「あ、ごめんね?ゆっくり食べれないよね?」





眉を下げて、こちらを見ているけれど。



ぜ、絶対わかってる気がする。


というか、私の反応を見て、楽しんでいる風だ。


完全にからかわれている。



それとも、天然?



私にはイマイチトーマさんの性格がつかめない。




「いや、あの、、その…普通です、、ふつう」





グラスに注がれた仄かにミントの香りがする水を飲んで、平常心を装いつつ答えた。





「本当に?あれでも、零はひかなかったってこと?」





予想外の返事だったらしく、トーマは心底驚いている顔をしている。





「…益々面白いね。」





独り言なのか、私に言ったのか、わからないけれど、呟くとトーマは席を立った。





「これからまた用事があるから、俺はもう行くけど。カノンちゃんはゆっくりしてってね。あと、たまにはクラブにも顔を出してくれない?タカが喜ぶ。」





そう言って、トーマはテーブルの脇をすり抜けて行こうとした。





「あっ、ご馳走様でしたっ。あの、でも、私、もうクラブには行けません…」





その背中に届くようにと、私は少し声を張り上げる。




「え?」




どうやらちゃんと届いたようで、その証拠にトーマが振り返った。






「…いけないってどういうこと?門限でもできたの?」




少し茶化すように、トーマは笑う。




「いやっ、そういうのじゃないんですけどっ…中堀さんが…」




私が言いかけると、トーマは途端に真顔になった。





「…零が…?」





「あ、と…はい。」




その変化に、言ったら不味かったかな、と思うが、もう遅い。




「…クラブには、、もう来るなって」




トーマが目を見開いたのがわかる。




そして暫くの沈黙の後。




「……へぇ」




トーマはそう言うと、またにこっと笑う。




「じゃぁ、仕方ないね。」




ひらひら手を振って、何事もなかったように、トーマは店を出て行った。




「なんだろ…?」



私は一人、トーマが出て行ったドアを眺めつつ、呟く。



何かが引っかかる。



それが何かはわからないけど。




とりあえず。




「いただきまーす」




目の前の少し冷めてしまったおいしそうなゴハン達。



待たせてしまってごめんね。



やっと、私は何も気にせずに、フォークを動かして、美味しい料理を口に運ぶことが出来た。




自分の知らない所で何かが、動き始めていることに気付くことのないまま。



私は悠長に、料理を堪能していた。



ピリリ辛いスパイスが、隠されていることも知らずに、中堀さんにとって自分は特別なんだと、甘い余韻に浸っていた。




========================




「お待たせー」




駅ビルに移動した所で、憲子と合流することになった。




お腹が満たされている私はカフェに入ることもできずに、ベンチに座って待っていたのだけど。





「むしろ早いよ。」





苦笑交じりに立ち上がる。





「だって、すぐそこにいたし。早く聞きたいし!」





いつもよりずっとカジュアルな服装の憲子は、ここの近くのお店に用事があったようで、帰りに私の家に寄るつもりだったらしい。




デザートまでご馳走になって至福の一時を過ごしていた私の所へ、『これから行くね』とメールが届き、いやいや、近くにいるよって話になって、今に至るというわけだ。





「彼氏がいない花音も、出掛けることがあるのね。しかも会社に、だけど。」




小ばかにしたように笑う憲子に、私は頬を膨らませる。





「馬鹿にしないでよね。私だって、買い物くらいするわよ。」




二人で、お店を物色しながらぶらぶらと当てもなく歩く。





「ちょっとあったかい帽子が欲しいなって思って。」





店頭に飾ってあるマネキンが帽子を被っているのを見つける度に、自分の頭にのっけてみるが、どうもしっくり来ない。





「まぁまぁ、帽子なんか後回しで良いからさー、こないだの金曜日、どうだったの?」





本当にどうでもよさそうに私の帽子選びを横で眺めながら、憲子が訊ねる。



憲子はこの話がしたくて、私に会いに来るつもりだったらしいから、仕方ないんだけど。



何より私はお腹がいっぱいだから、座って甘いものでもというわけにはいかないし。




だけど、こういう話は何かをしながらでは、上手くできない。




「んー、あの日、私さー…熱、出しちゃっててさぁ…」




被った帽子をマネキンに戻すことに悪戦苦闘する。




「え、熱?やっぱりまだ治ってなかったんだー。雪降ったし、寒かったんじゃん?」




憲子がそんな私から帽子をひったくって、マネキンにすぽっと被せた。



中々どうして、上手いものだ。




「私馬鹿でさぁ、会社から歩いてったの。」




「本当に?馬鹿だねぇ。生粋の馬鹿だ」




「…五月蝿いな。熱でどうにかなってたのよ。」




「…で?歩いてってどうしたの?」




話ながら、今度は自然派の基礎化粧品のお店で足が止まる。




「えーと…歩いてって…えと、あ、そう。中央公園で口論している二人に会って…」




ここで私は酒粕を使用した化粧水を手にとって黙る。




「もう!わかった!花音!」




痺れを切らした憲子がついに私の肩をがしりと掴む。




「いたっ」




「え?」





顔をしかめて、肩をさする私に憲子が意外そうな顔をした。






「ごめんね、私そんなに強く掴んだつもりは…」




「違うの。」




申し訳なさそうに、謝る憲子に私は首を振る。




「これは…違うの。」




コト、と静かな音を立てて、化粧水を元にあった所へ戻す。



暫し神妙な顔つきで、そんな私を見つめていた憲子だが。




「ねぇ、提案なんだけど…家に来ない?」




突然、言い出した。





「え?」




「だって、ここじゃ気が散ってしっかり話せないでしょ?かといってカフェはお腹がいっぱいで駄目なんでしょ?だから!もう家に来て洗いざらい全部話して!」




最初からそうすれば良かった、と憲子はぶつくさ呟いている。





「え、でも私の帽子は…」




「それはまた今度!もしくは必要ないんじゃない?電車通勤なんだし!」




ぴしゃりと打ち消されて、私の久々のショッピングは終わりを告げた。



といっても食材は皆無なので、帰り道に近所のスーパーにはいかなくてはいけないんだけど。




「そうと決まったら、さっさと行くよー!」




憲子は自分勝手に物事を進めて行っている。




私は呆れながらも、頷いて憲子の後に付いて駅ビルを出た。





「さむいっ」




外は半分曇りで、半分晴れている。





憲子の家の最寄り駅は私の家とは路線が違うので、地下鉄に乗る必要がある。




いつもとは違う方向に歩き出しながら、そういえばクラブも比較的ここから近いんだよなぁ、なんて思いながら。





ざわざわする胸に、違和感を覚える。





「?どうかした?」





ペースを落とした私を振り返って、憲子が首を傾げた。





「…ううん。なんでもない」





自分でもわからない何かを振り払いながら、私は返事をする。




「ふーん?」





憲子も別段気にした風もなく、前に向き直った。




「そーいえばさぁ…」




今度は何かを言いかけた憲子の動きが、止まった。





俯き気味に歩いていた私は、突然停止した憲子に目をやる。




「?何…」




憲子が真っ直ぐ視線を向けるその先を、つられて辿った。





「あ…」





ここから少し離れた所にあるクラブ。




その入り口には少しの段差。




そこに座る、、、金髪の彼。




カーキの深い帽子を被っているけれど、間違いない。





そして―



今しがた。



その首に抱きついた、黒髪の、、、、女の子。




私の知っている本当の彼と。



私の知らない女の子。




「なんだ…やっぱり他にも女がいたんじゃんね、かの…」




憲子が振り向きざまに言いかけて、口を噤む。




「花音?」




もう一度、名前を呼ばれるけど。




正直、もうそんなのどうでもいいや。




「…ごめん、、やっぱり今日は帰る」





「花音!?」




私は踵を返して、今来た道を駆けて戻る。



憲子には、多分バレた。



だって、仕方ないよね。



勝手に涙が溢れて来るんだもん。



考えるより先に、私の身体があの人を好きだというんだもん。




何も特別じゃない。



私は何も特別じゃない。




何をはしゃいでたんだろう。



幾つもの偶然が重なっただけで。



やっぱりただの詐欺師に騙されているだけなのに。




頭ではそれを理解しているのに。




心は甘い麝香に完璧に捕らわれてしまった。




「はぁっはぁっ」




無我夢中で走ったために、酸素を求めるが、空気が冷たいせいで肺に刺さる。




ぽろぽろ流れていく涙は、温かいのにすぐに冷えて頬に張り付く。



何処へ、なんてことは考えていなくて。




頭の中に浮かぶのは、さっき見た光景で。



それを消し去りたくて、がむしゃらに走った。




深く関わらないで居るなんて無理なことだ。



だって、深く関わりたいんだ。



もっと知りたいんだ。



とっくにそんなことに気付いていたのに。



気付かないふりをしていれば。



いつかこんな想いは風化するものだと思っていた。



あと、少ししか、一緒に居る時間は残されていないのに。




もっと、貴方と居たいのに。



この想いは届かないのに。



相反する気持ちを常に持っていた。




好きじゃないと思うのに、もしかしたら特別に思ってくれているかもしれないという期待。






「危ないっ」





走り続けて居た所を、後ろから引っ張られて私はその痛みに顔をしかめる。



大勢の人たちが周囲に居るのを見て、あぁ、ここは横断歩道だったんだと理解した。



そして、進行方向は赤で、車が次々と通過していく。



それに気付いたからといって、謝ったりお礼を言う気分でも状態でもなく、私は肩で息をしながら引っ張った相手を振り返った。





「………な、…なんで…?」






あまりに驚いて言葉が出てこない。



だって。




なんで、ここにいるの?この人。




さっきまで、あそこに居たのに。




私を悩ますこの人が、なんでここにいるんだろう。




信号が青になって、周りの人たちが動き出し、その場に誰も居なくなっても、私も相手も、動かないで、ただ見つめ合っていた。





「…お前って、、ホント、世話の焼ける女なんだな。」




暫くして呟かれた言葉。



中堀さんも、私の腕を掴みながら、少し息を乱している。





「なんで、泣いてんだよ?」





―あぁ、どうしよう。




涙は今更止まってくれない。




だけど、上手い言い訳も思いつかない。




でも言ったらきっといけない。



ここで言ったら、今までもこれからもきっと無くなってしまう。




なのに―




「あ、、、あなたがっ……」





胸だけが熱くって、手は震えている。




まずい、頭では理解しているのに。





「欲しいんです…」





口からするりと落ちてしまった言葉。




これだけしか、私のココロにはもう、残っていなくて。



それしか、なくて。


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