宣戦布告


タイムリミットまであと9日












金曜日―




am 6:00






「…やった…」





私は珍しく携帯のアラームが鳴る前に解除してやったことに、深い達成感を覚えていた。




咳はまだ残るものの、熱は下がっている。




いそいそと窓に近寄り、カーテンをばっと開ける。




まだ朝日が昇り始めたばかりだが、明るくなりかけた空に、雲は見えない。




きっと、今日は快晴だ。




私はケトルを火に掛けて、お湯が沸くまでの間、洗面所で顔を洗った。




気合を入れる為に敢えて冷たい水をざぶざぶと使う。





「ふー…うしっ」




パンパンッと顔を叩き、鏡の中の自分と向き合った。





―昨日の自分は熱でどうかしてた。



「なかったことにしてください」



自分で自分に頼み込む。



だって。



憲子の言うとおりだ。



こんな状況は明らかにおかしいし、何しろフェアじゃない。



未だにもやもやするこの感情。



だけど、持っていても健康には良くなさそう。




彼に随分流されてしまったけど、



今ならまだギリギリ引き返せるラインだと思う。




支度を整えて玄関を出ると同時に携帯が震えた。




「誰だー?」




鍵をがちゃがちゃ言わせて閉めた後、急いでコートのポケットに手を突っ込む。




「はいはい!」




表示を確認せずに、通話ボタンを押して耳に当てた。





『おー、元気になったみたい?声は嗄れてるけど』





ドキリ。




冷たい風に耳がじんとする。




さっきまで感じていたそれが、急に静かになった気がした。





「なか…ぼり、、さん…」




『違うな。お兄ちゃん、だろ?』




少しのからかいを含んだ声。




『ケホッ…今夜、志織と出かけるんだけど、乃々香も一緒に行く?』




私はどもりつつも、急いで答える。





「いいいかない!」





行かなくて良いなら、誰が行くか馬鹿!と心の声を大にしながら。





『んーん、行くの。』




楽しそうに笑う声が続けて聞こえた。




なら最初から聞くなよっ。




がくっと携帯を片手に、その場に脱力する。





『なんだけど、ね、今回は俺等は最初に食事とか済ませていくから。乃々香は途中で会うことになるんだ。偶然を装ってねー。』




「ちょ、え、どうして?」




『あれ、一緒にご飯食べたかった?』




「ち、違いますっ」




『ま、そーいうことだから。そうだなぁ。今夜8時40分頃、中央公園の噴水前の歩道を、銀行側から歩いてきてくれない?』




中堀さんは、私の疑問を無視して、どんどんと注文を付けていく。




『何があっても、声を掛けるのを躊躇ったり、素通りしたらいけないよ?じゃ、よろしくねー』




「だからっ、どうっ」




私は信じられない思いで携帯の画面を見つめる。



もう誰とも繋がっていない電話。




「…質問に答えろっての」




私は苦々しく呟いて、ゆっくりと携帯を閉じた。




溜め息をひとつ、吐いて、私は歩き出す。



こんな風に、一方的な彼に本心を聞き出すのはきっと難しい。



真っ直ぐに好きだと伝えたって、はぐらかされるか、冷たくあしらわれるか、笑い飛ばされるか、無視されるかのどれかだ。



ましてや、今まで一度も人を好きになったことがないと豪語する男だ。



万に一つの可能性もない。



だから、気持ちには蓋をする。



この変な関係が終わりを告げて、時間が流れれば、少しは風化するだろう。



また違う誰かを好きになって、その内、あぁこんな人もいたなぁなんて思い出になる筈。




========================




「あぁーら、お体のお加減はいかがぁ?」




最悪だ。



会社について着替えを済ませ、更衣室から出た所で、お局に出くわした。




「けほっけほっ…ご迷惑、お掛けしました。熱は下がったので、大分良いです。」



会釈して、横を通り抜ける。




椿井さんは、いつにも増して真っ赤な口紅を塗りたくっている。



口裂け女みたい。




「それは良かったわぁ。本当に風邪だったみたいでぇ。お兄様にもご迷惑お掛けしちゃ、だめよぉ」



「え?」




オフィスに歩き出していた足を止めて、私は振り返った。



最初の嫌味は聞き流したが、最後の語句は聞き捨てならない。






「携帯で助けを求めたくせに、掛けなおしても出ないなんて、本当にお兄様大変だったんじゃないかしらねぇ?」




最大限に嫌味を言っているようだが、私にはその意味がわからない。




「…あの、すみません。そこをもう少し詳しく教えていただけます?」




「はあ?」




私の不可解な行動に、椿井さんは眉を顰める。




「えっと…兄は、、ここに来たんですか?」




「あら!お兄様、もしかして貴女に言わなかったの?ほんっとに優しい方なのねぇ」




ツヤツヤ光るグロテスクな唇に軽く掌を当てる彼女。



お願いなので、その手でパソコンのキーボードに触らないでくださいね。と密かに念じた。




「昨日、櫻田さんが休んだ日、受付にお兄様が会いにいらっしゃったのよ。『携帯で呼び出されたんですが、途中で途切れて繋がらなくて』って。それでこっちに電話が掛かってきたんだけど、貴女お休みでしょう?お伝えしたら、『具合が悪かったんですね。』と心配そうにしていらしてね。お仕事の手が空いたら行って見るって仰ってたのよ。」




あぁ、本当に素敵なお兄様だこと。



このお局まで、まさか味方に付けるとは。




「…そう、ですか。ありがとうございます。。」



同じ血が通ってるなんて思えなーい、とさらに嫌味のオンパレードをしている椿井さんに一応お礼を言って、背中を向ける。




急いで携帯を開き、着信履歴を調べた。




「…あった…」




山のような憲子からの着信で、気付かなかったが。




確かに、木曜の朝。



5時13分に。



中堀さんからの着信があった。





恐らく。



この電話に出ず、挙句電源を落としたりしていた私のせいで、中堀さんは会社までご足労し、私が風邪で休んでいることを知ったのだ。




「…だから、家にきた時わかってたのか…」




納得して小さく頷きつつ、総務課のドアを開く。




―あれ。



私はふと疑問に気付く。




昨日は何の用事で来たんだろう。



私が寝込んでるなら、任務遂行は難しいこと、わかっていただろうに。



わざわざ、家まで来てくれなくても良かったのに。



クラブにもうくるな、ということを伝えにきたのかな。





「おはよう!花音、もう大丈夫なの?!」




ぐるぐる考え込んでいる私の傍に、先に出勤していた憲子が飛んできた。




「あ、おはよう、憲子。昨日はありがとう。大分、よくなった。」




マイボトルとバッグをそれぞれデスクに置きつつ、憲子にお礼を伝えると、




「ま、良かったよ」




憲子はやれやれと肩を竦めて見せた。




「…あと、忠告も。…私、ちょっと昨日は熱でおかしくなってたみたい」




私は椅子に腰掛けながら、少しの反省を籠めて呟く。




「え、それじゃ―」



言いかけた憲子に頷いて見せた。




「深入りはしない」




「…本当に、できるの?」




真剣な表情で返してくる憲子は、私の決意の程を推し量っているみたいだ。




「あと9日経てば関係なくなるんだし、なんとかなるよ。」




私は重い雰囲気から脱するように、わざと明るく言いながら、パソコンを立ち上げる。




「おはよう」




ちょうどそこへ課長が出勤してきたので、憲子との会話はそこまでとなった。




「…本当に、関係なくなればいいんだけど…」




苦虫を噛み潰したかのような顔で呟かれた憲子の独り言は、メールチェックし始めた私の耳には届かなかった。





―昼休み。





「え、じゃ、中堀さん会社まで来たって事?」




今日は二人ともそれぞれ手作りのお弁当を持ち寄って、陽の当たるカフェテリアでつついている。




椿井さんに朝言われたことを憲子に話すと、驚いたように箸を動かす手を止めた。




「クラブに行ったこと、そんなに嫌だったのかなぁ」




里芋の煮転がしを口に放り込みつつ、私は呟く。




「うーん…なんか、中堀さんて、イマイチ掴めない人よね」




難しい顔をしながら、憲子が溜め息を吐いた。






本当にその通りなので、私は大きく頷いた。




「…厄介な人と関わったよねぇ。なんだっけ、一番最初会ったのって…」




「駅から会社まで歩いて行く時にぶつかった時。」




私の答えを聞いて、憲子はうーんと考え込む。




「…本当に偶然だったのかな」




「え?それ、どういうこと?」




ちょっと里芋まだ硬かったなぁ、なんて頭の隅っこで思う。




「いや、ただ、なんとなくそう思っただけ、だけど。…とにかく。今夜のそれもよくわかんない要求だけど、頑張って乗り越えて早くおさらばしなさいね!」




意味深な言葉を未解決にしたままで、憲子は弁当箱に蓋をした。




========================



来ないで欲しいと思うと、大概時間は早く過ぎていってしまうもので。




「…はぁ」




パソコンの画面から目を放し、デスクに片頬をくっつけ、壁に掛かる時計を見た。




時刻は20時になった所だった。



オフィスにはまだ数人が残っていて仕事をしている。



憲子は裕ちゃんと約束があるらしく、先刻名残惜しそうに帰っていった。



会社から中央公園までは、少し、ある。



大体歩いて15分位か。



それでいて噴水広場は恋人たちのデートスポットでも有名だ。




正直、行きたくない。




溜め息も零れるというものだ。





でも、そろそろもうでなくちゃいけない。



身支度もあるし。




「…お先、失礼します。」




パソコンの電源を落としてから、身の回りを整頓し、ちらほらと残る人たちに声を掛けると、「お疲れ」が返ってくる。




更衣室に向かう足取りも重たい。




「いきたくなーい…」




鏡を見ると、冴えない顔した自分が映る。




心なしか、青い気がする。




「やだ、緊張してんのかな」




言いながら咳が出た。





「寒い…」



この冬一番の冷え込み、という天気予報の為に、沢山着込んできたのだが、足りなかったらしい。



会社の外に出て、その事実をはっきりと確信した。



腕時計に目をやると、長い針は23分を指している。



ちょうどいいかも。



マフラーに顔を埋め、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。



そういえば。



ふと気付く。



中堀さんと会った日から、今日で一週間か、と。



早いもんだな、と他人事のように感じた。




心を奪われてしまう時間としても、早い。



例えば、これが芸能人だったら。



本気で好きだ、なんて、私は思わなかっただろう。



憧れと好きの境で悩むことなんて、なかっただろう。



ある意味芸能人以上に手の届かない人なんじゃないかとは思うけど。




「あれ」





目の前をひらりと落ちていく物体に、思わず驚きの言葉が漏れた。




周囲を見回すと、幾人かの人たちも私と同じように空を見つめている。




「雪だ…」




道理で寒いワケだ。



牡丹雪っていうんだろうか。



花びらみたいに大きな雪片がひらひらと舞う。





チッ


心の中で舌打ちする。



どいつもこいつもカップルばっかり。



私は下を向いてまた歩き出す。



さっきよりも少し早めに。




実際はわかってる。



恋人っていう甘い響きが、実は苦くもあること。



それぞれ秘密を持っていて、相思相愛なんて滅多にないこと。



だけど、やっぱり女の子だから。



夢を見ちゃうんだ。



それくらい、許されてもいいかなって思うんだ。





王子様とか、自分だけのヒーローとか。



誰かが夢見てたら笑っちゃうんだろうけど。



でも絶対誰もが、そんな人が居たらいいなって思ってるんじゃないかな。



中堀さんは、私にとってまさに理想通りの人で、これで性格があんなんじゃなくて、もっとまともな人だったら間違いなく堂々と好きだと言っていることだろう。



むしろ、もっと前に出逢えていたなら。



彼も私も、こんなんじゃなかったのかな。



夜道をひとり歩きながら、そんなとりとめのないことを考えた。





今より強くなるわけでも、弱まるわけでもなく―



雪はただ静かに降りてくる。



「あ、39分だ。」



銀行前で手をポケットから出して時間を確認して、本当にぴったりな私の足の速度に驚く。



中央公園はもうすぐそこに見えている。



10分ごとにされる噴水と光の演出が、そろそろ始まる頃だ。



胸をどきどきさせながら、私は噴水広場に向かって歩く。



広場は赤い煉瓦でできていて、植木と同間隔でベンチがある。



その真ん中に位置する、煉瓦が囲う噴水。



暖かな色の白熱灯が辺りをロマンチックに照らす。



いつもは恋人たちで賑わうその場所は、雪のせいか閑散としていた。




だから。



一目瞭然で、わかる。



言い争っているように見える恋人が、誰なのか。




噴水は幻想的にライトアップされ、高くなったり低くなったりしながら雪と共演している。



私はその広場に入る少し手前で立ち止まって、噴水のまん前で言い合う男女を見つめた。



正確には言い合っては居ない。



一方的に、言っている。



合間に聞こえる、咳払いの音。




―中堀さん…何やってるのよ。。





かなり声を掛けるのを躊躇う状況だが。






「なっ…じゃなくて…おに、おにーちゃん!!」





勇気を振り絞り、私は叫んだ。




わざとらしい程に、ピタリと声が止み、辺りを水のシャラシャラという音だけが満たす。



赤から黄色へと変化した噴水のライトが、眩しい。




「………乃々香?」




怒りを含んださっきまでとは違い、完全に不意をつかれた人のような声で私、じゃなくて妹の名前を呼ぶ、嘘兄、中堀さん。




「え?」



こちらに背を向けていた女性も振り返って私を見た。




「の、乃々香ちゃん…」




今日も輝かんばかりに美しさを放つ志織さんは、表情に若干の陰りがあるように見える。




「こんな寒い中!歩いてきたのか?」




3メートルくらいの距離を縮める嘘兄は非難めいた言葉を当ててくるが。



指示したのはアナタでしょうよ。



「家に帰る時はタクシーを使えっていつも言ってるじゃないか。連絡くれれば迎えにだって行ったのに。」




私の目の前に来て、はぁ、と軽く頭を抱える彼にふと気付く。



あぁ、そう言えば。



ここは、中堀さんの家に近かった。と。



隣の駅の最寄だし。




そう考えると失敗した、と思う。



私の会社から駅まで徒歩5分程。



電車で来れば良かった。



あ、だけどそうするとこの公園の前を反対側から通ることになるわけで。



銀行側から歩いてこなくちゃとばかり考えていた私は、やっぱり正解だったのか?



いやいや、駅の反対側に降りて回り道して歩いてくればよかったのか。



じんじんと冷えきって痺れてる足。



目の前には困った顔して怒る兄。



えー、、と。




「ごめんなさい…」




多分、中堀さんは私がまさか会社から歩いてきたとは思っていないだろうけど。




謝罪の言葉と共に、咳が続いた。




「…あら?もしかして…乃々香ちゃんも、風邪ひいてるの?」




嘘兄の後ろに、少し距離を置いて立っている志織さんが半分気遣うように、半分疑問系で言う事に私は首を傾げた。




も、って何?



困惑した顔を、私に面と向かう中堀さんに向けると、彼はにやっと笑った。




「乃々香が先。俺が伝染されたんだよ。同じ家だから、仕方ないけどね。その分乃々香は軽くなったんじゃない?」




声だけ聞けば、淡々とした口調にしか思えない。




だけど。



私の目に映る彼は。



艶っぽく笑っていた。




「そうなのね、お大事にね」




志織さんは優しく言った。




う、薄暗くて、助かった。




北風万歳。




一瞬で真っ赤になった私の顔を急速冷凍してくれるから。




中堀さんの影になって、私の顔は志織さんにはちらっとしか見えていないだろうけど。




「…そうそう、ちょうど良かった、今話してた所なんだ。乃々香。」




そんな私を面白そうに眺めながら、嘘兄は真面目な声を出す。




「火曜日に志織が会社にまで行ったんだって?」




え、と私は俯きかけた顔を上げた。





し、知ってたのか…



なんだかそれだけで少しほっとしてしまう自分は一体何なんだろう。




「勝手なことして迷惑掛けたんじゃないのか、って志織に言ってたんだよ。」




佐藤一哉としては聞いたことのない位、いつになく厳しい声で彼は溜め息混じりに言った。




「…ごめんなさい。乃々香ちゃん。」




そのことで。



さっきからこっぴどく志織さんは怒られていたのか。




あぁ、力が抜ける。



志織さんが会社に来たことで慌てて、水曜に私がわざわざ中堀さんを探しにクラブに行ったのも、木曜にも結局伝えられないままあんなことになって悶々としたのも、取り越し苦労だったわけか。




中堀さんは、ちゃんと知ってたんだ。



ほんとに私って、ばかだなぁ。





「乃々香…?」



ぐらぐら、する。



視界はとっくにぼんやりとしていた。



雪とか、ライトアップとか、噴水とか、寒さとか、疲れとか。



そんな様々な要素が上手い具合に絡み合って、ぼんやりとした景色に見えているんだろうと一人で納得していたんだけど。




「あ、の。大丈夫ですから…」



声もなんとなく、出しにくいな、なんて不思議に思いつつ歩こうとするも、ふらついた。




「大丈夫?」




そんな私を目の前の嘘兄が支えるように抱きとめる。




「あっつぃな」



低く囁かれたその言葉に、少しだけ笑えた。



あぁその声は。



中堀さんの方ね、と。





「乃々香ちゃん、どうしたの?」




志織さんの声が、遠く聞こえる。



ごめんなさい。志織さん。



この人は、貴女のモノなのに。



今、甘い香りが私を包んでいます。



その上大変申し上げにくいのですが、私はこの香りが好きです。




「ごめん、志織。これからの予定だけど、ちょっと俺乃々香連れて帰ってもいいかな?今車持ってくるから、とりあえず家までは送るから」




「ううん!いいのよ。乃々香ちゃん、苦しそうだもの。私はタクシーで帰るから。早く寝かせてあげて。」




「…大丈夫?」




「何言ってるのよ、まだ9時よ?子供じゃないんだから」




「……わかった。気をつけてくれ。さっきの話は、とにかく保留っていうことで。……取り乱して、すまなかった。」




多分そんな感じのやりとりがあったように聞こえた。



話し声が止まったな、と思った途端。



今度は、私の体がフワリ宙に浮いた。



「!?」




驚きはするけれど、抵抗するだけの力は私には残されていない。




でも、これは。。



確か―



お姫様抱っこっていう―



世界中の女の子が一度はやってみて欲しいと憧れるソレではないか?



決して軽くはない私を軽々と持ち上げているように思う。




「ちゃんとつかまれ」




中堀さんの首に腕を巻きつけるように言われて、必死にそうする。



パッと見細いのに、実はしっかりとしている中堀さんの首筋に、昨日のことがフラッシュバックしそうになって、ぎゅっと目を瞑った。





「車、すぐそこだから、ちょっと我慢してろ。」




中堀さんが歩き出したのが、振動でわかる。




中堀さんとくっついている部分が、温かい。




いつの間にか、雪は止んでいた様で、頬に冷たい感触は落ちてこなかった。




「―ほら」




やがて車の後部座席にそっと下ろされる。



エアコンを切ってからあまり時間が経っていないのか、それとも外が極寒すぎるのか、車内は温かかった。




重たい厚手の生地が身体に被せられたのがわかる。




続けて、バタンとドアが閉まった音がして、さらに温かくなった。




あ、なんか、これ。



中堀さんに抱きついてるみたいな錯覚に陥る、かも。



優しく掛けられたコートを、高熱で震える手できゅっと軽く抱き締めた。




ドアが開いて―閉まった音がして―



運転席に中堀さんが座ったのがわかる。




「家まで送る。」






甘い、香り。


切ない、香り。



そして、微かな煙草の、ほろ苦い香り。




あーあ。



風邪、治ってなかったんだなぁ…



呑気にそんなことを考えながら、私は意識を手放す。




外はすごく寒かったから。



エアコンの効いた暖かさと、かけられたコートの温かさ。



それでなんか幸せになっちゃって。



瞼が重くて開けていられなくて。




自分のした失敗に、全く気付いていなかった。



========================




あー、良いにおいがする。




野菜をいっぱい煮たような、身体に優しそうな美味しい匂い。




おー、額に冷たいものを貼られている。




ふかふかの布団が気持ち良い…




ふかふか、、、




ふかふか、の…?




ん?




なんか、前にもこんなことあったような。




………




もしかして、これ、羽毛?






「!?」



意識はまだ少しぼんやりするけれど、私は自分自身を叩き起こす。



ぱちっと開いた目。



薄暗い室内。



少し開いたドアの隙間から、光が漏れている。



そこから先程のおいしそうな匂いが漂ってきているらしい。




とにかく。




ここは、家じゃない。



私ん家じゃない。



そして、一度だけ来た覚えがある。



あの時は、ゆっくりと周りを見回す余裕なんかなかったけど。





「…なんで…?」



嗄れた細い声で、私は一人暗闇で呟く。



どうして、自分は中堀さん家にいるんだろう。



おかしいな。



私の家に送ってくれるって言わなかったっけ。



もしかして、私また吐いたりしたのかな。



いやいや、それはない。うん。



と、とにかく。



どうもご迷惑をお掛けしたようだから、お礼を言って家に帰らないと。



そろーっとベットから這い出して、おぼつかない足取りでドアまで歩く。




夜目に慣れてしまったせいか、リビングから漏れる光が眩しく感じる。




「あ、のー…」




できるだけ自分を小さくしながら、声を掛けつつドアを開けた。





「れ…?」




テーブルの上には難しそうな書類が散乱しているが。。



ソファにも、おいしそうな匂いを漂わせているキッチンにも、人影がない。





「どこ、行ったかな…」




ふらふらとソファまで行って、座って待つことにした。






「…うー、だるーい」




背もたれにぐったり寄りかかりながら、目だけでぐるりと部屋を見回した。




中堀さんの家は、一言で表わすならシンプルだ。




ほとんど何も置いてない。細かい物がない。




寝室もばかでかいベットがあるだけで。




今私が居るリビングには、黒い革張りの大人3人はゆったり座れる位のソファと、テレビが対面していて。



その背後にダークブラウンの木目調のテーブル、モダンな黒皮のダイニングチェアが配置されている。



床がダークブラウンだから、合ってる。




くそぉ。



奴は、顔や外見だけでなく、センスもあるのか。




僻み根性が顔を出す。







ソファにもたれかかったまま、首だけ伸ばしてテーブルの方へ顔を向ける。



ガチャ。



さかさまにぐたーと沿ったところで、奥のドアが開く音がした。





「あ。」




「…何してるの」





金髪の彼は、どうやらお風呂上りのようで、上半身裸で登場。



タオルでがしがしと頭を拭きながら、怪訝な顔して、逆さになったまま止まっている私を見た。





「く…」




「く?」




「…首の体操、、、」




「……ばかなの?」




「……すみません…」





私はそう言って、ずるずるずるーっと、ゆっくり頭を元に戻して、ソファに膝を抱えて座り直した。





中堀さんがキッチンに入って、冷蔵庫から何かを取り出した音、それから閉じた音が続く。





「ひゃっ」




「あんたも飲む?」





急に頬に冷たい感触がして、思わず飛び退くとソファの後ろに中堀さんが立っていた。



手にはミネラルウォーターを持って。





「いい、いただきます…」





素直に受け取り、また前に向き直った。





「体調どうなの?」




そう言いながら、中堀さんは私の隣に腰を下ろす。



少しだけ、距離が空いている。






「あんたさぁ、もしかして…会社から中央公園まで徒歩できたりした?」




え。



な、なんでバレてるんだ…




何も言わないのを肯定と見なしたのか、中堀さんは盛大に溜め息を吐く。




「ほんっと、馬鹿なんだね」




ムカつく!




私は俯いた顔を、キッと睨むようにして中堀さんに向けた。




「さっきから!人のことを馬鹿とか阿呆とか言わないでくださいよっ!どーせ私は馬鹿で阿呆ですよ!その上アホウドリとか言われちゃってますよ!」




熱が、自分の心中の怒りも容易に外に出しやすくしているらしい。



普段、誰にも言うことのない苛々が、こんな場面で出てきてしまうとは。





「わっ、私だってねっ、わかってますよ!自分が馬鹿だって事くらいっ。でも仕方ないじゃないですかっ。一人は寂しいんだもん!」




眉間に皺を寄せて中堀さんは首を傾げる。




「…ちょっと待て。何の話?」




私だって訊きたいよ。



でも、止まんない。




「阿呆は阿呆なりに頑張って必死に生きてるんですよ!なのにねぇっ」




ぼろぼろぼろぼろ涙が溢れてくるのをそのままに私は喚く。




「とっ、突然、貴方みたいにっ、…悪戯に私の生活をかき乱したりする人が現れるとっ……もう、心の中、ぐちゃぐちゃになって…いっぱいいっぱいになっちゃうんですっ…」




あぁ、最低だ。私。



こんなことが言いたいわけじゃないのに。



この人の前では、はっきりしっかり物を言わないと更に馬鹿にされるのは目に見えているのに。



結局いつも上手に振舞えない。





「貴方みたいにっ…な、なんでもソツなくこなせるようなっ、完璧な人は…私の気持ちなんか、わかんないっ…なのにっ、、、いっつもそうやって…人の事小ばかにして…余裕そうにしちゃって…自分のこと皆が好きになるって思ってるみたいですっ…けどっ…」




もう自分が一体何を言っているのか理解できないけど、涙をぐしぐしと手で拭いて私は嗚咽を漏らした。




「貴方なんかっ…」




そして、自分の気持ちを否定する痛みに、顔をしかめながら―





「貴方なんか、私は絶対に好きにならないっ!!」





宣戦布告した。




自分の心から、自分自身を剥ぎ取って、全部吹っ切って、まっさらになって、貴方の事なんか忘れたいんだよ。





志織さんに嫉妬したり、本当の中堀さんに会いたいと願ったり、一番になりたいと思ったり、期待しちゃったりするような、ぐちゃぐちゃな感情を持つ自分は、やめにしたいんだよ。



だって、いつもそこにいる筈なのに、貴方は居ないんだもの。

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