中堀空生という男



携帯の振動が、、さっきから、響いている。



もう起きなきゃいけないけど…



あとちょっと、、あと5分だけ…



布団を頭からすっぽり被って、貴重な時間をまどろむ。




今日は、水曜日。



週の半ばだ。


折り返し地点だ。



もう少しで、土日になる。



頑張れ、花音。



自分を励まして、そろっと布団から手を出して、携帯に伸ばす。



アラームを止めると、携帯の画面が昨夜のままになっている。



家に帰ってから、志織さんが会社まで来たことを、中堀さんに伝えるか伝えないか悩んだ末、中堀さんの電話番号を表示したまま、私は眠りに落ちたらしい。



メールだったら言えたかなと思うが、残念なことに私の携帯には彼のアドレスが入っていない。



でもきっと多分、伝えたほうが良いとは思う。




一人悶々としながら、私はベットから降りて洗面所に向かった。




「うー、冷たーい」




フローリングの床が裸足を冷やす。



慌ててベット脇に脱ぎ捨ててあるスリッパを履きに戻って、また洗面所に向かった。




「どうしよっかなぁ…」




鏡に映る自分を見ながら、小さく呟く。


問題はどうやって中堀さんに伝えるかだ。



そのために電話を掛けようと考えたのだが、結局出来なかった。



もしかしたら何かの用事で向こうから掛かってくるかもと思ったのだが、こういう時に限って鳴らなかった。




電話っていうのは、緊張する道具だと思う。


相手の声が耳元で聞こえるんだから。


一昔前では、電話で繋がるということは高価なことだった。


その前には文通というものがあって。


それから、メールというものができて。


今はリアルタイムで顔を見ながら話ができたり、文字での会話ができる。




…面と向かって、その人の温度や、空気を感じながら話をしなくなったのは、いつからなんだろう。



朝から自分にとって小難しいことで頭を悩ませながら、顔を洗った。



そんなことはどうでもいいから、つまりは中堀さんにどうしようということなのに。



ぽかっと自分の頭を軽く殴った。



電話は緊張するとか、顔を見ないで話をするのはどうとか、色々言い訳を考えているけれど、



要は会いたい。



彼に会いたいのだ、私は。






だけど、佐藤一哉には会いたくない。



彼は本当の彼じゃない。



じゃ、どこで会ったら、本当の彼に近づけるか?




いつもよりすこーしピンクの多いコーディネートを無意識の内に選びながら、セーターに腕を通す。




クラブだ。



クラブに行けば、きっとあの日の彼に会える。



本当の彼に会ったら、、、



私のこの気持ちに名前をつけよう。



ちゃんとした、確実なものになったなら。



認めてあげよう。





========================



「花音ー、昨日大丈夫だった?」




会社に出勤すると、開口一番に憲子が訊ねてくる。




「…うん。。」




曖昧に頷いて、デスクにマイボトルを置いた。




「ってかさぁ、会社知られてるのってヤバくない?なんで知ってるんだろう?」




「…はは、だよねぇ…」




私もそれはずっと心に引っかかっている。



だからこそ、中堀さんにもちゃんと訊かなくてはと思っているのだ。




二週間後の身の振り用をどうすればいいのか、私には皆目検討がつかない。




「下手したら、クビになりかねないよ?脅されるかもしれないし…」




脳裏に昨夜の志織さんの顔が思い浮かぶ。




そんなことをする人には思えないけど、中堀さんが居なくなってしまったら、会社に訪ねて来ることはあるかもしれない。




「…今日、訊いてみる…」




「今日って…会うの?」



しまった。うっかり口に出してしまった。




「…いや、その、、なんといいますか…」




あぁ、どうしよう。上手い言い訳が思いつかない。



会うっていうよりも、あのクラブに行けば会えるんじゃないかっていう希望的予想であって、もしかしたら会えないという可能性だってある。



それでももう一度あの場に足を運んでみたいと思うのは、それによって、彼のことが何かわかるかもしれないと考えたからだ。



現に、バーテンダーのおにーさんんも、タカっていう男も、彼の事を知っている風だった。



大分うろ覚えではあるが、彼としていた会話の中に、ひっかかる言葉が幾つかあった気がするのだ。




「私も行く!」



「―へ?」




あーでもないこーでもないとぐちゃぐちゃ考えていた私は、憲子の一言に目を見開く。




「だから!今日会いに行くなら、私もついていく!」




「え、そんな、だって…わ、悪いよ」




私はなんとか憲子を思い留まらせようとするも、



「何言ってんのよ!花音がどんな危険な目に遭うかわかんないじゃない。こないだだって私が花音を一人にしたからこんなことになっちゃったわけで、これでもすごく反省したんだから。」



憲子は鼻息を荒くして、まくし立てる。




「そこ!私語は慎みなさい!就業時間内だぞ。」




最初はこそこそ話していたのだが、段々と興奮していってしまっていたらしく、係長に注意されてしまった。




「…はい、すみません…」




小さくなって謝り、隣の憲子をちらっと見ると、彼女はにやっと笑った。




「決まり、ね。」




到底憲子には敵わない。



私は抵抗するのを諦めた。




========================




「…なんか、ちょっと今日の服装かわいくない?」




ぎくっ




二人で上がって、更衣室で着替えていると憲子の視線がじーっと私に向けられているのがわかる。




「そう?最近よく着てるよ、コレ。憲子と一緒に上がるの久々だからじゃない?」




動揺してバクバクする心臓の音が聞こえているのではないだろうか。



そう思うが、私は平静を装って答える。




「ふーん…」




絶対納得していないが、憲子はそれ以上追及してはこなかった。




「ちょっとご飯食べてから行く?」





クラブの時間に合わせてお互い残業をして、時計の針は21時半を指している。




クラブにはこないだと同じくらいの22時過ぎた辺りで行くと憲子には伝えていたので、それまで私達は軽く飲むことにした。




「あ、そうだ。こないださ、どっか良いバーないかなって思ってたんだよね。」




「今さ、バーでもノンアルコールカクテル出す所とかあるじゃん?」




「明日も仕事だもんねぇ。飲みすぎてっていうのは嫌よね。」




そんなことを話しながら、クラブの近くの店を物色する。




あの夜と同じ光景に、少しドキドキする。



今更になって、クラブの名が[ Notte di Luna ] (ノッテ ディ ルーナ)ということを確認。




「あ、そこなんかいいんじゃん?立ち飲みバー。近いし」




憲子が指差した場所を振り返ると。




「やっぱり。カノンちゃんだ」




あの夜知り合った、85点のタカが、数メートル先で立ち止まってこちらを見ていた。




「た、タカ…さん」




驚いて口に出すと、呼ばれたタカはにこにこと笑顔でこちらに歩いてきた。





「さっきから似てんなって見てたんだよ。俺のこと、覚えててくれたんだ?うれしいなー」




「え、何々?誰、この人」




状況を飲み込めない憲子が首を傾げている。




「あっれ、お友達?友達もレベル高いなー!どーも初めまして。斉藤崇(サイトウタカシ)です。タカって呼んでね!」




相変わらず軽い男代表タカは、思いっきり眉間に皺を寄せている憲子なんておかまいないしに、その手をとってぶんぶん振った。




「花音…誰?」




タカを見る事無く、憲子は私を目で射抜いた。




「こないだ…クラブで会ったって話したヒト…です…はぃ…」




「あぁ、お持ち帰りされそうになった男ね」




「!」




ピタリ、突然停止したタカの手を冷たく振り払い、憲子は今しがた取り戻した自分の手を腰に当てて私を見た。




やばい、これは。



お説教のポーズ…






「あんたって人間は…話には聞いてたけどこんな軽々しくて空に浮かんじゃいそうな男に付いて行こうとしたの!?」




「…スミマセン」




私が謝りつつ、そぉっと憲子の後ろにいるタカを見ると、彼は目を丸くして自分のひどい言われように驚いていた。




「余所見しないっ!」



「はぃぃ…っ」



「ホントに馬鹿なんだからっ」



「ごめんなさぃ…」




いい歳して、道路っぱたで怒られている私って一体…



小さくなりつつ、自分を哀れんだ。




「まぁまぁ、そんな怒んなくたっていいじゃんなぁ?ところで、今日クラブ来るつもりだったの?」




立ち直りも空気のように軽いタカは私達の間に飄々と割り込んでくる。




「あ、はい。まぁ、その…なんというか…あの…」




「中堀サンっていうヒトに話があって、会いに来たのよ。」




ぐずぐずしている私の代わりに、憲子が答える。




「え。アイツもしかして、本名教えたの?マジで?」




タカが驚いたように口に手を当てた。




「それで?アイツになんかされた?仕返し?逆襲?逆恨み?何しにここに来たの?」




タカの顔色が明らかに変わった。




さっきまでちゃらんぽらんだったのに、どこか焦っているような感じ。




「…いや、その、ちょっと伝えたいことがありまして…」




私達は彼が詐欺師だということが知っているので、タカが何を予想しているのかが分かる。



でもそんなことよりも。





『本名教えたの?』




さっきのタカの言葉に舞い上がってしまっている自分が居る。




本名、、だったんだ…




「…ちょっと、花音。何ニヤけてんのよ、気持ち悪い」




憲子が怪訝な顔して言うが、どうしたって抑えられない。



いや、これでも抑えてるのだ。必死に。



だけど、、、




中堀さんって言う名前は、正しかったんだなぁ。




本当の彼だったんだなぁ。



信じてよかったんだなぁ。



彼の本当の名前を、私は呼べるんだなぁ。



そんなふわふわした思いが、後から後から、じわじわと感動になって私に押し寄せてくるもんだから。





「伝えたいことって…。うーん。でもアイツに会えるかなぁ。」




私達が中堀さんの被害者ってワケではないことに(いや本当は被害者の方だと思うけど)安心したのか、タカは少し緊張を解いて呟いた。





「それってどういうこと?」




浮かれている私を余所に、憲子がタカに訊ねる。




「いやぁ…、アイツ、アレでも一応有名人だからさ…」




言葉を濁しながら、タカは腕時計に目をやった。




「この時間だと、アオはちょっと忙しいかもよ?君ら明日仕事でしょ?こないだみたいに夜遅くまでは残れないだろうし…」




「えー、会えないの?ちょっと花音、約束してたんじゃなかったの?」




タカの言葉の途中で、憲子が私を問い質す。




えー、と。





「…スミマセン、行き当たりばったりです…」





私の言葉に、憲子が大きく溜め息を吐いた。



「ぶふっ」



そのやりとりを見ていたタカが噴き出す。




「くくっ…」




なんか、悔しい。



この軽い男に笑われてるのが無性に腹立つ。






「あの…」





だけど、私はさっきから気になっていることをタカに訊きたい。





「…くくっ…な、何?」





ムカつく…


いやいや、抑えろ、花音。






「中堀さんが有名って、、どういうことですか?忙しいって…?」





「んー、、、それはまぁ、俺の口からはいえないなぁ。とりあえず、入ったら?そしたらわかるかもよ?」




タカは涙を拭うと、今度は悪戯っぽく笑った。




「え」




それってどういう意味なんだろう?




「さ、いこー!」




「あ、え、ちょっ」





がしりと手首を掴まれ、私はずるずる引き摺られる。



「の、憲子」




問いかけるような目で憲子を見つめると、




「全く。ほんっと手のかかる」




そう言って溜め息を吐きつつも、付いてきてくれる。




躊躇わずにずんずん進んでいったタカは、クラブの前で立ち止まることなく扉を開けた。




響いてくる重低音。



直ぐに人々の熱気が感じられる。






「お、タカ。今日はちょっと早いじゃん?」




こないだ私にクラブの説明をちょこっとしてくれた入り口のおにーさんが、珍しいものを見たかのように肩眉を上げる。





「ん、まーね。」





「しかも女連れ。益々怪しいな」




「そんなんじゃねぇよ。零(レイ)に用があんだってよ」




「え、ゼロに?ファン?残念だけど多分、朝3時まで身体空かねぇよ」




入り口のおにーさんの言葉に、タカも頷く。




「だよな」




おにーさんはこないだみたいにリボンをくるくると左手首に巻いてくれる。




「あの、お金は?」




タカが掴んだ右手首を離してくれずに、どんどん中に歩いていこうとするので思わず声を掛けた。




「あぁ、今日はいいよ。俺の奢りっつうことで」




人ごみを掻き分けて、こちらを振り返ることなくタカが言う。



あんまりよく聞こえなかったけど、多分大丈夫ってことなんだろう。




「まぁ、ここでとりあえず飲み物でも頼みなよ。」




前来た時と同じ、カウンターの席に着くと、やっとタカが手を放した。




「あ、ありがと…」




「あれ?見覚えのある子だね?」




タカにお礼を言うか言わないかで、バーテンダーの70点が私に気づく。




「先日はっ、どうも…あっ、そういえば憲子っ」




慌てて後ろを振り向くと、憲子が居ない。




「友達なら…」




私の隣に座ったタカが、ホールの中心部を指差した。



げ!



憲子が真ん中で踊っている。




「思わず動きたくなっちゃったみたいよ?」




唖然としている私を横目に、タカはけらけら笑った。




「トーマ、この子にとりあえずスプモーニ出してやってよ。軽くつまむものもね」




「おっけ。っていうかこないだの子でしょ?何しにここ来たの?復讐?」




「なーんか知らないけど、そういうんじゃないみたいなんだよな。しかも零の奴、実名教えちゃってんの」




「マジ?大丈夫なのかよ」




男二人の会話を聞き取るため、私は耳に全神経を集中させた。






「マジで、アイツ、何考えてんのかわかんねー」




「だな。」




タカの言葉に70点、もとい、トーマは頷きながらシェーカーを振るう。



残念。



今ので二人の会話は終了してしまったらしい。



何が何だかわかんなかった。





「あの、、それで、、中堀さんは…」




一体いつ来るのか、訊ねようと口を開くと、





「シッ」




タカが人差し指を自分の唇に当てたので、咄嗟に噤(つぐ)む。





「その名前、禁句。」





タカはそう言って、にっと笑った。







「ここじゃ、零(レイ)ってみんな呼んでる。それかゼロだね」




首を傾げそうになる私の気持ちを察して、タカが答えてくれる。




「零…、あの、零、さんはいつ来るんですか?」




「ふっ…」




私は至極真面目に訊ねているのだが、何故かタカは笑う。




「ちょ、え、なんで笑う…「どうぞ」」




私が抗議しようとした瞬間、ちょうどトーマがグラスに注がれたオレンジ色の液体を私の前に置いた。




「…零ならもうとっくに来てるよ」




カクテルに釘付けになっている私に、トーマはにこりと微笑んだ。






「…え?」




私は馬鹿みたいに口をあんぐり開けて、カクテルからトーマに目を向けた。





どこに?




慌てて辺りをきょろきょろ見回してみるが、それらしきヒトはいない。




あんな金髪なんだから、目立つかと思いきや。



クラブには色んな髪が沢山あるから、わかんない。





でも。





あそこまでレベルの高い人間は、滅多に居ないんだけどな。




って、また私何を考えてんだか。





「ヒント、あげよっか?」





一人で軽く落ち込んでいると、タカが意地悪く笑った。




ヒント。。。



そりゃ勿論。




「…欲しい、です」




「うんうん、カノンちゃんは素直でよろしい」





満足気にタカが腕組みをしながら、頷いた。




「だけど、ヒントの代わりになんかちょーだい」




―は?




途端に眉が寄った。





「よせよタカ。ほんっとお前懲りねぇ奴だな。」




私達のやりとりを黙って見ていたトーマが、諌(いさ)めるように、半ば呆れるように頭を掻いた。




「いいじゃん、俺カノンちゃん好みなんだもん」




タカが頬を膨らませる。



だもんって…





「ほっぺにちゅーしてくれたらヒントあげる♪」




いつの間にか、タカは青くて四角い瓶を手に握っていて、そのまま呷っている。




だ、大丈夫なのかな。



もう酔いすぎてるんじゃないかな。



酔っ払いの絡みなんじゃないかな。




私は眉を寄せた状態で固まりつつ、目の前の空気より軽い男を凝視する。





「カノン、、、ちゃん?そいつ素面だよ。酔っ払っちゃいない。ザルなんだ」





トーマは面白そうに私を見ながら、そう言った。




「何?カノンちゃん俺が酔っ払って絡んでると思ってるの!?」




タカが傷ついた顔をする。





「え、いや、あの、そうでなくてですね…」




なんとか宥めようとした時。





ザワッ




会場が騒がしくなる。




「お、始まるな」




トーマが呟いたのが微かに聞こえた。




ただでさえ、薄暗い会場内の照明が更にぐっと絞られ、一点が青いライトで照らされる。




「きゃー!!!!!!」





心なしか、女の人の歓声が強いような?




思った途端、爆音がビリビリと身体に響いた。




「うわわ…」




驚いた私は思わず縮こまった。





それとは対照的に、会場は益々ヒートアップしていく。



明日も仕事だっていうのに、皆よくこんなに集まってるなぁ。



はたと気づき、腕時計で時刻を確認した。



―まずいじゃない。



時計の針は0時を過ぎている。




早く伝えて帰らなきゃ。



明日が辛くなる。





憲子が心配だけど、さっきよりももっと人が増えたせいで見つけることができない。




もう!




「あのっ、本当にっ、教えていただけないですか?私達もう行かないと。」




「だからぁ、ほっぺにちゅー」




くっそー。



唇をぎゅっと噛む。



若干の焦りも手伝って、背に腹はかれられないと思った。






私は勢い良く立ち上がり―



ぐびぐびぐびぐびー



目の前に置かれっぱなしだったオレンジの液体を飲み干す。





「カノンちゃん?!」




トーマが驚いたような声をあげた。




カンッ




強めにグラスをカウンターに叩き付け、




「っ、わかりましたっ!」




真横に座っているタカの胸倉をぐぃっと掴んで―



タカの頬に軽く唇を当てた。





そしてすぐさまバッと離れた。





「カノンちゃん…結構大胆なのね」




タカがびっくりしたようにぱちくりと瞬きする。




が。




「でも、ちょっと物足りない、かな?」





次の瞬間左手首に巻かれたリボンをグッと引っ張られた。





「んっ!!!??」





目が、見開かれる。




噛み付かれたかと思った、ら。




タカの斜め向こうに見える、青い光に照らされた人と目が合ってそれどころじゃなくなった。






唇を放し、放心状態の私の視線をタカが追う。




「?あれ、もしかしてわかっちゃった?」




舌をべっと出して笑った。




「タカ…おまえなぁ…」




トーマが何やらタカのことを説教してくれてるのが遠くで聞こえる。




―み、見られた。




少しの時間目が合って、直ぐに逸らされたあの人。



沢山の機械に囲まれているひと。



金髪の、彼。



中堀 空生。



会いたかった、人。



好き、かもしれない、人。



なのに、他の人とキスしてるとこ、見られた。




―最悪だ。





唇をぐいっと拭くと、解けたリボンが床にはらりと落ちた。




「カノンちゃん?」




おぼつかない足取りで会場に背を向けると、タカが追ってくる。




「ごめんっっ、ちょっと悪ノリした、かも…」




振り返らずに出口に向かうが、なおもタカは後を付いて来る。




「気悪くさせたなら謝るからちょっと待ってよ…」




無視し続けていると、ついにタカが私の手を捕まえた。




仕方なく私は立ち止まる。



でも。




「よかっ「…っざけんじゃないわよ!!!!」ぶっ!」




振り返りざまに、持っていたバッグを思いっきりタカの顔面にヒットさせた。




「気安く触るなばーか!」





顔を抑えているタカに吐き捨てるようにそう言うと、今度こそ背を向けて歩き出す。



さっきの入り口のおにーさんが呆然と見ている脇を抜けて、外へ出た。





憲子、置いてきちゃった。




自分で何処に向かって歩いているのかもわからないまま、がむしゃらに足を動かした。



無意識に袖口で唇を何度も擦りながら、涙がぼろぼろと零れだす。



不可抗力じゃない。



自分の考えが足りなかった。



タカだけが悪いわけじゃない。



だけど。





『す、好きでもない人と、できるもの…、なの、かなって…』




以前自分の吐いた台詞が思い出される。




『あなたはねぇっ、好きでもない人とあんなことこんなことできるんでしょうけどっ、わっ、私にはそういうの、信じられませんっ』




できるじゃん。




ばかばかばか。




自分の馬鹿。



私の馬鹿。






「ふっ…うー」





私はどうしても子供みたいな泣き方しかできないらしい。




めそめそと一人、一定の間隔で街灯に照らされている道を歩く。




さっきまで唇を拭っていた袖で、今度は涙を拭いた。



じわじわと温かい雫が布に染みこんで、あっという間に冷えていく。




嫌なのは。




あのシーンを見られて、こんなに嫌なのは。




会えないまま、飛び出してこなくちゃいけなくて、こんなに辛いのは。





取り返しがつかないくらいに。




彼の事が、好きになってしまったからだ。



それ以外の理由は、他にない。






「ひっ…く…ひっ」






涙の間に息を吸い込むと、雨の匂いが、少し、した。






========================




ヴーヴーヴーヴーヴー




しとしとと、雨の音が、する。




身体が、鉛のように重い。



頭がガンガンする。



そして、携帯の振動に吐き気がする。




瞼を開けることができないまま、私は枕付近を手でまさぐって携帯を掴み、電源を落とした。




ぼにゃーっとした思考で、昨晩雨に降られたことを思い出した。





「…熱、あるなこりゃ…」





心から、反省。



社会人として、情けない。



だけど。





身も心もぼろぼろだ。





有休、使おう。




会社に、電話しなくちゃ駄目か…



今さっき切ってしまった携帯を再度復活させる。



瞼すら重たく感じながら、薄く目を開けて画面がついたのを確認した。






「…うわ。。憲子ばっかり…」







見事に憲子からの不在着信で画面が埋め尽くされていた。





そうだ。置いてきちゃったんだった。




携帯も長いこと鳴っていた気もする。




だけど、ぎゃんすか泣いていた私は自分のことで精一杯で。




「憲子…に、電話…」




熱に浮かされながらも、なんとか震える手で通話ボタンを押した。



≪もしもし、花音?!≫




ワンコールで出た憲子の声はかなり慌てているようだった。




「…うん。昨日…ごめんね」




開口一番に謝る。





≪ホント、びっくりしたわよ。まさか先帰っちゃうなんてね≫





怒るのを通り越して呆れていらっしゃるようだ。





≪でも、ま。あんなことされたら当然か≫




「―え?」




≪あの空気男にキスされてなかった?≫




み、見られてたのか…よりによって憲子に。





がっくりと私は項垂れた。







≪遠くから見てて気づいた時には遅くって。人を掻き分けるのだけでも一苦労だったの。でもあのクラブのDJ、抜群に格好良かったわー。目の保養だったなぁ。あの人狙いのお客さん結構多いみたいだったもん。花音あの人の事知ってた?≫






「………なの」





≪え?≫





小さな声で呟いた言葉を憲子が聞き返す。





「あの人が、、例の、、中堀さん、なの」





≪ふーん、ってえ!?えええ!!!真面目に言ってる?≫





憲子は予想通りのリアクションをした。





「…で、ごめん。私風邪ひいたみたいで…ほんとに申し訳ないんだけど…今日仕事休むね…」






≪え?ちょっと…花音!?≫





憲子に返事をせず、会話も中途半端なままで、私は再び携帯の電源を落とした。







―からだが熱い。重い。






ごそごそとベッドにもぐりこむと、私は目を閉じた。





暗闇に浮かぶ人物。





青い光に照らされて、意のままに会場の人々を操る。






中堀空生は、、




零という名前の、クラブのDJだった。





片耳にヘッドホンを当てて、何やら機械をいじってた。




金色の髪をして。




その姿は、今まで見たどれよりも、一段と光ってて、一番格好良かった。





なのに。




枯れたと思っていた筈の熱いものが、またこみ上げてくる。




どうしよう。



これからどうしよう。




あの人の事が好きだと認めざるを得ない状況。




でもこの想いが叶うことはないだろう。




絶対に好きになっちゃいけない人だったのに。




本名を知っただけで有頂天になっていた自分が至極滑稽だ。




次会うことになったらどんな顔して会えばいい?





あの人のことになるとどうしてこんなに上手くいかないんだろう。




ほぼ何も考えることができない程、ぼうっとしてくる頭。






好きだって、




伝えるだけのことが。




大人になるにつれて、




どんどん言えなくなってしまうのは。




どうしてなんだろう。





眠りに落ちていく中で、そんなことを思った。

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