貴方を知りたい



「佐藤様、お待ちしておりました。いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます。」




お店のドアはドアマンが開けてくれて、ウェイター?いや支配人?がにこやかに出迎える。



そーか。



そんなに儲かってんのか詐欺師。



私は心の中で毒吐く。




「お連れ様がお待ちです」




そう言って案内された席には、いつかの美人が座っていた。



彼女を見た後、思わず自分を見た。




この人を見ると、感じる劣等感。


彼女の身に付けている物は、彼女を十二分に引き立てている。



私の中の理想のお姫様に限りなく近い。



つまりそれは、私の隣りに立つ理想的な彼と吊り合っているということになるわけで。





自分はどうだろう。




自分はこの2人から見て、いや周囲から見て、一体どんな風に見えているのだろう。




「待たせてしまって申し訳ない。」




「いいのよ、忙しいんだから」




親し気なふたりの様子に、益々置いてけぼりをくったようになる。





「紹介する。妹の乃々香だ。」




中堀さんが後ろにいた私を優しく前に押し出し、紹介する。




急に振られた事で、私はあたふたしながら、チラリと中堀さんの顔を伺う。




彼は、キラキラした笑みを私に向けている。






…こ、怖い。





ぱっと見、素晴らしい笑顔なのに、早くしろよっていう黒い本質が見え隠れしている。





殺されるっ





私は慌てて前に向き直って、





「は、は、初めまして。いつもっ、あ、、兄が御世話になっています。今回は、私…の病気のために…ご、ご迷惑をおかけしてしまうことになり…誠に申し訳ありませんっ!」





たどたどしく謝罪の言葉を紡ぎ、勢いよく頭を下げた。






「初めまして…じゃ、ないわね?」




あの時と同じ、艶のある声で、目の前に座る彼女は笑った。




ウェイターが、椅子を引いてくれているので、私も中堀さんも腰を下ろす。





悪魔な中堀…じゃなく、今は紳士な兄は、心底心配しているという顔をしながら、私を見やった。



その裏には、『お前、しくじりやがったな、初めましてじゃねーだろ?馬鹿野郎』という意味が隠されていることだろう。




彼は静かに言葉を紡いだ。



「…ちょっと説明するのに時間が掛かってね。乃々香は驚いて、今気を取り乱してるんだ。…乃々香、前に俺が会社の近くまで迎えに行った時に少しだけ志織と顔を合わせたんだけど…思い出せるかな?」



え?!その、その後を私にどう繋げろって言うの?



私は背中に冷や汗をかきながら、頭をフル回転させる。




「いいのよ、突然で驚いたんでしょう?どうか気に病まないでね。私が無理にいい出した事なの。」




そう言って、志織さんは少し眉を下げた。





な。



なんて、できた人なんだ…




私は開きかけた口をそのままに、右隣に座る志織さんを見つめた。





「乃々香ちゃん、て、呼んでもいいのかしら…泣いたの?貴方、化粧室に行かせてあげなかったの?」




私の顔を見て、少しだけ咎めるように、志織さんは嘘兄貴に訊ねた。




「え!…あぁ…運転してたから気づかなかった…乃々香、ごめんな。」




嘘兄貴は慌てたように、私と顔を合わせる。




白々しい。




気づいてたでしょーが。





「…失礼して、今ちょっといって来ても良いですか」




快く頷くふたりに、私は席を立ち、化粧室へと向かう。





「はーぁ。」




大きく溜め息を吐いて、ぼろぼろの自分の顔が映る鏡を見た。




恐ろしい位に、奴の思惑通りに進んで行く様に、志織さんへの同情が募る。





人を騙すって言うのは、思ったより疲れるもんなんだな…




少し腫れた目を冷やすように冷たい水で洗いつつ、そう思った。




…なんで、中堀さんは、そんなことしているんだろう。




少し話をしただけでも、志織さんが良い人な事は一目瞭然だ。



それでいて、あの美しさ。



そして裕福。




言うことなしじゃない?



私が男だったら、絶対本命だな。



そう、思うのに。




完璧、お似合いなのにな。




「…ひどいカオ」



ぽそっと呟き、手早く化粧を直してトイレを出た。



テーブルに近づく私に、二人は気づかずに話している。



そして、志織さんが佐藤一哉なる隣の彼の耳に、その麗しい唇を寄せてこそっと耳打ちして、クスクスと笑った。



嘘兄貴も、微笑んでいる。



―楽しそう。



なんか、むかむかする。




「…お待たせしました」




私が声を掛けるとはっとした様子で二人が振り向き、




「気にしないで。大丈夫よ。」



「乃々香、何飲みたい?」




それぞれが優しく声を掛けてくれた。






心がぎゅっと締め付けられたみたいに痛む。




何に対して?




よくわからないまま、席に着いた。






運ばれてくるコースの食事はどれも美味しそうなのに、珍しいことに食欲が全くわかなかった。




「乃々香ちゃん、、全然食べてないじゃない。大丈夫なの?」




「あ、はい…」





志織さんが心配そうに訊ねてくれるが、自分でも不思議なんだから仕方ない。




「乃々香は元から少食なんだよ。…でも、今日は特にひどいな。ちゃんと食べないと病気も治らないぞ。」




嘘兄貴の嘘っぷりにムカムカが増大した感じがした。



ぐるぐる、ぐるぐると。



なんだか、目が回る。





========================




「帰りは送るから」





食事を終えて、席を立つ時に、嘘兄貴はさりげなく志織さんをエスコートする。





お似合いのカップルの後ろ姿を見ながら、私はひとり、とぼとぼと歩いた。





食事中、大した話はしなかった気がする。





本当のことを言えば、単に聞いてなかっただけのことなんだけど。





会計を済ませて、車に乗り込む時。




当然ながら、助手席は志織さんで。





私は一度も座ったことのない席だ。




と、なんとなく思った。




いや、別にいいんだけど。




慌てて思い直すが、今度はさっきよりも強く、ズキンと胸が痛んだ。





「今日はありがとう。じゃ、また、連絡待ってるわね」



助手席でかわいく笑いながら、志織さんは言った。



志織さんの自宅は、高級マンションで、どうやら彼女は一人暮らし中。



エントランスの前に停車して、嘘兄貴は運転席を降り、助手席のドアを開けた。



おぉ、完璧ジェントルマン。



その軽い身のこなしに、つい心の中で感心してしまう。





「乃々香ちゃん、またね?」




降りる寸前にこちらを見ると、志織さんは素敵な笑顔を振り撒いて小さく手を振った。




「あ、こちらこそ。ありがとうございました。おやすみなさいっ」



女の私でも照れてしまう位、キレイだった。






―本当に、お似合いだなぁ。






降りた二人を、スモークガラスの中から見るともなしに見ていた。




二言三言、上目遣いで彼に話しかける志織さん。



彼は困ったように、少しだけ頭を掻いて、




志織さんの腰を抱き寄せると。




エントランスの明かりで照らされた二人の影が、重なった。





「!」





慌てて、私は目を逸らす。




脈拍が速くなった。



胸を締め付ける力も、強くなった。




「お待たせ」




ぎゅぅっと目を瞑って数分。



外気の寒さを連れて、嘘兄貴が、いや、中堀さんが運転席に戻ってきた。




「送るから、家教えて?」




外が暗くて良かった、と思った。



明るかったなら、私の顔が切なく歪んでいるのが、わかってしまっただろうから。




「…ありがとうございます」




私は平常心を装って、なんとか自分のアパートの住所を伝えた。



もうこのまま家に帰ってあったかいお風呂に入って、今日の記憶なんか隅に追いやりたい衝動にかられる。




なんか、疲れた。




中堀さんの車にはナビが付いているので、途中の道案内はメカが全て担当してくれた。



手持ち無沙汰になって、車内は無言が続く。




「…綺麗な、方でしたね」




とうとう、私は口を開いてしまった。



封印を解いてしまった。



そう思うが、もう戻れない。




「そう?」




そっけない返事だけして、中堀さんはハンドルを回した。




「すごく…お似合いでした」




俯きながら言えば、




「あっそ」




特に大したリアクションもなく、中堀さんは代わり映えしない返答をする。





「…あんなに素敵な人なんだから…、本気で、好きになったりとかしないんですか?」




自分の手をこねくり回しながら、ついに核心を突く質問をしてみる。




「ないね。」




即答された。




「で、でも!…」



「…でも?」




言いかけて躊躇う私に、中堀さんが先を促す。




「き―キスとか…そーいうのって…」





「あぁ、さっきの?見てたの?」





逆に聞かれて、心の準備が間に合わない。




「見てませんっ、見てませんけど…いや本当は少し見えちゃいましたけど…」




「けど何?」




私のアパートはもう十数メートル先だ。




「す、好きでもない人と、できるもの…、なの、かなって…」




さっきからぎゅぅっと握りしめている自分の手にさらに力が籠もった。




「まーね」




すごい勇気を出して訊いたのに、返って来た言葉は変わらずだった。





「恋人のように振舞うのが条件だから、仕方ねぇよ。ほら、それ、今度は忘れんなよ」





そう言うと、彼は私の足元にある紙袋を指差す。




停車したことに気づき、窓の外を見てみると、アパートの前に到着していた。





「…わたし、には」




口の中がカラカラになるほど、緊張しているのがわかる。





「え?」



聞こえないというような身振りをして彼が私を見た。



私は俯いたまま、意を決して言葉を繋げる。




「私…には、どうして、したんですか?」




言った。



言ってやった。



朝のキスが、私の頭から、離れていない。



聞いて、どうするのか。



なんて答えて欲しいのか。



全然わかんないけど、めちゃくちゃになりつつある、自分の心を取り戻したくて。



抑えきれず、言葉が零れてしまった。



私の視界には、自分の握り締めた拳が、膝の上に揃っていることしか見えていない。




「何を?」



こ、こいつっ。



絶対に分かっている筈なのに!




「き、キスですっ。あぁあ朝!したでしょぉ!」




私の慌てっぷりに、くっくと笑う中堀さん。




「あぁ、おかげでぶったたかれたアレか」




その言葉に思わずばっと顔を上げると、中堀さんは痛そうなフリをして、頬に手をあてている。




「そっ、そうですっアレです!」




一応肯定してみた。




再度、目の前の彼はにやりと笑う。




「アレは、キスの内には入らないよ」




―は!?



私の目が見開かれる。




「はい、入らないって…」




「うん、はいんない。」




ひ、



「ひどい!あ、あなたはねぇっ、好きでもない人とあんなことこんなことできるんでしょうけどっ、わっ、私にはそういうの、信じられませんっ」




つい、声を荒げてしまった。




でも、目の前の男はそんなの何処吹く風で。




「俺があんたを好きで、したとでも思ったわけ?」




かっと顔が赤くなったのがわかる。



そんなこと思ってない。



思ってないけど。。。




「俺は誰かを好きになったことなんてないし、これからもない」




余りにはっきりと言い切る中堀さんに、二の句が告げなかった。




「だから、間違っても俺のこと好きにならないでね?」




余裕たっぷりに見えるいつもの笑顔。




「だっ、誰が貴方みたいに最低な人好きになるかっ!」




紙袋とバッグを引っ掴んで、車を降りようとドアを開けた。




「そ?なら良かった」




降り際に彼の声がする。




「さよーなら!!!」




そう言うとドアを思い切り強く閉めた。





後ろを振り返ることなくズンズンとアパートの階段を上っていると、中堀さんが運転席の窓を開けたらしい音がする。




「またよろしくね?乃々香ちゃん」




優しい声の後に、今度は車が走り去る音が聞こえた。




「ふっ…」




階段の途中で立ち尽くす私の目からは、子供みたいにぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。




悔しい悔しい悔しい。





…悲しい。





唇を噛み締めた。




冷たい風が、自分の身体に吹き付ける。






家に着いて、ふらふらとベッドに寄り、そのまま飛び込んだ。




枕に顔を押し付けて、グスグスと泣いた。




―自分をコントロールできない。



私を見て欲しいと思う時がある。



独占したくなる。



振り向かせたくなる。



でも、どんなに頑張ったって、絶対手に入らない。



なんで逢っちゃったんだろう。



出逢わなければ、こんな苦しい思いをすることはなかったのに。



嫌だ嫌だ。



こんな手の内にない恋愛嫌だ。



心底嫌だ。



なのに、頭の中には、中堀さんの顔が浮かんでしまう。




「好きじゃない…好きじゃない」




ぶつぶつ繰り返し呟いた。



後から後から溢れてくる涙と一緒に、この気持ちも全部流れてしまえばいいと念じながら。






========================



「おはようございます」



「あ、おはよー、花音。って、げっ!」




翌朝オフィスに行くと、憲子が復活していて、私を見るなり顔を引き攣らせた。




「なに?何かあったの?」




よろよろと椅子に座った私に、憲子が訊ねる。




「え、なんもないよ…はは」




「いや、何も無いって顔じゃないでしょうよ、それ。やばいよ。」




そうなのだ。



昨晩わんわん泣いたせいで、目が腫れまくっている。




「いや、これはその、新しい化粧水でかぶれ…」




全て言い終わる前に、ガシっと肩を掴まれた。





「花音。ランチの時間に、話聞くからね!」




有無を言わせぬ、憲子の言葉に、私は力なく頷くしかなかった。



内心、ぶちまけたかった。



だけど、憲子に話したら、終わってしまう気もする。



全部、なくなってしまう気がして、少し怖い。



だけど、他に目の腫れていることを取り繕えるような上手い言い訳は思いつかない。



私は、そんなに器用な人間じゃないのだ。



カタカタと機械的にデータを打ち込んでいても、ミスばかりが目立つ。



おかしいな。



恋愛ってこんなに支障が出てくるものだったっけ。



楽しくて、お菓子みたいに甘くて、ふわふわしていて、仕事とは割り切れる。



そんなものじゃなかったっけ。



こんな、苦しいものだったっけ。



そこまで考えて、はっとする。



―違う。自分は、奴のことは好きじゃない。


よってこれは恋愛ではない。



そう思い込むのに必死になって、またひとつ、ミスをしてしまった。




========================




「ほんとに、何があったの?私が居ない間に。言わないとご飯は抜きよ!」




こないだ誘われていたカフェに連れてこられて、本日のランチプレートを待っている間、憲子が凄んだ。



だけど、私はまだ迷っていた。



ちゃんと話すべきかどうか…



だって自分でもはっきりしていないもやもやなのに。




「ふーん。じゃ、いいわ。私から訊いてあげる」




黙り込んでいる私に、憲子が腕組みをして言った。




「え、、、何?」




ちょっと身構える。





「こないだ、ひっぱたいた人。花音のお兄さんってどういうこと?」




いきなりの核心を突く質問に、息が止まりそうになる。




あぁ、そうか。あの受付嬢、もう噂を塗り替えてくれているのか。



到底感謝しがたい思いに駆られるが、ぐっと堪えた。




「し、しらない」




ふるふると首を横に振る。




「ほぉ?」




憲子が腕を解いた。




「お待たせしましたー」




そこへ、ランチプレートが運ばれてきた。




なんてグッドタイミング!



心の中でガッツポーズする。





だが。




「以上でご注文の品は揃いましたでしょうか?…はーい、ではごゆっくりどうぞー」




所詮時間稼ぎになっただけで、恐怖の時間は必ずやってくる。




「花音?答えないとこのごぼうスープ、没収するよ?」




店員が去った後、素敵な笑顔で憲子が言う。




自分の中の天秤が、大分傾いてきている。




だって、もう話して楽になりたい。



この状況。私の立場。



憲子なら、わかってくれるかも。



良い答えをくれるかも。



もしかしたら怒らないで聞いてくれるかも。



意を決して、私は口を開いた。




「実はね―」







「ばっかじゃないの!?」




数十分後。





「すみません…」




淡い期待も虚しく、私は完全に怒られていた。




「あの夜私言ったよね?真っ直ぐ家に帰るんだよって。なんで言うこと聞けないの?」




「ご、ごめんなさい。」




目の前の美味しそうなごぼうスープは既に冷めている。



私はただただ小さくなって、ひたすら謝った。




「どうしても、、ひとりになりたくなくて…」




一応、理由を添えてみた。





「今まで黙ってみてたけどね、花音、男関係もっとちゃんとした方がいいよ」




時計を確認すると、憲子はバジルと鶏肉、トマトとモッツァレラの挟んであるパニーニをいじくり始めた。




「そんな風に毎日とっかえひっかえやってたら、絶対おばーちゃんになってもひとりだよ!ふらふらしてるから変な男にも捕まるんだし!」




分かっています。私もパニーニをかじりながら、小さく頷く。




「あとその詐欺師!絶対に関わっちゃいけない人間だと思う。今すぐ!断りなよ。危ないよ」




憲子の言葉に、私は固まった。




断る?




「う、うん。で、でも、私写真…」



「そんなのどーとでも出来るよ。それに!その男。そういうことしないと思う。」




憲子が断言する。






「…なんで?」



「だってそんなことしたら、本来とは違う所で、自分の身を危険に晒すわけでしょう?その男は多分本職の方では警察に狙われているわけじゃなさそうだもの。上手くやってるのよ。それなのに、そんな小さなことで警察に付け狙われるような真似、しないでしょう。」




なるほど。



言われてみればそうだ。



きっと彼はそんなことしない気がする。



なんで今まで気づかなかったんだろう。




「で、でも…」



「まさか」




同意しようとしない私に、憲子が眉間に皺を寄せた。




「…好きになったりしてないでしょうね?」





「っ」



息を呑んだ私に、憲子がはぁと溜め息を吐いた。




「やっぱり…「ち、違うよ!」




憲子の声に被せて私は否定する。




「そんなわけないじゃない。だって、私脅されてるんだよ?間違ってもあんな男好きになるわけないよ。たださ、やっぱり不安なんだよ。私の写真万が一でもばら撒いたり落っことしたりされたら、最悪だもん。」




なんとか必死で取り繕った。




「本当に?」



怪訝な顔でこちらを見る憲子に、大きく頷く。




「本当だってば。だから、二週間だけ!付き合ったらサヨナラだから。今日は火曜日だしあっという間だよ。」




なんでこんなに焦ってるんだ、私。





「…ほんとに二週間だけだよ?」




やがて、憲子が念を押した。




「もちろんだよー!」




Vサインしてみた。




「何か危ないことに巻き込まれそうになったら、必ず私に連絡すること!絶対、守ってね。」





こくこくと頷くと憲子はパニーニをかじる。




「あ、それから―」




もぐもぐと口を動かしながら、憲子が思い出したように言った。




「ぜったい。その人のこと、好きになっちゃ駄目だよ!」




私は、何と答えれば良いのでしょうか。





「…わかった…」




若干むせながら頷く。




絶対、そんなことにならない。



自分はそう決めた。



本当は最初からずっと決めている。




もう、流されない。




決意を新たにして、私はごぼうのスープを飲み干した。





「よし!じゃ、いくわよ」





昼の休み時間がもうすぐ終わる所だったので、少し急ぎ気味で席を立った。





「でも…本当は一体幾つで、どこの誰なのかしらね、その男」





お店を出て、会社までの道のりをせかせかと急ぎ足で歩いていると、憲子が独り言のように呟いた。




私は聞こえないフリをして、黙って歩いた。




午後も散々だったけど、午前よりは持ち直した。





「あ、そういえば、さっき違う話に気を取られてたから言わなかったけど、佐久間に迫られたんでしょ?ほんと、気をつけなよ。なんか、噂話によるとまだ花音のこと諦めきれてないらしいよ。自分からフっておきながら、男ってワケわかんないわよね。」





帰る準備をしていると、隣で憲子が耳打ちする。





「会社出て駅までは一緒に行ってあげるから。」





「ありがと…」




憲子からの話に、昨日の出来事が思い出された。




宏章に腕を掴まれたことが、あんなに嫌だった理由が、今でははっきりとわかる。




私は、出逢った時から何度も、中堀さんに腕を掴まれている。




…そんな、ばかげたことが、理由だ。



思い返しながら、無意識に掴まれたその部分に触れた。





「何?腕どうかしたの?」



エレベーターの中で、憲子に指摘されて初めて気づく。



「!ううんっ、なんでもない」



憲子は暫く不思議そうな顔をしていたが、1階に着く頃には美味しいケーキ屋の話をしていた。



考えない、考えない。



ぼーっとしているとどうも、中堀さんのことばかり考えてしまう。



自動ドアを抜けて、冷たい空気に触れる。



うわ、寒い。



身を縮こませて震える。




「うわー、綺麗な人」




隣に居る憲子の声に、ふと顔を上げると、憲子の視線の先に誰かがいる。


道行く人もチラチラと振り返っている。





「…あ。」



嘘。



私はぐるぐるに巻いたマフラーから、その人物を見た。



「し、志織さん…」



「え、あの人が?!」



隣の憲子も固まっている。



「なななんでここに居るのかな?!」



かなりパニックになって、私が憲子に訊ねる。



「私だって知らないわよっ」



とりあえず、憲子も私も回れ右して、会社に戻る体制になる。



「あ、乃々香ちゃんっ」



はい、フリーズ。





「乃々香ちゃん、よね?」



艶やかな声で確信を込めて呼ばれた私は振り返らざるを得ない。



ぎぎぎぎっと音がするのではないかと思う位、硬くなった自分の首を無理無理動かした。




「あ、れ?志織さんじゃないですかぁ…どうして、ここに?」




わざとらしい位の笑みを貼り付けて、私は志織さんに訊ねる。




「会社まで押しかけてごめんね。乃々香ちゃんのことを待ってたのよ。」




その言葉にドキっとする。



どうして、私の会社の場所を知っているんだろう。



あ、でも考えてみれば、最初に会った時も会社の近くのお店ではあったんだけど。



だけど、この状況、かなりやばくないか?!


だって二週間経った後、私どうしたらいいの?





「少し、お時間いただけるかしら…?」




逃げるわけにはいかない。



だって、ここで逃げたら益々怪しいし。



隣で黙って見ている憲子に、




「ごめん。憲子、先に帰っててもらって良い?」




と言えば、憲子は心配そうな顔をしつつ、頷いた。




「本当にごめんなさいね。」




それを見ていた志織さんが、申し訳なさそうに謝る。



何の用事かは知らないけど、この人は絶対良い人だ。



この人に会う度に、私は自分を可哀想に思う。



同時に、良心がちくちくと痛む。



「どんな、ご用件でしょうか…」




一体何を言われるのかと、内心びくびくしている。


だって、もしかして、私が健康すぎる人間だってバレちゃってるのかもしれないし、私が佐藤乃々香ではないことを知っているのかもしれない。




「ここじゃ、寒いから。近くのカフェであったまらない?」




そう言うと、志織さんはにっこりと笑った。



やばい、惚れる。



そう思いながら、前を行く志織さんの後を付いて歩いた。



普通、詐欺師が騙す相手っていうのは、男性経験が少なくて、あんまり容姿がパッとしなくて、初々しい感じの人かと思ってた。



だけど、志織さんは断じて違う。


相手になりたい男なら、沢山居るだろうし、素敵な男性をゲットできることだろう。


男慣れしていないわけでもなく、自分の持っている武器は、計算なのか天然なのか、使いこなしている。



なのに、何故、あの男にひっかかってしまったんだろう。




あの男が言うことが正しければ、志織さんは騙された後でも、信じておばあちゃんになるまで独り身で彼の帰りを待つのだろう。



不憫。


ひどすぎる。


こんな良い人なのに。



完璧なお姫様。



こんな女性(ひと)でも、あの人には手が届かないと言うのなら。



私なんて以ての外というのは当然だろう。




「さ、ここでいいかしら?」




志織さんが立ち止まったのは、駅から近い落ち着いたカフェ。



私も仕事帰りにたまにここでお茶することがある。




「はい」




返事をすると、志織さんは頷いて店内に入った。



私もそれに倣う。





この時期のこの時間帯は、カフェが混雑する時間帯だったりする。


店内は、ざわざわと沢山の人で賑わっていた。






「混んでるわねぇ…あ。」





タイミング良く開いた席に私たちは座ることができて、凍えていた身体が暖房で温まり始める。



ふかふかの茶色のソファは、気持ちが良い。




「何、飲む?」



「あ、えと、カプチーノで、お願いします」



「オッケー」



にこっと笑うと志織さんは店員さんを呼び、注文を済ませた。





「…今日は本当に突然行って驚かせてごめんね。」




飲み物を待っている間に、志織さんが再度謝る。




「っ、いえっ。とんでもないです。」




自分でも状況が掴めないけど、とりあえず首を振った。






「乃々香ちゃんは、優しいのね。」




そんなんじゃないんです。



本当はあの最低の男とグルになって、貴女を騙している極悪人なんです。




って声を大にして言ってやりたい感情に駆られる。




「実は…乃々香ちゃんにお願いしたいことがあって、会社まで押しかけちゃったの。」





「お願い…ですか?」





なんだろう。



私は首を傾げた。




ちょうどそこへ、注文した物が運ばれてきて、話は一旦中断する。



志織さんはブレンドコーヒー。



ノンシュガーノンミルク。ブラックで飲んでいる。



益々カッコいい。



憧れちゃうなぁ。



羨望の眼差しで眺めていると、コーヒーを口に含んだ志織さんと目が合った。





「さっきの話の続きだけど、ね。」




にこりと笑って、上品にカップをソーサーに戻し、志織さんが言葉を紡ぐ。




「一哉さんのことなんだけど…彼は元々貴女への私の援助を断っていたの。」




はい。



知ってます。それ。



すっごく言い難(にく)そうに言ってますけど。



残念ながらその情報は新しくありません。





「…そうなんですか…」




とりあえず、この反応が無難か?


頭の中で、乃々香という子の考えを作りつつ、どちらともつかない返事をしてみた。




「…乃々香ちゃんも知ってると思うけど。。彼、すごく真面目だから、受け入れた後もとても気に病んでいるの。」




いやいやいや。



全くと言っていいほど、奴は気に病んじゃいませんよ。



あぁ、言ってあげたい。




言ってあげたいけど、言えない。



心が痛むなぁ。



未だカプチーノに口をつけないまま、私は姿勢を正してソファに座り直した。




「だから―」



志織さんがぐっと距離を縮めた。




 

「優しいあの人のためにも、絶対!手術成功させようねっ」




―は?



両手をぎゅっと握られて、私は放心する。




だって。




お願いって、それだけ?



この人、それだけのために、この寒い中私を待ってたの?




なんていう、、御人好し。




「約束っだからねっ!」




ぶんぶんと力強く手を振られるままにして、私は停止した脳の再稼動を試みる。




えー、と?



だからこの人騙されたのか?





「乃々香ちゃん?」




呆れ返っていた私は、名前を呼ばれてはっとする。




「あ、はい!頑張ります!ありがとうございます」




なんとか、返事をして頷く。




「良かったー!乃々香ちゃんが頑張らないと、こういうのって駄目だから。それ聞けて安心したわ。」




キラキラと良い人オーラを放ち、志織さんは胸を撫で下ろした。



私もようやく、カップに口を付ける。




心の中に、二種類のモヤモヤが溜まっていく。



この人への良心の呵責と。



もうひとつは、この人への嫉妬。




「あの…」




そんな思いでいたせいか、つい口を開いてしまった。




「ん?なぁに?」




良い人代表の志織さんは首を傾げた。




「志織さんにとって…兄、は、どんな人ですか?」




後から考えてみても、どうしてこんな質問をしたのかわからない。



自分の知らない彼を、志織さんが知っていると思って妬いたのかもしれないし、その反対に、志織さんが知らない彼を自分が知っていると思いたかったのかもしれない。




所詮、作り物の中の彼だ。




彼は完璧な演技をしている。




それは、目の前のお姫様の理想の王子様な筈だ。




「えぇ?そうねぇ…」




志織さんは、少し照れたようにはにかむ。




「まず、とにかく優しい。思いやりがあって…とても優秀で・・・賢くて、すごく真面目な人よ。私の欲しい時に欲しいものをくれる。そのタイミングを逃さない。私のお願いを仕方ないなぁって言いながら、必ず一番に聞いてくれる。今まで出逢ったことの無い、最高の人よ。」




全ての形容詞は、理想的な人に求める事、そのものだ。



自分はそんな彼を知らない。




「…そうですか…兄は、志織さんに意地悪とかしていませんか?」




私の質問に、志織さんはうーんと考え込むが、




「ないわ。真面目過ぎてそんなことできないんじゃないかしら。」




と答えた。




軽く眩暈を覚えつつも、兄をそんな風に思ってくれてありがとうございますと感謝を述べ、残っているカプチーノを飲み干した。




========================



タタン…タタタン…




家まで送ると言った志織さんの申し出をなんとか断り、電車に乗ってドアの窓の外を見つめた。




色んな感情が、心の中を竜巻のごとく渦巻いていた。




私…どうしたいんだろう。



どうすれば、この気持ちはすっきりするんだろう。




志織さんに真実を打ち明けたい気持ちと、彼女に対する焼きもちがぶつかって、ぐっちゃぐちゃになっている。






『私の欲しい時に欲しいものをくれる。』



『私のお願いを…必ず一番に聞いてくれる。』





さっき聞いた言葉に、抱き寄せられた彼女の細い腰が思い出されて、心が掻き乱される。





私が妹役じゃなかったら。



もしも、最初に彼を引っ叩くなんてことしなかったら。




中堀さんは、今頃私と手を繋いで歩いていたんだろうか。



恋人のように振舞って利用していたのだろうか。



志織さんにするように。



私を騙していただろうか。



あの細い指先で、私を抱き締めていただろうか。



私はあんな幸せそうな顔をしていたのだろうか。





「っ、ばかっ」




そこまで考え、はっとして自分を叱った。




私はそんなんじゃ嫌だ。



だって、彼はそんな完璧な人間じゃない。



ふわふわゆらゆら。



好きなところに出て、好きなように動く。




本当の彼は多分金色の髪をしていて。



口が悪くて。



意地悪に笑う。



突拍子もない行動をして、私を驚かせる。



計算高い行動をして、私を振り回す。



私はその彼に、会いたい。



その彼を知りたい。



佐藤一哉じゃなくて。




『中堀空生っていうのは、本当なんだけどな?』




そう言っていつか笑った、本当の貴方を、知りたい。

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