初任務


キキキキキキスされた????



雑踏の中、ザカザカと音がしそうな程のスピードで会社までの道のりを歩く。



顔が、熱い。



今日は確かこの冬の最低気温を更新した筈だ。



冷たい空気は粒子となって頬にぐいぐい突き刺さってきている気がするのに。



絶対に自分の顔は真っ赤で、そして涙目だ。



だって。




手の甲で自分の顔を隠し、俯きながら思う。




一瞬だけ触れた唇の感触が、リアルにまだ残っている。




どうして?


なんで?



さっきからこのハテナが頭の中をぐるぐる回っている。



こんがらがって配線はショート寸前だ。




なんで私キスされたの?



なんで私にキスするの?



何?



あれって挨拶みたいなもん?



しかも、かかか髪も触られた…



色々思い出すと、ゾクゾクする。



アドレナリンが大放出されているに違いない。






―これから、私どうなっちゃうんだろう?




いつの間にか着いていた会社の自動ドアを通り抜けながら、額に手を当てた。




朝から、いや先週の金曜日から、私の人生はジェットコースターの様に振り回されて、とっくにキャパを越えている。




しかもまたやっちゃったし…



自分のしでかしてしまった事も思い出して、項垂れながらとぼとぼと受付の前に進む。



「おはようございます」



受付嬢が挨拶してくれるので、自分も軽く会釈して通り過ぎようとしたのだが。



「櫻田さん」



受付嬢二人のうち一人に呼び止められた。




「ちょっといいですか?」




「…?」




不思議に思って見ると、先週中堀さんの来訪を私に教えてくれた人だった。




「あの…」




隅っこの方に手招きされて、こそこそと耳打ちされる。



自分自身女子にここまでくっつかれることは経験がなくて、一体何を言われるんだろうと身構える。





「こないだの、、、櫻田さんに会いにきた方は、櫻田さんのお兄様らしいですね?」




「は?」





思わず声を発してしまった。





兄?






断じて違う。



名字を見ればわかるだろう。





「まさかご両親が離婚されて、それぞれ離れ離れだったなんて知らなかったです。やっとの再会でしたのに、色々噂が立って大変でしたね」




そう。



そーいうことになってるのか。




確かにそれなら別姓だしね。



先手を打たれたらしい。




私は心の中で、佐藤一哉という男の詐欺師の根回しに脱帽する。





「私が噂を収束させますから、安心してください」





受付嬢が胸を張って、明らかに恋をしている女子そのものな顔をして言うもんだから、私は彼の前で間違ってもこんな風にはならないように気をつけようと誓った。






「…ところで、お兄様って独身?」





「!?…さ、さぁ?私にはわからないです、すみません、お役に立てずに。では急ぎますので!」




とうとう一番訊きたかったであろう本題に入った受付嬢をなんとか制し、慌てて私はエレベーターの箱に入った。




ちょうど良いタイミングで着ていたエレベーターは空っぽだった。




「はーーーーーーーーーーーーぁ」




止めていた息を吐き出すかのようにして、長い溜め息を吐く。




外が見えるようになっているこのエレベーターが自分は好きじゃない。



昇っていく時はまだマシだが、降りていく時は本当に落ちてしまうんじゃないかと怖くなる。



それはちょうど、今の自分自身のようだった。




『あんた、自分で思ってるより、いい女なんだけどな』




先程言われた言葉が急に頭にぽんと浮かんで、ぼっと顔が赤くなる。



あれってどういう意味だったんだろう。



褒められたのか、けなされたのかわからない。



あの人の言う事や行動は突拍子もなくて、心臓に悪い。




指でそっと自分の唇に触れた。



完璧な男に、ひょんなことから利用されて、髪と唇にキスされた。



うん、意味わかんない。



だけど、自分が舞い上がってるのが分かる。



落ちたくない。



でもこのままじゃきっと落ちる。




『相手の理想の男になって俺は向こうに夢を見せる』



ねぇ、それは私にも?



私もその中に入ってるのかな。



たった二週間だけど。



私は貴方の正体を知っているのだけれど。



それでも、私は、騙されちゃうかな。



いや、もう騙されてるか。




そんなことを思い巡らしていると、エレベーターの上昇が停まって、ドアが開いた。



更衣室に向かいながら、頭の中を整理する。



彼は詐欺師だから、私が騙す相手じゃなくたって、きっといつもの癖で手が出ちゃうんだろうって。



そーゆーの、慣れてるんだもん。



そう考えると、少しずつ落ち着いてきた気がする。



用は私があたふたしちゃうのが、いけないのよ。



私が堂々としていれば、この二週間は普通に終わって、あの男にも隙を見せることなく過ごせる筈。



必死で自分に言い聞かせる。



心を掻き乱されなければ、上手く切り抜けられるはずだ。




ぱんぱんと頬を叩いて、気合を入れる。



ロッカールームには誰も居なくて、ちょっと安心する。



制服に着替えて鏡で身だしなみを確認した。




「!」




―あぁ、駄目だ。前途多難だ。




少しだけ取れてしまった口紅を見て、



私の胸は容易(たやす)く跳ねる。



顔が真っ赤になる。



詐欺師の彼の温度が甦ってしまう。



あんなのは、ただの挨拶にしか、彼は思っていないだろうに。



差し出された紙袋を受け取る余裕もなかったことに、今更気づく辺り、つくづく私は馬鹿だ。





こんな日に限って憲子は風邪をひいたらしくて休み。



誰にも相談することができずに、一日悶々としながら仕事をした。




18時。



「お先に失礼します」



まだ残っている人たちに声を掛けて、私は、月曜日だけどもうこのまま飲みに行っちゃおう、一人酒だ!とヤケになっていた。



支度を済ませて受付嬢と目が合わないように通り抜け、会社の外に出ると真っ暗でなんだか泣きたくなる。



やっぱり缶ビールとつまみを買って帰ろうかな。



コートのポケットに手をつっこみながら、しばし考える。



基本インドア派、引きこもりな私はそんな案も良く思えてきた。




「花音」




突然名前を呼ばれて、はっと辺りを見回す。





「宏章…」



取引先から帰ってきたらしい佐久間宏章、つまりついこないだまで私の彼氏だった人が、息を白くさせながらこちらを見つめ、立ち止まっていた。



直ぐに私はふぃと顔を逸らして、違う方向に足を向け、歩き出す。




「待てって」




瞬間、腕を捉(つか)まれた。




「っ、放して、やだ」




触られたことが。



その場所が。



よくわかんないけどすごく嫌で。



今更私に声を掛ける宏章の無神経さにも腹が立って。




反射的に強く腕を振り払った。





「話を聞けって」



それでも男の力に敵う筈がなく、直ぐにもう一度さっきよりもしっかりと捉まれた。



悔しくて、涙が出そうになったが、堪える。



例えどんなに嫌でもコイツの為に流す涙なんて勿体無い。





―捉まれた腕が、痛くても。





私はぎゅっと目を瞑った。




その時。






「手を」






「放してくれませんか?」





勝手に耳がインプットしてしまった第三者の声が、静かに届いた。




「っ」



振り返ると、黒いコートを着る、黒髪長身の中堀さんが居た。




「あぁ、噂の彼、ね。おまえさぁ、恥ずかしくないの?俺が振ったら次の日に新しい男とかさ。」




掴んだ腕を放さないまま、ちらっと一瞥すると、宏章は直ぐに視線を私に戻し、馬鹿にしたように笑った。



かっと顔に血が上る。



そんなんじゃ、ないのに。



いや、そうなんだけど。



でも、中堀さんが見ている前で言われるのが、恥ずかしくて情けなくて、穴があったら入りたかった。隠れたかった。




「ま、いいけど。俺、今日はお前と過ごしたいんだよね。どうせ、暇だろ?」




ほんと、最低。



最悪。



私ってほんとそれだけの女なのよね。



暇つぶし。軽い女。利用されるだけの女。



あぁ泣きたい。



わんわん泣きたい。



「…やだ」




尚も手を引っ張られ、微力ながら抵抗する。





「もう一度言います。その手を放してくれませんか。私は彼女に用があるので。」





中堀さんの声がすると、私を引っ張る宏章の力が止まった。





「…あんたもわかんないねぇ。コイツはまだ俺のなの。」




宏章が、ワケのわからない返答をして、私の頭の中はぐちゃぐちゃ。



だって、もう会わないって言ったじゃない。



なのに、こんなのっておかしくない?



こんがらがった頭でいると、また強く引っ張られた。




「痛っ」





私が言ったのと同時に―




ドゴッ




鈍い音がした。





その瞬間、身動きが楽になった。



目の前には、宏章の背中をその長い足で蹴り上げた、中堀さん。




前につんのめるようにしてすっころんだ宏章に、正直同情すら覚え、私は口をあんぐり開けたまま固まった。




「…いってぇ…何すんだよっ」




地面に手をついた状態で宏章が顔だけ振り返って、激怒した。



痛いのだろう、本当は掴みかかりたい所だろうに、直ぐに立ち上がることができないらしい。





「何度も…言っているのですが、私は彼女に用事があるんです。」





落ち着き払っている中堀さんは、宏章の前にしゃがみ込み、





「私の、大事な妹なもので」





にっこりと笑う。




「なっ…」




言葉を失った宏章に、中堀さんはさらに一言。




「次は、ないですよ?」




満面の笑みで脅し、立ち上がると、その場に固まる私の手を優しく取った。




「行こう」



そう言って、中堀さんが歩き出した。




手を引かれ、私も俯きながらとぼとぼと歩く。






さっきまで我慢していた涙が零れ落ち、空気がそれを冷やした。





安心して出た涙じゃないのは、自分がよくわかってる。



宏章にされたことで貯まった涙じゃない。



別の感情の涙だ。





胸が、痛い。



ツキンと、痛い。



冷たいガラスみたいに。






『私の、大事な妹なもので』





さっきの言葉が、私のココロに突き刺さっている。




わかってる。


そんなの、わかってるじゃない。



だから、私は馬鹿なんだってば。




元はと言えば自分のせいで。



宏章にあんな風に扱われたって仕方ないんだって。



それなのに。



そこから守ってもらったのに。



本当は男として守ってもらいたかったというか。



兄としてじゃなく。



妹としてじゃなく。





そんな風に思ってしまう自分は完璧この人に惚れている。





「乗って」



引いていた手を放し、中堀さんが言った。




はっとして前を見ると道路の脇にハザードを出して停まっているいつかの高級車。




顔を隠すようにして頷くと、私は中堀さんが開けてくれているドアから後ろの席に乗り込んだ。




「あんた俺のことは二度も叩いたのに、あの男のことは叩けないのな?」




運転席に座り、ドアを閉めた瞬間、中堀さんがからかうように言う。






…そうだった…



私、またやっちゃったんだった…





朝の出来事が思い出され、自分の立場がこっちに転んでも危ういことに気づく。





「それは…」




「泣いてるの?」




「っ…」




言いかけ、被せられた質問に詰まる。



気づかれた…



違うか。



さっきから、気づいていたのか…



ぐすっぐすっと鼻を鳴らしていれば、わからないワケない。



特にこの、、、中堀さんは。




でも、認めたくない。





「あ、アレルギーですっ…」





自分でも苦しいと思う言い訳だが仕方ない。




「…ふーん?」




追求しない辺りも、なんか心得てる感じで、逆に癪に障った。





「なっ、中堀さんはっ、なんであそこにいたんですかっ!助けてっ、く、くれなくたってっ、良かったんですよっ!私はこれからルンルンだったんですよっ!」




涙は止まってくれず、しゃくりあげながら中堀さんに怒鳴る。



なんて自分は我が儘なんだろう。



一体中堀さんに何をしてもらいたいんだろう。



頭ではわかってるけど、口から出てしまったものは戻らない。



やらかした後での後悔は、私のいつもの得意技だ。


「あ、そーなんだ?その割りには大分抵抗してたね」



私の熱が恥ずかしくなるほど、目の前の彼は冷静に言った。



「っ、あ、あ、れは…な、なんとというか…今、流行りの…ツンデレと、いいますか…」




ぼろぼろぼろと涙を流しながら、しどろもどろになる私。





あぁ今顔はぐちゃぐちゃだと確信する。




本当に。



この人の前だとどうしてもっと上手く立ち回れないんだろう。



私だけ、なのに。



こんな風に、ドキドキしたり、顔が熱くなったり、苛々したり、



悲しくなったり、嬉しくなったり、



振り回されているのは、私だけ、なのに。



それよりなにより、この人と顔を合わせたのはまだ数回なのに。



一度として上手に振舞えた記憶がないって、どういうことなんだろう?






「そりゃ、悪いことしちゃったね」





これっぽっちも悪いと思ってなさそうな彼が、脱いだコートを誰も居ない助手席に追いやりながら言った。







「…でもね」





そしてネクタイを緩めながら、クスリと笑いを漏らし―








「二週間は、あんた俺のもんだから」






運転席から、ちらりと後ろを振り向いて、不敵に言い放った。




「今から付き合って欲しい所があるんだ。細かいことはそこに向かいながら話すよ。」




中堀さんは前に向き直ると、ハンドルを握った。






―だ、、だ、、、駄目だ。




後ろに流れていく景色を見るフリをしながら、私は案の定唇を噛み締めていた。




彼は正真正銘、詐欺師だ。



私はそれをしっかりと知っている。



なのに。




私はこの詐欺師に騙されたいと思い始めている。




『俺のもんだから』




って言われて、不本意ながら喜んじゃってる自分がいる。



なんてゲンキンなんだ、私。




コツン、とガラスに頭を軽くぶつけ、いつの間にか涙が止まっていることに気づいた。



この先、どうしようか―



考え始めた矢先、




「今日はこれから、住田志織に会ってもらいたい」





突然、降ってきた言葉に、閉じかけていた目が見開かれた。





「え。。ええええ!?」




完璧取り乱し、咄嗟にバッグを漁る。




「あ、化粧直さなくていいから」




すかさずルームミラーごしにこちらを一瞥し、中堀さんが言うもんだから首を傾げた。




「なんでですか?」




私は嫌なんですけど。直したいんですけど。




「泣いてたと思われた方が都合がいいから。」




さらりと言うもんだから、一瞬反応が遅れた。




ぜ、ぜ、ぜ、ぜ、



前言撤回!



私は絶対この男になんか騙されない!



好きになんかならない!




「しんじらんないっ」




瞬間湯沸かし器のような私は強く抗議する。




「今回は俺から志織への御礼の食事だ。あんたにはその席で援助の感謝の言葉を述べてもらう。俺のことはおにいちゃんって呼べばいい。」




私の反応なんてお構いないしに、中堀さんは淡々と説明を続ける。




「あ、因みに、俺の妹は少食で人見知りという設定だから、あんま食べ過ぎんなよ?一応病気だし。」




車が停車する。



何度も雑誌に取り上げられているのを見ていたけれど、余りに高過ぎて行くことの叶わなかったフランス料理のお店。



芸能人もご用達とか。



そして季節柄輝く、上品なイルミネーション。




「期待してるよ?乃々香」




運転席からこちらを見る男の笑顔を映し出す。





そうだった。




彼は悪魔だったんだってば。




こんなに天使に見える程甘く整った顔をしているけれど。





甘ったるい声を出すけれど。





私は、





騙されないんだから。

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