佐藤一哉という男

携帯のバイブの音がする。



ってことは…



部屋の寒さに驚いて、ベッドの中に潜りこみながら、私は寝ぼけた頭で考える。




「月曜日か…」




また、憂鬱な一週間の始まりだ。



目が、開かない。


起きたくない。


寒い。


もぞもぞと腕だけを外に出して、仕掛けた携帯のアラームを切り、エアコンのリモコンを探し、運転ボタンを押す。




もう少しだけ―



そう思いながら、僅かな時間まどろむ。



と。アラームを切った筈の携帯が、再び振動し始める。



こんな朝早くから電話?



いや、常識外れてるでしょ。



イタ電かもしれないし。



無視しよう、無視!



ぎゅっと枕を頭から被るが。




「振動が…」




響く。



軽く舌打ちして、仕方なく重い身体を起こした。



そして、通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。




「はぃ、もしもし…」




やっとのことで出る。



と同時にコールが消えた。




「…最悪な朝の始まりだわ」




苛々しながら、誰からなのかを確認すると。




画面に出ているのは―



「佐藤…一哉…」



聞き慣れない名前を、口にしてみて気づく。



初めて声に出したことを。




「やっぱり終わらなかったか…」




悪夢はまだ続いているのか。



憂鬱な気持ちで手の中にある携帯をじっと見つめる。





「わっ」




携帯が再度振動し始めた。




「は、はいっ」




慌てて通話ボタンを押す。




『おはよー。こないだはどーも』



あぁ、馬鹿。



自分を罵った。



今私の胸がきゅんって鳴った。



ほんと、信じらんない。



大体今6時よ。非常識よ。



そしてこの男は私を利用する最低野郎よ。



利用する為のターゲットに私がなっちゃったのよ。



ただでさえ、良い様に利用される女のレッテルを貼られている私なのに。




ホント、私って不幸だわ。




こんな男…




好きじゃない好きじゃない好きじゃない好きじゃ…




『聞いてる?』



必死で心の葛藤をしているのに、甘い声が再びしてドキドキする。



馬鹿花音!



「…こちらこそ、、お世話になりました…」




なんとか平静を保って答えるが、若干声が上ずっている気がする。




『服渡しにいきがてら、打ち合わせしたいんだ。今日7時半にあんたの会社の最寄り駅にあるパーキングに来て。』




「え・・ちょ」



私は携帯の画面を見て愕然とする。



「うそでしょ…」



勝手に場所を指定して、返事も待たずに電話切るとか、在り得ない。




私に拒否権はないってことか?




ベッドの上、暫く私は項垂れていた。




少しして、




「まさか…」




ふと頭を過ぎった考えに、思わず呟く。



壁に掛かる時計をちらっと確認。



ただいまの時刻は6時14分回ったところ。



出社時間は9時。




っていうことは。。




「朝の7時半ってこと?!」




素っ頓狂な声を上げてしまった。



まさかまさか。いやでもあり得る。



だからこんな早い時間に電話かけてきたんだ。



私は慌てて、洗面所に向かった。




========================



「…ふぅ」



駅を出たところで、私は深呼吸をしていた。



あれから慌てて朝シャンして、ドタバタと身支度を整え、そして―




「…ほんとバカ」




呆れるくらいに、緊張していた。



関わらない方が良いことは、重々承知していたし、彼がロクでもない奴だということもよくわかっているつもりだ。



だから、とりあえず、二週間妹になってやって、サヨナラすればいい。




本来なら、かなりの迷惑。



面倒でややこしいことに巻き込まれて、げんなりしているべき状況な筈だ。




なのに。






信じ難いことに、心の隅っこで、どんな形であれ、彼ともう一度会えることを、嬉しいと思ってしまっている自分が居る。





その上、緊張の余り、駅近のひとつしかないパーキングまで足を踏み出すことが出来ないでいる。



腕時計に目をやる。




―や、やばい。




約束の時刻はもう5分後に迫っていた。



ごく、と生唾を飲み込み、ガチガチになりながら、目をぎゅっと瞑った。




―落ち着け、落ち着け。




手先が冷たい。



外気はさらに寒い。



なのに、変な汗をかいている。




男相手にこんなになった自分は初めてだ。



正直、疲れる。





このままじゃ、駐車場に着くまでに、心臓は口から飛び出してしまっていることだろう。




や、やっぱり、午後のことだと勘違いしましたって、、後で謝ればいいかな。




脳内は簡単に逃げ道を作ってくれている。




けど、会いたい。



でも、会いたくない。



だけどやっぱり会いたくない。




いや、会いた…「おい」




いつの間にか目を閉じたまま両手で握りこぶしを作り、悶々としている私の前方から、忘れることの出来ない声がした。




どうしよ…



目、開けたくない。




予想が的中してしまうことが、恐ろしい。




「おーい」



そんな私に、再度声が掛かる。



「目ぇ、開けろ」



どうしよう。もう、確実だ。



降参して、私は恐る恐る瞼を開いた。



目の前には―



いつかの、



黒髪で、スーツを格好良く着こなしている、紳士。




もとい、冷酷非道な男。





「ど、して?ここが…」



掠れる声で、口をついて出た質問が、これだった。




「こねーな、と思って。こんだけ沢山の人間が忙しそうに行き交う中、柱の前で死にそうな顔して突っ立ってる女はお前しか居なかった。」




呆れたように、彼は答える。




「…すいません…」




私は益々小さくなるばかりだ。





「とにかく、いくぞ」



そう言うやいなや、彼は未だ冷たい私の手を掴みパーキングの方へと歩き出した。



「うぉ、さみぃ」



丁寧な言葉遣いだった中堀さんが、少し乱暴な言葉を使うのに、いちいちドキドキする心臓を呪う。



それでも。



歩調は女の私にしっかり合わせてくれている所が、なんだか辛い。



女慣れしている―



そう思って傷ついている自分が悔しい。



しょうがないじゃない。



この人には、大事なカノジョが(多分)いるんだもの。



そういうことをしていい素材だもの。



私のモノには絶対に、なってはくれない。



手の届かない人だもの。





手を引かれて歩きながら、そっと彼の横顔を盗み見る。



―本当にきれーな顔だなぁ。



再確認する。



金曜の昼には黒髪だった彼は、金曜の夜から確かに金髪だった。



―黒に染めたのかな。でも金髪の時も染めてるわけだよね?痛まないのかな。



艶やかな髪はその気配すらない。



長い睫毛も、高い鼻も、薄めの唇も、全てがちょうど良い位置にある気がする。




「…俺の顔になんかついてる?」




前を向いていた瞳が、急にこちらに向いたので一際大きく心臓が跳ねた。




ふ、不意打ちっ




「いいいいえ!何も!」



わざとらしいほどに目を逸らてしまった。




「…ま、いいけど。着いたよ」



ぱっと手を放されてしまったことでズキンと痛む阿呆なココロ。



「中に入って」



そう言って、彼が開けたのは格好良すぎる車の後部座席のドア。



自分は車には詳しくないし、正直興味もないが、目の前の物が外車で、高級車だということはわかる。



外からは中を見ることが出来ない。



つまり、スモークガラスだ。



「お、お、お邪魔します」



どう頑張っても挙動不審になってしまう自分が恥ずかしい。



どうしてもうちょっと堂々とできないんだろう。




「ちょっと、奥に詰めてくれる?」



「え?あ、はい」



てっきり私は彼が運転席に行くものだと思い込んでいたので、手前に座ろうと思ってしまったのだが、彼は後部座席の私の隣に座った。



近っ



心中で叫び、心臓の音が伝わってしまわないように、反対側のドアに身体を押し付けるようにして縮こまった。




「ふっ、そんなに離れなくても…」




彼がそんな私を馬鹿にしたように笑う。




キーレスで勝手にかかったエンジンと一緒に温風が車内の温度を上げる。




私の頬は、それとは無関係に紅潮してしまう。




「ちょっと、時間がないから、さくさく終わらせるね?」




腕時計に目をやると、彼は切り出した。





「まず、佐藤一哉っていう男は年が29歳で、超エリート。大手外資系の会社に勤めていて、海外出張にバンバン行っている忙しい人間だ。」



自分のことではないように話す彼に、違和感を覚えつつも、なんとなく頷く。



「ただ苦労人であり、両親を早くに亡くして親戚をたらいまわしにされていた。努力して国立の某大学を出て、今は妹と二人暮らし。その妹も就職をして5年程経つので、そろそろ自立できるようになってきた。」




ん?




妹というキーワードに反応する。





「かなり真面目で正義感に強い男だから、妹が結婚するまでは自分は結婚しないつもりで居る。そんな妹は長く付き合っていた男性と近々式を挙げることになっていた。だが、ある日その妹が命に関わる心臓の病に侵されてしまう。妹は昔から心臓が弱かった、という設定だ。」




んん?




それってもしかして…




「それが、佐藤乃々香25歳だ。一哉は4個下の妹を溺愛している。なんとかして心臓移植をしてやりたいと考えた。」




やっぱり。



私か?



「いくらエリートと言え、金がいる。一哉は途方に暮れる。」




実に不幸なシナリオなのに、世間話でもするかのように、彼は淡々と語る。





その上、



「そこで、だ。」



あろうことか、彼はニヤリと笑った。






「この男には、結婚を前提に交際している住田志織(すみだしおり)という女が居る。この女の年は佐藤一哉と同い年だ。結婚したくて仕方がない。結婚に邪魔な要素はなんだと思う?」



急に振られて、答えに窮する。




「えっ…と」




「妹、だ」




コイツ…私の答えなんて最初から期待してないわね…全然考える時間をくれないじゃないの。



ちょっとムカつく。




「一哉が苦悩しているのを見て、裕福な彼女は自ら協力をしてくれる。つまり、支援してくれるわけだ。」




「なっ…」




「勿論、真面目な一哉は断わる。だが、偶然にも、彼女は一哉と妹が一緒に居るところを見てしまう。なんと、体調が悪いと言うのに妹は働いているんだよね。」





ここで思い出したようにクスクスと笑う。





「自分の医療費を稼ぐために妹自身が仕事を辞めることができない事実を隠していた一哉を、志織は責める。そして、もう一度申し出るのさ。一哉はそれを渋々受ける。…とまぁ、今の展開はざっとこんなところだ。」




開いた口が塞がらないとはこの事だ。




だって、つまり、目の前の人は…







「さ、詐欺師…」







ポロリとでたワードに、目の前の彼は満足気に頷く。






「大正解」





私の時間は、必然的に止まる。




少しの沈黙の後、





「嫌です…犯罪の片棒は…」





私は真っ白になった頭でかろうじて呟いた。





「要は向こうが被害届を出さなきゃ、犯罪じゃないんだよ。」




腹黒い男は私の反応まで計算していたかのように、スラスラと話す。



「それに互いの利害は一致している。相手の理想の男になって俺は向こうに夢を見せる。向こうは俺に惚れて色々なアクションを起こしてくれる。こちらが求めずともね。」




「……そ、それに…私、病気の人みたいに痩せてもいませんから、心臓病の役には不適合です。」




軽く尖らせた唇を、窓の方に向けて、彼と目が合わないようにする。




―あぁ、本当この人最低な人間なんだ…



何度も何度も心の中で繰り返した言葉を、今一度頭の中で呟く。



窓の向こうにはパーキングの看板、そして犬を連れて散歩する人が見えた。



ましてや、詐欺師だなんて。



どんなに良い男でも、駄目だわ。



だけど、ここは私も脅されているわけだし…



はいやりますって言って、警察に駆け込もうかしら。



いやでもそしたらあのデジカメの写真を警察の人に見られることになる。



やっぱり、八方塞だわ。





とにかく、自分の容姿で役者には向かないってことを伝えないと。




「!?」




突然、後ろ髪にふわりとした感触。




ひと掬い…さ、触られてる…




一気に胸の音が加速し頭に血が上った。




「あんた、自分で思ってるより、いい女なんだけどな」




しゃ…



シャンプーしてきて良かった…




明らかに受け入れがたい状況の中で、そんな場違いな気持ちが過ぎり、自分で呆れる。



「ふっ」



固まったまま、何も言えずにいると、髪を通して彼の笑いが響く。



もしか、して…



いや、もしかしなくても…



自分の掬われた髪が、彼の唇に当たっている。



キ!?



まさか、キスされてる!?



いやいや違う違う。当たってるだけ。



落ち着け、自分。



キスじゃない。うん。



なんか、もう、過呼吸で気絶しそうだ。



「相変わらず、色々考えちゃうんだね。」



くくっと笑ったまま彼はそう言うと、パッと髪から手を放した。



「~~!」



声にならない声を出し、涙目になる自分がいる。



こんな状態じゃ、もう後ろを振り返ることができない。



悔しい悔しい悔しい。



こんな奴、知らない。



こんな奴、放っとこう。



こんな人、好きじゃない。



そう思いたいのに。



思えない。




ぎゅぅっと目を瞑り、自分の心の声のボリュームを大にする。




断れ!




断固拒否しろ!




花音!




一生犯罪者の相方のレッテル貼られるんだから!




どうせなら自分の下着寝顔なんてバーゲンしてやれ!





いけ!





「ほんとに…に、二週間…だけです、ね?…」




これだけ、心の中で理性が警告を発しているというのに、私の口からは正反対の言葉が出てくる。




「うん。後はなんとかする。たぶん彼女は俺がいなくなっても絶対にいつか帰ってくると信じておばあちゃんになっても待っているだろうね」



確信を込めて言い切る彼の言葉に、相手が不憫に思えて仕方ない。



「わかりました…」



気づけば承諾していた。



「二週間!二週間だけですから!」



彼が何か言う前にまくしたてる。



「じゃ!また!会社に遅れると困るので!私もう行きます!」



振り返ることなく車のドアに手を掛けた。




と同時に右肩をぐぃっと引っ張られて強制的に振り返ってしまい―




「え…」




唇に啄ばむように触れた柔らかな感触に、驚いて瞬くことすら忘れた。





「忘れ物」




何事も無かったかのように、にっこり天使のように美しく笑う完璧な彼は、私に紙袋をひょいと差し出した。





「ばっ」




我に返った私は―




「ばかにしないでよっ!」




バチーン!




半泣きで彼の頬を殴った。



そして転げ落ちるようにして車から降り、全速力で逃げた。




バクバクする心臓は、走っているせいだと思い込もうと必死になりながら。

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