私の名前を呼ばないで

びゅう、と吹く木枯らし。



臙脂色のマフラーが飛ばされないように左手で掴み、右手でおろした髪を押さえた。




すっかり寒くなったこの頃。




スクランブル交差点を行き交う無数の人々が、沢山居ることを感謝するようになる。




夏は暑苦しくて嫌だが、冬はなんとなくそこだけ暖かいような気がするからだ。




こんなこと思うのは、私だけかな。




気を取り直して私は会社に急ぐ。




横断歩道を渡り切り、工事中の為に狭くなっている歩道を通り抜け、角を曲がる。





「うわっ!」






え?うわ?



私がはっとしたのと同時に。





ドン!バサバサッ






身体に衝撃。




「いったぁ…」



出会い頭に誰かにぶつかったようだ。



予想していなかった衝撃に転んで腰を打ったらしく、その痛みに思わず顔をしかめた。




「すいません、大丈夫ですか?」




一も二もなく。



上から降ってきたその声が好きだなと思った。



冷たい道路の温度も、腰の痛みも吹っ飛んでがばっと顔を上げる。



心配そうにこちらを見て、手を差し伸べる男性。



やばい。



かなり、イケている。



いや、すごい格好いい。



モデルみたいな背の高さ。


手足の長さ、半端ない。


その上、格好良いけど、甘さあり。


仕事できますって感じの富裕層。



黒いコートは私が着たら床についちゃってついちゃってずるずるとひきずること請け合いだ。



もろタイプ。ど真ん中。


スーツもビシッと着こなしているし、差し出されたその手に嵌めた手袋も皮だし。


そして纏っている香り。


悪いけど私はシトラス系が苦手だ。


だけど男の人はこの香り多いんだよね。


有名なメーカーでもメンズはシトラスが多い気がする。


仕方ないよねって思ってたんだけど。



今仄かに香るのは。



甘い麝香(ムスク)。



心揺さぶられる、ドキドキするような。




「―あの、大丈夫ですか?」




黒髪をサラリと揺らして、彼は私の目線までかがむと、覗き込むようにしてもう一度訊ねた。



思わず見惚れていた私もハッとして、



「だ、だ、だいじょうぶれっす!」



直ぐに立ち上がった。



伸ばされた手を取ったのか、って?



そんなことしたら心臓が持たないわよ。



「良かった」



安堵したようにふわりと微笑んで(ただ笑ったんじゃないの、ほほえみなの)、彼はそのまましゃがみこみ、散らばった書類を拾う。




「あ、す、すみません」




心の準備なしで見せられた笑顔にドキドキしながら、自分も拾う。



よく見たら私のじゃないの。



ぶつかった時にバッグを手放してしまったらしい。



会社で使う書類が散乱している。




「はい、どうぞ」



テキパキと素早く集めて、彼はバッグと一緒に私に差し出した。




「あ、あありがとうございます」



終始どもりっぱなしの私。



ぺこぺことお辞儀して受け取ると、バッグの中のファイルに仕舞った。




「痛いところ、ないですか?」



彼が悪いわけでは決してないのに(お互いの不注意だから)、交通事故を起こしちゃった人みたいにまた気遣いの言葉をくれた。



「だ…だいじょうぶです。ありがとうございます」



本当は腰がずきずきとしたけれど、別に言ったところで何があるわけでもないし、彼にこれ以上迷惑を掛けたくなかったので言わないことにする。



更に言えば、咄嗟についた手の平も痛い。



「そうですか、なら良いのですが。では、急ぎますので、失礼します。」



「あ、、、、はい。」




軽く会釈してあっさり彼は駅の方へと歩いて行く。




その後ろ姿をついつい目で追いつつ、がっかりする。




呆気無い。



ほんと、呆気無い。



こんなのが運命の出逢い、とかだったら笑えるけど。



現実にそんなことはないって。



頭ではよくわかってるけど。



でもほんのちょっと。



ちょっとだけ。



この先の進展があったら、なんて心の隅で期待した自分。




どこまで馬鹿なんだか。



ほんと、アホウドリだよ。



行き交う人々の邪魔になっていることを重々承知しながら、私は盛大に溜め息を吐く。



「ばからしい」



自分にしか聞こえないボリュームでそう言い捨てて、くるりと向きを変え会社に歩き出した。



風が冷たい。



そろそろ、止めようかな。



何度も思ったけど、できない。



運命の人探しは。



いつの間にかただの自分の寂しさからできた隙間を埋める為だけのものになって。



そして、埋まらないことに気づく。



ホッカイロが入れてあるコートのポケットに手を突っ込み、冷えた手を温める。



こんな一件、忘れちゃおう。



あんな理想的な王子様。



きっと立派できれいなお姫様が居る筈。



私みたいに馬鹿じゃなくて。


私みたいに安い女じゃなくて。


私みたいに愚かじゃなくて。



汚くなんて無い。



聡明で気高くて純白のドレスが似合う。



童話の中にでてくるようなお姫様が。



=======================



「おはよーございます」



会社に着き、制服に着替える。



「あぁーら、おはよう。今日は少し遅いわね?また朝帰りかしら?お盛んねぇ。」




隣の隣の隣にあるロッカーで先に支度を整えた茶色いふわふわパーマの女が、私を見てクスリと笑った。





嫌味なお局女め。



あんたの化粧は塗り壁みたいなんだよ。



影で言われてんの知ってっか。




「いえいえ、椿井(つばい)さんと一緒になるなんて、私もたるんでいますね」




心の中であっかんべーをしつつ、にこりと笑って言ってやる。




「それはどういうことかしら?」




バタン。



音をたててロッカーを閉めると、きちんと椿井に向き直る。




「大先輩である椿井さんよりも早く来なければといつも思っているのに来れなかった私自身への反省ですよー。」




申し訳なさそうに言えば、目の前のお局はまんざらでもない顔をする。




「あら、良い心掛けね。」




ばーか。




顔に満面の笑みを貼り付けて、心の声を大にして叫んだ。




「くそばばぁ」



お局がロッカールームを出て行った瞬間、誰も居ないことをいいことに思い切り悪態を吐いた。


こっちだって伊達に5年もいない。


上へのゴキゲン取りも、下への先輩風もどんな案配でやればいいかくらいわかってるつもりだ。


もちろん自分へのケア、つまりストレス発散の仕方もね。



今しがた自分の発した台詞で大方スッキリした私は、自分の社員証を付けようと探す。


今朝ゲートを通る際に、横着な私は前の人に続けて入ったので今更なのだが。



ここの警備員も、たるんでるな―



自分勝手極まりないことを思いながらバッグをがさがさと漁る。



「?」



あれ。



四角いプラスチックケースの感触も、長いストラップの感触もしない。



おかしいな。



よーくバッグを覗き込んでみる。



「…ない」



社員証が、ない。



どこにいっちゃったんだろう?



家に置いてきた?



ううん、いつもバックに入れっぱなしだもん。これは仕事用だから普段は使わないし…




あ。



もしかして、さっきぶつかった所?



ありうる。



だって派手に色々吹っ飛んでたし。



ジェントルマンに見惚れて他に何も落ちて居ないか確認しなかったし。



もう一回見にいかなきゃ駄目か。




でも寒いなー、面倒だなぁ。



誰か心の優しい人が拾って駅に届いてたりしないかな。



困ってるだろうからって、会社まで届けてくれたり…するような暇な人は居ないわよね。



とりあえず、昼休みになったら駅に電話してみて、届いてるか確認しよう。



どうか、ありますように。




そう願いつつ、オフィスに向かった。



「よぉ、櫻田。お前、佐久間にフラれたんだって?」



廊下を歩いていると、5個前くらいの彼氏、飯山大介(いいやまだいすけ)がにやにや笑いながら隣を歩く。



ちなみに佐久間っていうのは、昨日の『もう会わない』メールの宏章のことだ。



部署は違えど、彼もここの社員だった。



何も言わずに黙っていると、飯山はくすっと笑い声を漏らし、




「今、俺もフリーだぜ。久々にどう?」




と耳元で囁いた。



今なら思う。



どうしてこの男と付き合ったのかって。



運命どころじゃない。



色々相性最悪だ。



いや一方的に、私が無理だ。



それに、私は一度別れた人間とやり直すことは絶対にない。



「残念ですけど…間に合ってます。」



ほほほ、と愛想笑いでごまかして、軽く速度を速め、自分のデスクに向かった。


「花音…あんた、今度は何人目ぇ?」



呆れた顔で隣のデスクの篠田憲子(しのだのりこ)が尋ねる。



憲子には昨夜メールで一応教えたから知ってるのは当然。



だけど、なんで飯山が知ってんの?



会社って本当に噂広まるの早すぎる。




この会社の目ぼしい男とは、大体付き合った。



だからなのか。


多分私と付き合うのだって、ネタのひとつに過ぎないんだろう。



この噂の絶えない女と付き合うのが、男としてのステータスになるとか思ってるのか知らないけど。


私は溜め息をひとつ吐き、回転椅子に座る。



ま、上層部から責めていったもんね。



残るは雑魚ばかり。




「…もう、会社じゃやめる」




パソコンを起動させながら、決意を口にした。




「やめるって…あとはほとんど残ってないじゃんよー」



益々呆れたというように、憲子が頬杖をつきつつ、笑う。



「まぁ、狙った人をそのくらい落としたあんたも、すごいけどねぇ。」




そうじゃないのよ。



パソコンの画面と向き合って、憲子には何も答えずに心の中で呟く。



狙った人だってね、本当に真の男のような人間だったら私になんか食いつかない。



この会社の中に、それだけの男が居なかったってだけ。



私はそう思ってる。



でも―



メールチェックしながら、ふと思う。



私はいつも手近な所で選んでいるように思う。



手が届かなさそうな人は、自分からラインを引いていた。



今朝の、あの人みたいに。



きっと、もっと似合う誰かがいるだろうって。



クスリと自嘲の笑いが漏れた。



「げ。何笑ってんのよ、気持ち悪」



隣で退いている憲子に知らん顔して、痛い事実を認識する。




いつの間にか自分は、運命の人から一番遠い所にやってきてしまったらしい―



理想の王子様とは、釣り合いの取れない、落ちぶれた女に。




========================



「花音、ランチいこっ」



「ごめん」



勢い良く立ち上がった憲子が、がくっと肩を落とした。



「なんで?!」



私は無言で自分の胸を指差した。



「?何?自慢?」



憲子が怪訝な顔をするので、苦笑する。



「違う。社員証。」



憲子はそこでやっと合点のいった顔をした。



「あぁ、そういえば、ないね?どーしたの?」



「今朝、駅から会社に来るまでに人にぶつかっちゃってさぁ。バッグひっくり返しちゃったの」



「まさか、そこに?」



「わかんない。でも、ないんだよね。駅に届いてるといんだけど。っていうわけで、探しにいくから、今日ランチはパス。ごめんね。」



手と手を合わせて、パンと鳴らした。




「そっかー。そういうわけなら仕方ないかー。駅から反対の新しく出来たカフェ飯に行こうかなってリサーチしてたんだけど。また今度にする!」



「え、いいよ。行ってきなよ、誰かいるでしょ。」



憲子は私と違って、色んな人たちと仲が良い。


私は、皆さんご存知のようにアホウドリですから、毛嫌いされている。


要は、男好きってことだからね。



「や・だ!花音と行くの!決めたの!だから今日は社食に行くー。社員証、見つかるといいね!ご飯ちゃんと食べなよ!?じゃ、早く行かないとランチ良いやつ売り切れちゃうから行くねー!」



ばいばーいと、可愛らしく手を振って、憲子はオフィスを後にした。



人の良い憲子に申し訳ない。



「さて、と。電話してみよっかな」



大体が出払って、がらんとしたオフィス。



一人で呟くと、私は電話に手を掛ける。



その時。



RRRRRRRRRRR



「わっ!?」



触ったと同時に鳴り出した電話に驚いて、思わずびくっと震えてしまった。



「あ、内線か…」



気を取り直して、電話に出る。



「はい。総務課櫻田です」



『受付の泉川ですが。櫻田さんに中堀様と仰るお客様がいらっしゃっています。』



え?



「えっと…どなたでしょうか?」




『ですから。中堀様、です。下まで降りて来られますか?』




全く知らないんだけど。



予想だにしない状況に、思考の糸がぷっつりと途絶え、静止する。




『…ではよろしくお願いします』



黙りこくる私に、受付嬢は受話器を置いた。



内心ではきっと、『いいから早く降りてきやがれ』ぐらいに思ってるんだろう。


でも苛ついた態度を少しも出さないということは…。




男、か?


それも良い線の。



まぁ、いっか。このまま駅に探しに行こうっと。



厚手のジャケットを羽織って、財布と携帯をポケットに入れると、エレベーターホールに向かった。



しかし。



中堀って、誰だっけ。



知り合いにいたっけ。



今まで付き合った人、だっけ?



わかんない。



一日しか付き合ってない、とか。



名前も知らない、とか。



そんなのもしょっちゅうあったし。



はは。考えれば考えるほど、最低な女だな、私。



なんだか悲しくなってきて、元恋人の線を考えるのはやめにした。



エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押す。



ふいに、朝に嗅いだあの甘い香りがしたような気がした。



「…まさか、ね。」



思い浮かびそうになった考えを慌てて打ち消した。



形になってしまう前に。



一階に着くと、ロビーには人が結構居て、うんざりする。



皆が皆そうするわけではないけど、大体自分に向けられる好奇の視線から逃れるように、受付まで俯いて歩いた。



肩に掛かるくらいの髪が、顔を隠してくれるから。





「おっと」




そんな姿勢で歩いたものだから、案の定誰かにぶつかった。




「…すみません」




俯いたまま、小さく謝ってまた歩き出そうとする。




あれ。




この、香り。。




思ったのと同時に。




「あ、ちょっと。」




軽く、腕を掴まれた。




「え」




驚いて顔を上げると。




目の前に居たのはまさかの、朝の彼だった。



「え、と?」



なんで、この人がここに居るの?




状況が掴めず、ただただ彼を見つめる。




「突然申し訳ありません。あの、朝道路でぶつかったのですが、私のこと、覚えていませんか?」





焦ったような顔で私に問う。




こっくりと私は頷く。



忘れるといいながら。




覚えていますとも。





十分すぎるくらいに。





「良かった。実はあの時、社員証も拾っていたのに自分としたことが、お渡しするのを忘れてしまって。途中で気づいて引き返した時にはもう遅かったようで…迷ったのですが、仕事でここの近くに用事がありましたから、ついでに届けに来てしまいました。」




申し訳なさそうに彼はそう言って、私の社員証を差し出した。




「えっ、、わざわざありがとうございます。あの…あなたこそ、電車に乗り遅れたりされたんじゃないですか?」




内心パニックに陥りつつ、私も恐縮しながら訊ねる。





「大丈夫です。私は電車ではなくて、車通勤ですから。今日はたまたま駅のパーキングに停めて用事を済ましていたんです。」




にっと笑った笑顔が眩しい。


わかってる。営業スマイルだって。



どきどきする自分の心臓を叱る。




だけどこんなことってあるんだな。



たまたま今日のあの時間に居合わせて、たまたまぶつかる。



そして、たまたまこの近くに用事があったから、届けてくれる。



その上、こんな文句なしのイケメンで。



周囲の視線が彼に注がれているのがわかる。




話している相手が私と分かってさぞかし皆悪口を言っていることだろう。





わかりましたよ、私からもう解放してやりますよ。




狭い心で色々考えて、




「本当に、わざわざありがとうございました」





私は深々と頭を下げた。



心の中で念じる。


貴方は私なんかとツーショットでいちゃいけない人間なんです。



どうかあらぬ噂を立てられる前に、ここから居なくなってください。




「お昼、これからですか?」




少しの間の後、彼が時計を見ながら訊ねるので、戸惑いながら、そうですと頷いた。





「…私もまだなんですが、良かったらご一緒しませんか?」





「―へ?」





自分の聞き間違いかと耳を疑った。





「この近くに良いお店があるんです。男一人というのも味気ないので、ご都合が合えば。」



どうやら、聞き間違いではなかったようだ。




ふわり微笑むその顔は反則だろう。





「…いいんですか、私が行って…」




思っても無い驚きの展開だが、さすがに躊躇われる。



だって、こういうの、アリなの?こんなにトントンと物事進むものなの?





「勿論です。ご不便をお掛けしたお詫びにご馳走しますよ。」




いやいや、貴方は何も悪くないだろう。



ぽかんとする私を見て彼は言った。




「そうだ、自己紹介がまだでしたね。失礼しました。私の名前は中堀 空生(なかぼりあお)と言います。」





本当にボケてるけど、そう言われて初めて、私は彼が来訪者だったのだと気づいた。



い、いいのかな?


こんな展開を受け入れて。



戸惑い過ぎて返事すらできない私をどう勘違いしたのか、彼は、



「直ぐ近くなので煩わせはしませんよ。」



と言って、また腕時計に目をやる。その仕草に見惚れていると、顔を上げた彼とばっちり目が合った。




心臓が跳ねて、動機息切れして、どうにかなりそう。



あぁ、やばい。



もうくらくらしちゃう。




でも―、でも駄目。




またどうせいつもの結末が待っている。




これはその第一歩。



傷は浅い内に済ませたい。



もうだってこの人がどうであれ、私絶対好きになっちゃう。




ここは断るのよ、花音!




意を決して口を開きかけた私の心の中の葛藤を知ってか知らずか、彼は不敵に口角を上げてー





「さ、行きましょう。櫻田花音、さん。」





私より先に魔法をかけた。




駄目。




そんな甘い顔して、私の名前を呼ばないで。




5年居ても覚えてくれない人達ばかりの中で。




どうして今日出逢ったばかりの貴方が、私の名前を呼ぶの?




がっかりはしたくないの。




期待させないで。




でも所詮私はアホウドリ。



優しくされると誰にでも簡単に捕まってしまう。



正直な胸は理性とは裏腹に高鳴ってしまう。






「…はい」



素直に出てきてしまった承諾の返事に、目の前の彼は満足そうに笑って、踵を返した。



その後をついていく、意志薄弱な自分。



今、私どんな顔しているかな。



たぶん、真っ赤だ。



自動ドアを抜けるまでの間が、長く感じられた。



人の目が気になる。



きっと、昨日男と別れたばかりなのに、もう違う男連れてるって噂が、夕方までには広まっているだろう。



もうこんな会社辞めちゃおうかな。



そしたら全部リセットされないかな。



そしたら、、



この男(ひと)と向き合えるかな。



既に奪われかけている心。



……いやいやいや。



浮かんだ思考にはっとする。



すぐにそっちに考えちゃう私がいけないんだ。



ただのお詫び、だってば。



私は自分に言い聞かせる。



これはたまたまのことで。



この、中堀サンて人は、世界上、稀に見る超がつく良い人で。



かなりの御人好しで。



そして、一人ランチができない寂しがりな男で(この人に声掛けられたら、会社でも道端でも、皆付いてっちゃうと思うけど)。



きっと、私が居なかったら、別の誰かを誘って行くわけで。



それよりも、ぶつかったのが私じゃなかったら。



恐らく、その人と食事に行ったことだろう。



よし。うん。



それでいい。



普通の線に戻った気がする。



恋愛モードにすぐ突入しちゃう私の悪い癖は脱した。



「ほら、近いでしょう?」



自分から桃色空気を追い出せたことに自己満足していると、前を歩く中堀さんが振り返った。




「え…?」



中堀さんに見惚れそうになるのをなんとか堪え、彼の背後に目をやった。



本当だ、近い。



こんなすぐ傍に隠れ家的な場所あったっけ。



うちの会社から徒歩5分圏内だ。



ていうかこれ本当に店なのかな。お店に見えないんですけど。




もしかして、世界稀に見る超が付く良い人中堀さんは、実は世界稀に見る極悪人で、私を悪の組織に売ろうとしているの?





そこまで思考が飛んだところで、くくくっという笑い声が聞こえてはっとする。



見ると中堀さんが袖口で口を隠しながら肩を震わせている。




「…すみません。笑っちゃって。…さっきから表情がコロコロ変わるのでつい」




そう言うと、今度は隠すことなくふっと笑う。




「本当に、食事する所ですから、安心してください」




かーっと顔に熱が上ったのがわかった。



自分でも、考えていることが顔に出やすいという自覚はある。




今だから愛想笑いも上手くなったけど、入社当初はお局に毎日のように叱られていた。社会っていうのは世知辛いものなんだとよく思ったものだ。



そんな中でやっと苦労して手に入れた鉄面皮。


なのに、駄目だ。


この人に逢ってから調子が狂う。


なんか物事を冷静に考えることができない。



看板も何も無い、全体的に黒っぽい建物の、モダンな扉に手を掛けると、中堀さんはまた時計に目をやる。



―そんなに時間がないのかな。



先程からその仕草に何度も目を奪われるが、そんなに時間がないのなら、別に一緒に無理にランチしなくてもいいのだけどと思う。



中に入ると、当たり前だけど本当に店だった。



落ち着いた感じのレストラン。



外観から見るよりもかなり広い店内は、床がこげ茶色で、反対に家具は白っぽかった。


そのコントラストが洒落ている。



「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」



男性の店員がやってきて、彼の前で恭しくお辞儀した。


隠れ家みたいなお店なのに、結構混雑している。



「ここ、人気あるんですね。知りませんでした。」



かろうじて空いていたカウンター席に案内され、スツールに腰を落ち着けると、私は言った。



「私も詳しくは無いんですが、ご飯は美味しいですよ」



そう言うと、中堀さんはメニューを見せてくれる。



ちょっと…いや、かなり緊張している。



だってこの距離間。



無いに等しい。



カウンターで二人並んで座っているので、肩が触れそうになる。




「これなんかお勧めですよ」




そう言いながら、メニューを指差して説明してくれているんだけど、頭に入らない。




「後は好みなので、ゆっくり選んでください。」




そう言ってやっと中堀さんはメニューから手を放したので、私とも距離が開く。



これでやっと集中して選べるぞ―



と、思った矢先。




「一哉(かずや)…」



背後から控えめに名前を呼ぶ、女の人の声がした。



なんか妙に色っぽい艶っぽい声だなぁ。



なんて思って、野次馬根性でメニューに隠れつつちらりと声の方へ目をやる。





―え?



目を見開く。



私の、聞き間違いかな。



いやいや、おかしいな。



今確かに一哉って呼んだよね、この人。




でも。



だって。



栗色の長い髪を背中まで垂らしている美人な女性は―



恋焦がれていた人を見るような熱い視線で。



私の隣。



中堀さんのことを見つめていた。




中堀さんも気づいたらしく、くるっと後ろを向くと、あぁと言う表情をした。



知り合い?



私は気づかないフリを決め込む。



「ねぇ、この方が?」



なのに、金持ちっぽい女性は許してくれず、私の方へおずおずと掌を向けた。



「少し、席を外します」



私にこそっと耳打ちすると、中堀さんは女性をエスコートし、奥の席(たぶん女性が居た所)に消えた。



こちらからはちょうど見えない。



私はがっくりと肩を落とす。



やっぱり居たんだ。。



かわいいお姫様。



落ち込む自分を馬鹿馬鹿しく思いつつ、額をカウンターに付けた。




最初っからわかっていたのにな。



あんなキレイな人…。




キレイな声で、色っぽく名前呼んじゃってさ…




ん?




ちょっと待て自分。




私はがばっと起き上がる。



今の、なんかおかしかったよね?



だって、あの人『一哉』って呼んだよね?



確か、さっきの話だと、中堀さんの名前は空生だったよね?



『一哉』じゃないよね?



もしかして中堀さん嘘吐いている?



あの人に?私に?



なんで?




それに『この人が?』って何?



この人も何も、私と中堀さんは今日が初対面だよ。



そんな以前からの設定聞いてないよ。



とにかく、落ち着いて考えないと…。



視線の先にある、水の入ったグラスが汗をかいている。



それを手にとってごくりと喉を潤した。



それから、見えない奥の席をなんとか覗けないものかと首を伸ばす。



と、中堀さんとあの女性が立ち上がってこっちに来るのが見えた。



私は慌てて姿勢を正す。



女性は鞄を持っているので、もう帰るのだろう。



「妹さんの為なら…」



出口まで送る中堀さんと、女性がちょうど私の後ろを通る時に微かに聞こえた言葉。



思わず眉間に皺が寄る。



妹って、何?


なんとなく、私気づいちゃった。




頭の中にシーンが回想される。



出来すぎたシチュエーション。



在り得ない訪問。



ランチの誘い。



時計を何度も確認する姿。



そして―



『この人が?』



プッツン。




私の中で何かが切れる音がした。



中堀さん、あの人がこの店に居ることわかってたんじゃないの?




そうだとしたらー。





もしかして、私利用された?




ガタン



音を立てて立ち上がると、店員さんが驚いた顔をする。



でも、そんなの構ってられない。



膝に掛けたジャケットを引っ掴むと、私は出口に向かう。



扉を開けると、ちょうど身体の向きをこちらに向けた中堀さんの姿があった。



「櫻田さん?」



戸惑った顔をして、私を呼ぶけれど、知らない。


完全に無視して、早足で横を通り過ぎた。



「え、ちょっと」




カツカツカツカツ



ツカツカツカツカ



私のヒールの音に続く革靴の音。



中堀さんは私を追い掛けてきている。



誰が止まってやるもんか。




会社がすぐ近くで良かった。



入り口が見えてきてほっとする。



いつもは嫌で仕方ないその場所が、今は自分の逃げ帰る避難所に見えるから不思議だ。




「櫻田さん!」



ちょうど会社の真ん前。



昼食を終えてそれぞれ自分の会社に戻る人々が行き交っている広場。



少し大きく名前を呼ばれたと思ったら、後ろから肘を掴まれた。




「急にどうされたんですか?」



追いついた中堀さんが訊ねる。



どうされたんですかじゃないわよ。



私は怒ってんのよ。





「櫻田さん?」




機嫌が悪いの。


私はくるっと振り返り―




バッチーン!!!!!




思いっ切り、中堀さんの頬を引っ叩いた。





「気安く私の名前を呼ばないで。」





捨て台詞を吐くと、私は踵を返して自動ドアを駆け抜けた。




あぁ。やっちゃった。



公衆の面前でなんて事を。



また良いネタを皆に提供しちゃったわ。



噂の耐えないアホウドリ。





理想の人なんているわけないじゃない。



私に現れるわけないじゃない。



悔しい。




ロビーのトイレにそのままダッシュして鍵を掛ける。





何より一番腹立つのは。




どこかでずっと期待してた自分だ。



もしかしたらって。



偶然と云う名の運命に、浮かれていた自分だ。

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