28
〝はたかぜ〟のモニターには、ヘリからの映像が映し出されていた。マスター・ブレインの最後が、確認された。
砕けた氷原へ、ヘリコプターが突進する。誘導ミサイルの危険がなくなったことを知った米軍が、救助ヘリを送り出したのだ。船団本体も、数分でアイスゲイトに到達する。
佐々木たちの死闘は、無線でも阿部に伝わっていた。モニターでは、佐々木がどこで戦っているかも見分けられた。そして、佐々木が海に呑まれたことも……。阿部には、氷の裂け目に沈んだ佐々木が、笑っていたように見えた。緑人の殲滅を決定付けたのが佐々木だっことが、阿部には嬉しかった。
阿部は双眼鏡を下ろして、志水に言った。
「マスター・ブレインは、死んだ。もう、邪魔者はいない」
「佐々木さんも……」
「本望だろう。失った誇りを、戦って取り戻したんだ。人類の未来を、自分の命と引き換えに守った……」
阿部の目に、涙が光る。戦友に対する、祝福の印だった。
甲板には、政治家たちが姿を現し始めていた。彼らは客船が襲われた場合に備え、強引に巡洋艦へ移動していた。緑人の狙いが技術者だと知った彼らは、客船から離れていれば生き残れると計算したのだ。彼らは、自分が助かることしか考えていない。
外に出た彼らは、目を輝かせていた。手にしたグラスを傾け、屈託のない笑いを隠そうともしない。死んでいった兵士たちに敬意を表するものは、いない。客船に、自分の女を残していることさえ、忘れていた。
志水は、悲しげに囁いた。
「私たち、こんな人たちのために戦ってきたの? この身勝手な人たちのために……」
阿部は、きっぱりと言った。
「違う。俺は、自分のために戦った。自分と、自分の大切な人のために。佐々木は、人類を守る気でいたのかもしれない。仕事がやめられなかっただけかもしれない。いずれにしても、決めたことをやり遂げた。男にとっては、十分な一生さ」
志水は、涙を拭って小さくうなずいた。阿部は、志水の肩に手を回した。飛竜が、阿部の足もとに擦り寄る。
その時、船が激しく揺れた。船底が、突き上げられたようだった。一旦持ち上げられた船は海面に落下し、水しぶきを上げた。ぐらぐらと揺れる甲板に、恐怖の叫びが渦巻く。
志水が叫んだ。
「氷山!」
阿部は、表情を失った。マスター・ブレインの波動が、辺りを包み込んだのだ。
「奴だ……。生きている……」
「まさか!」
右腕で手摺にしがみついて身を乗り出した阿部は、砕けた氷塊を持ち上げるクジラの背を見た。サーチライトを浴びたクジラは、緑色に輝いていた。
「クジラを融合しやがった!」
「そんな……」
緑人化したクジラは、再び〝はたかぜ〟に体当たりした。激しく放出される波動に、海水への恐れは感じられない。
阿部は叫んだ。
「奴は海水の中でも平気なのか⁉」
志水がうなずく。
「やっぱり……。ヒトとも犬とも、反応が違うのよ。同じ哺乳類でも、クジラの細胞は海中生活に適応した調整機能を備えているわ。その性質を受け継いで、植物化しても海水に耐えられるようになったのかも……」
「そうは言ったって、所詮植物じゃないのか⁉」
「海藻だって、植物よ。海生生物のDNAが緑人ウイルスに反応した場合、植物化が藻類に似た方向に進むことだってあり得るわ」
「畜生……今度は海藻に化けたって言うのか……」
パニックに陥った乗組員の中から、防衛庁長官がよろめき出る。長官は阿部の胸倉にしがみつき、唾を飛ばした。
「話が違うじゃないか! 何とかしたまえ!」
「それは、あんたの仕事だ。俺は警官だぜ」
「なんだと!」
長官は、次の衝撃に足を滑らせ、傾いた甲板を転がっていった。
志水は、手摺にしがみついて叫んだ。
「いい気味よ! もう助けることなんかないわ!」
阿部は、冷静に言った。
「俺は、大切なものを守る。君を殺させはしない。手を貸してくれ」
「まだ戦う気? もう武器はないわ。あんな化け物相手に、何ができるっていうのよ!」
「いいから、兄さんを連れてくるんだ。腕をぶっ壊す!」
それは、阿部がしばらく前から考えていた最後の手段だった。捨て身の作戦に賭ける決心は、つけてあった。
辛うじて間に合ったアメリカ船団からの集中攻撃によって、マスター・ブレインは遠ざけられていた。しかし、米軍は、弾薬の残量が乏しいと泣きついている。頼りの原潜も、マスター・ブレインに締め上げられて沈んだ。阿部に与えられた時間は、一時間ほどしかなかった。
が、充分だった。
アメリカ空母の工作室で、レーザー切断機によってサイバーアームが切り落とされた。
阿部の目的は、センサーにセットされていた緑人の種だった。
チタン合金のパッケージから取り出された種は、アルミのバットに置かれた。片腕に戻った阿部は、全裸で鉄のベッドに横たわり、右手を志水に差し出している。頭は丸坊主に剃られ、全身に張り付けられた電極が測定器に接続されていた。さらに、その様子はビデオに収められている。
阿部は、バットを見た。
「全ての始まりは、ちっぽけな種だったわけか」
志水は、握りしめたメスを背中に隠して懇願した。
「考え直して。何のためにこんな……」
阿部の口調は、幼い娘に言い聞かせるように、優しい。
「じっとしていても、何時間か寿命が延びるだけだ。戦えるのは、俺しかいない。やらせてくれ。君を守らせてくれ。――さあ、メスを入れるんだ」
阿部は、右手を突き出した。彼女は、それが銃口であるかのように、退く。
健造は、冷静だった。
「やってやるんだ。おまえの、その手でな。そうすれば阿部さんは、戦場に出られる」
「兄さんなんか嫌いよ! 目的は研究だけ! 阿部さんの命なんかどうでもいいのよ!」
阿部は上体を起こし、志水の頬を叩いた。志水は、涙をこらえて、阿部を見つめる。
「よく聞くんだ。俺は、死ぬ。だが、俺が成功すれば、君たちは生き延びる。生き延びて、緑人と戦い続けなければならないんだ。俺の命を無駄にしたくないのなら、言う通りにしろ。俺を、徹底的に研究しろ。そうして、緑人を叩き潰す方法を見つけろ。それが、君たちの戦いだ」
黙っていた栄美子が、初めて口を開いた。
〝もちろん私も行くのよ。お父さんを、取り上げないでね〟
志水は、ぼんやりと飛竜を見下ろした。その穏やかな目をしばらく見てから、ようやくうなずいた。
「栄美子さん……ごめんね……。私だけのものじゃないのよね……」
栄美子は、微笑み返したようだった。
〝大丈夫よ。何もかもうまくいくわ。そんな気がするのよ。私の勘って、結構当たるの。私たちは、ずっとあなたと一緒〟
「栄美子さん……優しいのね」
〝あなたを、お母さんって呼んでもいいのよ〟
阿部は、きっぱりと命じた。
「余計なことを言うな」
〝なにが余計なものですか! 今言わなくて、いつ言うのよ〟
〝だから、言うな! もういいんだ、そんなこと……〟
〝私は、言って欲しい……〟
志水の声だった。
栄美子は、勝ち誇るように言った。
〝ほらね。愛されているって言ったでしょう〟
〝愛しています。だから、死なないで。緑人になっても、帰って来て……〟
健造が、痺れを切らせてメスを取り上げようとした。
「時間がない。俺がやる」
志水は首を振り、涙を拭いた。
「始めるわ」
阿部は、真剣な目でうなずいて、横たわった。
志水は、阿部の手のひらにメスを突き立てた。血が噴き出すのも構わずに、ピンセットでバットから緑人の種を取り上げ、それを傷口に埋め込んだ。
阿部は言った。
「これは、君のお父さんが実らせた種だったね」
「ええ……。父さんの心や意志も、種の中に入っているのかしら……」
「だとすれば、俺は君の父親にもなるのか……?」
志水は、阿部を見つめた。
「これから何が起こるのか、私には分からない。でもお願い。私を見捨てないでね」
阿部は、早くも緑色に変わり始めた手を見ながら、言った。
「もちろんだ。そのためにこんな馬鹿をするんだからね。……愛しているよ」
阿部の肉体は、緑人への道を進み始めた。後戻りが利かない選択だった。だが、自らを緑人とする他に、もはやマスター・ブレインと戦う方法は残されてはいないのだ。
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