26

 漁船にヘリコプターのエンジン音が届いたのは、真夜中だった。阿部はセンサーに波動を感じ、すでに目を覚ましている。波動は、穏やかで温かい。

〝栄美子?〟

〝感じるわ。志水さんよ〟

 阿部と飛竜たちは、緑人を倒した直後に船から投げ落とされたゴムボートに乗った。長時間海水に浸かった飛竜は表皮が黒ずみ、体力を消耗し尽くしていた。が、飛竜の中の栄美子は、痛みも恐怖も感じていなかった。阿部は、飛竜の精神力が、栄美子から苦痛を遮断しているのだと理解した。

 甲板に引き上げられた飛竜は、死んだように眠った。そして数時間後に立ち上がった時には、鮮やかな緑色の身体を取り戻していた。ずば抜けた生存本能が、海水が細胞に与えた損傷を修復したのだった。今は漂流民から分け与えられた食料を口にして、体力も回復している。

 漁船のバッテリーは底を突き、明かりも無線も使えない。だがヘリコプターは、海面をサーチライトで照らしながら、まっすぐに向かって来る。正確な位置を知っているのだ。

 志水が同乗していれば、可能なことだ。

 阿部たちは、幾度も死線をくぐり抜けた。互いの心には、科学では解明できない精神的な繋がりが出来上がっている。その絆は緑人の種と愛情に支えられ、強く育っていた。

 轟音が近づくと難民たちが身を起こし、歓声が広がっていった。ホバリングするヘリから、一人がロープで吊り下げられて降りてきた。

 志水だった。

 阿部を見つけると、ロープを外して抱きついた。

「よかった! もう会えないかと思ったわ!」

「私は、信じていたよ。今度は、俺が助けられたね。おい、痛いよ」

 阿部と離れていた虚無感は、志水の心を素直に変えていた。

「痛くても、離さない」

 阿部は、熱い思いに胸を詰まらせた。志水は、しばらくの間、阿部の言葉を奪ってから、身体を離した。熱に浮かされたように、まくし立てる。

「私は、アメリカの研究チームと南極に向かっていたの。そこに、佐々木さんから連絡が入って。あなたが生き残っていれば、緑人の危険はないと。日本の首相は、助けるなと言ったそうよ。こんなに働いてきたあなたを見捨てるなんて、政治家の考えることは理解できないわ。私には、あなたが生きていることが分かっていた。副大統領は、喜んであなたを迎えたいって言ってる。あなたは、研究者の間では奇跡の人、民間人の間ではスターよ。この間もさっさと日本に帰ってしまったんで、タイムの記者が悔しがっていたわ。最後の表紙は、あなただったかもしれないのに……。ここでも戦ったんでしょう? よかったわ、生きていて」

 志水は、急に口を閉ざした。大粒の涙が、溢れ出る。

 阿部は、悔しげに言った。

「高価な腕をスクラップにしてしまった」

 阿部に取り付けられたサイバーアームは、全く動かなくなっていた。

 志水は、涙を流しながら微笑んだ。

「南極に着いたら直してもらえるわ、そんな物」

 そして、もう一度きつく抱きついた。

 乗客が、次々に収容されていった。ロープの輪に吊られ、ウインチで巻き上げられていく。遠くには、さらに二機のヘリコプターのライトが見えていた。アメリカ船団は航路を変え、難民救助に動き出したのだ。

 阿部は、その決断力と素早い行動に感銘を受け、悲しげにつぶやいた。

「この人たちは、日本人に見捨てられたことを忘れないだろうな……」

 順番を待つ老人が、列を離れて阿部の手を握りしめた。早口で、何事か言う。

 志水が通訳した。

「あなたがたの勇気に、感謝していると……。日本人は信用できないけれど、あなたたちは同胞だ、ですって。あなたも、考えを変えなくては。南極で暮らす他に、生き延びる道はないんですもの。日本人なんて小さな枠は、捨てるのよ」

「いよいよ、英語を習うのか。気が重いな」

「教師が私でも?」

 二人は、互いを見つめて笑い合った。

「しかし、船団を送り届けるのが先だ。緑人は、科学者と技術者が南極に入ることを阻止しようと必死だ」

「こうまでされても、日本人のことを思っているの?」

「いいようにあしらわれるのが、我慢ならないだけさ」


 南極大陸に連なる氷塊の寸前で、タンカーが炎上していた。日本船団は、その炎で赤々と照らし出されている。護衛艦は、円陣を組んで客船を囲み、水面下の敵にすくんでいた。

 対空ミサイル護衛艦〝はたかぜ〟の艦橋で、佐々木は暗い海面に虚しく目を凝らした。そうしたところで、魚雷の航跡を発見できる可能性は、ゼロに等しい。革のコートに顎を突っ込んで、寒さに耐える。寒気は、身体の奥から沸き上がってくるのだ。しかも南極は、最も寒い季節を迎えようとしていた。

「畜生……潜水艦を持っていただなんて……」

 アメリカ海軍に照会した結果、判明した事実だった。辛うじて生き延びていたグアムの基地から、旧式の潜水艦を含む艦船が略奪されたという。装備の詳細を知る者は、生存していない。タンカーを血祭りに上げた潜水艦が何本の魚雷を残しているかも、不明だ。

 タンカーが炎を噴いてから、三十分が過ぎていた。対潜水艦作戦を得意とする海上自衛隊ではあったが、無数の氷山が埋め尽くす厳冬の南極沖では、訓練も装備も活かすことはできない。迂闊に動けば、罠に飛び込むことになる。大陸を目前にしながら、佐々木は進退窮まっていた。

「GMは、なぜ攻撃してこない?」

 傍らの防衛庁長官が、沈黙に耐え切れずに言った。それは、佐々木が自らに問い続けていた疑問だった。

「待っているんでしょう。何らかの条件が揃うまで、攻撃ができない……あるいは、したくない……」

「何だね、条件とは?」

〝何なんだ、それは……〟佐々木は考えた。〝やつらは、世界を手中に収めた。なぜ、こうまでして我々に固執するのか? 本当に、日本の技術者を根絶やしにしようと企んでいるのなら、勝ち目はないかもしれない……〟

 だが佐々木は、不安を口に出さなかった。

「分かりません。しかし、上陸は決行します。もうすぐ、南極都市から、第一便の輸送ヘリが到着します。一回に運べるのは百人ちょっとですが、膠着状態が続けば、乗客だけは救えます」

 佐々木は、内心では脅えていた。緑人の攻撃は、抑制が利いている。素人ではない。乗客の移送を、見逃すとは思えない。

 無線機に張り付いた部下が、声を上げた。

「アメリカ船団と連絡が取れました! 一時間後には合流できそうだと言っています」

 佐々木は、マイクを奪った。状況を簡潔に報告し、行動予定を調整する。そして阿部が救助されたことを知り、無線に出させた。傍受を封じた回線を使っているために、佐々木の質問は単刀直入だった。

「奴らは何を待っているのだと思う? どうぞ」

 阿部の声は、自信に満ちている。

「こっちの科学者と日本の技術者を同時に殺すのが目的だ。別々に戦えるほどの装備までは、用意できなかったんだろう。どうぞ」

「アメリカが合流するのを待っているのか。そっちは上陸地点を変更しろ。場所を知らせる必要はない。どうぞ」

「検討する。どうぞ」

「交信を終わる」

 しかし佐々木は、上陸地点の変更が事実上不可能であることを知っていた。

 南極都市へ通じる氷原上の通路は、ポリマーを含ませた氷塊と大量の鋼材で強化されている。それは、不安定な氷山に囲まれた海域に突出したプラットフォームとなって、安全な上陸地点を確保していた。アイスゲイトと名付けられた氷の桟橋は、幅数キロ、全長数十キロをにもおよぶ巨大な構造物だった。その領域を一歩外れれば、たとえ船が氷塊に横付けできたとしても、物資の重量で氷が割れかねない。待ち伏せに、これほど適した場所はない。緑人たちも、それを知っていると考えなければならなかった。

 だから佐々木は真っ先に、対潜ヘリコプターを用いてアイスゲイトに部下を送り込んでいた。上空からの監視も怠ってはいない。だが彼らからは、緑人は発見できないとの報告しか入っていなかった。

 再び部下が声を上げた。

「大陸からのヘリが来ました! 三機です」

 佐々木は、氷山の彼方に暗視スコープ付きの双眼鏡を向けた。燃えるタンカーの熱が障害になったが、二つのローターを備えたヘリコプターが辛うじて確認できた。ボーイング・バートルCH47。完全装備の兵員が四十人以上は収容できる、大型機だ。対潜ヘリとは桁違いの輸送力を持つ。

「なんとしても、技術者だけは救いたい……」

 船団の客たちには順位が付けられ、搭乗に備えさせている。技術者を優先するという佐々木の命令には反発も多かったが、正当な判断を覆すことはできなかった。佐々木には、過去の権力者に媚びる必要はないのだ。彼らの世界は、死んだ。金も不動産も価値を失い、人類が頼れるものは、智恵の他にはない。彼らも、他に生きる道がないことを認めたのだった。

 と、先頭のヘリコプターが炎に包まれた。

 佐々木は、拳を握りしめた。

「畜生! 上陸していたのか!」

 佐々木は、緑人の戦術を、瞬時に解析した。

 監視されているアイスゲイトを避けて氷原に寄り、縁に沿って進む。氷山をカムフラージュに利用すれば、レーダーの目をくらませるのは簡単だ。しかも辺りは、半年続く闇の世界だ。適当な地点で上陸してからアイスゲイトに接近すれば、船団に向かう航空機は誘導ミサイルの射程から逃れられない。無数の氷山が浮遊する極地の海だからこそ可能な、捨て身の戦法だった。軍隊の作戦には、危険過ぎる。

 佐々木は、相手が不死身の怪物であることを忘れていた。たとえ海に落ちても、すぐに救命ボートに乗り移れば枯れることもない。抜群の運動能力を備えた緑人なら、相当量の装備を持っても移動できる。

 佐々木は、判断の甘さを悔やんだ。

 ナイトスコープの中に、ミサイルの炎が尾を引いた。炎は、アイスゲイトから数キロ離れた氷山から延びている。

 佐々木は、祈るように叫んだ。

「外れろ!」

 その瞬間、ヘリは向きを変えた。しかし、ミサイルはヘリに吸い付くように後を追う。

 脇で見守る部下が、怒鳴った。

「スティンガー! チャフを撒け!」

 ヘリは爆発した。残った二機も、呆気なく炎に包まれる。

 防衛庁長官が、憮然として言った。

「責任は、誰が取るのだね?」

 佐々木は、彼をにらみつけた。

「もちろん私です。あなた方のような愚劣な人間に安穏な暮らしを約束することが、私の職務ですから。部下ともども、命を捨ててみせましょう」

 言ってしまってから、内心で苦笑した。最も軽蔑する〝玉砕〟を示唆する発言だったからだ。が、言葉はどうあれ、接近戦を挑む覚悟は変わらない。

 死ぬ時は、戦っていたかったのだ。

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