25
穏やかな風に漂う漁船から、縄梯子が下ろされていた。阿部が、揺れるゴムボートから梯子を掴む。一人の隊員がボートに残って梯子を支え、阿部と若い自衛官が登った。阿部は、肩に日本刀とロープを背負っている。
ロープの先端は、飛竜の腹に巻かれた革のベルトに結び付けられていた。甲板に上がった阿部たちは、二人がかりで飛竜を引き上げた。
ゴムボートは、船外機を吹かして漁船から離れた。救助信号が緑人の罠だった場合を想定した、安全対策だ。
阿部は、避難民を見渡した。
ほとんどが、白人だ。甲板に張ったシートの下に、三十人ほどが身を寄せている。着のみ着のままで脱出した緊張と虚脱感が充満していた。何人かが、東洋人の顔立ちをしていた。彼らは、動こうとしない。漂流で体力を消耗し尽くしているのだ。
緑色の犬を見て、恐怖の叫びが上がった。阿部は慌てて飛竜を押さえ、安全だと態度で示した。飛竜は身を伏せ、軽く尻尾を振っている。
〝嫌われているみたい〟
〝お前なら、すぐ好かれるさ〟
阿部は、大声で言った。
「日本語を話せるか⁉ 私は、日本の船団から救助にきた!」
答えはない。
ゴムボートと交信を終えた自衛官が、英語で質問した。代表者らしい年配の男が、引きつった笑顔を浮かべながら答える。
自衛官が、阿部に囁いた。
「クライストチャーチから脱出してきたと言っています。街はGMに占領され、脱出はしたものの燃料が切れ、漂っていたそうです」
船外には真っ青な海が広がっている。阿部は、これほど美しい海を見たことはない。
「ニュージーランドだろう? こんなに環境がいい場所が襲われたのは、初めてじゃないか?」
「GMを感じますか?」
彼は、GMが避難民に紛れて船団に侵入することを恐れていた。
「罠ではなさそうだが……」
阿部は、飛竜に尋ねた。
〝感じるか?〟
〝分からない……。でも、何だか不安……〟
阿部も同じだった。狭い船に緑人が潜んでいるなら、明確な気配があるはずだ。思考は〝箱〟に閉じ込めることができても、存在自体は隠しきれないのだ。それは、感じない。なのに、不安が心を騒がせる。阿部は、考えた。以前にも、こんな不安を感じたことがあったのだ。
〝どこだろう……。どこで俺は、このかすかな感触を……?〟
群衆の中から、若い娘が立ち上がった。東洋人だった。日本語で叫ぶ。
「罠よ! 下に隠れているわ!」
阿部は、新宿で焼かれた中島が仮死状態で生き延びたことを思い出した。それでも、中島は殻を破るタイミングを誤らなかった。阿部はあの時、今と同じ不安を感じた。緑人は、動きを止めている限りは、存在の気配すら消すことができるのだ。
船体が揺れた。甲板を突き抜けて、触手が伸びる。警告を発した娘が、胸を貫かれて血を吐き出した。
甲板が裂けて、二体の緑人が飛び出した。黒いヘルメットは、見慣れたN17のものだ。身体は、人間の倍はある。
緑人は、娘の死体を阿部に投げつけた。死体は身をかがめた阿部に肩を掠めて、海に落ちた。
阿部は刀を抜き、叫んだ。
「許さん!」
緑人が動く前に、飛竜が飛び掛かっていた。腕に噛みついた飛竜を、緑人は振り回した。脳を攻撃され、悲鳴を上げる。
もう一体が、難民に触手を伸ばす。阿部は突進し、触手をなぎ払った。
その瞬間、阿部は、緑人の意識に浮かぶ〝箱〟が、ペルーで対決した戦士より小さいことを感じた。それが目前の敵の精神力が劣ることを現わしているなら、勝ち目はある。
〝三下め、いい気になるな!〟
阿部は、人間に罵られた緑人の怒りを読み取った。思った通り、敵は精神波動を完全には制御していない。
阿部の攻撃に身を引いた緑人に、自衛隊員が機関銃を撃ち込んだ。緑人は、跳躍した。
敵の意図を察した阿部は、叫んだ。
「離れろ!」
間に合わなかった。至近距離からの弾を浴びながら、緑人は自衛官の腹に硬化させた拳を打ちつける。圧倒的なパワーで叩き込まれた拳は、防弾チョッキさえも突き破り、身体を貫いた。背中から、内蔵が溢れ出る。
一瞬、緑人は自由を奪われた。阿部は、血糊に足を滑らせながら走った。陽光に閃めいた日本刀は、ヘルメットを斬り落とした。阿部は落ちたヘルメットを突き刺し、海に投げ捨てた。首を失った緑人は、それでも黙々と自衛官の解体を続けていた。
阿部は気づいた。漁船に随伴してくるはずのボートが、去っていく。
「見捨てるのか!」
罠だと分かった以上、その判断は正しかった。一握りの人間のために、船団の千人を危険に曝すことはできないのだ。
阿部は、二重の困難に見舞われた。戦って勝つ以外に、生き延びるチャンスはない。緑人を倒しても、一度汚染された船は信用されない。たとえ船団に合流できても、ミサイルで粉砕されるに違いない……。
阿部は、残る一体の緑人に向かった。
「コケにしやがって! 始末してやる!」
緑人は手を切り落とし、飛竜を蹴り離していた。海を背にし、身構える飛竜を牽制する。同時に何本かの触手が、難民に近づいていた。相手の作戦を読んだ飛竜は、難民との間に入って隙を伺う。
阿部は、真正面から斬り掛かった。触手は、難無く断ち斬られていく。だが、難民に発射された無数の細い触手は、防ぎきれなかった。飛竜が、何本かを食いちぎった。それでも、五人が巻き取られ、引き寄せられる。激しくもがく人質を身にまとった緑人は、命じた。
〝刀を捨てろ!〟
阿部は迷った。しかし、人質の悲鳴を無視することはできない。緑人が力を込めれば、彼らの身体は分断されるのだ。
緑人は嗤った。
〝お前が阿部だな。マスター・ブレインの命令だ。叩き殺してやる〟
阿部が嗅ぎ取った緑人の粗野な怒りは、〝戦士〟の冷静さよりも危険だった。
阿部は、刀を落とした。
〝これでいいか……〟
緑人は、冷酷に命じた。
〝海に投げ捨てるんだ。犬もだ〟
阿部の跳躍力では、首を落とせる位置までは跳べない。飛竜が噛みついても、瞬時に緑人を倒すまでのパワーはない。抵抗すれば、人質が殺されるのは、確実だった。
阿部は刀を拾い、外に放り投げた。そして、飛竜に向けて心の中で叫んだ。
〝体当たりだ!〟
決断すると同時に、阿部は飛び出していた。人質を抱えた緑人には、避ける余裕はなかった。
阿部と飛竜は、五人を捕らえた緑人に激突した。彼らは一固まりになって、海に落下した。激しい衝撃が、阿部の身体を突き抜ける。穏やかな海面が、コンクリートのように固い。しかし、海面に直接ヘルメットを打ちつけた緑人は、彼ら以上の衝撃を受けていた。
触手が緩んだ。人質は、素早く海に潜った。触手が、変色し始める。緑人が海水に弱いことは、世界中に報道されていたのだ。
阿部も、水を蹴った。足が動かない。球状に変わった緑人が、触手で絡みついていた。緑人の混濁した意識のなかに、命令を守ろうとする意志がかすかに残っている。
〝貴様は……逃がさん〟
緑人は、太い触手をタコのように船腹に張り付け、身体を引き上げていった。
阿部は、逆さに釣り下げられた。船体が揺れると、頭が船腹に叩きつけられる。目の前で、飛竜が海水を掻く。
〝お前……海水が〟
伸ばした指先が、飛竜の前脚を掠った。体当たりを命じた時は、海水が危険だということを忘れていたのだ。
しかし、海中に没しながらも恵美子は言った。
〝飛竜は平気! でも、父さんを助けられない!〟
浮かび上がった飛竜の爪は、船体に付着したフジツボを掻き落とすばかりだった。
植物化した犬の細胞は、海水に浸っても急速には変化しなかった。志水の勘の通り、飛竜の身体は緑人とは特性が異なっているようだ。だが、足場がなくては船に上がれない。阿部は、もう手が届かない高さに引き上げられている。
阿部を捕らえた触手は、茶色に変わっていた。海水で活性が奪われたのだ。地上でなら、根を打ち込まれてもおかしくない。しかし今は、緑人も身体を引き上げるのが精一杯だった。身体を動かしているのは、海水の危機から遠ざかろうとする本能にすぎない。
だが、海に浸かっていたのは一分に満たない。死んだ細胞は、表面だけだった。内部の細胞は、表皮を捨てれば本来の狂暴さを発揮できるのだ……。
栄美子が、泣きながら叫んだ。
〝上がってはだめ!〟
阿部にも、分かっていた。だが、武器はない。飛竜の助けも望めない。あるのは、自分の肉体だけだ。緑人は確実に船体を這い登り、新たな触手を張り付ける。甲板に上がれば、緑人は戦闘力を回復できる。阿部には、戦う手段がない。
〝畜生……こんなザコにやられるのか……〟
阿部は、死を覚悟した。
〝栄美子……済まない〟
〝諦めないで! 何かあるわ! 戦う方法を見つけるのよ!〟
阿部は、血が下がってぼんやりした頭で、必死に考えた。
〝生身の人間が素手で戦うなんて、無理だ……。人間は、所詮こいつらの敵じゃないんだ……〟
〝駄目! 絶対に諦めないで! 戦うのよ!〟
〝そう言ったって……もう武器が……〟
〝あるわよ! 機械の腕が!〟
〝そうか!〟
阿部の身体は、〝生身〟ではなかったのだ。
阿部は、腹筋にありったけの力を込めて、上体を持ち上げた。さらに歯を食いしばって、サイバーアームを緑人に突き立てた。褐色の表皮を貫いた腕は、身体の中心に届く。
緑人が我に返って、ほくそ笑む。
〝思う壷だ!〟
体内の細胞が、阿部を同化しようと活性化する。GMセンサーは、激しい警報を発した。だが阿部は、緑人の〝内臓〟を掻き回し続ける。
緑人は呻いた。
〝なんだと……?〟
阿部の指先は、ヘルメットを掴まえた。
「死ね!」
緑人は叫んだ。
〝なぜだ⁉ 貴様、人間じゃないのか⁉〟
「正真正銘の、人間さ!」
阿部は、ヘルメットの中の脳を握り潰した。
悲鳴が、阿部の頭で炸裂する。
阿部は緑人とともに、再び海中に沈んだ。
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