21

 阿部とビル、そして飛竜は、天を突くような山を目指して歩き続けた。周りは、三体の緑人に囲まれている。

 負傷した兵士は、救助を手配し、コカイン精製所の残骸に残した。衛星通信機と日本刀は、緑人が持っている。

 歩き始めて十分後、傷の痛みに耐えられなくなった阿部は、緑人に言った。

「まだ遠いのか。それなら、君たちが運んでくれ」

 緑人は、不愉快そうに答えた。

〝神のもとへ赴くには、苦難の道をたどらなければならない。試練を越えたものだけが、神の地に入ることを許されるのだ〟

 それから二時間、緑人は言葉を発していない。次第に遅くなる阿部たちをせき立てながらも、根気よく歩調を合わせた。阿部の意識はかすみ、辺りを観察する気力も萎えた。注意をして見ても、緑一色の風景に変化はない。坂を登っている感覚がなければ、同じ所を回っているとしか思えなかった。

 突然、阿部の足もとが崩れた。急な斜面を数メートルも転げ落ちた阿部は、とっさに草を掴んで身体を止めた。

 下には、垂直に切り立った崖が口を開けていた。見上げると、木々の間から緑人が顔を覗かせている。

 緑人は、阿部の背後を指さした。

〝神だ〟

 阿部は、草を握ったまま振り返った。

 阿部が落ちた崖は、半球状にえぐられた穴の縁だった。半径が一キロメートルを超えそうな、クレーター。深さは、数百メートルもある。内部は、緑色に輝いていた。切り立つ斜面さえ、細い草に覆われている。

 その穴の中心に、巨大な樹木が一本生えていた。

 木の大きさは、常識を超えていた。幹の太さが、五十メートル以上もありそうなのだ。底に太い根を巡らせてまっすぐに伸びた幹は、地面の高さで無数の枝に分かれている。そこに、シダ状の葉をびっしりと茂らせ、その葉がクレーターを塞ぐように広がっていた。

 それはリンボクの姿をしていたが、太い柱に緑の円盤を据え付けたオブジェのように見えた。目を凝らすと、厚い絨毯のような葉の上に、別の植物が生えているのが分かる。巨大樹の枝を地面の代わりにして、ジャングルの植物が事もなげに繁殖しているのだ。

 阿部は理解した。

 その木が、神なのだ。

 緑人が触手を伸ばした。

〝掴まれ。神は近い〟

 引き上げられた阿部は、再び歩き始めた。心臓は高鳴り、意識は朦朧としている。だが、志水に近づいているという確信は、足を早めさせた。


 さらに二十分歩いて、小さな川にぶつかった。川に沿って下ると、流れは岩の間に吸い込まれていった。割れ目は、人が通れるほど大きい。阿部たちは導かれるまま、その割れ目に入った。

 水量はくるぶしの高さしかなかったが、藻が密生して滑りやすい。外の明かりは、すぐに届かなくなった。

 内部は、淡い光を発する苔に覆われていた。阿部たちは、緑人に支えられ、ゆっくりと下りていった。

 二十分ほど下ると、明かりが見えた。緊張を解いた阿部は、出口に走った。

 出た途端、阿部は緑の光の眩しさに、目を覆った。そして、安堵の溜め息を漏らした。

 志水の波動が、近い。

〝たどり着いたな……〟

 穴から流れ出た水は、神の木の根元へ流れ、地下に吸い込まれていた。水辺には、背の低い植物が密生している。緑の天井で塞がれた巨大なドームには湿気が充満し、気温も外より高い。

 噴き出す汗を拭った阿部は、脇にあった建物に気づいた。大型のコンテナを積み上げたような無骨な施設だ。窓すら見当らない。

 緑人が、建物に目を向けた。

〝生物学者たちは、ここで研究を続けている。命が危険に曝されている者はいない。安心するがいい〟

 建物の扉が開いて、志水が現われる。

 緑人の手を振りほどいて走り寄った志水は、阿部に飛びついた。阿部は、彼女の目を見つめ、抱き締めた。志水は、阿部の胸に顔を埋めた。

「待っていたわ……。信じていた……」

 志水のサイバーアームが、思いがけない強さで阿部の胸を締めつけた。熱い感情が、阿部の心に流れこむ。

 小振りな乳房の感触に照れた阿部は、大袈裟に呻いた。

「おいおい、身体が壊れちまうじゃないか」

 志水は、はっとして身体を離し、阿部を見つめた。阿部は、志水の心が冷たく萎縮するのを感じた。

 志水は目を伏せ、悲しげにつぶやいた。

「ごめんなさい……私、普通の人間じゃないから……もう、女の身体じゃないから……」

 ぽろぽろとこぼれた涙が、地面に小さなしみを作った。

 阿部は、不意に気づいた。志水の身体はロボット化して、性機能を失ったのだ。阿部は、自分の軽口が志水を傷つけたことを思い知った。

〝それで、避けていたのか……?〟

 志水は、阿部を見上げた。

〝勝手よね。それなのに、来て欲しいなんて……〟

 阿部は、再び志水を抱き寄せ、耳元に囁いた。

「知っていても、俺は来た。俺が戦うのは、君のため……君だけのためだ」

 志水は、かすかに微笑む。

 緑人が言う。

〝神が待っておられる。来い〟

 歩き出した阿部についていこうとしたビルは、緑人に制止された。

 阿部が、緑人の言葉を伝えた。

「神が会うのは、私たちだけだそうだ。悪いが、待っていてくれ」

 ビルの目は、研究者のそれに戻っている。

「記録を取る道具を持っているか?」

 阿部は、再び割り込んだ思考を翻訳した。

「記録を取る方法はない。写真もビデオも、真っ黒になってしまう……。神の力だそうだ」

 ビルは、落胆の溜め息を漏らした。

 ドームの反対側に導かれる阿部を、飛竜が追う。飛竜は止められなかった。


 阿部たちは、粗末な小屋に通された。緑人たちは神を畏れて身を低くし、足早に立ち去る。取り残された阿部たちは、お互いを見つめた。

 何の前触れもなく、強力な精神エネルギーが小屋を満たした。耳元で拳銃を撃つほどの衝撃が襲い掛かってきた。

 阿部は突然の〝大声〟に肝を潰し、身を震わせた。志水も耳を塞いでいる。

 空間を埋め尽くした思考が、言った。

〝済まない。君たちの耳が敏感なことを、忘れていた。人間が相手の時は、叫ばないと通じないのでな。どれほど感受性が鋭くとも、人間は不完全な生き物なのだ〟

 阿部は言った。

「普通の人間と、話ができるのか?」

〝相手が心を開きさえすれば。植物は、動物と心を通わせる能力を持っている。会話を拒むのは、いつも人間だ〟

 その穏やかな口調は、阿部の予想を裏切るものだった。

 阿部は、〝神〟とは、緑人の組織の頂点に立つ存在だと考えていた。強大なパワーを持つ緑人たちを服従させられるものはどんな怪物かと、密かに恐れていたのだ。なのに、〝神〟の思考に狂暴さは微塵もない。それどころか、阿部の心に届くエネルギーは、温かく優しい。底知れぬ奥深さを感じさせる、慈悲の心で満たされている。まさに、神の名にふさわしい存在だった。

 阿部は、神の意識に包まれ、羊水に漂う胎児のような安らぎを覚えていた。

 志水が言った。

「なぜ私たちを……?」

 神は、あくまでも穏やかだ。

〝理由は二つ。君たちが素晴らしく強い意志を持っていること。そして、私の言葉を聞き取る装置を身に付けていることだ。君たちなら私の意図を理解し、人類に警告を発することができる〟

 阿部は神に従いそうになる自分に気づき、あえて挑戦的な口調で言った。どのような姿をしていようとも、緑人をコントロールしていることに変わりはないのだ。

「話を聞く前に、質問させろ。お前は何者だ? 突然変異かなにかでできた怪物か? それとも、宇宙人か?」 

 神は笑った。

〝率直だな。そこも気に入っている。私も率直に答えよう。私は、人間だ。少なくとも、人間だったことがある。その頃の名は、ルーサー・バーバンク〟

 志水が、あっと声を上げた。

 阿部は、両手で口を覆った志水を見た。

「知っているのか?」

「もちろん。植物を学ぶ者なら、誰だって……。十九世紀中頃の、園芸の魔法使い、品種改良の天才。植物と話し、ともに生き、何百という新しい品種を作り出した、桁外れの才人よ。実利的な意味では、ダーウィンさえ越えているわ。その名前は、そのまま他動詞になっているほど有名ですもの。トゥー・バーバンクと言えば、植物や動物の品種改良のことを指すのよ。でも、とうの昔に死んでしまったはずなのに……」

〝人間としてのバーバンクは、もちろん寿命が尽きた。しかし、友人――つまり、植物たちが仲間に加わるよう勧めてくれたのだ。私も、なりたかった。そして、願いが叶えられた〟

 阿部が言った。

「ばかに簡単に言ってくれるじゃないか。どうやってそんな事ができたんだ?」

〝君たちが言う緑人が、ある種のウイルスによって発生することは分かっているはずだ。ウイルスによってDNAの鍵を外されると、動物は植物へと変化する。植物たちは、遥か昔から、その事実を知っていた。知っていたが、動物を植物に変えようとはしなかった。互いの領域を守って共存できるうちは、必要がなかったからだ。私はたまたま、植物の友人となる名誉を得られた。だから彼らは秘密を明かし、仲間として迎えてくれた。植物になった人間は他にもいるが、皆ひっそりとその生活を楽しんでいるよ〟

 志水がバーバンクの意図を察して、うなずいた。

「でも人類は、地球そのものを危機に導き始めた……?」

〝実は、これまではウイルスを送り出しても、機能を発揮させる条件が整っていなかったのだ。一握りの理解者を植物の世界に導くことはできても、人類全体を変身させるほどの力は持ち得なかった〟

「条件? まさか……人類自身が、その条件を作り出してしまったと?」

〝理解が早いな。ウイルスを活性化させる鍵は、空気中の二酸化炭素の増加だ。大気の成分は、ヒトの血液や組織に微妙な影響を与える。この紙一重の違いが、長い間ウイルスの活動を抑制してきたのだ。生態系が健全に機能していれば、大気の成分は変わらない。火山活動などで変動が起こっても、植物の力で正常なレベルに戻される。その状態が続けば、植物人間などおとぎ話にすぎなかった。だが、地上に人類がはびこり、身勝手を押し通し始めた時、事態は変わった。十九世紀半ばから、大気中の二酸化炭素は徐々に増え、数十年前からは爆発的に増加した。原因は何だ?〟

 志水は、冷静に分析した。

「人口と化石燃料の使用の増加。でも、それだけなら植物が気圏から回収し、こんなに溜まるはずはありません。一九七O年代の大気中の炭素増加量は、年平均二十三億トン。なのにその間の化石燃料による増加は、一億トンにしかなっていません。年間二十億トン以上の炭素が回収されない……。原因は、植生の破壊しか考えられません」

〝その通りだ。人類は、植物を傷つけすぎた。食物連鎖の始まりに位置し、地球を健康に保つ基盤である植物を、訳もなく憎んだ。動物は、光合成を行い、酸素を生み出す植物に、生かされているのだ。なのに人類は、森を殺す。植物が、理解し合えぬ宿敵であるかのように、切り刻む。森は、人間の母親だ。人類は今、母の生き血をすすりながら、最後の饗宴に酔い痴れている……〟

 阿部がつぶやいた。

「だから植物は、人類を植物に変えようと……」

〝植物は、怒っている。植物の子どもは、人類だけではない。地球という、家を守るには、正気を失った出来損ないは排除されなければならない。それは母親の責任であり、愛情だ〟

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