15

 阿部は、志水が研究室に到着したという報告を受けた。自衛隊のジープで、六本木に急ぐ。研究室は、防衛庁内にある。そこでなら、中島を追える可能性も高い。佐々木は救急車で運ばれた。阿部は孤立し、行くべき場所もない。なによりも、志水のそばにいたかった。誰かを守っている時こそ、自分でいられると知った。守るべき者は、今は志水しかいない。

 ゲートでは、志水が待ち構えていた。傷だらけの阿部に肩を貸し、曲がりくねった廊下を案内する。走り回る制服組が、好奇の目を向けた。阿部は、腕を振り払ったが、とたんに腰が砕けた。自分がどれほど疲労しているかを思い知らされた阿部は、志水のサイバーアームにすがった。気恥ずかしさに、顔を伏せる。それでも心は、温かい満足感で満ちていく。

 志水は、喜びを押さえようと必死だった。

「よかった……本当に……傷の手当をしなくちゃ」

 阿部の口調は、重い。

「奴を逃がした……」

「生きていることの方が、奇跡」

「お父さんの種のおかげさ。奴の考えが読めた」

「私にはそんなことは出来なかったけれど……。きっと、争い事に慣れているからね。もともと勘のいい人には、効果が高いのよ」

「斬り合いは、すなわち腹の探り合いだからな」

「でも、緑人が人の心を読む力を持っているとしたら……」志水の表情は、唐突に研究者に戻った。「そのことでお話があったの。あなたの犬がここにいるんだけど――」

「飛竜が! まだ生きていたのか!」

「ええ。それが、人間とは全く違う変化を示しているの。アメリカチームの要請でこっちに移したんですけど……」

「人を襲ったのか⁉」

「とんでもない。でも……笑わないでね。理由は分からないんだけど、私には飛竜が人間のように思えるの。みんなは、気のせいだと……」

「どういうことだ?」

「飛竜を見ていると、人間の言葉で話しかけられているような感じがするのよ。私の言葉も理解しているみたい。GMセンサーの反応だとは思うんですけど……。原因が掴めなくて」

「どこにいる? 会いたい」

「手当は?」

「掠り傷さ」

 二人は、三階の研究室に入った。白衣のアメリカ人に事情を説明し、隔離区域のドアをくぐる。厚いガラスの檻で、緑犬が眠っていた。周囲には、測定器の列。緑色の表皮で覆われた飛竜には、無数の電極が貼り付けられている。他に研究員はいなかった。

 阿部は、ガラスに手を当てた。

「飛竜……」

 犬は目を開け、阿部を見つめた。阿部の頭に〝声〟が湧き起こる。

〝お父さん!〟

 娘の声だった。

「栄美子!」

〝お父さん、会いたかった……。私よ。私はここにいるのよ……〟

 阿部は、目を見開いた。

「なんだってそんなことに……」

 志水が、阿部を見つめる。

「どうしたの⁉ 何があったの⁉」

「娘が……栄美子が、飛竜の中にいる……」

 涙が溢れる。

「なんですって⁉」

 飛竜は、身体を起こした。ガラスに押し当てた阿部の手に擦り寄って、悲しげな目で見上げる。

〝怪物が撃った物……私の頭に当たったの。飛竜はそれを、食いちぎって取り出した。私は、そこで意識を失って……。死んだんでしょう? でも、その時に、私の心が乗り移ったんだわ。私は今、飛竜と一緒に考え、行動しているの。怪物になってしまったけれど、ここには飛竜と私の二つの心が生きているのよ〟

「奇跡だ……。これこそ奇跡だ……」

 阿部は、信じた。心を揺さぶる、娘の言葉を信じた。

 志水も、栄美子の心が発する波動を感じ取っていた。

「飛竜は、栄美子さんを救おうと、種を……。身体はウイルスに冒されてしまったけれど、栄美子さんの細胞から心を受け取ったのよ」

 阿部は、志水を見た。

「そんなことができるのか?」

「学会で発表したら、精神病棟行きね。でも、不可能とは言い切れないわ。プラナリアという生き物を知っていますか?」

 阿部は戸惑った。

「……昔、教科書で読んだかもしれない」

「渓流に住んでいるヒルみたいな動物です。ある条件反射を覚えさせたプラナリアを、訓練しない個体に食べさせます。すると、記憶を司るRNAが引き継がれ、記憶が乗り移ったという実験結果があります」

「食べただけで? だから、栄美子を齧った犬にも、記憶は移ると?」

「下等動物の実験が、当てはまるわけはないけれど……。記憶がRNAによって作られるということを、否定する研究者もいますし。でも、今、世界中で起っていることは、何もかもが常識を破っているんですもの、どんなことだって信じられるわ。栄美子さんは、飛竜を愛していた。飛竜も、ね。だから、こんな奇跡が起こせたのよ……」

 理屈はどうでもよかった。阿部にとって重要なのは、栄美子の心が生きていることだ。

「栄美子……。よかった。本当によかった。お父さんは嬉しいよ……」

〝私も嬉しいわ。飛竜に抱かれているみたいで、とても温かいの〟

「辛い目に……遭わなかったか……?」

〝志水さんが、庇ってくれたわ……。私、誤解していたみたい……〟

 志水は、はっと気づいた。

「ここから出さなくちゃ」

 緑犬が人間の心を持ったことが知られれば、新たな研究の対象にされる。世界中の生物学者が、電極とメスを握って群がるだろう。最悪の場合、命まで奪われかねないのだ。

「逃がせるか?」

「上に掛け合ったりしたら、無理ね。私たちだけでやるのよ」

「危険はないか? もし、心が怪物に変わってしまったら……」

「信じなさい。飛竜に凶暴性がないことは、みんな知ってるわ。人間を襲ったことはないし、普通の食べ物だけで身体を維持しているんですもの」

「なぜ、そんなことができる? 犬だからか?」

 志水は、肩をすくめた。

「そうとしか説明しようがないわね。人間と犬の植物化を比べると、細部での反応がかなり違っています。大胆に推測すれば、植物化した後の細胞の特性は、動物の種によって違うと言えるでしょう。他の動物のデータがあれば、もっと正確な判断が下せるんですけれど……」

「植物になる前の性質が、引き継がれるわけか?」

「私の勘に過ぎないけれど、そう考えてもいいように思うわ。だから緑人は、普通は人間の形をとっているような気がするの。植物化しても動物的な部分が大幅に残されているのは確かですから、人間は人間、犬は犬の形でいるのが自然なんじゃないかしら。言ってみれば一番安心できる状態で、体力や精神力の消耗も少ないのかもしれないわね。それに、飛竜には身体を変形させる能力がないことが確認されているの。犬の脳は、ヒトより植物化しにくい反面、肉体を変形させるのに必要な何かが欠けているとも考えられるわ。脳の容量そのものが犬とヒトとでは格段に違うんですから、できることも違ってくるのは当然かもしれないわね。でも、生命力の強さという点では、一般にヒトよりも野性動物の方が勝っているものよ。だから飛竜の細胞の強靭さは、緑人を凌いでいる可能性もあるわけよ」

「それで飛竜には、コカインも必要ないのか」

 志水はうなずいた。

「経過を観察した限りでは、これからも脳までは植物化しないだろうというのがスタッフの結論です」 阿部は微笑み、飛竜を見た。

「出してやるぞ」

〝お父さんと一緒にいたい……〟

 志水が釘を刺した。

「今はだめ。外には研究員がいるもの。逃げるのを見られたら、殺されてしまうわ」

「どうせ中島が、一波乱起こす。誰も飛竜のことなど気にしなくなるさ」

 言った途端、館内放送が急を告げた。

「研究センターの志水真弓さん、内線二十二へご連絡を!」

 壁のインターホンに飛び付いた志水は、阿部に言った。

「あいつが新宿に現れたわ!」

「手当をする暇もないか……」

 阿部は、片時も手放すことができなくなってしまった日本刀を、ゆっくりと取り上げた。そして、鞘の中の刀が折れていたことに気づいた。

〝まあ、丸腰よりはましだな。お守り代わりにはなる〟


 阿部と志水は、屋上で待機していたヘリコプターで飛び立った。

 中では、佐々木が首をうなだれていた。撃たれた傷は、応急処置で済む程度だ。生気を失っているのは、怪我のためではない。

 佐々木が、自嘲ぎみに言った。

「今回が、私が参加する最後の作戦になるだろう。処分は決まっていないが、指揮権は剥奪された」

「奴を潰せばいいんだろう?」

 阿部は眼下に拡がる新宿の街を観察しながら、再び刀を取る覚悟を決めた。中島への怒りが、蘇る。 が、佐々木は首を横に振った。

「時間がない。核攻撃は、秒読みに入った。君が対等に戦えると言い張っても、信じはせん」

 阿部は、佐々木をにらんだ。

「お前が弱気でどうする! 相手は一人だ。チャンスをくれ!」

 佐々木は、ようやく阿部の目を見据えた。

「本当に、最後のチャンスだぞ」

 コ・パイロットが振り返り、無線が入っていることを知らせる。ヘッドフォンで報告を聞いた佐々木は、がっくりと肩を落とした。

「奴が、駅前で種を乱射した。東京が緑人で溢れるのは時間の問題だ。……もうチャンスはない」

 ヘリコプターは、高度を下げた。東口の広場は、狂乱の渦に包まれていた。沸き立つような雑踏に、倒れた人の輪があった。半径は、百メートルを超える。

 負傷者たちは、緑人への変化を開始していた。しかも何人かは、人込みに彷徨い出ている。潜在的な緑人が街に入り込んだのは、確実だった。

 しかし中島は、輪の中心に留まっていた。負傷者の血液を吸い、脳を貪り食っている。 佐々木が、すがるように阿部を見た。

「どうすればいい?」

「俺に、助言しろと?」

 エリートの脆さだった。東京の命運を賭けた作戦の失敗が、判断力を奪い尽くしている。佐々木自身が、弱さを痛感していた。

「その通り。東京が救えるなら、君の尻でも舐めよう」

 阿部は、考えた。

 ここで戦っても、中島を倒せる保証はない。たとえできても、もはや緑人の蔓延は防げない。核攻撃を止めるには、確実な手段が必要だ。

 阿部は、結論を下した。

「中島に止めを刺せれば、核攻撃は中止できるんだな」

「交渉はできる。しかし、どうやってアメリカを説得する? 中島は無差別攻撃に出ているんだぞ。理性も失っている。君が戦ったって――」

「毒をもって毒を制す。老いぼれの智恵さ。とにかく、緑人の増殖を防げ。犠牲者が緑人化する前に、一帯を焼却しろ」

「それが何になる! どうせ奴は逃げる。どこかで種をばら撒いたら、そこも焼き払うのか⁉ しまいには、東京は焼け野原になる。核攻撃など必要もないさ!」

 志水が、冷静に言った。

「一度種を使い切ったら、三日は生産できません。体力も消耗するはずです。今、手を打てば、時間が稼げるかも……」

 佐々木は、阿部を見つめた。

「三日で、できることがあるのか」

「ある。少なくとも、試してみることはできる」

 佐々木は数秒考え、マイクを取った。

「佐々木だ。新宿駅周辺を焼却するよう、進言する」

 阿部が言い添えた。

「下水道にもガソリンを流せ。酸素を充満させてから、火を放て」

 攻撃は、了承された。手をこまねいていても、東京は廃墟になる。選択の余地はなかったのだ。

 ヘリコプターが高度を上げて数分後、新宿は五十機を超える戦闘機の砲火を浴びた。ロケット砲とナパーム弾の絨毯爆撃が、中心部を舐め尽くす。世紀末の栄華を誇った巨大歓楽街は、居合わせた人々とともに、砕け、燃え、熔けていった。


 ドアの前には、二人のアメリカ人が立ちはだかっていた。脇に吊ったホルスターを、隠そうともしていない。阿部は、胸を押されて止められた。彼らの目には、職務のためなら殺人も辞さないという決意がある。

 阿部は、冷静に言った。

「日本語は話せるか?」

「立ち入りは禁止されている」

「ここは日本だ。貴様らの勝手にはさせん」

 しかし、防衛庁の一室を占拠した彼らに、脅しは通用しなかった。事実その部屋は、政府高官さえ出入りを制限されているのだ。中では、東京攻撃のプランが煮詰められている。

「残念だが、ドアの向こうはアメリカだ。大使館並の扱いになっている」

「私のことは知っているだろう? アンダーソンに会いたい。お互いの利益になる提案がある」

 年嵩のガードの表情が、和らいだ。

「あなたが優秀な警官であることは聞いている。GMとの戦いぶりもな。シンジュクを灰にしたそうだな。核を使わずに奴を倒せるのか?」

「試させてくれ」

 アメリカ人は、壁のインターホンを取った。

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