11

 先頭の緑人が跳ねて、阿部の鼻先に降り立った。阿部は、身を引いて間合いを取った。緑人は人間の形を変えようとはしない。たった一本の定規を握りしめた人間に、真剣になる必要はないのだ。

 戯れに振った腕が、阿部の胸を掠める。阿部は、最小限の動きで攻撃を避けた。

 無意識に、相手の動きを予測していた。道場で竹刀を握った時の、自然な反応だった。それが鉄の定規でも、変わりはない。斬り合いに勝つには、敵の心を読めなくてはならない。阿部は、普段からその動物的な感覚を鍛えていた。しかも、極限に達した緊張が勘を鋭くさせている。

 阿部には、緑人がかすかに体重を移したことが〝見え〟た。

〝もらった!〟

 隙だらけの胸に、飛び込んだ。

 定規は、ヘルメットの下に叩き込まれた。定規の厚さは1ミリ以上もあり、刀の切れ味と比べようはない。だが、緑人には、骨がなかった。しかも、阿部に取り付けられた左腕には、強力なパワーがある。

 緑人の首が、落ちた。阿部は肩の激痛に呻きながら、身を引いた。首を失った緑人は、両手を振り回して突進し、獲物を求める。

 阿部が叫ぶ。

「捕まるな! ばらばらにされるぞ!」

 声を聞きつけたかのように、緑人の肉体は阿部に向かった。

「振動を感じてるのよ!」

 志水の声に、緑人の動きが乱れた。身体を志水へ向ける。阿部は、すかさず腕を切り払った。痛みは激しいが、耐えられないほどではない。

 三人は、狂ったように暴れ回る緑人から逃げた。志水は、足を引きずる兄に肩を貸している。

 他の二体は、じっと阿部を観察していた。仲間が殺された事実が、信じられなかったのだ。二体で襲えば決着が付くとは思いながら、動きが取れない。

 一人が、落ちた首を拾って、身体に載せた。繋がらない。再び転がる首を、緑人は不思議そうに見下ろす。

 志水が、後退りながら囁いた。

「やったわ。駆除剤を塗られたら、融合できないのよ」

 阿部は、定規にもう一本の駆除剤を振りかける。

「他の部分にくっつけることはできないのか?」

 緑人は、落ちた首にはもう関心を払わなかった。

「きっと、脳に繋がる特定の組織があるのよ。そこに繋げないと、身体がコントロールできないんだわ。……やだ! 見て!」

 緑人は、阿部を〝敵〟だと認識した。そして、肉体の強化を図ったようだ。かがんで、首なしの死体に両手を突き立てていた。腕が、ずぶずぶと潜り込んでいく。

「何をしているんだ……」

「死体と融合する気よ」

「そんな事ができるのか⁉」

 緑人は、ゆっくりと立ち上がった。そのシルエットは、二人の人間が抱き合っているように見えた。四本の足。二つに分かれた胴。それらが、ゆっくりと溶け合っていく。死体が、両手を動かす。

 二つの身体が完全に合体する前に、緑人はさらに材料を求めた。麻酔で眠る仲間に、四本足で這うように近づく。腕が触手に変わり、首をもぎ取った。さらに、胸に触手を突き立てた。死体が、立ち上がる。

「死体の細胞をコントロールしている……」

「あいつら、いくらでも大きくなれるのか」

「象ぐらいが限界でしょう。クジラになるには、水中で生活しないと。でなければ、重力に押し潰されてしまうわ。骨格がないんだから」

 志水は、緑人の変化に酔っていた。研究者の視線だ。

 阿部は、前に出た。

「今なら首を取れるかも」

「駄目。もう一人が……」

 もう一体は、阿部たちに目を光らせている。

 健造が、肩で息をしながら阿部に聞いた。

「N17とは何ですか?」

 ヘルメットに記されていた、番号だ。

 阿部には、なじみの深い名前だった。

「コロンビアのテログループだ。政治的なスローガンを掲げてはいるが、中身は麻薬販売企業さ」

「やはりそうでしたか……。警備体制の情報が職員から漏れたとしか考えられません。でなければ、こんなに簡単に侵入できるはずはないんだ。研究も軌道に乗り始めていたのに……」

「やつらの目的は?」

「施設の破壊でしょう。あるいは、研究者の抹殺。実験装置を失っただけでも、研究は大幅に遅れます。しかしロックが作動した以上、中枢区域には入れません。で、手当り次第にぶち壊し始めた……」

「時間を稼いで、どうする気だ?」

「さあ。何か、弱みがあるのかも……」

 緑人は、人間の形に戻った。大きさは、グリズリーベアに匹敵する。志水兄妹は、震え上がった。が、中島と渡り合った阿部には、見慣れた姿だ。未知の生物への恐怖がないことは、たった一つの有利な点だった。

 残る一体も、巨大化を狙った。駆除剤で変色した死体は、無視された。緑人は、脇に立つリンボクに抱きついて、踏ん張る。

 阿部の頭が、痛んだ。志水も、悲鳴を上げる。健造が、不思議そうに二人を見た。

 志水は、頭を押さえながら言った。

「リンボクの悲鳴よ。センサーが、木の恐怖に反応している!」

「くそ! こんな物を身体に入れやがって!」

 リンボクが引き抜かれると、植物の叫びは弱まった。やっと目を上げた二人は、健造がぽかんと口を開けているのに気づいた。二人は、緑人を見た。

 緑人は、ドーナツ状になってリンボクに巻き付いていた。リンボクは、緑色の塊に支えられて揺れている。少しずつ、高さが減っていく……。

 阿部の頭には、細胞を食われていくリンボクの、つぶやくような抗議が伝わっていた。温室全体が、その〝声〟に同調してざわめいている。

 志水が言った。

「彼……動物に戻りたくないのよ」

「植物にそんな心があるのか?」

「元は人間だったのよ。ただの植物ではないわ。でも、完全に植物化した細胞を取り込めるなんて。植物を動物化できるなら、緑人を人間に戻すことも可能かも……」

 緑人はリンボクを食い尽くすと、さらに近くの木に取り付いた。だが、今度の悲鳴は、さっきとは違う。

 志水が叫んだ。

「お父さん!」

 阿部には、理解できた。緑人が取り付いたリンボクは、志水の父が植物化したものだったのだ。悲鳴には、二つの声が混じっている。その一つは、緑人だった。

 健造が囁いた。

「なんだ……?」

 阿部は、状況を〝感じて〟いた。緑人とリンボクは、命を賭けて対決しているのだ。周囲の空間に、強い波動を放っている。その叫びが、言葉に翻訳できない〝感覚〟となって、脳に流れ込んでくる。

「あの木は、君たちのお父さんだ。彼は今、戦っている。意志の力で、緑人の脳を破壊しようとしている」

 志水は泣いていた。

「お父さん! 負けないで!」

 緑人の悲鳴が、高まった。身体から突き出たヘルメットが、揺らぐ。中から、薄い煙が漏れ始めた。せめぎ合う強力な精神エネルギーが原子を揺さぶり、物理的な熱に変わっているのだ。緑人が、電子レンジに入れられたように加熱された。表皮の細胞壁が破裂し、液胞が瞬時に蒸発する。

 緑人の絶叫が、阿部の頭で炸裂した。

 ヘルメットが転がり落ちて、炎を上げた。沸騰した脳が、爆発して飛び散る。身体の表面も、ぶすぶすと沸き立ち、煙を上げていた。

「やったわ! お父さん!」

 巨大化したもう一体の緑人は、その様子を冷たく観察していた。木にはそれ以上の危険はないと判断すると、阿部たちににじり寄る。

 阿部はつぶやいた。

「最後の一人か……」

 残った緑人は、不用意には接近しなかった。腕を触手に変え、阿部に叩きつける。

 阿部は、何度かその先端を斬り落とした。が、さらに伸びた触手に定規を巻き取られ、奪われた。

 緑人は、定規を阿部に突き立てようと、振った。阿部はぎりぎりで攻撃をかわしたが、触手に撥ね飛ばされて、壁に背を打ちつけた。息ができない。触手は、定規を投げ飛ばす。

 阿部は、横に転げた。定規は阿部の背中の皮をえぐって、壁に突き刺さった。

 緑人は、狙いを志水に変えた。触手が飛ぶ。志水は、動けない。

 阿部は、心の中で叫んだ。

〝受け止めろ!〟

 志水は目を見開いて、右の手のひらを押し出した。先端部を硬化させた触手は、サイバーアームの人工皮膚を貫いたが、内部の金属骨格に当たってぐにゃりと曲がった。緑人が、触手を引き戻す。が、志水は触手を握りしめ、逆に引っ張った。金属的な音を立てて、触手がちぎれた。

 志水は、うねる触手を遠くに投げ捨て、叫んだ。

「女だからって、バカにしないで!」

 緑人は、身を引いた。

 健造がライフルを構えていた。ヘルメットを狙って、撃つ。スリットに命中すれば、弾の破片が脳を破壊する可能性もあるのだ。腕は確かだったが、弾丸は一センチ外れた。

 興奮した緑人が、吠える。

 志水がつぶやいた。

「怒らせたちゃった……」

「俺のせいじゃない!」

 這って彼らに寄り添った阿部が、GMアーマーの脇に落ちたままの酸素ボンベを指さした。

「ボンベを……撃て!」

 健造は、何も考えずに従った。緑人が踏みつけたボンベに、銃弾を放つ。阿部は、二人の頭を押さえ、自分も伏せた。

 ボンベが爆発した。緑人は、後方に吹き飛ばされた。首をすくめた阿部たちに、ボンベの破片が降り注ぐ。

 体勢を立て直した緑人は、再び吠えて、身を乗り出した。と、唐突に動きを止めた。

 阿部は、恐怖を受信した。

「なに? 怖がっているのか? 奴が……?」

 志水が叫んだ。

「酸素よ! 酸素が苦手なんだわ!」振り返ると、倉庫のマイクに向け、力の限り命じた。「酸素を出して! 温室に酸素を送るのよ!」

 地下コントロールの反応は、素早かった。どこからともなく、ガスが噴き出す音が聞こえ、次第に大きくなっていった。緑人の恐怖が、高まる。

 緑人は向きを変えると、大きく跳躍し、ガラスを突き破って逃げ去った。

 酸素が止まると、温室は不気味なほどの沈黙に包まれた。

 志水がつぶやいた。

「酸素ね……こんな簡単なことだったとは。でも、命を賭けた甲斐はあったみたい」

 健造が、ぼんやりと妹の腕を見る。

「また、徹夜で修理か……。やっぱりお前、疫病神だな」

「自分が修理されるより、気楽じゃない?」

「まあな……」

 志水は、阿部を見つめた。

「ありがとう……あなたのおかげで、戦えたわ……」

「声が、聞こえたか?」

 志水は、困惑したようにうなずいた。

 同時に阿部は、志水の心がこわ張るのを感じた。つぶやきが聞こえる。

〝嫌よ……今さら、恋なんて……〟

 健造が言った。

「ところで阿部さん、どうしてボンベを撃てと?」

 阿部は、呆れて彼を見つめた。

「『ジョーズ』を観たことがないのか?」

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