阿部は、ベッドで目を覚ました。相変わらず、白一色の病室だ。窓どころか、出入口も見当たらない。

 温かい光が、天井越しに届いている。壁には、布のような素材が貼られていて、柔らかそうに見えた。精神異常者を監禁する牢としか思えなかった。

 ゆっくりと起き上がる。左腕が、あった。指も思い通りに動く。

「まさか……夢だったのか……?」

 そして、思い出した。阿部は、サンフランシスコに近い空軍基地に降り立った。基地で同乗した軍人たちと別れ、ヘリコプターに乗せられたのだ。そして、睡眠薬を注射された。記憶は、そこで切れている。

 枕もとのテーブルに、水を入れたピッチャーとグラスがあった。阿部は、左手でグラスを取った。息を止めて、握る……。グラスは、呆気なく砕けた。手を開くと、粉々になったガラスがテーブルに落ちた。皮膚には傷一つなく、痛みもほとんど感じない。

 壁の一部が、音もなく開いた。ドアは、壁の継ぎ目に巧妙に隠されていたのだった。志水と、彼女に顔立ちが似た男が入ってきた。

 志水が、にこやかに言った。

「ご気分はいかがですか? 腕はまだ調整が終わっていません。乱暴に使うと、他の組織に負担を掛けます」

 男が、笑いながら言った。

「痛みを正確に感じるようにしないと、蚊を叩くたびに骨折することになります。私が、こいつの兄です。志水健造。あなたには、CA240――つまり最新式の〝腕〟を取り付けました」

 阿部は、腕を曲げてつぶやいた。

「これでも機械? 付けてる俺にさえ、本物と区別がつかない。重さも感じない。言われてみると、冷たいような気がするが……。たいしたものだな。これで、俺もスーパーマンの仲間入りか……。高いんだろう?」

 健造は、阿部の傍らに立った。

「そう……十階建てのマンションぐらいのものでしょうかね。ただし、新宿の一等地に建てるとして、ですが」

「貯金はないよ」

「試作品ですから、モニター料で帳消しにしておきます。だからといって、無茶はしないでください。車を持ち上げようなんてすると、肩の骨が砕けて、外れます。妹はGMと張り合ったそうですね。子どものころから無鉄砲で、私はいつも泣かされていたんですよ。女のくせに、手が早くて……」

 志水が、柄にもなくうろたえ、自分の腕を二人の間に割り込ませた。ダーガリーのワークシャツを捲り上げて、肘の内側を見せる。薄化粧の香りが、阿部の鼻をくすぐった。

「ここに、GMの接近を感知するセンサーがセットされているんです」

 阿部は、こみ上げる笑いを噛み殺した。志水が恋人であるかのように、気持ちが暖かくなり、浮き立つ。

「それは心強い。そんな物まで出来ていたのか?」「完成してから何日も経っていません。緑人が近づくと、脳にある種の刺激が加わる仕組みになっています。どんなふうに感じるかは、言葉では言い表せませんが。実際は、まだ誰も知らないんです」

 健造が補足する。

「理論的には、ということです。基礎的な実験しか終わっていないシステムなんです。事態の変化が早すぎて、大慌てで最終実験に掛かろうというわけです。基本的な安全性は、もちろん確保してあります。しかし、なにぶんにも初めての作業ですので、事故がないとは言い切れません。特殊なセンサーを、神経細胞に繋げていますので、生体組織に負担を掛けることもあり得ます」

 阿部は、恐れた様子は見せなかった。

「気前がいい訳が分かったよ。猿の代わりか」

 志水が言った。

「それなら、私はモルモット? 私が替えてもらった腕にも、同じシステムが組み込まれているのよ。さっきからなんだか、頭の中がむず痒いんだけど……」

 冗談めかしてはいたが、志水は不意に不安そうな表情を見せた。兄の顔色をうかがう。

 健造も、表情を曇らせた。

「まだおかしいのか。危険はないはずなんだがね……。阿部さんはどうですか?」

「別に変わった感じはない」

「個人差があるんだろう。下でチェックしよう」そう言って阿部に向き直った。明るく振る舞おうと、無理をしている。「真弓が言った場所に、緑人の種がセットされているんです。チタン合金で厳重に密封して、発芽を防いでいます。銃弾の直撃を浴びても、壊れません」

「なんでそんな物騒なものを?」

 阿部の言葉には、実の妹を実験材料に使ったことを非難する気持ちがあった。

 志水は、きっぱりと言った。

「私は志願したんです。あなたには断りもなしに……。申し訳ありませんでした」

「俺はいい。戦うことだけが目的なんだから」

 健造がうなずいて、話題を戻した。

「緑人の種は、同族や危険が近づくと、電気的な信号を発生します。その性質を応用した、ラジオのようなものだと思って下さい」

 阿部は、肩をすくめた。

「緑人の歌が楽しめるってわけか」

 健造は、微笑んだ。

「おそらく、あなたの脳にはね。計画の狙いは、携帯できるGM警報機を完成させることでした。しかし、信号があまりに微弱で……。電子装置で増幅しても、どんな出来事に興奮しているか見極められなかったのです。年がら年中警報音を出しているんじゃ、意味がありません。そんながらくたでさえ、兵士に持たせるには大きすぎました。そこで、人間の脳に直結しようと考えました。兵士にセンサーを埋め込む方法も検討したんですが、接続技術や支持強度の上で不安が残りました。で、実験機はCA240と一体化し、被験者を選んでいる最中だったんです。あなたと妹は、絶好のタイミングでやってきたわけです。GMセンサーのテストも、ついでにやってしまいましょう。調整を済ませないと危険だし、研究所も案内しないとね」

 彼は、阿部の右手を取って立たせた。左手を避けたのは、握り潰されることを恐れたからだ。

 扉の外は、広い廊下になっていた。目の前はガラス張りで、その先は吹き抜けになっている。ゆったりとカーブする廊下はクリーム色に塗られ、明るい光に満たされていた。廊下は、吹き抜けを円形に囲み、部屋は外周に配置されているのだ。対面の廊下は、数百メートルも先に見えた。阿部は、円筒状の建物だと判断した。阿部が立つ廊下は、三階だ。それでも、普通のビルの五階ほどにも感じる。上には、まだ三階以上のフロアーがあるようだ。天井もガラス張りで、太陽がふんだんに射し込んでいる。

 吹き抜けは、巨大な木が密生する温室になっていた。全て同じ種類の植物だ。阿部が初めて目にする種類の木の頂上は、三階の床を超えている。

 彼らの他に、人間の姿はない。

「一人で暮らしているのか? 寂しいだろう」

「まさか。施設が大きすぎて、人間が小さく見えるだけですよ。東京に比べれば、宇宙空間に放り出されたようなものでしょう。アメリカは、広い国ですから。まだたくさんの研究者を招聘する計画ですしね。それに、重要な研究は、ほとんど地下の施設で行っています。機密や細菌の漏洩を防ぐため、そして奴らの襲撃をかわすために。地下は、地上より大きくなっています。スーパーマーケットからゲームセンター、映画館まであります。一歩外に出たら、ろくな道路さえない砂漠ですからね」

「なんでそんな所に……こんな馬鹿でかいものを……」

「アメリカ人のやる事ですから。私は六年日本を離れて、やっと慣れました。でも、彼らが真剣で助かります。やると決めたら早いし、才能も注ぎ込みますからね。日本人ときたら、散々叩かれてから、ちびちびと金を出すだけ……。世界が足元から崩れそうになっている緊急時には、騎兵隊の無神経さでもありがたいものです」

 彼らは、吹き抜けの内側に設置されたガラス張りのエレベーターに乗った。

 ドアが閉じた途端、阿部は志水の息づかいを強烈に意識した。胸が、苦しい。志水も、驚いたように阿部を見つめる。道に迷った少女のような目をしていた。

 阿部は、あわてて尋ねた。

「エレベーターで地下まで降りるのかね?」

 志水は我に返り、首を振った。

「いいえ。一階で止まっています。地下に入るには、厳重なチェックをクリアーしなければ。入口の場所も、極秘です。アメリカ人の多くが、麻薬に汚染されていることはご存じでしょう? 緑人は、コカインを握っています。彼らに操られて機密を盗もうとする者が、後を絶たないのです。先週は、ロケット砲で襲って来た一団を含めて、三十人以上が侵入を企てたそうです。みんな殺されたそうですが……。内部からの裏切りもあります。ほとんど毎日、誰かが解雇されていると聞きました。緑人が直接襲ってくるのも、近いかも……」

 エレベーターは滑らかに降下していく。

 志水の兄が言う。

「コカイン流入が止まっているんです。価格は暴騰して、どこの街でも暴動が起きています。なのに、売り手は現れない。GMが南米一円の産地を掌握したのだと考えられています。コカイン販売網が、GMに汚染されているという情報も入っています。彼らは最初に、地下世界に組織の足場を築きます。どこまで浸透しているのか、正確なところは掴めていません。日本で初めてGM化したのが暴力団員だったということは、決して偶然ではないのです。彼らが街に現れるのも、先のことではないでしょう」

 阿部は、巨大な植物を眺めながら、つぶやいた。

「ヤクは、いつだって人間を狂わせる……。ところであの木、なんだ? 恐竜でも出そうな雰囲気じゃないか」

 幹の表面が鱗状になった木は、上方にシダに似た葉を大きく広げている。大木に埋め尽くされた温室は、阿部に原始時代の森林を想像させていた。

 志水がうなずいた。

「リンボクの仲間です。恐竜以前の石炭紀から二畳紀にかけて地球を覆っていた植物です。中には樹高四十メートルを超えるものもあったそうです。当時の大気には濃厚な炭酸ガスが含まれていて、地球は暖かく湿った惑星だったと考えられています。その好条件の中で、リンボクは大森林を形成していました。種を作らずに胞子で繁殖していたのが原因で、絶滅したと言われています」

「絶滅? そんな木が、どうして……?」

 志水は、兄を見た。彼がうなずく。エレベーターが止まり、彼らは一階の廊下に出た。吹き抜けの入口へ向かう。

「ここの木は、元は人間だったのです」

「と言うと……」

「緑人が完全に植物化すると、リンボクになってしまうのです。この温室で育てられているものは、植物化してから半年以上は経っていますがね。と言っても、三億年前のリンボクと全く同じではありません。一番の違いは、種子を作ることです。種子から生まれた第二世代は、別の区域で研究されています」そして、付け加えた。「私たちの父も、この温室で暮らしています」

 健造が言い添えた。

「ここにいる植物のほとんどが、コロンビアで緑人化された兵士です。彼らは、人間に未練を残しながら姿を変えていきました。でも、父は自ら研究材料になるべく、植物への道を選んだのです。植物になりたいと願っていたのかもしれません。GMセンサーに使用した種は、父が実らせたものです。私は、父や東京が懐かしくなると、ここに来るんです……」

 健造が壁の装置にIDカードを差し込むと、厚いガラスのドアが開いた。三人は、ドアをくぐった。空気が湿り、ねっとりと重い。東京の真夏を思わせる。

 途端に、志水の足が止まった。身体を震わせて、壁に手をついて支える。

 健造が、顔色を青くした。

「気分が悪いのか⁉」

 志水は、ぽつりと言った。

「お父さんを……感じる……」

「なんだって?」

 志水は、顔を上げて微笑んだ。

「頭のむず痒さの原因が分かったわ。お父さんの種を使ったからよ。私の気持ちが、感応しているのよ。木も種も、まだ私たちのお父さんなんだわ!」

 健造は、ぽっかりと口を開けた。

 と、けたたましいサイレンが鳴った。緊張感が漲る。

 志水が叫んだ。

「なに、この警報……? まさか!」

 兄が、目を剥く。

「緊急警報だ……。こんなのは、初めてだ。警戒線が破られたのか?」

 阿部は、重い溜め息とともにつぶやいた。

「緑人か? さっそく来やがったのか?」

 サイレンは、大きくなるばかりだ。上方に、雷鳴を思わせる爆発音が轟き始める。

 阿部は、背筋にぴりぴりとした痛みを感じた。

「これが、奴らのサインか」

 志水も、〝それ〟を感じ取っていた。

「狂暴な敵意、そのもの……。お父さん、私たちを守ってね……」

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