第三章 死闘・ソルトレイク

 阿部と志水は、太平洋上を飛行するC130ハーキュリーズに揺られていた。その米軍機は千歳で二人を収容すると、ただちにアンカレッジに向けて飛び立った。乗客は彼らと、数人の幹部自衛官、そして背広姿のアメリカ人が二人だけだ。軍人たちは、操縦席の近くで頭を寄せ合い、議論を交わしている。

 阿部と志水は、最後部にぽつんと座っていた。百人近い兵員を収容できる巨大な空間には、絶え間ないエンジン音が充満している。しかし阿部は、冷えきった死体置場の静けさを連想していた。

 阿部は、未知の世界に引きずり込まれたことを痛感した。志水以外は軍人ばかりで、自分も兵士として扱われている。敵は、人間ですらない。自分はなぜこんな場所にいるのか……不安と疑問は、膨らむばかりだった。

 それでも、娘までも失ってしまった今、緑人と戦う他になすべきことはなかった。

 阿部が警察で、狂暴な人間との戦いに明け暮れたのは、危険を愛していたからだ。が、今はそれを持て余している。家族と職場を失ったことが、弱気を誘う。阿部は、漂う自分を繋ぎ止める存在を求めた。生き続けるには、目的が必要だったのだ。

 佐々木への恨みが、胸にくすぶっていた。が、理性は、彼の判断を認めている。娘の死は苦痛だが、怪物にされるよりましだと思えた。少なくとも、緑人の増殖は食い止められたのだ。

 自分なら、あの命令が下せただろうか……。責任を負う覚悟があるだろうか……。ずっと自分に突きつけていた疑問だった。

 雲の切れ間から、青い海が覗いた。阿部は見惚れた。美しい風景だ。人間の小ささを思い知らされる、孤独な美しさだった。小さな溜め息をついた阿部は、分厚いファイルに見入っている志水に、ためらいがちに声をかけた。

「あんたは、いつからその腕を付けているんだ?」

 志水は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。

「一年以上になります。すぐに慣れますよ」

 阿部が軍人たちとこのC130に乗り込んだのは、機械仕掛けの腕を取り付けに行くためだった。志水は、先輩だったのだ。

「なぜ、腕を?」

「腕だけではありません。右半身は、全部機械です。足の骨組みが腕まで繋がっているから、人間のままの組織に負担がかからないのです。そうでなければ、サイバーアームを付けていても、あんな馬鹿をしたら、身体がちぎれてしまいますよ。怪我の原因は、研究中の事故でした。父が生物学者で、その手伝いをしていたんです。これから行く研究所で。初めて手に入れた緑人を解剖していた時に、突然種を発射されて……。脳を切り離してあったので、油断したんです。私には、自分で腕を切り取る勇気は、ありませんでした……。父は、内臓にまで種が達し、死にました」

 淡々と事実を語る志水に、阿部は改めて精神力の強さを見た。

「すまない。そんな事があったとは……」

「終わったことです。父は、研究に危険が伴うことを承知していました。でも、生物学の――いえ、地球の転換期を見るために、最前線に身を置きたかったのです。学者の業です。そんな父を見て育ったから、私も兄も、同じ道を選んだのです」

「兄さんがいるのか?」

「あちらで研究を続けています。工学が専門ですが。この人工の身体も、兄のチームが開発したものです。今は、緑人に対抗する防衛システムを開発しています」

「学者の血筋か」

「女には向かない、とお思いなんでしょう?」

「娘も、きかない女だった……。嫌いではない」

 志水は、悲しげに言った。

「娘さん……おいくつでしたの?」

「二十歳。廃人同様にまで墜ちた妻を、よく世話をしていた。あいつの力で、妻は立直りかけていたのに……。俺も一時は、警察を辞めようと考えたんだが……」

 刺激に溢れた仕事を捨てることはできなかった――とは、言えない。

 志水は、口ごもった阿部を庇うように続けた。

「私より五歳下ですか……。申し訳ないことを……」

「君に責任はない。それより、緑人とコカインの関係を教えてくれないか?」

 阿部は、話し相手を求めていることに、気づいていなかった。

「コカインが人間の脳に働く仕組みをご存じですか?」

「簡単な本は読んだ。脳にある関門をくぐり抜け、A何とかという神経に入って快感を起こすそうだね」

「A10神経です。おっしゃる通りに快感をコントロールしています。脳幹から出たA10神経は、視床下部、大脳辺縁系を通り、前頭連合野と側頭葉に入って終わります。ここでは元々ドーパミンという神経伝達物質が生産されていて、これが人間の精神活動の鍵を握っていると言う専門家もいます。ドーパミンは、特に人間の大脳に多量に分泌される物質だからです。一種の麻薬なのですが、人間は、自分の体内で脳内麻薬と呼ばれる物質を合成して神経系をコントロールしているのです。コカインを始めとする覚醒剤は、このドーパミンに極めて近い性質を持っていて、精神活動を発揮する前頭連合野を直撃します。コカインはここでドーパミンと同じように快感を作り出すわけです」

「だが、緑人にとってはそれだけではない?」

 志水は、深くうなずいた。

「何も証明はされていませんが……。私は、前頭連合野が精神活動を司っている点が重要だと考えています。精神力によって、植物化した細胞を制御するというか……。植物と動物の融合体が安定した状態だとは、とても考えられません。緑人の体内では、相反する性質がせめぎ合っているはずです。精神活動が低下すると、脳までが植物細胞に冒されてしまうのではないでしょうか」

「コカインで刺激していないと、植物そのものになってしまうわけか……。それなら、脳を切り離されるとすぐに植物になることも説明できる。だが、コカインじゃなければだめなのか? シャブでは?」

「シャブ?」

「ヒロポン。アイス、スピード、メタンフェタミン」

 志水はうなずいた。

「コカインに含まれる天然の成分が、重要なのだと思います。ヒロポンは、単なる科学薬品です。覚醒剤としての効果は高いでしょうが、緑人には価値がなさそうです。仮説の領域を出ませんが……」

「シャブなら簡単に手に入る中島が、コカインに執着したからな……。そうすると、奴が脳味噌を食うのも、ドーパミンとやらが必要だからか」

「脳内で合成されたドーパミンの方が、緑人細胞を制御する効果が高いかもしれません。しかも、緑人は光合成の能力が低いので、栄養は動物から取る必要があります。だから、血液を吸うのです」

「それなら、コカインは必要ないじゃないか」

「ヒトのドーパミンは、保存が困難です。それに、人間を襲ってばかりいては、居場所を知られる恐れがありません? 今のところ緑人は、少数派です。個体レベルでは強力でも、数では人類に対抗できません。だから、身を隠しながら生き延びる方法を選んでいるのでしょう。彼らが組織されたら、コカインは過去の物になるかも……」

「緑人は、誰もが人間を食うのかね?」

「違います。第一に、ドーパミンが必要だという知識がないと」

「だから、機密にしていたのか」

「それを知っても、植物になる方を選ぶ人もいます。倫理的な人間は、緑人化したからといって、狂暴にはなりません。緑人細胞がドーパミンを必要としているのではないのです。細胞や組織が変化するのは、分子、あるいは量子レベルの化学的反応です。脳を食べるのは意志の問題で、意志は人間のまま残っている脳が決定しているのです。狂暴なのは人間の脳であって、食人はまさに人間的な行為と言えるでしょう」

「誰もが中島になるわけではないのか……」

「しかし、誰もがなり得ます。とにかく、緑人の生態については、分からないことばかりですから」

「学者さんでも、分からんか?」

「人間が知っていることなど、ほんの一握りのことに過ぎません。研究をすればするほど、分からないことが増えます。生命の仕組みは、とてつもなく奥が深くて……。私が神を感じるようになったのも、植物の研究を初めてからです」

「神……ね。緑人も中島も、神様がこしらえた生き物なのかね。あんな怪物にも、この世に生きる意味はあるのかな……。ところで、中島の死体は見つかったのか?」

「報告は受けていません。でも、街の惨状はご覧になったでしょう? あの中から逃げられるとは……」

「飛竜は、逃げた」

「それを言われると……」

 阿部は、志水を責めても仕方がないと気づいた。 佐々木は、倒れた飛竜の捕獲を命じた。が、阿部が見ることは許されなかった。生死さえも知らされていない。

「飛竜が今どうなっているか、聞いたかい?」

「隔離して、観察を続けています」

「まだ生きてはいるのか……。緑人――いや、緑犬になってしまったのか?」

「植物化は、極めて速いスピードで進行しました。しかし、不思議なことに、脳の周辺まで植物化した時点で、進行が止まってしまったといいます。しかも、凶暴性が全く感じられないそうです。これは、犬の脳には、ドーパミンの他にも植物化を防ぐ物質があるということを示唆しています」

「その研究はまだなのか?」

「すべての哺乳動物が植物化する可能性を持っている事は予測されていましたが、人間以外の実例が確認されたのは初めてなので……」

「実験ぐらいできるんじゃないのか?」

「緑人化のメカニズムが全く分からないのです。迂闊に動物実験を行なえば、新たな怪物を生み出す危険があります。人類が、一匹の猿に滅ぼされることもあり得ると恐れられていました。ですから、世界中の関係者が飛竜に注目しているのです」

「栄美子の次は、飛竜が実験材料か……。いや、いいんだ。どうせ、年寄りだ。それで仇が討てるなら、本望だろう」

「ありがとうございます」

「君は立ち合わなくてもいいのか?」

「有能な研究者は、他にもいます。私は、アメリカ側との情報交換を担当することになりました。腕の修理も必要ですし、兄さんが開発した兵器も受け取ります」

「それだけのことを、一人で?」

「スタッフは、あちこちで活動していますから。この大きな飛行機が、帰りは一杯になる予定です」

「世間が知らん間に、馬鹿でかい組織が出来上がっていたようだな。で、どこに連れて行かれるんだ?アラスカが終点じゃないんだろう?」

「場所は申し上げられません。世界の情報機関や軍隊が手を握って作り上げた組織です。研究センターには最優秀の頭脳が集結してます。ここを緑人に破壊されたら、人類は滅亡するでしょう。ですから、高度な保安措置が取られています」

「まだ、みそっかすか」

「手続きが必要なだけです。組織が秘密にされていたのは、パニックが心配だったからです。でも、もう緑人の発生は隠しておけません。これからは、総力戦です。しかも、時間は多くはありません」

「と言ったって、緑人の数など、ほんの一握りなんだろう?」

 志水は、真剣な目で阿部を見つめた。

「問題を単純にしてみましょう。緑人が、一日に一人の人間を緑人化すると仮定します。全人類が緑人に変えられるまで、どれだけ時間がかかると思いますか?」

「五、六年か?」

 志水は、悲しげに首を振る。

「一ヵ月程度にすぎません」

 阿部は、寒気に襲われた。

「たったそれだけで、人間は消えてなくなるのか……」

「現実には無数の要因が絡み合い、単純計算はできません。しかし、緑人の繁殖力が旺盛なことは確かです。中島が放った種は、数百個に達すると見積もられています。そんな彼らが組織化して、人類に対抗したら……」

 阿部は呻いた。

「戦えるのは、今のうち……か。中島一人であれほどてこずったというのに……」

 志水も、黙ってうなずくことしかできなかった。

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