阿部は、再び自衛隊の研究施設に収容されていた。娘を救出した直後に睡眠薬を注射され、見慣れた病室で目を覚ましたのだ。

 治療は、終わっていた。その際に、佐々木と短い会話を交わした。佐々木も志水も研究所を離れられず、インターホンで連絡がつくと言った。だが、病室から出ることは、やはり許されない。彼が去ると、二度目の注射を射たれて眠りに落ちた。

 救いは、娘を見守ってやれることだけだった。阿部が二度目の眠りから覚めた時には、隣のベッドに移されていたのだ。ずっと眠り続けている。飛竜も、娘のベッドの下で寝息をたてていた。

 窓が、ぼんやり明るくなっている。

「月明かりか……。何時だろう……」

 時間の感覚がなくなっていた。

 阿部の独り言を聞きつけたように、志水が部屋に入ってきた。飛竜が目を覚まし、唸る。阿部は、伏せの合図をした。おとなしくなった飛竜を恐る恐る見ながら、志水はベッドに寄った。

「時間は気にしないで。ゆっくり休んでください。あなたには、そうする権利があります」目付きから、冷たさが消えていた。「ご家族のためとはいえ、片腕で緑人と戦うなんて……。生きていられるなんて、信じられませんわ」

「あいつは、どうなった?」

「黒焦げになって掘り出されました。上の階の研究室で、保管されています。燃えかすとはいえ、貴重な研究材料ですから」

「危険はないのか?」

「生命反応は、残っていません。監視も付けてあります。私も、解剖に立ち合います。三十分ほどで始まります」

「なぜここに?」

「あなたと娘さんが心配で。体調が良ければ、解剖をご覧になりませんか? 炭の塊みたいな物ですから、面白くもないでしょうけれど」

「佐々木が嫌がらないか?」

「幹部から、情報を与えるように命じられたそうです。あなたは、チームに加えられました。警察の仕事は、忘れていいとのことです」

「否応なしか。自分で言い出したことだ。引き受けよう。だが、どうして急に身内扱いされるようになったんだ?」

「緑人と戦って、生き残れた人材ですからね。麻薬組織にお詳しいことも、重要です。緑人の生態にコカインが関連していることは、お話しましたね。アメリカからの報告で、その結び付きが予想以上に深いことが解明されてきたのです。詳しくは、後ほど」

 今は、これ以上は話せないということだ。

 阿部は、疑問を口にした。

「中島に撃った注射は、あんたが作ったんだろう?中身は何だったんだ?」

 その件については、自由に話すことができるようだった。

「テタヌストキシン――つまり破傷風菌が作る毒素に、手を加えたものです。人間に対しては害のない物に仕上がりました。安全確保のために、使用者にはワクチンを投与しますが。佐々木さんは成功したと言っていましたが、自信が持てなくて……」

「毒を弱くしたからか? 効き目を強くすれば、殺せるんだろう?」

 志水は、ベッドの脇に腰掛けた。頭の中を整理するように、考える。

 阿部は、話が難解になることを覚悟した。

「緑人を毒で殺すことは、根本的に困難なんです。一般に猛毒と言われるものは、ほとんどが神経毒です。動物の毒では神経電流の発生を阻害するタイプが多く、植物では神経ホルモンのアセチルコリンを阻害する毒が知られています。いずれも、神経を伝わる電流情報を遮断することによって、活動を瞬時に止めるのです。ところが、緑人には、我々と同質の神経がないようなのです。毒が作用するはずの仕組みが、そもそも欠けているわけです」

「神経がない?」

「そうではなく、未知のシステムによって体内の情報を伝達しているのです。植物の神経を持っている、と考えていいでしょう。植物に、神経に当たる組織が存在する、と仮定してですが。ですから、神経電流を遮断するタイプの毒では、働きを止めることはできません。塩素ガスやシアンガス、タブンやサリンのような神経ガスも試してみましたが、効果は現れませんでした」

「枯れ葉剤は?」

「試しました。例えば2・4・5―Tは、植物を異常に早く成長させて、結果として殺してしまう除草剤です。ところが、緑人細胞に対しては成長を促進するだけで、殺せません。トリアジン化合物で光合成を阻害してみましたが、これも効果はありません。細胞の動物的要素が、養分の摂取を助けてしまうのです。彼らの形態が特異なことも、問題を難しくしています。普通の植物は、茎のような直線か、葉のように平面的な構造をしています。光合成を、効率的に行うためです。ですから気化して与える毒は浸透しやすいのですが、緑人は動物的な立体構造を持っています。表面を毒で覆っても、体内の細胞までは作用が届きません」

「破傷風菌は、なぜ使えたんだ?」

「テタヌストキシンは、動物の神経繊維の末端部に取り込まれると、神経内部を逆行して脳脊髄に達するという特殊な性質を持っています。人間の神経細胞内での移動速度は、一日に七十五ミリ程度に過ぎませんが。私は、緑人が人間と同じ感情と行動様式を保つことに着目しました。彼らの脳は、ヒトのまま保存されていると考えていいでしょう。脳からの指令が何らかの径路を伝って全身に送られているなら、あるいはテタヌストキシンの逆行性は有効かもしれない……。単なる思いつきでしたが、あなたの腕を使って実験してみたんです」

「俺の腕で? すると、たった二、三日で毒を作ってしまったのか?」

 志水は、当然だと言うようにうなずいた。

「緑人の迎撃に備えて、最高のスタッフと装備が集められています。みんな、徹夜でしたが。しかしその結果、テタヌストキシンが緑人細胞内で人間の場合より遥かに早い逆行性を発揮することが分かりました。しかも、脳へ逆行する過程で、通過した体細胞を枯死させる副作用があることが発見されたのです。今のところ、唯一有効な毒です」

「だが、中島は死ななかった」

「スピードが早いと言っても、末端から脳に届くまで数分はかかります。彼は毒素を切り離したと聞きました。そうなると、効果は望めません。脳に近い部分に注入しなければ、殺せませんね」

「毒が脳に届いたら、どうなる?」

「人間の場合から類推するしかありませんが、激しい痙攣を起こして死に至るでしょう。専門用語で言う、外傷性強直性痙攣です。人間の場合、痙攣の衝撃で骨折することさえあります」

「急所は、首か。勘が当たったな」

「緑人のヘルメットは、明らかに脳を保護するためのものです。脳との接続を断ち切れば、彼らは無害な植物へ変化します」

 阿部は、緑人を倒す希望が残されていることを知って、喜んだ。

 その時、栄美子が目を覚ました。

「お父さん……」

 阿部は、飛び起きた。志水も、立ち上がる。

「気がついたのか!」

 栄美子は志水を見つめ、しっかりした口調で言った。

「ここから出ましょう。私、この人たちにひどいことをされたわ。早く帰りたい」

「栄美子……こらえてくれ。責任は全部俺にある。だが、お前は治療を受けなければいけない。何があったか、覚えてはいないだろうが……」

「私、みんな見てたわ。緑色の化け物が私たちをさらったことも、母さんが……殺されてしまったことも……。お父さんは、命を賭けて戦ってくれた。恨んではいません。でも、ここはいや。身体を切り刻まれるのはいや。子宮を取られるのはいや。次の手術では、そうするって、この人が……」

 阿部は、志水をにらみつけた。打ち解けた雰囲気は、たちまち凍りついた。

「本当か! 君らは、栄美子にそんな事をしたのか⁉」

 志水は、研究者の口調で答えた。

「研究の素材ですから……。緑人が栄美子さんに何をしたのか、知る必要があるのです。緑人に犯されたヒトがどんな変化を起こすのか、誰も知らないのです。人類の存亡を賭けた、重要な研究です」

「貴様ら、それで俺を眠らせたのか……」阿部は、栄美子の目を見据えた。「栄美子、はっきり聞くぞ。化け物に犯されたのか?」

 返事は明快だった。

「いいえ。自分にされたことは、なにもかも覚えているわ。あいつは人間じゃないのよ。もちろん、男でもない。この人にも言いました。でも、信用してくれなくて……」

 志水が食い下がる。

「気を失っていれば、本人が気がつかないということもあります」

「体の奥まで調べたじゃない! どんな気持ちか、分からないの⁉ あなた、女じゃないの⁉」

 志水はうろたえた。

「そうね……女じゃないのかも……。でも、科学者よ。人類のために、働いているわ」

 阿部は、栄美子に念を押した。

「確かだな」

「絶対に、犯されてなんかいません」

「志水さん、あんたの仕事が大事なことは分かる。尊敬もしている。しかし、娘をモルモットにはさせない。ここから出すんだ。でなければ、俺も協力しない」


 三階の研究室では、解剖の準備が進められていた。解剖室の隣には、厚い防弾ガラスで隔てられた測定室があった。びっしりと並んだ画面には、色とりどりの線が刻まれている。すべて直線で、緑人の生命活動が停止していることを表していた。

 佐々木は、研究員の作業を見守っている。

 解剖室内部では若い助手が、緑人の燃え殻に取り付けられたコードを外していた。配線を巻き取りながら背を向けた助手は、燃え殻にひびが入ったことに気づかなかった。

 接続が残っていた配線を通して、モニターに変化が現れた。画面上の線が、波を描く。

 研究員が叫んだ。

「生命反応!」

 佐々木は、モニターを確認して、命じた。

「中の者を出せ!」

 黒い塊のひびから細い触手が伸び、助手の首に絡み付いた。助手は目を剥き、ガラス越しに助けを求めた。研究員が、鋼鉄のドアに手をかける。

 佐々木の怒声が飛ぶ。

「開けるな! 液体窒素を充填!」

「ですが……彼が死にます!」

「奴が出るよりいい!」

 助手は、触手を掴んでもがいた。触手からは、さらに細い〝根〟が無数に生え、助手の首に潜り込んでいく。根は、真っ赤に染まった。血液を吸い上げている。

 研究員たちは、その様子から目を離せず、動けなかった。

「早く窒素だ! ビデオは回しているだろうな!」

 佐々木の命令で、研究員は我に返った。

 佐々木は、ドアの脇の赤いボタンを叩いた。警報が鳴り響く。

 触手は、先端から赤くなっていった。助手の顔が、ゆっくりと萎んでいく。触手全体が血の色に変わると、モニター表示が狂ったように跳ねた。同時に、零下二百度の霧が解剖室に噴き出し、視界が白く曇った。しかし、計器の反応は大きくなるばかりだ。

 佐々木は霧を通して、燃え殻が割れるのを見た。中から現れたバスケットボールほどの緑の塊は、跳んでガラスに当たると撥ね返った。

「第二モニター室に避難! 凍らせられなかった場合の手を打つ」

 佐々木を先頭に、研究員は廊下に飛び出した。最後の一人が、足を滑らせる。強かに膝を打った研究員は、緊張と恐怖に一瞬意識を失った。

 中島は、床に固定された手術台とガラスの間に入り込み、身体を伸ばした。ガラスが大きくたわみ、爆発するようにはじけ飛ぶ。液体窒素が急激に気化し、激しい音を立てた。

 佐々木は怒鳴った。

「ドアを閉めろ! 閉鎖するんだ!」

 スイッチを押そうとした研究員は、仲間が中に残っていることに気づき、迷った。

 一瞬の隙に、中島はドアの下に触手を滑り込ませた。さらに、尻をついたまま後退る研究員に、覆い被さる。中島は白衣の隙間から身体を這い込ませ、薄く延ばした表皮を密着させていった。生きたまま細胞を同化されていく研究員は、恐怖と痛みに悲鳴を上げた。

 廊下の研究員は、閉鎖スイッチを叩いた。動かない。壁の中で、ギアが軋む音がこもる。廊下にも、気化した窒素が噴き出していた。研究員は、佐々木の後を追って逃げた。

 捕らえられた研究員は、緑に変色していた。白衣が裂け、胸から新たな触手が伸びる。それは研究員の首に巻き付くと、頭をもぎ取った。落ちた頭を搦め捕ると、緑人は再び球体に変形した。転がって廊下に出ると、ドアを押さえていた触手を離す。ドアは、ようやく閉じた。

 中島は、人間の形に戻った。小学生ほどの大きさの、首のない人間……。身体から、黒いヘルメットが盛り上がる。ヘルメットを開くと、中島が冷たい笑いを浮かべていた。

 中島は、手にした研究員の頭を持ち上げた。眼窩に両手の親指を突きたて、二つに割る。そして、脳を取り出して喰った。唇から、血が滴る。

「礼はする。生きながら焼かれる苦しみを、思い知るがいい」

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