阿部たちは、佐伯組のビルの向かいに停めたトラックで待ち構えていた。車は修理され、電子機器も点検と調整を終えている。それらは三人の自衛隊員に操作され、モニターが待ち伏せの要所を映し出していた。

 佐々木は、満足げに微笑んでいた。マンションから発した命令は、たった三十分で罠を仕掛けさせたのだ。その速さは、佐々木に与えられた権限の大きさを示している。

「カメラを十四ヵ所にセットした。奴の接近は、必ず探知できる。周囲の建物には、市街戦の訓練を受けた兵を三十人以上隠れさせている。建物の中にも、専門家が罠を張った。入るのはたやすいが、逃げることはできない」

 阿部は、素直にうなずくことはできなかった。緑人の恐ろしさを知る者は、阿部しかいない。他の者は、中島が牙を剥いた途端に命を絶たれている。佐々木が緑人対策のエキスパートだと言っても、実際に対決するのは初めてなのだ。作戦の根底にあるのは、軍人の常識だ。常識が緑人に通用するとは、阿部には思えない。

「中島はくれてやる。栄美子を救えればいい」

 佐々木の部下がよく訓練されていることは、否定できなかった。大型の兵器を機敏に扱い、落ち着きさえ見せている。佐伯組の〝自社ビル〟に入った隊員たちも、素早く作業を終え、包囲網に加わっていた。周囲に張り巡らせた電子の目も、完全に作動しているようだ。それ以上の迎撃体制は、考えられなかった。なのに、阿部の不安は去らない。

 待ち伏せの主役は、佐伯組の組員たちだった。自衛隊の戦力を後ろ立てに、復讐を果たすのが狙いだ。組員の関心は、他の組に自分をどう売るかという点にある。弔い合戦から逃げ出すような者に、商品価値はないのだ。しかも中島が暴力団員を襲っていることは、関係者の誰もが知り、恐れている。怪物の目的が、コカインだという情報も行き渡っていた。暴力団幹部にとって、中島を倒せるか否かは死活問題だった。三下が名を上げるチャンスでもある。

 彼らからは、まだ中島は現れていないという連絡があったばかりだった。

 阿部は、傍らに伏せていたアイヌ犬の飛竜が、ぴんと耳を立てたのに気づいた。飛竜は身を起こし、阿部の足に首を擦りつけた。

「来た」

 佐々木は、通信機に張り付いた部下を見た。部下は、小さく首を振る。

「分かるのか? まだ連絡がないが……」

 阿部は言い切った。

「飛竜が、栄美子の気配を感じている」

 飛竜は、特別な犬だった。両親は純粋なアイヌ犬で、ハンティングの腕を競い合った仲だという。飼い主の危機を救ったことがある阿部は、数百万円もの価値がある小犬を好意で譲り受けた。阿部はそのころ日高に住み、犬には最高の環境も確保されていた。

 飛竜の素質は、幼い頃から輝いていた。何よりも、訓練が必要なかったのだ。

 犬は好きでも時間が取れない阿部は、飛竜を小学生の栄美子に任せた。栄美子は甘やかし放題に育てたが、飛竜は誇りと自制心を失わなかった。近所の犬社会では、当然のことのようにボスに収まり、狂暴な野犬も唸り声一つで追い払う。たぎる血を押さえ切れなくなると、鎖を引きちぎって飛び出し、野性の鹿を狩った。

 妻が入院してからは、飛竜は警察犬の訓練所に預けられていた。そこでもボスの風格を発揮し、調教師を驚かせた。体力、知力、精神力、そして忠誠心。なにもかもが、ずば抜けていた。

 阿部は、栄美子を教育したのは飛竜だと信じている。飛竜はすでに老年に入っているが、その体力は衰えていなかった。

 阿部は栄美子の居所を嗅ぎ出させるために、部下に飛竜を連れてこさせたのだった。

 突然、ビルから銃声が聞こえた。

 阿部は言った。

「奴だ。もう中に入っている」

 少し遅れて、阿部のトランシーバーに通信が入った。相手は顔見知りの組員だ。

「なんだこいつは! 話が違うじゃねえか! 床をぶち壊して来やがったぞ!」

 オペレーターが慌てて拡大したモニターに、ひび割れて持ち上げられるコンクリートの床が映った。

 佐々木は、手にしたマイクに命じた。

「標的が侵入した。外に出すな!」

 阿部は後部のドアを開け、飛竜を放した。

 飛竜の様子から、栄美子が無事であることは分かっている。だが、どこにいるかは、飛竜にしか捜し出せない。飛竜は、百メートルほど走ってマンホールの蓋を引っ掻いた。

 阿部は飛び降り、中の佐々木に言った。

「蓋を開けてくれ! 後は俺がする!」

 佐々木は、同乗していた隊員に顎で示した。一人が、マンホールに向かった。蓋が開くと、阿部はジャケットのフックに下げた懐中電灯を点け、足を降ろした。不安げに鼻を鳴らす飛竜に、優しく語りかける。

「待ってろ。俺なら信じられるだろう?」

 飛竜は、冷たい鼻を押しつけた。

 阿部は、片腕で金属の梯子を掴んだ。手を握り替える時は、顎でしがみつく。それでも、一人でやる他はなかった。友人や部下を、危険に曝すことはできない。佐々木の手は、意地でも借りられない。

 モニターに見入る佐々木は、現場の指揮に追われていた。配置に付いた隊員たちが、最新兵器でビルを包囲する。

 佐々木は当初、過大な人員を要求したと非難されることを恐れていた。だが今は、不安に捉われていた。中島は、完全だと信じていた包囲を、呆気なく破ってしまったのだから。

〝本当に奴を倒せるのだろうか……〟


 待ち構えていた組員たちも、床を破壊した怪物に度肝を抜かれた。何人かが、ピストルを撃った。ヘルメットに当たった弾丸は、火花を散らした。

 上半身を現した緑人は、笑った。

「撃て、撃て、ザコどもめ!」

 中島は腕を触手に変え、ドスを構えて飛び掛かる若者を搦め捕った。恐怖に声を失った若者を宙に上げ、胴を捩切る。真っ二つになって落ちた身体は、血溜まりで痙攣した。銃声が止んだ。青ざめた組員たちは、じりじりと後退さる。

 中島は、ゆっくりと這い上がった。

「次は誰だ! お前か!」触手がするりと伸び、中年の坊主頭の腰に絡み付く。「言え! コカインはどこだ! お前も二つにされたいか!」

「三……三階だ」

 中島は、坊主頭を頭上に振り上げた。

 白スーツの若者が、手榴弾のピンを抜く。

「くらえ!」

 中島はふんと笑って、坊主頭を投げつけた。手榴弾を投げる間もなかった。倒れた身体の下で炸裂した手榴弾は、二人を宙に飛ばした。身体は鉄の破片で刻まれ、血まみれのスーツが炎を上げる。爆発の閃光と圧力が、その場にいた全員の意識を混濁させた。

 中島は、悠々と階段に向かった。そして、目立たぬように張られた細いワイヤーを引っ掛けた。ブービートラップは、階段の上にセットされたクレイモア地雷を点火させた。轟音が室内に溢れ、後部から噴き出す爆風が階段を駆け上っていく。

 クレイモアは、鋼鉄の玉を撒き散らす対人殺傷兵器だ。その威力は、大砲で散弾を撃ち出すに等しい。並の人間が直撃を浴びれば、死体さえ残らない。

 中島は、真っ向から爆発を受け止めた。だが彼は、姿勢も崩さず、凄みの利いた笑い声を立てた。

「こんな物まで仕掛けたのか。自衛隊と組んだな」

 そう言った声は、強力な敵が出現したことを喜んでいるようにも聞こえた。中島は、その場で踏ん張った。クレイモアの鋼球は、ぽろぽろと吐き出されていく。

 その時、入口から飛び込んできた自衛隊員は、M72ロケット・ランチャーを握っていた。砲弾が装填されたチューブはすでに引き出され、発射できる状態にある。彼は、腰を落として緑人の背に照準を合わせた。引き金を引き、外へ転がり出る。熱いガスを吐いて、砲弾が緑人に吸い込まれた。

 建物が震え、外装がばらばらと剥がれ落ちた。入口から、炎が噴き出す。硝煙が収まると、別の隊員がM203グレネード・ランチャーを構えて入口を覗いた。

 中から十本以上の細い触手が伸び、隊員に巻き付いた。彼は卵切りに挟まれたように、瞬時に輪切りにされた。走り寄る隊員たちは次々に捕まり、血溜まりが広がる。五人が、死んだ。他の隊員は、逃げるのが精一杯だった。

 しかし、ロケット・ランチャーを捨ててM203を取った隊員は、腰を抜かしてもがいていた。その振動が、地面を伝わる。

「まさか……」

 触手の数が、さらに増した。一つ一つが別の生き物のように、地面を探りながら広がっていく。

 一本が、隊員のブーツに触れた。触手は鎌首をもたげ、槍のように彼の喉を貫いた。首を抜けた触手はぐるりと巻き付き、隊員をビルに引きずり込む。目を剥いてもがく隊員は、悲鳴さえ上げられなかった。

 中島は、頭部を守るためにヘルメットを体内に収納し、球状に変わっていた。全身を変形させる方法を、身に付けていたのだ。自衛隊員を引き寄せると、巨大なイソギンチャクのような球体の上に、ヘルメットが盛り上がった。触手がするすると引っ込み、人間の形に戻った。

 中島は、自衛隊員の頭を潰して脳を喰うと、二階に向かった。


 佐々木は、低く呻いた。

「なんという化け物だ……。クレイモアも効かない。ロケットも効かない……。焼くしかないな……」モニターは爆発で死んだが、惨状は想像できた。マイクを取る。「第四班。第一段、点火しろ。一分後に、第二段点火」


 二階には、ガソリンを詰めた十個のドラム缶が隠してあった。無線操作の発火装置が付けられている。中島が三階に上がると、爆発が起こった。流れ出したガソリンが、一面を炎の海に変える。

 中島は、窓を捜した。自分の身体がどれだけの熱に耐えられるか、全く分からなかったのだ。退路は、確保しておく必要がある。だが、組長室として設計された三階には、窓はなかった。

 中島は、壁に拳を叩きつけた。破れなかった。剥がれ落ちたコンクリートの中に、鉄板が仕込まれている。本州大手の組の襲撃を恐れた佐伯は、自室の壁を強化させていたのだった。

 中島は、腕を伸ばして天井を打った。やはり鉄板が現れる。

〝間抜けな罠に嵌まったな……。逃げ道は、下だけか……〟

 中島は、炎を噴き上げる階段を避け、床を崩しにかかった。

 腕が突き抜けた途端、耳元に爆発が起こった。三階には、無線点火の酸素ボンベが隠されていたのだ。

 充満した酸素は、階下の炎を爆発的に引き寄せた。床は下から膨れ上がって砕け、内部は炎に満たされた。


 ビルが風船のように膨らみ、崩れた。鉄板で覆われた三階が形を保ったまま落下し、炎に中に取り残される。

 佐々木は失敗への恐怖を隠し、ぽつりとつぶやいた。

「これで奴も終わりだ。対策を練る時間が与えられたな……」

 部下の一人が言った。

「お見事な指揮でした」

 佐々木は、冷たくにらみつける。

 モニターの一つに、マンホールから這い出す女が映し出された。女は外に出ると、その場に棒立ちになった。阿部の犬が、ぴったりと寄り添う。続いて、阿部が現れた。腕の包帯は、血まみれで、焦げている。

 佐々木は、後部ハッチを開けた。

「救護班は、すぐに着く」

 栄美子は、自力で車に乗った。しかしその目は、夢遊病者のように虚ろだ。廃墟となったビルや無数の死体にも、関心を示さない。全身から、汚水の臭いを立ち上らせている。しかし、危害は加えられていないようだった。

 飛竜が、車に飛び込んで栄美子に擦り寄る。最後に阿部が這い上がった。

 阿部は言った。

「娘は、縛られて転がされていた。糞まみれさ。連れて来るのがやっとだった……」

「生きていただけでもいい。我々の精神科医が、何とかできるかもしれない」

「頼む。それで、始末できたか? ひどい音がしていたが。火のついたガソリンは降ってくるし、死ぬかと思った」

「戦争を一つ、終わらせた。仕方あるまい」

「本当に、死んだのか?」

「これから調べる。だが相手は植物だ。焼かれれば灰になる」

「そうであることを祈るよ」

 阿部は、破壊し尽くされたビルを目にしながらも、まだ安堵することができなかった。

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