第二章・破滅へのカウントダウン・札幌

 中島が指定したのは、裏参道に面したマンションの最上階だった。一階には、高級品ばかりを扱うブティックが入っている。客は、若者だけだ。彼らの姿は、阿部に娘を思い出させた。しかし彼女は、独立心が強く、父親に媚びたり物をねだったことはない。それが、今の阿部には悲しかった。

 建物に沿う通りは、ぶらつく若者で賑わっている。同じような服装をし、同じような顔をし、同じように振る舞う若者たち。それは、常と変わらぬ〝平和〟な光景だった。

 阿部は、エレベーターで十二階に上がった。中島の部下は、見当たらない。ドアには、鍵さえかかっていなかった。絶対的な自信が表れている。

 以前は木村組傘下の組の事務所だった部屋からは、家具は取り払われていた。がらんとした空間の奥に、カーテンを引いた窓がある。

 そこに、緑色のゴリラがいた。

 巨大な椅子に腰掛け、両腕に妻と娘を抱えている。二人の服装は、乱れていない。傷を負った様子もない。

 阿部は、安堵の溜め息をついた。

「あなた、助けて……」

 妻の声は、恐怖にかすれていた。

「綾乃……。何とかする。落ち着け」

 自分の声の頼りなさに、逃げ出したい衝動に駆られた。

 娘の栄美子は、目を見開いている。しかし、ぴくりとも動かない。意識が、空白になっているようだ。

 中島は、黒いヘルメットの中で笑った。

「いい亭主を持ったな。別れたことを後悔しているんじゃないか? 武器を持って来たのは感心しないがな」

 阿部は、ライフルのケースを下げていた。中身は、署から持ち出した日本刀だ。

 痛み止めの処置を施した警察医は、無理をすれば命に関わると警告した。阿部は、ありのままを語った。医師は阿部が命を賭けていることを知り、押収したコカインと緑人に関係する情報を漏らし、武器を都合したのだった。

 中島がさらった女は、佐伯組組長の情婦だと判明した。コカイン密売網を束ねる、ススキノの女帝と呼ばれる重要人物でもあった。死体は苫小牧の墓地で発見された。が、首をもがれ、血液を抜かれていたことは、隠されていた。阿部は、中島に食われたのだと直感した。自分がしくじれば、妻と娘が同じ運命をたどる……。

 情報はもう一つあった。中央署を襲った緑人たちは、植物に変化しつつあるというのだ。路上で動きを止めた緑人は、アスファルトに根を打ち込んだ。数時間で人間の形を失い、今は葉を落とした広葉樹のようだと聞かされた。確かめに行くことはできなかった。佐々木に所在を知られれば、病室に軟禁される。妻と娘を救出するには、第一に自衛隊から逃亡しなければならなかったのだ。

 しかし、その情報によって、緑人を倒すめどはついた。首を落とせばいいのだ。武器に日本刀を選んだのは、銃よりも有利に戦える自信があるからだった。

 阿部は、中島をにらみつけた。ケースを床に置き、刀を出して鞘を払う。

「俺は片腕だ。これぐらいの自衛手段はあっていい」

 中島は、くっくっと笑った。

「もちろんだとも。気休めにはなる。では、取り引きだ。コカインはどこだ?」

「中央署の倉庫」

 中島は、溜め息をついたようだった。阿部を小馬鹿にした笑いが、凍りつく。

「お前を生かしておいた意味が分かっていないな。俺は、お前を殺したい。血反吐を吐かせて、ばらばらにしてやりたい。だが、必要だからこらえている。倉庫は調べさせた」

 中島は、綾乃を離した。逃げる綾乃の手首を素早く掴まえ、宙にぶら下げる。

「いや! 痛い!」

「綾乃! やめろ! 本当のことを言う! コカインは佐伯組がかっさらった。奴らの事務所だ!」

「遅い。お前は、嘘をついた。何よりも、俺から美幸を奪った。その礼をする」

 綾乃は、足をばたつかせ、身を捩っている。

 阿部は、芝居を打った。部屋の中央まで進んで、刀を置く。右手を上げた。

「美幸さんを奪ったのは、木村だ。俺に君を捕まえさせたのも、奴だ。俺も、利用されたんだ。奴は、君が勢力を伸ばすことを恐れた。自分の地位を脅かす前に、潰しておきたかったんだ。しかも、以前から美幸さんに目を付けていた」

「知ってたさ。組長風を吹かせて偉ぶっても、一皮剥けばただの助べえじじいだ。だからあの世に送った」

 阿部は、怒りを逸らせようと焦った。

「復讐は、終わっている」

「お前を別にすればな」

 綾乃は、悲鳴を上げた。手首から、血が滲み出している。骨が折れ、手のひらが奇妙な角度に曲がった。綾乃は、気を失った。

「よせ!」

 阿部は突進しながら、ポケットに忍ばせた熊除けのスプレーを抜いた。中は唐辛子のエキスで、ヒグマが徘徊する山林に捜索に入る時は欠かせない小道具だ。スプレーの霧は、ヘルメットのスリットを直撃した。

「何をしやがる!」

 阿部は身を翻して刀を拾うと、再び飛び掛かった。スプレーの霧で涙が滲む。気力を振り絞り、懐に潜り込んだ。そして、綾乃を掴んだ腕を斬り上げた。片手で振る日本刀に鋭さはない。が、緑人の腕は呆気なく断ち切れた。骨の手応えもない。緑人の腕とともに落ちた綾乃は、意識を失ったままだ。

〝いける!〟

 阿部は気合を入れると、立ち上がった中島の胴をなぎ払った。

「貴様!」

 中島は叫んだ。上半身が揺らぐ。栄美子を抱えた腕も、緩んだ。阿部は、刀を中島の腹に突き立てると、娘を引きずり下ろした。すぐさま振り返って刀を抜き、さらに胴を斬り込む。

 緑人は真っ二つに分断されて、上体が椅子の後ろに落ちた。

 切断された腕が、綾乃を食おうとしている。

「許せ!」

 阿部は歯を食いしばって、綾乃の腕に刀を振り下ろした。鮮血がほとばしる。阿部は、自分に鎌首を上げた腕を突き刺し、部屋の隅に撥ね飛ばした。

〝首を取るんだ!〟

 阿部は、椅子の後ろに回った。

 そして、恐怖に身をすくませた。

 中島は、下半身を床に埋めたような状態で、笑いを堪えている……。

「やってくれるじゃないか。四十過ぎの年寄りとは思えん。だから、もう手加減はしない」

 中島は、残った腕で椅子を掴み、投げつけた。横に跳んで椅子を避けた阿部は、綾乃の血に足を滑らせて尻をついた。腰が抜けている。

 中島は、身体を前に弾ませると、下半身を引き寄せた。ごろりと横になり、模型を組み立てるように切り口を合わせる。傷は、一瞬で繋がった。立ち上がった中島は、ゆっくりと部屋の隅に歩いて、腕を拾った。切り口に付ける。

「何度でも斬るがいい。この身体は、意志通りに繋げられる。腕ぐらい取られても、しばらくすれば生えてくる。百回でも千回でも蘇ってやる」

 阿部は、刀を杖にして立ち上がった。顔からは、血の気が失せている。それでも、妻を庇う。

「なんて奴だ……」

「女房が大事か? なら、そいつから始末してやる。次に、娘。最後に、貴様だ」

 中島の右腕が、ぐにゃりと垂れた。それは見る間に鞭のように伸び、阿部に叩きつけられた。阿部は撥ね飛ばされ、壁に背中を打ちつけた。

 中島は、大蛇を思わせる腕を綾乃に巻き付けて、持ち上げた。もう一方の手で首を掴んで、ぶら下げる。綾乃の腕から噴き出した血が、床に広がっていく。

 中島は長く伸びた触手を縮めて、人間の形に戻った。

「見納めだ。目に焼き付けておけ」

 綾乃の顔を、阿部に向けた。後ろから回した手で、ブラウスを裂く。巨大な手が、乳房を掴んだ。

「やめろ!」

「ふん、使い古しに用はない。欲しいのは、脳味噌だ」

 中島は乳房を放し、綾乃の背中に硬化させた指先を突き立てた。

 激痛が、綾乃を目覚めさせた。絶叫した綾乃は、大きくのけぞった。

 中島は大声で笑いながら、手を差し込んでいく。背中から、内臓をまさぐる。

 綾乃は、悲鳴と血を吐いた。

 そして、息絶えた。

 肋骨が砕ける音が、はっきりと聞こえた。乳房の間が、ぐっと盛り上がる。皮膚が弾けると、緑色の手が現れた。心臓が握られていた。

 阿部は、獣のように叫び、斬り掛かった。中島は、綾乃を貫いた手を伸ばし、心臓を阿部の口に押し込んだ。阿部は足を滑らせ、再び倒れた。妻の血と涙にむせながら、心臓を吐き出す。

「よく見ろと言ったろうが!」

 中島は腕を抜くと、今度は綾乃の頭を掴んだ。首を捩切る。綾乃の死体が、血溜まりに崩れ落ちた。

 中島は、ヘルメットの前を撥ね上げ、顔を見せた。満足そうに、微笑んでいる。綾乃の頭を握り潰すと、指の間から滲み出た脳を音を立てて啜った。

 阿部は、べったりと座り込んだ。涙が溢れ、頬を伝う。

「次は、娘だ。すぐには殺さん。たっぷりと楽しませてやる。見ていろ」

 中島は、再び触手を伸ばし、娘をすくい上げた。

「栄美子!」

 阿部は跳ね起き、触手を斬り落とした。しかし中島は、牛の尻尾が蠅を払うように、阿部を弾き飛ばす。

「それでいい。お前が這いずり回るのを、夢見てきたんだ」

 中島は、するすると触手を伸ばし、斬り落とされた先端を繋げた。栄美子は、またも引き寄せられていく。

 その時、ドアが蹴り破られた。自衛隊員がなだれ込む。

「離れて!」

 命令した男は、小型のガスボンベを取り付けたようなライフルを中島に向けた。阿部が初めて見る武器だ。

 中島は、厳しい目付きでヘルメットを下ろした。左手も触手に変え、武器に向かって伸ばす。

 バックアップの隊員が、ショットガンを放った。轟音が部屋を揺るがし、硝煙が視界を塞ぐ。触手が未知の武器を奪う寸前、それは発射された。

 シュッというガスの音と同時に、触手が止まった。根元に、注射器のような筒が突き刺さっている。中島は、それを引き抜いた。だが、撃たれた部分は、瞬く間に茶色に変色していった。

 中島は、栄美子を放した。そして触手を腕に戻すと、自分の左腕を肩からもぎ取った。それを自衛隊員の中に投げ込む。

「土産だ!」

 言い放った中島は、片腕で栄美子をさらい、身を翻して窓を破った。ベランダから、通りを隔てたビルに跳ぶ。

「栄美子!」

 阿部は叫んだが、もう動けなかった。傷口が痛むことに、不意に気づいた。きつく巻かれた包帯に、血が滲んでいる。

 自衛隊員の一人が、触手に締め上げられて血を吐く。だが、触手にも、変色が広がっている。隊員が息絶えると、触手はぽきりと折れた。

 阿部は亡霊のように立ち上がって、窓を見つめた。

「また、命拾い、ですか」

 阿部は、振り返った。背後に、佐々木が立っていた。

「あんたか……。どうしてここが?」

「常に監視されていると言ったはずです。あなたの身体には、発信機が埋め込んであります」

「なら、早く来い! 女房を殺され、娘をさらわれたんだぞ!」

「自業自得です」

「何だと!」

 佐々木は、阿部をにらみつけた。

「あなたの勝手な行動のおかげで、未完成の武器を使う羽目になったんです。実験は成功したと言えるかもしれませんが、奴は逃げた。我々が、対緑人兵器を開発していることも知ってしまった。量産体制も整っていないのにね。毒が回って死ねばいいが、でなければ面倒が増えます。しばらくの間は、動きを封じていられるでしょうが……」そして、氷のような口調で付け加えた。「私は、救ける気はなかった」

「じゃあ、なぜ来た!」

「命令だから。泳がせれば緑人に導いてくれるというのが、上のもくろみでね。GM駆除剤の実験も急いでいました。性急過ぎると反対したんですが、警察の襲撃をマスコミが嗅ぎつけて……。手は打った、という既成事実が欲しいのですよ。官僚の考えることですから。あなただって、不満はないでしょう。作戦に参加する望みが叶ったのですから」

 二人は、にらみ合った。

 阿部は言った。

「けじめは付ける。娘は救い出す。奴も、殺す。手は打った」

 佐々木は、軽蔑をあらわにしていた。

「それを教えてくださるところをみると、我々も仲間に入れていただけるのかな?」

「でかい口を叩くのは勝手だが、止めは刺せるんだろうな。現れる場所は分かっているんだ」

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