阿部は、ベッドで目を覚ました。

 見知らぬ男女が二人、彼を見下ろしている。

 男が事務的に言った。

「生命に危険はない。ここがどこか、私たちが誰かはまだ言えない。まず、質問に答えて欲しい」

 阿部は、横になったままで辺りを見回した。

 清潔な病院のように見えた。あるいは、惚けた億万長者を閉じ込める老人ホームのように。カーテンが開かれている窓は、嵌めごろしだ。乳白色のガラスには、格子状の針金が入っている。

 背広姿の男の年齢は、三十歳ぐらい。知能が高く、行動力が旺盛なエリートと見た。軍隊の指揮官に似た、冷酷さを漂わせている。阿部が最も嫌う種類の男だ。

 白衣を着た女は、さらに若い。短く刈り上げた髪、細いフレームの眼鏡。顔立ちは、好奇心ではちきれんばかりの少年を思わせたが、目は冷たい。美人なのに、男が寄り付かないタイプだ。阿部は、娘を思い浮かべた。気の強そうな印象が、よく似ている。

 それから阿部は、災難を思い出した。

 左手に目をやる。包帯で膨れ上がった腕は、肘から先が消えていた。

「自分で斬り落としたそうだね。適確な判断だった」

 感情が読み取れない男の声に、怒りが沸き上がった。上体を起こして、怒鳴る。

「腕をなくしたことが、嬉しいのか! 死人も出たんだぞ!」

 男は微笑んだ。

「それほど元気なのが、嬉しいのだ。あいつに遭遇して生き残った人間は、多くない」

「緑色の怪物か? 何だか、知っているんだな?」

「質問は、私がする」

 男は、コードレス電話を差し出した。

「何だ?」

「上司に連絡を」

 阿部は、男をにらみつけてから電話を受け取った。中央警察署の刑事部長を呼び出す。電話に出た部下の報告は、予想外のものだった。

 阿部は、受話器を耳から外してつぶやいた。

「部長は殺された……と」

 男は無表情のままだ。

「家族とともに、惨殺された。署長の指示を仰ぎたまえ」

 署長との話は、数秒で終わった。全面的に協力しろ。投げやりとも言える、簡潔な命令だった。

 阿部はうなだれた。

「質問は?」

「コカイン取り引きの現場に踏み込んだいきさつが知りたい」

 阿部は、痛む頭で考えをまとめた。

「踏み込む三日前に、たれ込みがあった。自宅にだ。半信半疑だったが、組や売人の動きは、一月以上も前から騒がしかった。麻薬取締官たちも、異変を嗅ぎつけていた。まとまった量のコカインが届くとしか考えられなかったんで、令状を取った。警察を手玉に取るぐらいなら、知ってるんだろう? それより、俺はどれぐらい寝ていたんだ? こんな質問も許されないのか?」

「ほんの二日だ。情報を流した人物、その目的は分かるかね?」

「電話を掛けてきたのは、人間離れした甲高い声だった。言葉つきから、中島だと思った。声を変える装置は、おもちゃ屋でも買えるからな。だが、奴は現場にいた。自分が加わる取り引きに、俺を招待するはずがない。といっても、他に思い当たる相手もいない」

「中島という男、君が刑務所に入れたのだろう?」

「一年も前だ。一ヵ月前に脱獄したんだ。看守が三人殺された」

「どんな人物だ?」

「あんたと同じエリートさ、やくざのな。知能が高く、外国語に堪能。海外との麻薬取り引きには必ず顔を出す。木村組のホープだった。性格は残忍で、執念深い。急激に勢力を伸ばして、戦闘的な取り巻きを連れて独立を企てていた。自前の組を張る気でいたらしい。だから、疎まれた。で、幹部の罠に嵌まって、俺に捕まった。ムショでは模範囚だったそうだ」

「その男、取り引きの現場で見た時、どこかおかしくはなかったかね?」

 組長室での記憶は、完全に蘇っている。

「おかしいことなんか、何もない。サンプルを奪い、片腕で女を抱えて、五階から飛び降りて、走って逃げた。ついでに、五人以上の幹部をミンチにした。俺の部下は、奴が置いていった化け物の腕に、腹を食い散らされた……。笑うなら笑え」

 女が口を開いた。目は、真剣だ。

「顔の色を見ましたか?」

「色? 健康そうだった。俺を見て、笑ったよ」

 女は、男にうなずいた。

「変態を終えています。細胞制御の方法も身に付けていますね」

「危険度を〝黒〟に変えよう」

 女は、無言で部屋を出た。

 阿部は、たまりかねて言った。

「いい加減に教えてくれ。中島はどうしたんだ⁉ あの化け物は何だ! 夢を見たんじゃないんだろう?」

「条件を呑めるかね? 知ったことは、誰にも話せない。話せば、君も、それを聞いた人物も、死ぬ。私が、処分する」

「物騒だな。一生、つけ回す気か?」

「そのとおり」

「はったりじゃあるまいな」

「試すのは、自由だ。だが、失うものは大きい。君は、それだけ重大な事件に、首を突っ込んでしまったんだ」

 阿部は、数秒間考えた。警察を言いなりにできる権力は、多くない。彼らは、人命に重きは置かない。

「分かった。ただし、こっちにも条件がある。俺も仲間に入れろ。中島を狩るんだろう?」

「危険は身をもって知ったはずだ」

「小林の仇を取る。腕を取られた礼もしたい」

「相手は人間ではない」

「知っている」

「考えておこう」

「で、あれは何だったんだ?」

 男は、淡々と言った。

「植物人間。もちろん、寝たきりの病人ではない。特殊な植物の細胞に冒され、身体が植物化してしまった人間だ。動物と植物が融合した、新しい生命体だ」

「何だと⁉ 俺は、葉っぱに腕をもぎ取られたっていうのか! 何でそんな化け物が? まさか、宇宙人が取り憑いたなんて……」

「その可能性も、否定できない。CIAが作った生物兵器とも、NASAが開発した人造人間とも言われている。何も分かっていないということだ。確かなのは、植物化した細胞が常識を超えたパワーを発揮するという事実だけだ。人間が植物化すると、緑色のスーパーマンに変わる。日本で確認されたのは初めてで、対処の方法も見当がついていない」男は、壁のインターホンを取り上げた。「佐々木だ。志水君に、標本を持って来るように伝えてくれたまえ」

 阿部は、思いつくままに尋ねた。

「なぜ中島が、その植物人間に変わったんだ?」

「彼らは、〝りょくじん〟と呼ばれている。緑の人ということだ。英語のグリーンメンの頭文字を取って、国際的にはGMの略称が使われている。GMが最初に発見されたのは、コロンビアの密林だ。コカイン栽培組織を殲滅するために派遣されたアメリカの特殊部隊が、餌食にされた。GMの生態とコカインが密接に関係していることは確かだ。中島との繋がりも、そこにある。彼は、密輸組織から情報を仕入れ、自分をGMに変えることを決意したのだろう。GM化すれば、脱獄などたやすい」

「仲間を増やすこともできるのか?」

「何通りかの方法が知られている。現に君は、GMにされかけただろう。中島は、日本のGMの総代理店になる気かもしれん」

「人間には戻れるのか?」

「今のところ、不可能だとされている。緑人化した細胞から植物の特性を取り除く実験は、成功していない」

「それじゃあ中島は、化け物になることを覚悟して……」

「彼が、人間に戻る方法を知っていることも考えられる」

 そこへ、女が戻った。手に、アルミのトランクを下げていた。

 阿部は言った。

「あんたが、志水さんかね?」

 女は、男の様子をうかがった。男が、小さくうなずく。

「志水真弓です」

 数秒間の沈黙。

 阿部は、ふんと笑った。

「名前を教えてくれただけでもいいとするか。取り調べなら、それだけ吐かせるにも半日粘る馬鹿もいる」

 男が微笑んだ。

「私は、佐々木哲也。自衛隊に所属している。ここも、隊の研究所だ」

「だが、それ以上は話せん、と言うんだろう?」

「志水君は、民間から協力を願った研究者だ。分子生物学、特に植物が専門だ」

「バイオテクノロジー、ってやつかい? あんたがあの化け物をこしらえたんじゃ……?」

 志水真弓は、真剣に答えた。

「そうなら、どんなに嬉しいか……。倒す方法も分かるかもしれませんからね」

 志水はそう言いながらトランクをベッドサイドのテーブルに置くと、鍵を外した。中には、緑に変色した腕が入っていた。細い蔓が絡み付いている。半分ほどが、茶色く枯れていた。

 阿部は、身を引いた。

 佐々木が、緑の腕に触った。

「君の腕だ。運動能力は失ったし、意志も持っていない。盆栽と同じぐらい安全だ。この蔓を見たまえ。緑人化した中島の腕が変形したものだろう。生命の危険を感じ、生き延びるために根を打ち込んだ。腕を切らなければ、全身を植物にされていたところだ」

「今、意志はない、と言ったか? 小林を襲った時には、意志を持っていたというのか?」

 答えたのは、志水だった。

「緑人化した細胞は、脳との接続を絶たれた後も、数分間は命令を実行し続けます。とかげの尻尾を切っても、しばらく動いているようなものです。しかし、脳が切断後の行動を指示できる点において、格段に優れています」

「中島は、小林を襲わせるために腕を切っていったのか……?」

「触覚以外に情報を得る器官がありませんから、特定の人物を襲わせることは不可能でしょう」

「狙われたのは、俺か……」

 佐々木がうなずく。

「自分を罠に掛けた人物を集め、始末しようと企んだ……。君には直接電話を入れ、おびき寄せた。中島は切り落とした腕に、可能な限り多くの人間を殺すよう命じたのだろう。コカインの隠し場所を調べることも目的だったと思われる」

「片腕になってまで?」

「養分の摂取が十分なら、腕は二、三日で再生するでしょう」

「また生える? まさに怪物だな……。奴は、それを知っていたのか。だが、なぜ女をさらった? 奴の女のようには見えなかったが……。緑人とやらも、セックスはできるのか?」

 志水は、不快感をあらわにした。

「脳の植物化を防ぐため……」

 唐突に、佐々木が怒鳴る。

「黙れ!」

 志水は、身をすくませた。しかし、鋭くにらみ返す。二人の関係が穏やかでないことは、明らかだった。

 折れたのは、志水だった。

「すみません……」

 佐々木は、すぐに無表情に戻った。

「大声を出して悪かった。機密なんだ」

「軽率でした」

 阿部には、まだ聞きたいことがある。緊張を無視して、強引に続けた。

「奴らの身体の仕組みは、分かっているのか?」

 佐々木がうなずくのを見てから、志水は言った。

「基本的な構造は、新鮮な試料……つまり、あなたの腕のおかげで分析が進みました。なぜ、という点については何も分かりませんが。植物と動物の細胞の違いを、ご存じですか?」阿部の顔色を窺った志水は、答えを待たなかった。「大ざっぱに言うと、植物は葉緑体と液胞を持ち、細胞膜の外を丈夫な細胞壁で囲んでいるということです。細胞壁は、セルロースなどの多糖類から成り、個体の支持強度を高めています。骨がない代わりに、固い殻に入った細胞を煉瓦のように積み上げて、形態を保っているわけです。動物では、主に蛋白質であるコラーゲンが細胞を繋ぎ合わせて、骨の周りに固定しています。セルロースは固く、コラーゲンは柔らかい。それが見かけ上の違いと言っていいでしょう。緑人の組織では、人間のコラーゲンが、多糖質と蛋白質の複合体であるプロテオグリカンに変化していました。プロテオグリカンは、ヒトの軟骨の中にも含まれていますが、一般の結合組織には使われない物質です。この変化が、動物の柔軟さと植物の強靱さを兼ねる構造を生み出しているようです。同時に骨が消失し、かなり自由に形態を変えることが可能な、ある意味では不安定な状態の組織が出来上がります。さらに、緑人の体内では、ヒトの赤血球が葉緑素に変わります」

 さすがに阿部も、鵜呑みにはできなかった。

「そう簡単に言うなよ。スイッチを切り替えるように、植物に変わるなんて……」

「一見あり得そうのない変化に思えるでしょうが、ヘモグロビンとクロロフィルは、実質はほとんど同じ分子なのです。基本の骨格を作っているのはポルフィリン環構造です。ここに二価鉄が結合するとヘモグロビン分子になり、鉄をマグネシウムに置き換えると、クロロフィルと同じと言ってもいい物質に変わるのです。また、マメ科の植物は、窒素を固定する根粒細菌と共生する必要から、ヘモグロビンを活用しています。動物と植物は、見かけは違っていても、生命としての本質的な構造は驚くほど似ているのです。緑人は、何らかのきっかけでその境界にまたがる存在になった、特殊な生命体なのです」

 阿部は、肩をすくめた。

「切った腕が生えてくることも、そのせいか?」

「無関係とは言えませんが、再生力の強さは、むしろ植物細胞の特性に由来しています。例えば、スーパーで買ってきたニンジンの細胞を、一つ切り離します。それを試験管で培養すると、増殖して塊になります。さらに地面に植えると、完全なニンジンに育ちます。植物は、分化を終えた体細胞でも、個体を再生する潜在能力をもっているのです。動物では未分化の胚を除けば、最高の再生力を持つ種でもなし得ない離れ技です。ヒトなど、切り傷一つさえ、傷痕を残すという不完全な形でしか再生しかできませんから。しかも、緑人の場合は、再生のスピードが異常に速いことが知られています。理由は解明されていませんが、私は動物細胞の特性との相互作用で再生力が高められるのではないかと考えています」

「小林を襲った腕は、簡単に腹をぶち破ってしまった。緑人の身体は、そんなに堅いものなのか?」

「一時的になら、細胞壁の一部を硬化させることができることが知られています。たとえば、そう……樫の木のように。そうして堅くさせた先端部を、柔軟でパワーがある動物的な本体部分がコントロールしたのではないでしょうか。ただし、硬化させた部分では、柔軟性を失って動物的な行動が取れなくなります。ですから、人間の形態を保っている状態では、表皮全体を堅くすることはできないと考えられます。それにしても、切り落とした腕だけでこれほど複雑な行動が取れるとは、予測していませんでした。一種の生存本能が命じた、緊急避難的な活動だったと思います」

「コカインは、奴らの身体の仕組みとどう関係するんだ?」

 専門分野の解説では饒舌だった志水が、急に口をつぐんだ。

 佐々木は、首を横に振った。

 再び、気まずい沈黙が生まれた。

 その時、インターホンが鳴った。受話器を取った佐々木は、溜め息をついた。

「GMが現れた」

 阿部は、言った。

「どこに⁉」

「君の職場だ。札幌中央警察署」

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