緑人戦線

岡 辰郎

第一章 緑色の超人

 血溜まりでうごめいていたのは、緑色の〝腕〟だった。

 サブマシンガンを構えてドアを蹴破った小林の目は、〝腕〟に釘付けになった。

 組長室にたどり着くまでに、小林は弾倉を空にしている。全弾を天井に撃ち込んだのだが、ウージーは単なる脅しではなかった。幹部のガードがサブマシンガンを持つことは、常識だ。組のステイタスは、突撃隊が担ぎ出したロケット・ランチャーの数が決めるほど、争いは激化している。合法的な〝事業〟から締め出された暴力団は、牙を磨きあげることに活路を見出だしたのだ。警察も、武装を強化せざるを得ないのが現実だった。

 組織が求めていたのは、コカインだった。安価なクラックの台頭によって合衆国では過去のものとなった粉末のコカイン、パウダースノー。それが日本では、暴力組織が資金源を確保するための戦略物資として、価値を高めていた。鼻の粘膜から吸収できるコカインは注射の必要もなく、身体に痕跡を残さない。マリファナのように、取締官にたやすく気づかれる臭気を発する恐れもない。日本進出を狙う海外の麻薬組織と手を組んだ暴力団は、将来のクラック市場を育てる第一段階として、パウダースノーによる汚染を拡大しようと目論んでいた。事実、世界でもっとも裕福な国である日本では、コカインが高価な麻薬であるにもかかわらず、入荷が追いつかないほどの需要があったのだ。

 小林らは、その取り引き現場を急襲した。木村組には、北海道を代表する五人の組長が顔を揃えているはずだった。古くから韓国ルートのシャブを牛耳ってきた、本州大手の侵攻に対抗するためである。〝ブツ〟の大部分が隠されていることは当然だが、サンプルがテーブルに載せられていることも確実だった。強行突入の目的は、サンプルを梃子に輸入径路を壊滅することにあった。

 だが、組長室は、予想もしない惨状を呈していたのだ。

 そこは、屠殺場と化していた。無数の肉片が散乱し、壁全体が鮮血を滴らせている。天井には、えぐられた眼球が貼り付いていた。血と排泄物の臭気が、ねっとりとまとわりつく。シュレッダーにかけられたのが何人か、見当もつかない。

 何よりも不気味だったのは、正体不明の物体だった。

 緑色の〝腕〟……。

 小林は、組員から反撃される危険があることも忘れて、物体を見つめた。銃口は、下を向いている。

「なんだ、これは……」

 後に続いた阿部雅則には、小林の陰になった〝腕〟は見えなかった。

 阿部の目と拳銃は、側面の窓に向かった。開いている。女を抱えた男が飛び出すのが、ちらりと見えた。

「中島!」

 一瞬振り返った男は、冷たく笑っていた。

 阿部は、血糊に足を取られながら窓に駆け寄り、銃を突き出した。ゆっくりと顔を覗かせる。遥か下に、雪が融けたばかりのススキノの裏通りが延びている。通りを駆けていく中島の後ろ姿が、確認できた。すでに豆粒の大きさになっている。

〝五階から飛び降りただと⁉〟

 窓と通りの間は垂直の壁で、突起物さえなかった。飛び降りる以外に、地上へ着く方法はない。しかも、人間一人を抱えて……。

 その時、阿部は気づいた。中島は、片腕だ。

 呆気に取られて振り返った阿部は、初めて〝腕〟に気づいた。本能的に危険を感じ、冷や汗が噴き出した。

 小林は、〝腕〟から、目を離せずに繰り返した。

「なんだ、こいつ……」

〝腕〟は、声を聞きつけたように、小林に向かって手を開いた。敵を威嚇するコブラを思わせる身のこなしだ。

 形は、肩から切り落とされた人間の腕、そのものだった。たっぷりと筋肉が付いた二の腕、西瓜を一掴みできそうな手のひらは、鍛えられた男のものだ。だが、その〝腕〟は、全体を緑色の鱗のような表皮で覆われている。肩の切り口にも、赤い肉は見えない。肉片と体液に浸っていても、その緑色は鮮やかだ。

 阿部は、中島の腕だと直感した。

 阿部が叫ぼうとした時、〝腕〟はぴちゃっと跳ねて小林に飛びついた。くるぶしを掴まれた小林は、反射的に身を引いた。

〝腕〟は、離れない。

「生きてるのか⁉」

 小林の驚きが、恐怖に変わる。〝腕〟の握力は、万力並だった。顔が、見る見る青くなった。無意識にサブマシンガンを向けた小林は、全弾を〝腕〟に撃ち込んだ。激しい銃声とともに、薬莢がぱらぱらと舞う。

 腕は、ぐにゃりと柔らかくなった。そして、ヘビのように全体をくねらせて、足に絡み付いた。小林は、あんぐりと口を開け、倒れた。

 ボキッと音を立てて、脛の骨が砕ける。

 小林は、駆け寄った阿部にしがみついた。

「助けて!」

「今取ってやる!」

 阿部は、〝腕〟を掴んだ。だが〝腕〟は、必死に引き剥がそうとする阿部など存在しないかのように、じりじりと足を這い上っていく。

 入口で身構えていたはずの二人の麻薬取締官も、二の足を踏んでいる。阿部は、ショットガンを突き出したまま茫然と立ち尽くす特別機動隊員に命じた。

「手を貸せ!」

 特別機動隊は、暴力団壊滅の切札として組織された、猛者揃いの実戦部隊だ。しかし、彼らが予想していたのは、最悪でも銃撃戦で、怪物退治ではない。マニュアルにない展開が思考力を奪ったのも、当然と言えた。

「急げ!」

 ようやく二人が、部屋に飛び込んだ。しかし三人がかりでも、緑の〝腕〟はびくともしない。なめくじが枝を上るように、確実に這い進む。

 小林は、歯を食いしばって呻いた。

「撃て! 足ごと撃ってくれ!」

 阿部は、小林の目を見た。ショックは脱している。痛みに喘いではいるが、正気は失っていない。

「いいんだな」

「急いで! 身体をばらばらにされちまう!」

 阿部は、機動隊員からショットガンを取り上げ、〝腕〟に向けた。

「撃つぞ!」

「早く!」

 引き金を引く。が、発射されなかった。

 機動隊員が叫ぶ。

「安全装置を外して!」

 昔気質の頑固者で通っていた阿部は、銃の扱いが苦手だった。〝飛び道具〟を嫌っているといった方が、当たっている。最も危険な部署の最前線に立っているにもかかわらず、射撃訓練さえ怠けがちだった。しかし、銃がなくても暴力団員を震え上がらせる実力を持つ彼の我儘は、暗黙のうちに許されていた。

 阿部は安全装置を解除して、機動隊員を払いのけた。

 轟音とともに小林は足を分断され、気絶した。

「救急車!」

 阿部は機動隊員に怒鳴ったが、彼らの目は、まだ怪物から離れない。

「ぼんやりするな!」

 それでも、彼らは動かなかった。阿部は振り返った。

 半分になっても、〝腕〟は生きていた。ちぎれて短くなった足を、締めつけたままだ。そのために、小林の足からは血液が流れていない。

 阿部は、銃を構えたまま身を引いた。

〝腕〟は手のひらを広げて威嚇してから向きを変え、尺取り虫のようにうねった。〝腕〟は指先を、小林の腹に立てた。意識を失っている小林の身体が、プロボクサーのボディーブローを食らったように、くの字に折れ曲がった。防弾チョッキのケブラー繊維が指を撥ね返したが、〝腕〟が相当の力を持っていることは明らかだった。

〝なんだ、こいつ……〟そして、阿部は気づいた。〝腹を破って中に逃げ込む気か!〟

 同時に指先は、小林の下腹部に防弾チョッキに守られていない部分を発見していた。阿部が銃を撃とうとした瞬間、小林の衣服と皮膚は〝腕〟に貫かれていた。

「やめろ!」

〝腕〟は、するりと腹に潜り込んだ。小林は大きくのけぞった。絶叫が部屋の空気を震わせる。〝腕〟は、身体の中を動き回った。目を見開いて激しくのたうつ小林の脇腹が盛り上がり、その位置が目に見える。体内をゆっくりと這い進んでいるのだ。ついに小林は、血の泡を吐いた。

 誰も止められなかった。阿部さえも、吐き気をこらえるのが精一杯だった。

「何てことだ……」

 機動隊員も、気を失いかけている。

「ど、どうすればいいんですか!」

 小林は、悲しげな目で助けを求める……。

「知るか! くそ! 銃を集めろ。化け物が出てきたら、とにかく撃て!」

「助けなくっちゃ……」

 小林は、もう一度身を反らすと、力を失った。

 死んだのだ……。

 阿部は、二十歳も年下の小林を、息子のように可愛がっていた。戦友であり、心から理解し合える友人でもあった。

 阿部は、その死を冷静に受け止めた。危機の度合いが高まるほど、クールになれる男なのだ。

「遅い。それより、化け物に捕まるな」

 小林の首が、動いた。喉が、盛り上がる。〝腕〟が、這い上がってきている。口が開いて、〝指〟が見えた。最初は血まみれだった〝手〟は、姿を現すとすぐに鮮やかな緑色に戻った。表皮から血液を吸い込んだようだ。

 機動隊員は、銃を構えたまま、後退っていった。一人が走り去る。

「くたばれ!」

 阿部は、ショットガンの銃口を〝手〟に押し付けた。途端に〝手〟の動きが加速された。血を飛ばして跳ねると、銃を握る左手に絡み付く。阿部は、激痛に呻いた。

 残った機動隊員も、悲鳴を上げて逃げた。一人で戦う他はない。

「やられてたまるか!」

〝腕〟に時間を与えれば、内臓を食い散らされる。だが、〝腕〟は阿部の腕と銃を一緒に覆っているので、撃つことができない。

「誰か、こいつを切り落とせ!」

 入口に残った機動隊員たちは、近づこうとしなかった。

 唇を噛んで振り返った阿部は、組長の椅子の後ろに飾られている日本刀に気づいた。組長が正宗を自慢していたのを、思い出した。

 肉片に足を滑らせながら壁にたどり着いた阿部は、重い刀を抜いて、左腕を樫の机に載せた。

 銃が苦手な代わりに、阿部は剣道が得意だった。全国競技では、上位入賞が確実なために、常に出場を辞退する。街で睨みを利かせる方が、彼には重要だったのだ。しかも阿部は、真剣の扱いに長じていた。銃器万能の現代では、真に珍しい特技と言えた。それは、やはり警官だった父親の頑固さを受け継いだ結果だった。四十歳を過ぎてなお、真剣を振る体力を維持できるのも、強固な意志による。その特技と精神力が、暴力団関係者からの尊敬すらも集めていたのだ。

 阿部は、片手で日本刀を振り上げた。銃に絡んだ怪物を、切りつける。

〝腕〟を断った手応えはあった。が、離れない。逆に、新たな痛みが阿部を襲った。千本もの注射を一度に打たれたかのような激痛に、阿部は悲鳴を上げた。そして、痛む手を見て、恐怖に悲鳴を飲み込んだ。

 緑色に、変わり始めている……。

 化け物から無数の〝針〟が生え、阿部の手の甲に突き刺さっているのだ。そこから、緑色の部分が広がっていく。阿部は、怪物にされかけていた。

〝こんな化け物にされてたまるか!〟

 大きく息を吸った阿部は、片手でズボンのベルトを抜いた。左腕の根本に巻き付け、きつく締める。そして、椅子を机に寄せた。刃を上に向けて、机と背もたれの間に掛け渡す。右手で鍔を押さえ、刀を安定させた。息を止めると、銃と怪物を付けた左腕を振り上げ、肘の上を刃に叩きつけた。

 腕が、落ちた。

 阿部は、切り落とした腕を蹴って身体から遠ざけた。出血がないことを確かめる。

 そして、意識を失った。

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