第4話 栗田の退店により精神向上

 栗田は、とんでもない勘違いをしているらしい。

 ある日、店長に向かって発言した。

「私は一生懸命やっているが、この河瀬が邪魔をするのだ。

 私は今まで一分でも手を休めたことはなかった筈だ」

 店長は呆れたように言った。

「栗田さん、何を言ってるんだ。河瀬さんには河瀬さんの仕事があるんだ。

 それを押して栗田さんの荷物運びの手伝い、いや尻ぬぐいをしてやってるんだ。

 感謝すべきなんだよ。それともあんたは、荷物運びが河瀬さんの仕事だと思い込んでいたのだろうか」

 栗田は突然、悠馬に言った。

「なにが手伝いをしてやってるよ。恩着せがましい。ただ私よりも身体が大きいだけのプレレスラーみたいな女じゃないか。このくされ女」

 店長が絶望したように言った。

「栗田、お前はやっぱりここにいるべき人間ではないようだ」


 噂によると、栗田は最近ドラッグに手を出しているらしい。

 栗田は騙され、疲労回復剤などという触れ込みを信じて、ドラッグに手を出した挙句、辞められなくなったのだろう。

 無理はない。心身ともにボロボロの栗田にとって、肉体労働は荷が重すぎたのだ。

 栗田は、荷物をまとめて黙って去って行き、二度と姿を現すことはなかった。


 栗田はいわゆる薬物中毒ではなかったが、それと似たようなものだったのかもしれない。

 栗田は立ち直る日が訪れるのだろうか。それとも生き地獄のまま、魂まで腐って死んでいくのだろうか。

 栗田は正直すぎたのかもしれない。もっと言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しくしていれば受け入れ場所もあったろうに。

 まるで十代の非行少女のように他人にケンカを売ったりするから、余計に人を遠ざけ、罰が当たったのだ。

 それとも、敬語を使うという教育さえも受けなかったのだろうか。

 辛く悲しい現実ーしかし誰でも環境次第で、栗田のようになる危険性はあるんだ。

 たとえばレイプがそれにあたるだろう。レイプは男女ともに、心身の殺人である。

 悠馬はふと想像してみた。

 自分が栗田のような立場だったら、どうしてただろうか。

 突然レイプされたら・・・ どう対処してただろうか。

 わからない。しかし、私はしゃべりだから、誰かに告白しているだろう。

 想像もつかない地獄である。もしかしたら苦痛から逃れるために、悲恋物語のフィクションを想像するかもしれない。


 栗田のような女が、世の中の目に見えない埋もれた底辺の地位にいるとすると、私はその底辺の上に、目に見える芽のように成り立っているのかもしれない。

 まるで崩れかけのピラミッドのように、頂点に立っていたはずの女性がどん底に堕ちるかもしれない。

 しかしどん底の裾野に立っている女性が這い上がれるときが、果たして訪れるのだろうか。結局は自分の強固な意志と、行動次第である。


 帰り道、再び沢田と会った。

 これは偶然ではなくて、必然かな、ひょっとして、沢田の方で悠馬を待ち伏せてたのかもしれない。

「やあ、河瀬さん。栗田さん辞めたね」

「そうね。やっぱり向いてなかったんじゃないかな」

 沢田はため息をついた。

「内心ほっとしてるだろう」

「まあね、嫌味ばかり言う人だったらね。でもそれも、自分が傷ついた精神を毒として、外に出してただけかもしれない」

「そんなふうに考えられるなんて、河瀬さんは大人だな。僕だったらそこまで、悟れることはできない。ただ、嫌味で迷惑な奴が自分の元から去って行ってくれて、せいせいするとしか考えられないな」

 悠馬は、考え込むように言った。

「昔から無差別殺人ってあったよね。今も一か月前の大阪梅田の心療内科での放火殺人とか、東大前での刺殺事件、コロナ渦ということもあるけれど、無差別殺人をする人は、自分は正しいが、誰もわかってくれないという思い上り、劣等感、孤独、そしてこんな間違った世の中に一石を投じるという歪んだ正義感と目立ちたがり精神、逮捕されるのを承知の上で傷つけたあげく、自分も死ぬといういわゆる世間心中・・・いろんなことが絡み合って無差別殺人という悲劇的な結果が生まれるが、結局は自分だけが正しいというエゴイズムから発している」

 悠馬は続けて言った。

「この世は偶然じゃなくて、すべて必然から成り立っていると思うの。

 たとえば災難に遭うのも、自分だけが偶然にこんな被害に遭うと思うと、なんだか腹が立って、世間に絶望しちゃうでしょう。

 神様はこの試練を通して、自分に何かを教えてくれてると思えば納得できるでしょう」

 沢田はなかば、驚いたように言った。

「えっ、それって何かの信仰宗教か占い? 僕、宗教とかのいいお話というのは、そのときだけ納得できても実行はできないんだ。やはりエゴイズムが貼りついているからだろうか」

 悠馬は答えた。

「宗教というのは、人間のつくった良い教えだけどそれだけじゃないの。

 神に逆らった人間は、誰でもみなエゴイズムという罪を背負って生きているわ。

 誰でも、この罪からは逃れることができないの。

 でも私、イエス様を信仰するだけで、罪から許されるのよ。

 お布施とか肉体修業とかは必要ないの。イエス様と共に生きるだけで救われるの」

「そうか、じゃあお祈りとかしてるの」

「勿論よ」

 沢田は昔をなつかしむように言った。

「そういえば、俺の高校時代クリスチャンが一人いたな。

 なんでも彼は小学校五年のとき、日本語も話せないまま韓国から、母親に連れられて来日したんだ。母親は彼のために、毎晩車で川のほとりまで行って、声が枯れるほど大声で祈ったんだって。もう声帯がなくなるほど祈った二週間後、なんとイエスキリストが彼を抱きかかえながら『心配することはない。息子は私が守ってみせる』という幻をみたんだって。

 それから彼は日本語を勉強して、理数系の進学校を卒業した後、キリスト教の神学校を卒業して、伝道師になったんだ。彼は暴力をふるわれても反撃はしなかったよ。また彼はいくら勧められても、一滴の酒も飲まなかったよ」

 悠馬が同意したように発言した。

「そうよ。クリスチャンって強いのよ。だってイエス様がついてるんだもの。

 だから私たちは神の兵士なの」

「でも歴史で習ったけど、キリスト教って迫害の歴史だったろう。例えばヨーロッパでは聖書を焼き捨てる運動が起こったり、日本でも隠れクリスチャンとか耶蘇とかと言われ、敬遠されたものじゃないか」

 悠馬は毅然として答えた。

「そうね、キリストは真実だし、人間のご都合主義によって作られた差別もないしね。だから、権力者からは目の上のたんこぶだったのよ。

 今でも、青少年問題と取り組んでる教会は、アウトローからは迫害されてるわ」

「ふーん、勇気あるんだな」

「いや、もともと勇気があったわけじゃないわ。しかし、イエス様から勇気を頂くのよ。迫害する人をも愛する勇気をね」

 沢田は納得して言った。

「俺、キリストに興味が湧いてきちゃった。できたら、聖書とか貸してくれないかな」

「もちろん、いいわよ」

 悠馬は嬉しかった。これもひとつの伝道。そして私という存在が、すでに伝道材料となっている。

 そして、私はどんどんいろんな人に伝道していかねばならない。

 ときおり、私はキリストを伝道するにふさわしい人間だろうか?

 かえって、つまずきを与えるのではないだろうかと危惧することもあるが、伝道は私がするのではなく、神が結果をだして下さるものである。

「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられます」(ガラテヤ2:19-20)


 ふと、沢田は悠馬の目を見て言った。

「河瀬さんって、お笑い芸人志望なんだって」

「ええっ、ばれちゃった?」

「俺、実は昔、売れない漫才師だったんだよ。

 一応テレビ出演を果たし、漫才コンクールにも出場したけれど、受賞しなければ意味がないんだよな。毎年新人はでてくるし、本当に厳しい世界だよ。

 よほどの素養と努力の人でなきゃ、到底長続きはしないよ。でも、俺は後悔はしていない。好きなことが実現したと感謝しているよ」

 悠馬は笑顔で答えた。

「すべてのことはイエスキリストに働いて益となるという御言葉が、聖書にはあるわ」

 沢田は促すように言った。

「そういえば、それと似た文句を読んだことがあるぞ。主イエスにおいて喜びなさい。主は近い、寛容を示しなさいなんて書いてあったな」

「そうよ。不満を言ったって仕方がない。新興宗教はそういう人の心のスキに付け込んでくるのよ。だから、イエスにおいて喜ぶべきなのよ。

 それに試練のときこそ、神が近くにいて下さるのよ。

 私の夢はね、キリストのユーモアじゃないけど、お笑いを交えて伝道することなの。でもお笑いといっても、決して人を貶めるようなことはしたくないわ」

 沢田は納得したように言った。

「それもそうだな。俺たちプロはときとして、他人の傷など考えずに無理やりにでも笑いをとろうとするものな。でもそういうのは、やはり長続きしないよ」

 悠馬は、これで自分の夢のスタートラインに着地したと思った。

 そう、これからは生きていこう。そしてイエスと共にはばたいて行こうと決心していた。


 END


 


 

 


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