第2話 美古都で出会ったポンコツ女
「私は今日からお世話になります河瀬と申します。よろしくご指導願います」
悠馬は栗田に向かって、深々と頭を下げた。
一応、こういう輩には下手にでるのが一番である。
うっかり神経を逆なでさせるようなことを言って、怒らせたら何をしでかすかわからない。
見たところ、華やかさの微塵も感じれず、いかにも心身に傷を負ったような人生に疲れ切った中年女であるが、妙に元気を装っている。
その途端、栗田は椅子を振り上げた。
「あんた、なんや、私にケンカ売ってんのか」
被害妄想なのだろうか? やはり店長が言った通りの精神異常だ。
誰も寄り付かないのは無理もないだろう。私はこの女のお守り係か。
ひょっとして、その為に私を雇ったのだろうか?
ふとそんな疑問がわいた。
しかし、私は与えられた環境のなかで、生きていくしかない。
「置かれた場所で咲きなさい」の通り、身近な環境のなかで成功することを考えるしかないのである。
「汝の隣人を愛せよ」という聖書の御言葉を思い出した。
栗田の仕事は、地下一階で野菜や肉など材料の仕込みと、その仕込み材料を一階に運搬することだったが、栗田は運搬はしようとはしないというよりも、体力的に不可能なのだ。
だから悠馬が栗田の補助というよりも、栗田の身代わりとなり、仕込み材料を運搬しにきてあげているのに、栗田は運搬こそが悠馬の仕事だと思い込み、言いがかりをつけ、ケンカを売ってくるのだった。
悠馬が「この荷物、ここに置いていいですか?」というと栗田は、悠馬の額に手を置いて言った。
「あんた、そんなこともわからないバカなの? あんたの家ではどうか知らないが、ここではそれは通用しないよ」
なに、訳の分からないことを口走ってるんだ。ケンカを売っているのだろうか。
本来この荷物運びは栗田の仕事の筈なのに、そのことに気付いていない。いや気付かないフリをしているだけなのだろうか?
それとも先に相手をバカだと言われないために、先手必勝で相手をバカ攻撃しているのだろうか。
ときには「あほう」などと奇声を発したりしてくる。栗田はやはり、脳がいかれているらしい。
悠馬は先が思いやられた。
「お疲れ様でした」
バイトして一週間後、栗田の理不尽な攻撃と異常ぶりにもようやく慣れてきた。
栗田のような四十五歳の中年女性は、悠馬の若さに嫉妬していて、それでクビになるかという不安から足を引っ張っているにちがいない。
そう思えば、栗田は崖っぷち状態の不幸な女である。
「河瀬さんでしたね。僕、今月からチーフになる沢田といいます。頑張ってますね」
とっさに背後から声をかけられ、びっくりした。
「ええ、でもようやく慣れてきたところです」
「この仕事、結構人に気を使うんですよ。なんでも来月から、指名制度に変更するらしい。なんでもお客様からの指名本数に従い、給料が上下するみたい」
悠馬は驚いた。まるで歩合制のホストかキャバクラに似ている。
時給という固定給がなくなるということは、この店も左前になりつつあるということなのだろうか。
「じゃあ、私はホールじゃなくて良かった。接客に気を使いまくるなんて、私だったら到底勤まらないな」
「そんなこと、やってみなきゃわからないじゃないか。案外、河瀬さんに向いてるかもよ」
沢田は、笑顔を悠馬に向けた。なんだか、パアーッと陽が射しこむようなチャーミングな笑顔である。
「ねえ、お腹すいていない? 僕、おごりますよ。定食屋に行きましょう」
「えっ、いいんですか? 先輩の言葉に甘えてそうさせて頂きます」
そう言いながら、悠馬は沢田のペースに巻き込まれていた。
沢田が案内したのは、表は総菜屋、中はカウンター式の飲食コーナーになっていて、バイキングのように惣菜とご飯を注文することができるが、水はセルフサービスである。
沢田はブロッコリーとハムのサラダ、悠馬はサーモンとトマトのサラダを皿に取り、どちらもご飯を注文した。
「ここだけの話だけどね、栗田のおばさん、実は俺の以前の母親なのだ」
ええっ、でも全然似ていない。
「母親といっても義理だけどね。親父の三番目の母親だよ。俺と一緒に暮らしたのは二週間だけ。そしてこの事実を話しているのは、店長だけなんだ」
そうだろうなあ、どう見ても狂った中年女の栗田おばさんと、目の前にいるスマートな沢田チーフとでは共通点は見当たらない。
「どうして栗田を雇っているかって。節税対策の為さ。
栗田のような障碍者を雇ったら、それだけ税金が控除されるんだ。
そして更生させたら、障碍者雇用に成功したと表彰され、店のイメージも良くなるというわけさ」
なるほど、じゃあ私は栗田の更生役として雇われたのかな?
急に沢田は、声を潜めて言った。
「ここからの話は、内緒の話だけどね、亡くなった親父に聞いたけど栗田は以前風俗に勤めてたらしいんだ。それを親父が拾い上げてわけさ。可哀そうな女なんだ」
風俗? 悠馬は風俗というと高収入だというイメージしかない。
「でも風俗ってさ、時給五千円とかでしょ。この店の五倍、少しの期間、稼ぐにはいいかもね」
途端に、沢田は血相を変え声を荒くした。
「バカ、そんなことを本気で信じてるのか。高校生じゃあるまいし、もっとしっかりしろ」
あまりの厳格な口調に、悠馬はたじろいだ。
以前、時代劇で見た父親が息子を叱るシーンに似ている。
「風俗もホストも時給なんてものは存在しないんだ。お客からの売上がすべてであり、その売上の五割が給料になるという歩合制なんだ。要するに、店を舞台に個人営業しているのと同じなんだ。だから客がつかなかったら、仕事にならないんだよ。客は金ヅルだが、たくさん使ってくれる太い客をつかむしか、仕事にならないんだ」
一般企業は、売上の三分の一が給料だというが、水商売はそれ以上シビアなのだ。
「要するに、客がつかなかったら、給料はゼロなんだ。わかったか。
そして客のツケー売掛金が回収できなかったら、自腹を切ることになるんだ」
なんだか、叱られてるみたいである。
「栗田は、田舎から出てきたばかりで、最初は喫茶店で勤めてたんだ。しかし、短気で思慮の浅い栗田は喫茶店でも勤まらず、スナックで勤めだしたが、客のツケが払えず自腹を切ることになり、そのために風俗に堕ちてしまったんだ」
都会のワナにかかった女とは、まさに栗田そのものである。
「金をもった客は、若いきれいな女に流れていく。それから栗田は、少し精神異常になり、特に同性に対して敵対心を抱いてるんだ。だから、いろんな嫌味を言ってりしてくるが、気にしないでくれ。気にしちゃダメだよ」
これと似たようなセリフが、ドキュメンタリー番組で見たことがある。
佐賀県にある女性刑務所の風景だ。
服役中の80%が覚醒剤中毒だという。昔のように、銀行や経理部門で現金横領をしたというのは少ない。なぜなら、今はネットの普及で調査するとすぐ見つかるからである。
昔のように、運送会社で代金引換を横領しようとしても、一時間もすれば暴露してしまう。
服役犯の全員が男がらみ、そして半数が離婚者も含めた既婚者である。
刑務所を慰問した、有名人が口々にコメントしていた。
紅白出場女性演歌歌手曰く
「私もあと一歩方向性が狂えば、そうなっていたかもしれない」
大御所マジシャン曰く
「ほんの紙一重の差で、僕もそうなっていたはず。だから出所して僕を見かけたら、気軽に声をかけて下さいね」
悠馬も同感だった。
ほんの少し、環境が変わっていれば私も女囚と呼ばれるようになっていたかもしれない。
ある在日韓国人の男性曰く
「僕は、あいうえおのあの字もわからず日本に来たけれど、この日本に生まれただけでもかなり幸運だ」
彼は八歳のとき、これまた日本語のわからない牧師の母親に連れられ、日本にきたが、当然いじめにもあったという。
牧師の母親はわが子が心配でたまらなかったが、どうしてあげることもできない。
そこで、毎晩、深夜になると車で川べりに行き、大声で祈ったという。
「神よ。どうか息子をお守り下さい。日本語も話せるようにして下さい」
すると三週間後、なんとイエスキリストが息子を抱きかかえながら
「心配するな。息子は私が守ってみせる」と言っているのが見えたという。
それから、彼は日本語をマスターし、理数系の進学校を卒業したあと、神学校を卒業し、日本で伝道者として活躍したあと、現在は韓国で神学博士になっているという。
彼曰く「お母さん。僕は世界一幸せだよ。この豊かな日本にきて、神学の勉強ができて。これからは僕がお母さんを幸せにする番だよ」
ちなみに彼は、酒は一滴も飲めず、食前酒さえ飲んだことがないという。
たとえば、人間同志で憎しみの感情がこの世からなくなったら、また恋に対する独占欲がなくなったら、或いは買春行為がこの世から破滅したら、犯罪者も激減するかもしれないが、それはあくまでも、仮定の世界でしかない。
私も一歩間違えれば、栗田のようになるのかもしれない。
なりたくてなる人間はいないが、気がついたら環境と意志の弱さが絡み合い、堕ちていくのである。どちらのせいとも言いきれない。しかし一度悪いことをすると、また知らない間に悪の仲間に入ると、最初は優しい先輩だと思っていたのが敵に回り、気がつくと抜けられなくなっていたという事実は世間に多く存在する。
親切にしてくれ、おごってくれるひとがいい人なんて幻想は捨て、人を見る洞察力を身につけることであるが、淋しさに埋もれていると、その目も曇ってくる。
辛い事実である。栗田は、いや栗田こそが明日の私かもしれない。
いや、女性だったら誰でも栗田のようになる危険性を秘めているのであり、決して対岸の火事ではなく、別世界と思い込んでいる地獄はいつ自分を襲うかもしれないのである。
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