21.過去など今で捻じ伏せろ
「おい、お前、稲垣か?」
ゾワッとした。
とても嫌な声、蒼太の人生でもう2度と聞きたく無かった声だった。
その声を聞いた蒼太が目を見開いて固まった。
完全に油断していた。
今までに感じた事の無い『幸せ』というものに浸っていた所だった。
いつの間にか蒼太の視界の隅にサラリーマンと思しき、2人の男が立っていた。
1人は丁度蒼太と同年代程の男、もう1人は30代半ば程の先輩社員といった感じだった。
最初に声を掛けたのは若い方、明らかにその目は蒼太を捉えていた。中年の男がその男に言う。
「知り合いか?」
「知り合い……ちゃあ知り合いっスね。へっへ。まあ中学ん時に俺の奴隷だった奴っス」
「……くだらね――」
中年に嗜められるが若い男は全く気にも止めずヘラヘラと笑っていた。
そのサラリーマン達をアークヴィラは冷ややかに睨む。
先程までぎこちないながらもしっかりと自分の右手を包んでいた蒼太の手が生気を失っていくのを感じ、目線を蒼太に変えた。
蒼太はガタガタと震えていた。
とても分かりやすく。
その様子を見て何かが腑に落ちたかの様に、フム、と小さく溜息をついた。
一方の蒼太。
声を掛けたサラリーマンを見て自分で自分が可哀想になる程怯え出した。
「あ、あわあわあわ……さ、澤井さん……」
「同級生にさん付けとかやめてくれよ、俺がダブった奴みたいじゃん。おっ……?」
蒼太が澤井と呼んだそのサラリーマンが笑いを浮かべ、ベンチへと近付いてきた。
(ここ、来ないで来ないで、あ、あ、アキさん、そうだアキさんが、ヤバい)
勿論、ただの人間にどうこうされるアークヴィラではない。
だが蒼太の脳裏に瞬時に、そして鮮明に浮かび上がる苛烈ないじめの数々。
精神的にも暴力的にもとにかく3年間、蒼太を苛めぬいた主犯と唐突に出会ってしまった為、正常な思考を持ち得なかった。
既に蒼太の精神はその男の声に抗えない様に完全に支配されていた。
蒼太が不登校にならなかったのは親を心配させない為、そして学校に来なければ妹をめちゃくちゃにしてやると脅されていたからだった。
「オイオイ待ってよ稲垣君。無茶苦茶いい女といるじゃん……え、外人さん?」
「ヒッ……」
「やめろ澤井。その彼のお洒落を見たらわかるだろ、デート中だよ。行くぞ」
先輩社員がそう言うと澤井の額に癇筋が畝った。ドスの効いた声を出し、蒼太を睨み付ける。
「おい、それほんとか? マジかよテメー。似合わねーカッコしやがって」
「え、あ、は、ハァハァ……」
その態度に余計苛ついたかの様にツカツカと詰め寄り、蒼太の胸ぐらを掴んで持ち上げた。
「ヒッ」
「お前みたいな下等生物がこんないい女とデート? 嘘だよな?」
先程まで幸せで高鳴っていた心臓は、あっという間に不快な動悸に変わった。
全身から冷や汗が噴き出し、満足に喋る事も出来なかった。
「オイ、この女、俺が貰ってくからな、文句はねーな?」
「ヒッ…………だ、だめ、だめです……」
「あああああ!?」
澤井が凄むと反射的に目を瞑り、首をすくめてしまった。だが必死に目を開け、涙を流しながら訴えた。
「ダメです、この人だけは……僕はどうなってもいいです。この人だけは……」
「こっのクソが……」
だがそこで何を思いついたのか、不意にニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「ま、別にテメーの許可なんていらねえし」
言葉と同時に蒼太を突き放し、突然座っているアークヴィラに抱き付いた!
蒼太は情け無く地面に尻餅をつく。
「……!」
アークヴィラに拒む間も与えずに、澤井は無理矢理唇を尖らせ、その美しい唇に吸い付いた!
「あ、ああああああ!」
それは投げられた蒼太が防ぐ事が出来る様なタイミングではなかった。
「ん……こ、のクッソ!」
アークヴィラの声が漏れ聞こえてきた。
澤井は更に力任せに顔を捻る。
その時、蒼太の中で何かが弾けた。
「や、や、やめろ!」
後ろから澤井にしがみつくと、力任せにアークヴィラから引き剥がし、投げ技の様に後ろへと投げ捨てた!
ザッパ――ンッ!
澤井は思いの外、遠くまで飛んで行き、見事に頭から池に飛び込んだらしい。
だがそんな事で何一つ気が晴れるような事はなく、蒼太は泣きながらアークヴィラに謝った。
「ごごごごめんなさい、僕のせいで、ごめんなさい」
「あ――クッソ、気持ちワリ――事しやがって……」
ふと見るとアークヴィラは唇の前に手のひらを置いていた。
「あ……」
「大丈夫だよソータ。心配するな。クソガキが思いっきり人の手に吸い付きやがって気持ちワリィ」
良かった……いや女性に暴力を振るわれたのだから良くはない。
が、アークヴィラの機転によってとにかく最悪のケースは免れたらしい、と一安心したのも束の間、また蒼太を過去から縛る声が池の中から聞こえてきた。
「稲垣、コラテメーふざけやがって……殺してやる」
「ヒッ」
だがそれと同時に、彼を変える声もした。
「ソータ、怯むな」
「アキさん……」
バシャッバシャッ。
澤井が池から出てきたらしい。音と感覚でそれがわかる。
「覚悟はできてんだろ――なクソムシ。その女もふざけやがって……無茶苦茶にしてやる」
またもや蒼太の体はガタガタと震え出す。それはもはや蒼太の意思に関係の無い、反射的なものといえた。
「負けるなソータ。お前は昨日、生まれ変わっただろ」
「……昨日……」
「ケッ。その外人の好きモノ姉ちゃんに童貞散らして貰ったのか? それだけで生まれ変われりゃ世話ねえぜ。ぶっ殺してやる」
「落ち着けソータ。きっとあいつはお前の人生を無茶苦茶にした奴なんだろう? だがもう一度言うぞ。お前は昨日、生まれ変わったんだ。それはさっきあいつを投げ飛ばした事で分かる筈だ」
優しくそう言うアークヴィラの顔を見て、不思議な事にピタリと体の震えが止まった。
(そうだ、僕は……)
水を含んだ足音が近付くのが聞こえ、蒼太は振り向き様、向かってくる澤井の腹部にタックルをぶちかました!
「んごえっ!」
それは澤井の知る蒼太の動きではなかった。
完全にカウンターで入り、澤井は再び池に、そして先程よりも遠くまで吹き飛ばされた。
(そうだ。僕は、ヴァンパイアになったんだ)
(人間なんかに負けるものか!)
「いいぞソータ。そうだ。過去よりも今の方が強いんだ。過去など……今で捻じ伏せろ!」
「はいっ!」
蒼太は迷いなく顔を上げ、池の畔へと向かった。
アークヴィラはそれを目で追いながら、ひとつ頷いた。
スッと立ち上がって腕を組み、もうひとりいた中年の男の方に向かって言い放った。
「さて……お前はどうするんだ?」
「あ?」
「俺はこいつを止めているんだとばかり無関係な顔をしているが……面白がって見ているのがバレバレだぜ、おっさん、あ?」
「やれやれ……バカな部下を持つと困るな。あいつには後できっちりと言っておくのでこの場は……」
「ふざけんな」
アークヴィラは冷たくピシャリと言い放った。
だがふと悪い顔付きになり、唇を歪めた。
「クックック。いつまでその下手くそな演技を続けているんだ? お前が殺したい相手はここにいるぞ? やっと出て来たんだ。ケリを付けようぜ?」
その言葉に中年の男の眉がピクリと跳ね上がった。
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