04.アークヴィラ・ハーメルン

「血……って、その……血、ですか?」

「そ。血。ブラッド」

「吸うって、貴女が?」

「勿論」


 女は腰砕けになって尻餅をつく蒼太にツカツカと歩み寄り、鼻が触れ合わんばかりの距離で四つん這いになった。


「実は今日、健康診断? とかいう奴で血を少しばかり抜かれてね……ちょっと補充しとこうかなって」


 体臭なのか口臭なのか、それとも何かの香水なのかは分からないが、とにかく強い薔薇の香りが蒼太の鼻腔に流れ込む。


 これ程までに美しい女性と息が触れ合う距離で見つめ合う事など経験した事が無い蒼太の顔はみるみる紅潮していった。


 それに気付いた女は、途端に意地の悪そうな顔付きになった。


「恐怖より、を強く感じちゃうんだ……これだから人間って奴は……ったくこのエロガキめ!」

「い、いや! そんなっ!」


 恥ずかしさで慌てて目を逸らすが一度耳朶まで染まった赤は簡単には抜けない。


「ウッフッフ。可愛いんだ。あたしはアークヴィラ・ハーメルン。お前は?」

「アークヴィラさん……僕は稲垣、蒼太、です」

「ソータね。よしよし。痛くないからね――」


 蒼太の首にカブりつこうとしてアークヴィラが体を密着させ、口を開けた。


「ままま待って、待って下さい!」


 慌てて彼女の両肩を持って引き剥がす。


 先程は石像かと思えるほどの硬直を見せた彼女の体は今はとても柔らかく、簡単に体は離れた。


「なに?」


 半開きの口の中から、吸血鬼らしい2本の牙が光っていた。


「あの……という事は、アークヴィラさんはその……吸血鬼、ヴァンパイアって事ですか?」

「そうだよ。じゃ、頂きます」

「あ、あ――! 待って、待って!」


 悲鳴を上げて蒼太が暴れた為、彼女は少し呆れた顔付きで一度体を起こし、彼の上に跨り馬乗りになって座る。


「しつこいな。何なの?」

「ほ、本当に、ヴァンパイアなんですか?」

「そうだってばさ」

「そそそそんなの存在する訳が……」

「してるじゃん、現に。お前の目の前に」

「ぼぼぼ僕、死ぬんですか? 死ぬなら先に家族に一報入れさせて下さい」

「死なないよ人聞きの悪い」

「え……じゃあ僕も吸血鬼になったり?」

「しないよ。なりたけりゃしてやるが」

「じゃあなんかゾンビ的なものに?」

「ならないって」

「どれくらい吸われるんですか?」

「うーん。これくらい?」


 彼女は片手の手のひらで水を掬う様な形を作って蒼太に見せた。


「結構行くんですね……うーん、でもまあそれくらいなら……」

「決まり。ってか最初に約束したんだからそもそもお前に選択の余地はないでしょ。もう観念してじっとしてなよ」


 さっきよりも強く薔薇の香りに包まれ、彼女の上半身の柔らかさを強く胸の辺りに感じた時、チクリと首に衝撃が走った。


「あ、あ……」


 だがそれだけだった。

 それ以降は痛くも痒くもなく、僅かに血が抜かれていく嫌な感じがする以外は蒼太にとって天にも登る気分だった。


(ぼ、僕の人生にこんな美しい女性ひとと触れ合える機会があるなんて)


 我ながら気持ちの悪い感想だ、と思った。


 ふと ―――


 小学生の頃にクラス中の生徒から糾弾され、誰々さんの体操服を盗んだとかいう罪を着せられ、先生に謝った事を思い出した。


 それ以降、友達はいなくなった。


 中学生になり、心機一転、頑張ろうとした。

 だが今でも忘れられない、澤井和也という男が同じクラスにいた。その男により蒼太の中学生活は毎日が地獄になった。


 水をかけられ、金を取られ、殴られ、蹴られたシーンが次々と蘇る。


 次第に幼い頃から虐められ続けていた悲惨な過去が幾つも幾つも、蘇ってきた。



(……! ちょ、これって走馬灯という奴では……やっぱり死んじゃうのかな)


(ろくでもない過去ばかり……未練はないなあ。お父さん、お母さん、凛子……今まで本当に有難う。そしてごめんなさい)


 そう思い目を瞑った瞬間、アークヴィラのハァハァという荒い呼吸が顔にかかる。プンと薔薇と血の匂いが交じった匂いがした。


 彼女は蒼太のうつろな両の瞳を覗き込む様に観察し、「お、おい。生きてる?」と不安気に聞いた。


「は、はい」


 何とかそう答えると、彼女は露骨に安心した表情になった。


「ふぅ、そかそか。良かった……ね? 大丈夫だったろ?」

「は、はぁ……いや、ちょ……万が一、あったんですか!?」

「アッハッハ。冗談だよ、ジョーダン!」


 命に関わる怖い冗談など笑えるものではない。

 だが何故か蒼太も驚きと怯えが入り混じった顔から徐々に笑顔になっていった。


「あ、は、は……」

「いやあごめんごめん。現代いまじゃああんまり魔力を維持する必要もないし、血を吸ったのなんて久しぶりでさ。ちょぉっと予定より多めにイっちゃった」


 蒼太に馬乗りになったままジロジロと見下ろしてニヤリと笑う。

 ペロリと唇を舐め回すと、


「ふっふふ。なあお前、これから暇か?」

「まあ、はい」

「あたしんに来ない?」

「え……そんな、見ず知らずの女性の家に行く訳には」

「大丈夫だよ。お前よりあたしのが強いし。それにうちには鬼より怖い執事がいるからな。あたしに変な事したらお前即死だからね。即死」

「そ、そくし……執事というとその……例の黒い人達ですか?」

「黒い? なんだそれ。面白い事言うな――。こう見えてあたし、ヴァンパイアクイーンだからね。そりゃ執事や召使いの1人や2人はいるよ。まあ2人しかいないけど」

「ヴァ……」


 蒼太はそこで絶句してしまった。


 ヴァンパイア、クイーン!

 何と魅力に溢れた言葉だろうか。


(し、執事……本当に、本物のヴァンパイアで、クイーンなんだ……確かに女王といえば執事がいて何ら不思議ではない)


 蒼太の上からどこうともせず、相変わらずニヤニヤとしながら腕を組む。


「よし。あたしの事、特別にアキって呼んでいいよ」

「アキさん、ですか」

「日本人のお前にゃアークヴィラは言いにくいだろ。あたしのママはアキって呼んでくれてたんだ」

「ア、アキさん、日本人との、ハーフ?」

「そ! 日本に来たのは久々だけどなー。お前は初めての日本人の友達だ」

「と、とと、友達……」


 その言葉は蒼太の人生からは消え去った言葉だった。

 小学生低学年時を除いて友達と言える関係の人間は皆無だった。


(いや、この人も今はそう言ってくれてるけど明日になったらどうなるか……)


 それは蒼太の心がこれ以上壊れない様にする為の自衛手段だった。喜ぶといなくなった時の反動が大きい。

 それでも途轍もなく、嬉しかった。その気持ちはどうしても止められない。


「なんだお前、ニヤニヤして気持ち悪いな」

「あ、すみません……友達って言ってくれたのが嬉しくて」

「ふーん。で、どうだった? 人生初の吸血体験は」

「どう……と言われても」

「気持ち良かったか?」

「えぇまあ……悪くは」


 特に意味も無くそう言った。


 アークヴィラと、もっと正確に言うと他人と触れ合える事がとても嬉しく、心地良かったのは確かだった。


 だがそれを聞くとアークヴィラは眉を立ててニヤリと笑う。


「マゾいなお前。素質あるわ。よし決めた。これからも吸わせてよ」

「はい。わかりました」


 蒼太の二つ返事にアークヴィラは堪え切れずといった感じで腹を抱える様にして笑い転げ始めた。


「そ、即答じゃん! ウケる!」


 呆気に取られた蒼太だったが、彼女が寝転がった事でようやく上半身を起こす事が出来た。


 アークヴィラに乗られていた下腹の辺りの温もりが徐々に消えて行くのを名残惜しく感じ、右手で軽く摩った。



 ―

「あ、アキさん、あの!」


 アークヴィラの後ろを歩いていた途中だった。


 既に家には連絡を入れ、怪物騒ぎは一旦収まったから安心していい事、自分は用事があり、もう少し遅くなると伝えている。


「何だい?」


 アークヴィラは機嫌の良さそうな横顔を見せる。


「その……僕、また血を吸われるんですか?」

「ふふっそんなにいらないよ。1日の量はさっきので十分なんだ」

「ホッ……そうですか」


 蒼太の様子を横顔で見ながら彼女はまたニヤッと笑いながら、


「安心したフリしてぇ。ホントはもっと吸われたいんじゃないの?」

「そ、んな訳ないでしょ!!」

「アッハッハ! 冗談だよ、ジョーダンッ!」


 高らかに笑うアークヴィラの背中を小さく睨む。


 だが完全に否定出来ない自分がいるのもまた、事実だった。

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