第5話 青年、あるいはそのシャドウ

 目を覚ますと、見知らぬ天井が目の前にあった。

ここはどこだ、それを思い出そうと、頭をひねってみるが、どうしても思い出す事が出来ない。

痛む頭を押さえながら、体を起こしぼやけている記憶を一つ一つ整理して思いだす。

俺はデイビット、15歳、救貧院にいて、ぶら下がり宿みたいな宿舎で寝ていた。

そうだ、なぜ俺はベッドの上にいる?

周りを見渡すと、どうやらここは寝室で、隣で女性が眠っている。

だが、その顔に見覚えはない。

俺の知っている女性なんて、メアリーぐらいしかいないのだから。

メアリー、そうだ。

彼女を助けようとして。

何から?

記憶に靄がかかったようになっていて思い出せない。

昨日は、一体何をしていた?

多分、メアリーと教会に行って、灰を下ろしていたはず。

どうしてベッドにいる?

ここはどこだ?

疑問だけが浮かんでは消え、浮かんでは消える。

何が何だかわからないまま、ベッドから出て、状況の把握を試みる。

窓のカーテンを開けると、外はまだ暗いままだったが、なぜだろうか、街に積もる灰が少ないような気がした。

外の景色から、察するに、ここは路地の建物の一つで、どうやら二階のようだ。

振り返ると、奥にはこの部屋から出るための扉がある。

それから、いくつかのクローゼットと、鏡ぐらいだろうか。

使いかけの蝋燭がベッドの近くに置いてあったので、それを取ろうと手を伸ばすと、眠っていた、見知らぬ女性と目があった。

「おはようございます」

彼女が挨拶をしてくる。

「おはようございます」

嫌な汗が背中を伝う。

不味い、俺は彼女と話せるだけの材料(つまり、現状の把握)が揃っていない。

「今日は早いのですね」

「えーと、あー。目が覚めてしまって」

「そうなんですね」

微笑む彼女は体を起こして伸びをする。

「何かあったんですか?」

不味いな、状況が掴めていないのにこの質問だ。

「悪い夢を見てしまいまして」

「どんな夢だったんです」

「それが全く思い出せないから怖いんですよ」

「それは奇怪なことですね」

口先だけで、質問をなんとか乗り越えたが、嫌な汗は止まらない。

状況は何も好転していないからだ。

「じゃあ、あったかい朝ごはんでも作ってきますから、それ食べて元気出してください」

「ありがとうございます」

「ふふ、じゃあ張り切って作ってきますね」

彼女はそういうと部屋を出て行った。

笑顔の彼女に何も言えないまま。

俺は、どうして取り繕ってしまったのだ。

正直に言えばよかったではないか。俺にはこの現状を理解できていないと。

しかし、どうして。彼女の笑顔を見たら、それを曇らせたくないと思ってしまうのだ。

俺には、彼女の名前すら分からないというのに。

現状を把握するためにも早く記憶の糸を辿らなければならない。

どうして俺が、大人の女性と、しかも大きな寝室で、眠っていたのか。

教会での仕事を終えた後、俺は一体どうしていた。

必死に記憶を辿っていくと、少しずつ靄の中から形が見えてくる。

そうだ、絵を描いてもらっていた。

きている服をまさぐって手帳を探してみるが、それは無かった。

どこに置いてきたんだ。

コートを探そうと思ってクローゼットを開けると、いくつかの高そうなコートと着替えがあるだけで、俺の求めていたあのボロボロのコートは無かった。

ため息が漏れてしまう。

せっかく手がかりになりそうな手帳の存在を思い出せたのに、それがないのでは振り出しだ。

どうしたものかと途方にくれ、ベッドに腰掛けると、鏡に映る自分と目があった。

しかし、猛烈な違和感を感じる。

鏡に映る自分が自分でないような気がしてしまうのだ。

すぐにその違和感の正体に気づく。

体がやけに大きくなっており、顔つきが元々の自分より少し大人びて見えるのだ。

それでいて、なぜかそれを自分、つまりはデイビット自身であると捉えてしまう。

そこに違和感が生じているのだ。

どうして、俺の体はこんなに大きくなっている。

どうして成長している。

背中にシャツがピタッとくっついて気持ちが悪い。

嫌な考えに思考が至って俺は冷や汗が止まらなくなっているのだ。

俺は、今、未来にいるのではないのか?

いや、ありえない。そんなことが起こりえていいわけがない。

俺は、自分の頬をつねってみた。しかし、夢から覚めることはない。

悪夢であったほうがよかったのだが。

これが、俺ではない誰かの体であるのなら、まだよかったのだが、どうしてだろうか、この体は俺のものだとしか思えないのだ。

漠然とした不安に襲われ、嫌な汗が滝のように背中を伝う。

これからどうしたらいいのだ。

俺はこの未来の世界を生き抜くすべを持たない。

「朝ごはんできましたよ」

ドアをノックする音と共に、彼女が声をかけてきた。

「ありがとうございます。今行きますね」

引きつってしまった顔を指で摘んでほぐす。

なんとか笑顔を取り繕って、扉を開けた。

「あら、身支度をなさっているのかと思っていたのですけど」

「ぼーっとしてしまいまして」

「何か悩み事でも?」

「いや、そんなことは決して無いです」

嘘をつくのは苦手だ。どうしても顔が引きつってしまう。

「そうですか。ならよかったです。ご飯が冷めないうちに下に行きましょう」

寝室を出ると、廊下があって、その先に階段がある。

どうやらここは端の部屋らしく、右と左にそれぞれ部屋の扉が見えた。

階段を降りて、1回に行くと、大きなリビングになっていた。

真ん中のテーブルに、朝食が置かれている。

向かいになるように椅子が置かれてあり、テーブルの上にはそれぞれ、ハムエッグとトーストが置かれていた。

「さ、食べましょう」

彼女が腰掛けた椅子の向かい側の椅子に座ってみると、バターのいい香りが鼻を抜けた。

ついお腹がなってしまいそうになる。

暖かい朝食だなんていつぶりであろうか。

「おいしいです」

素直な感想を告げ、置かれているコップの中を覗くと、そこにはコーヒーが入っていた。

俺は苦いものが飲めないのだが、おそらく未来の俺はこれを飲んでいるのだろう。

俺は、意を決して、それを飲んだ。

苦い。

だが、耐えられないものでは無い。

昔、まだ父が生きていた頃に飲ませてもらった時には、こんなもの苦すぎて飲めないと思っていたのに。

「ねぇ、デイビットさん」

名前で呼ばれて、ビクッとする。

そして、俺が、デイビットであることが確定した。

「はい」

「やっぱり悩みがあるのでは無いですか?」

「いや、それはですね」

「いつもは敬語なんて使わないじゃないですか」

どうやら、俺は自分で墓穴を掘っていたようだ。

自分を15だと思い込んでいたから、彼女を年上だと認識していた。

だから敬語を使ったわけだが、どうやら、それは間違いだったらしい。まあ、自分も成長していたわけだ。

「えー、それはだな」

敬語を取っ払って話そうにも、何か胸に引っかかるような気がしてうまく話せない。

「それに、今だって。顔が引きつっています」

そこまでバレているのか。

俺は、何も言い返せなくなって、黙るばかりになる。

コーヒーの湯気ばかりが、漂うだけで、他に何も動かないまま時間が流れた。

「私、何かしましたか?」

「それは、違います」

「何かあったのですか」

上手いこと言葉に出せない。

喋ろう、伝えよう。

そう思うばかりで、言葉がついてこないのだ。

どうしてだろう。

「その、ゆっくり、聞いてください。」

動悸が激しくなる。

どう伝えれば、彼女を傷つけない。

いや、どう伝えたって彼女は傷つく。

今だってそうだ。

彼女は、俺じゃない俺を認識している。

何も入れないでコーヒーを飲む、敬語を使わない俺を俺に見ているのだ。

だが、俺はそれをその人を俺と認識できない。

「俺は、俺じゃないのです。俺は、デイビットですが、15歳のデイビットなのです」

震えた声で、握りこぶしを作りながら。

絞り出すように、俺は言った。

言ってしまったら、急に自分が自分でないような気がして不安に襲われる。

頭がおかしくなりそうだ。

「え?」

目の前にいる彼女は呆然として持っていたスプーンを落とした。

カランという音が響いた。

嫌な音だ。

「それは、一体どういうことですか」

「だから、俺は、俺は。デイビットじゃあないです。違うのです。あなたの知っているデイビットとは。違うデイビットなのです」

言っていて、怖くなる。

この世界には、果たして、俺を、15の俺を、俺と認識してくれる人は、いないのだろうか。

それは恐ろしいことだ。

俺が俺ではなくなってしまう。

「じゃあ、私のことも。私との思い出も。私の名前も」

「分かりません」

突き放すように言った。

そうでもしなければ、俺は、きっと。

きっと、俺でなくなろうとするから。

彼女に寄り添えば寄り添うほど、15の俺ではなく、未来の俺になってしまうと思ったから。

それが怖くて、俺はわざと突き放すように言った。

「どうして、そんな急ですよ」

彼女の瞳には涙が浮かんでいた。

だが、俺はそれをどうすることもできない。

拭いてあげることも、慰めてあげることも。

許されないのだ。

その涙の理由は俺であるのだから。

「ごめんなさい、あなただって、急なことでその。辛いだろうに。私だけ」

優しさが、棘となって、俺の喉元を突き刺した。

やめてくれ。

「本当に何も、覚えていないのですか」

「何も覚えていません」

どうしてだろうか、目の前がぼやけて仕方ない。

「わからないことだらけで大変なのはあなたの方なのに」

夢だったなら、これが夢で、起きたらメアリーがいて、いつものように教会の灰を下ろして、優しいパン屋さんに行って。

硬いけど、苦いけど。

どこよりも美味しかったあのパンを食べて。それで。

二人笑って。

そうしていられたら。

「ごめんなさい」

彼女が涙を落とした。

俺だって泣きたい。

「あなたは何も悪く無いです」

俺にはそれしか言えなかった。

彼女は悪くない事は事実であるから。

ただ涙を流す彼女に俺は何もできない。

彼女から視線をそらしたくて、窓の方を見ると、少しだけ昔より澄んだ、だけれど暗い街が見えた。

街を歩く人はやはり、皆ガスマスクをつけている。

これだけは変わりがなさそうで、少しだけホッとした。

ガスマスクをつけた人間は、どうしても気味が悪いと思っていたが、それでもホッとしたのだ。

視線を机の方に戻すと、机の端の方に新聞紙を見つけた。

手に取って、それを見ると、自分の知っている暦より、十年進んだ暦が書かれていた。

どうやら、ここは十年後の世界らしい。

ため息が漏れそうになる。

どうやら俺はここ十年の記憶が抜けているらしい。


 彼女が泣き止んで、落ち着きを取り戻したのは、昼を過ぎた頃だった。

「本当に私のことも、これまでのことも。覚えていないんですね」

鼻を赤くして、くぐもった声で彼女が聞いてきた。

「はい」

「私は、エマと言います。デイビットさんとは、婚約していました」

動悸が激しくなる。

婚約、という言葉が、ここ十年の時間をより感じさせたから。

その責任が、婚約を守らなければならないという責任が。

俺に重くのしかかる。

結婚を約束した記憶は、俺には無い。

無責任にそう言い放つだけの度胸が俺にあればよかったのだが、生憎、俺はそんなもの持ち合わせていない。

「そう、ですか」

ふと、頭に、メアリーの顔が思い浮かんだ。

彼女と婚約している未来だったら、どうだっただろうか。

いや、そうはならなかったのだ。

たらればを考えても、しょうがない。

しょうがないのだ。

それがわかっていても、頭の中にずっとメアリーの顔が浮かぶ。

「あなたは、何も覚えていないんですよね」

「はい」

「今の話を聞いて、何か思い出しませんでしたか?」

そう言われて、ハッと、彼女が俺の中に生きているはずの十年間の俺を期待していることに気付かされた。

まだ、彼女は諦めていないのだ。

「いえ、何も」

当たり前だ。

婚約までした男が、ある日突然記憶を失って、自分を十年前の一五歳の自分だと言い始めたのだ。

記憶を取り戻させようとするのが、正しい反応だ。

それは何も間違っちゃいない。

しかし、それは、俺にとって、一五歳の俺を、全て否定されているように感じてならないのだ。

十年間の俺だけを求められているような気がしてならないのだ。

「そう、ですか」

落胆する彼女を責めることは出来ない。

だが、俺はこの怒りを、この不安を、一体どこにぶつければいいのだろうか。

理性が叫ぶ。

彼女に当たってはいけないと。

彼女は何もおかしいことをしていないということは、これまで説明してきたことより、自明だ。

本来ならば俺は、記憶を取り戻すために、彼女の話に耳を傾け、ここ十年のことを彼女に尋ねなければならない。

それが記憶喪失を起こした人間の普通の行動だからだ。

だが、俺は、俺の本心はそれを拒む。

俺の居場所だった、メアリーの隣に、俺は居ない。

この事実が、どうしてもこの現実を受け入れさせてくれないのだ。

メアリーといたあの数ヶ月の記憶が。

「俺は、多分、記憶を思い出せません」

震える声で、それを伝える。

エマを傷つける言葉を。

人を傷つける言葉をゆっくりと紡いでいくのだ。

「どうして、ですか?」

エマが、その赤く腫れた瞼を俺に向けて尋ねる。

「俺は、俺は」

言え、言うのだ。

この十年を認めることが出来ないと。

一五歳でありたいと。

「俺は、」

空気が、針のようになって、肺を突き刺した。

「俺は、この十年のこと、認めたくないのです」

拒絶とも受け取れるその言葉を聞いた、彼女から、色が失われていく。

「俺には、十年前、将来を約束した人がいました。俺は、その人との未来を夢見て生きていました」

暴力を振るわれることはあっても。

罵声を浴びせられることはあっても。

今まで、それを人に向けて放ったことはなかった。

だから、意図的に、人を傷つける言葉を言うことが、これだけ重たく、痛いことだなんて俺は知らなかった。

「だから、俺は、思い出したくないのです。この十年を認めたくないのです」

彼女は黙り込んで、俺を見ている。

その瞳には涙が浮かんでいて。

「そう、なんですね」

涙の浮かんだ瞳を閉じて、無理矢理にでも笑顔を作ったエマはそこまで言って、俺を抱きしめた。

あんまり急だったから、俺はなんの反応もできなかった。

「最後に、抱きしめさせてください。あなたの温もりを、少しだけでも。感じさせてください」

柔らかいその腕に、目一杯力を込めて、彼女は俺を抱きしめた。

涙が、肩に落ちる。

熱くなった彼女の体が、妙に心地よくて。

あぁ、どうしてだろうか。

俺は、絶対に、涙を流してはいけないのに。

この十年を、エマにとっての、俺との思い出を。

全て否定することを選んだのは俺なのに。

涙がこぼれそうになる。

「ごめんなさい」

彼女はそう言って、俺から離れた。

「いえ」

それだけ返した。

辛いだけの選択だったのかも知れない。

もうメアリーとは元に戻れない状態なのかも知れない。

今になって、そんなことが頭に浮かぶ。

だから、今からでも、エマに、記憶を取り戻すと、そのための努力を惜しまないと。

そう言えることが出来たら。

今更、そうやって、十年の重さを知って、後悔をする。

どの選択をしたって、俺は後悔しただろう。

彼女を、つまり、エマとの未来を選んでいれば、俺は俺を失ってしまう。

エマとの未来を拒めば、彼女を深く傷つけ、この十年の責任から、逃れることになる。

どんな十年であったかは、分からないが、一軒家に住み、家に婚約者がいて。

そんな生活を送れるまでに成り上がったこの十年を否定し、その中で様々な人間に約束したであろう事を、全て否定して。

忘れて。

忘れたから、知らないからと逃げ出すのだ。

だが、そこまでしなくては、俺は、俺を否定することになる。

メアリーとの思い出を、あの救貧院での苦しくも、楽しかったあの記憶を否定することになるのだ。

「これから、どうするんですか?」

「そうですね、仕事を探して、この家を出ようと思います。ここにある財産は、ここ十年の俺とあなたのものですから」

「あの、仕事が見つかるまでは、ここにいてもらって構いませんから」

「いや、それは」

「仕事見つかるまで、お金だってないのにどうするつもりなのですか」

「それは、その」

「行き倒れられても、困りますし」

生活のためだ、しょうがない。

「これまでの仕事のこととか、本当に聞かないのですね」

俺は、この十年を知りたくない。

それは、これまで散々言ってきたことだ。

「俺は、あなたを傷つけてまで、十年前を選んだのです。だから、聞きません」

さっきまでの決意を無駄にしないためにも、俺ははっきりとそう言った。

「そうですか」

一種諦めとも取れるような表情で、彼女はそう言った。

謝ってしまいそうになる。

ただ、ここに存在することを謝ってしまいそうになるのだ。

なんども、なんども。

目を覚まして、この世界を知れば知るほど。

俺の存在は、俺という意識は。

どこまで行っても、必要のない邪魔な存在なのだと思い知らされる。

誰か、俺を肯定してくれ。

誰でもいい。誰でもいいから。

エマの悲しそうな顔が、この空気が。

この空間が、この家が。

俺という存在、意識がここにあることの罪を声高に叫ぶのだ。

「助けてくれ」

ずっと、心の内に留めておくつもりだったその言葉が、息を吐くように漏れ出た。

それが、きっかけのようになってさっきまでの決意がぐらりと揺らいでいる。

それでも俺が。

選んでもいいのか?

「助けてくれ、どうしたらいい。俺は、俺は。俺は、死んでしまいそうだ。俺が、俺の中にこの世界をこの現実を受け入れてしまえば、俺は死んでしまう。今の俺は、メアリーを思い、救貧院で苦しみ、優しいばーちゃんのパン屋に行ってパンをもらって。そんな毎日を否定してしまいそうだ。俺は、それを許すことができない。だが、この世界で、この現実で、それらのために、この十年で俺の知らない俺が築いた責任を放棄できるだけの器を持ち合わせていないのだ。俺は、どうしたらいい、どうしたら俺を肯定してくれる。頼む誰か、俺を肯定してくれ。俺がこの世界に生きていてもいいと」

叫びのような、嘆きのような祈り。

15の俺には耐え難かったこの現実を、無責任にも俺は、目の前で涙に暮れているエマにぶつけているのだ。

どうしようもない現実、行き所のない思い。

「助けてくれ、誰か。俺を見つけてくれ」

席を立ち、扉に向かって、手を伸ばした。

ドアノブに手をかけ、その冷たさに驚いた。

扉を開けようとして、後ろから、優しく温かいものが俺を包み込んだ。

「ごめんなさい。私はあなたの恐怖に、あなたの不安に気づくことができなかった」

やめてくれ、なんて今度は思わなかった。

もう決意は揺らいでしまったのだから。

「出て行かないで、私、あなたのことを肯定するから、あなたと、ここに居たいから」

エマ、彼女が俺の中に、俺じゃない俺を見ていることも、ここで彼女に甘えることが、これまで悩んできた自分を裏切ることになっても。

もう俺は、この優しさに、暖かさに縋るほかなかったのだ。

どんな形でも、俺を肯定してくれる存在が、欲しかったのだ。

体から、力が抜け、拳がダランと垂れた。

もうここにいて良いじゃないか。

無理に、10年間の俺を否定しなくたって良いじゃないか。

ゆっくり状況を把握して、それで。

「ありがとう」

涙が出る。

これは言い訳だ。

でも、今だけは、今日だけは、この優しさに甘えさせてほしい。


 それから少しの間、二人でただ、寄り添いあって過ごした。

暖かいご飯をとって、風呂に入り、ベッドで眠る。

一般に幸せと呼ばれる生活がそこにはあるのだ。

どうして俺は、それを全てなげうってでも外に出ようとしたのだろうか。

そんなことをしなくたって、俺には幸せが待っているのに。

この現状を受け入れれば。

ふと、自分が消えていく幻想が見えて、頭を振った。

幻想は消えても、胸に残る違和感だけは消えなかった。


 ただ、そうして幸せに過ごす生活に感じる違和感は、どうしたって抜けないだろう。

10年間のことを認める事ができたとして、それでも俺の中に俺が生き続けるからだ。

でも、それを少しでも意識しないでいられるのならば、つまり、俺ではなく、この10年の自分を意識していれば、その違和感を感じずにすむのだろう。

そうやって言い訳をつらつらと並べながら、俺はエマに尋ねた。

「俺は、この10年の俺は、どんな人間だったのですか?」

驚いたような表情で俺を見るエマ。

俺は、早口にまくし立てるように言う。

「その、何と言うか。えと、自分を知る事が、自分を否定することと同義ではないことに気づいたと言いますか。何と言いますか」

誰にどうして弁解しているのか、そんなこともわからず、ただ俺の口からそれが漏れ出た。

「わかりました。それでは話しますね。そうですね、デイビットさんは」


 僕には記憶がない。

何をしていたのか、何をするべきなのか。

ただ、漠然と、悲しいと言う気持ちと、強い背中の痛みだけが、僕を構成しているものだったのだ。

親切な女性に拾われて、病院に担ぎ込まれて、何とか生きている。

病院の中、何ができると言うわけでもないまま、俺はただ、ここで生きているだけだった。

記憶がない僕に、この体を使う権利はあるのだろうか。

そんなことばかり考えてしまう。

来ていたコートには、手帳とペン、ただそれだけが入っていた。

手帳を覗こうとしても、どうしてだろうか、手帳を読んではいけないと言う強い意識が、頭を支配して、それを読めなくなってしまう。

だから、自分を知る手がかりはあるのだが、それを見る事ができない状態にいるのだ。

僕は何もできない。

記憶がないから。

あるのは、自分に関する事以外の記録としての知識ばかりだった。

僕の見舞いに、僕の知り合いが来てくれれば、と思っていたが、僕の見舞いには、その親切な女性が来るばかりで、他の人は、事件の捜査と称してきた人が一人だけだった。

記憶のない僕は、捜査に協力できるわけもなく、その人は力なく帰っていった。

自分を知る手がかりがないまま、僕はただ、その親切な女性、つまりはエマと親睦を深めていった。

僕の知識を披露して、彼女がそれを楽しそうに聞いてくれる。

それだけが、僕の全てだった。

僕の怪我が治って、病院を出るとなった時。

僕には居場所がないことを改めて突きつけられた。

行くあてがないのだ。

僕はすっかり途方に暮れてしまった。

ガスマスクをつけて、病院の前でただ、立ち尽くしていた。

一体どうしたらいい。

頼るものも、縋るものもないまま、世界に投げ出された。

世界に怯える俺に救いの手を差し伸べてくれたのは、またしても、エマだった。

どうやら彼女は、軍人貴族の生まれらしく、その家で、使用人として来て欲しい、と言われた。

これまでの僕がどんな人生を送って、どんな人間と話していたのか。

そんなことは知らないが、僕の人生は、僕のものだ。

今、僕がこの体を使って、僕が生きている。

彼女の家は、この街の外にある。

使用人として働くということは、この街から出ることになる。

僕のいた街から、僕の元々の人生から。

お別れすることになる。

それが、どういうことを意味するのか。

それを十分に理解した上で、僕は、差し伸べられたエマの手を取った。

僕は、コートと手帳を、捨て、エマと共に生きることを選んだのだ。


「デイビットさんは、私と出会った時、記憶を失って、行くあてがありませんでした。だから、私の家で、使用人として雇うことにしたんです」


病院の外に出てからの生活は、それまでの退屈で、色のない生活ではなくて。

分からない事、知らない事、たくさんの人との出会い。

息をつく暇もないような、生活だった。

僕には、そのどれもが楽しかった。

最初は、下男として、皿洗いだとか、掃除だとかを教わった。

読み書きができる事が周知されると、重宝されて、すぐに、雑用だけでなく、いろんな仕事が任されるようになった。

薄給ではあったが、ここでの生活が、僕に取っての全てであったから。

お金の使い道はなかった。

仕事が空けば、エマが僕のところに来てくれた。

僕にはそうして、エマと話している時間が何よりも大切で、幸せな時間だった。

新聞にアイロンがけしたり、手紙の仕分けを手伝ったり。

廊下で、絵画の周りを掃除しながら、その魚の絵に見惚れてしまい、怒られたり。

どんな時でも、僕の思考の中にはエマがいた。

彼女が、空っぽで何にもなかった僕を作ってくれた。

僕の生活に彩りをくれたんだ。


「デイビットさんは、読み書きができて、物分かりがいいから、すぐに要領を掴んでいろんな仕事を任されるようになりました」


仕事の仲間に、記憶が早く戻るといいねと言われた。

僕はそれに、はい。と答えることができなかった。

僕の存在は、記憶が戻るまでのものだ。

明日無くなっても、おかしくない。

今日、今だって。

僕は、消えたくない。

何か、僕の存在を残すことはできないだろうか。


「デイビットさんは、仕事の合間に物語を聞かせてくれました。彼が作った物語です」


僕の存在を残すために。

僕は物語を作ることにした。

この後、たとえ僕がいなくなってしまっても。

僕が作った物語が、エマの中に生きてくれる。

記録をつけることもした。

僕の生きてきた記録だ。

もし、僕の記憶が戻って、僕が僕で無くなってしまっても。

僕というもの、存在を覚えていてくれるように。

もしかしたら、僕のまま、記憶を取り戻せるのかもしれない。

でも、そうでないかもしれないから。


「それをまとめて、私が本にしたんです」


エマが、僕の作った物語をまとめて一冊の本にしてくれた。

彼女の描いた、可愛らしい絵と僕の創った物語の本だ。

二人で産んだ本だ。

タイトルは、『英雄の子』。

英雄の息子の話がメインとなった絵本の短編集みたいなものだ。


「デイビットさんの話を私が絵本にしたんです」


僕は、僕の存在をこの世に証明することができた。

絵本は、エマのお父さん、つまりはこの館の主人によって、出版社に持ち込まれ本格的に街で売られることになった。

嬉しかった。

僕の存在が肯定されているようで。

僕という存在を世界が認めてくれているようで。

それから少し経って、エマから思いの丈を伝えられた。

僕は、それを受け取った。

もう僕は以前の存在が不安定な僕ではない。

これから一生、彼女の隣に寄り添って、彼女と二人で絵本を書き続ける。

記憶が戻ろうと、何が起きようと、僕の意思は、僕の物語は消えないのだから。


「デイビットさんと婚約したのは、その頃でした」


婚約を交わす障害になるのは、主人だと思っていた。

なぜなら、僕の出自は分からないし、使用人と娘の結婚なんて認めるわけないと思っていたからだ。

軍人貴族や商人といった成り上がりの人間は、家の立場を磐石なものにするために子供に政略結婚させるのが道理だ。

いつまでも、成り上がりだと思われないために。

先月だって、どこかの貴族の長男が、使い物にならないからと勘当されていた。

貴族の世界は、冷酷で自由のない世界だと思っていた。

だが、ここの主人はそうではなかった。

エマの自由にするのがいいと言った。

それだけでなく、二人が暮らしていけるように様々なことを取り計らってくれた。

そして、僕のいた街に一軒家を建ててくれたのだ。


「婚約を期に、この街で二人暮らし始めたんです。去年の夏頃のことでした」


エマの料理の腕は、壊滅的で、お世辞にもいいと言えるものではなかった。

だから、僕が料理をすると言ったのだが、頑として彼女は僕を台所に立たせてくれなかった。

料理ぐらいは、私がしたいからと言っていた。

確かに、家事の大半は、僕がやっていたが、それは、使用人としての仕事が染み付いているだけのことであって、別に気を使わなくてもいいのだが。

婚約はしたが、僕の出自が分からず、戸籍がないことから、結婚することはできないでいた。

僕という存在の危うさが、ここで今一度浮き彫りになったのだ。

エマは、気づいているのだろうか。

どうして僕が物語を創り始めたのか。

どうして僕があなたと婚約したのか。

不安に覆い尽くされそうになった。

記憶が戻って、僕が僕でなくなってしまった時に、エマは悲しむのだろうか。

本当に僕は僕でなくなってしまうのだろうか。


「なかなか、デイビットさんの戸籍を作ることに苦労して正式に結婚することはできないままなんです。だから、あなたと私には、婚約者としての関係はあっても、夫婦としての関係はないんです」

悲しそうにエマは言った。

多分、正式に結婚していないことを伝えることで、俺の感じる責任を和らげようとしているのだろう。

好意的にエマの発言を捉えるのであれば、だが。

ただ、確かにその言葉で、俺の感じていた責任の一端が軽くなったのは事実だ。


冬になった。

寒さも厳しくなってきて、外に出ることも少なくなってきた。

灰のせいで元々そんなに外には出なかったが、それに比べても出ることが少なくなった。

そんな冬の夜のことだった。

珍しく家のチャイムが鳴った。

出版社の人かと思いながら、扉を開けると、見知らぬ男がいた。

身なりを見るにどうやら探偵らしい。

一男は、ボロボロのコートと一枚の紙を持って。

僕に尋ねてきた。

この絵に描かれている男は、あなたですか?と。

その絵を見た途端に、鋭い痛みが、頭を襲った。

僕は、それを知っている。

それは、それは。

僕は、気分が悪くなって、その二人組の男に帰ってくださいと言って、扉を閉めた。

僕の絵だった。

少しだけ美化されているような気がするが、それでもその絵は僕だった。

そして、それを見た瞬間に、何かが頭をよぎって。

何かを思い出しそうになってしまったのだ。

僕は、それを思い出したくない。

僕がそれを思い出してしまったら。


「それから冬になって。まだ結婚できなくて。そんなある日を境に、デイビットさんは、何かに怯えるようになりました」

何かに怯えている?

一体何だ?


男は、それからしばらく、僕の家を訪ねては、その絵の男を知らないかと、このコートを知らないかと聞いてきた。

僕は、それを見たくなくて、知りたくなくて。

彼を何度も、何度も追い返した。

きっと、彼は、絵に描かれた男が僕だと知っているから何度でも僕を訪ねてくるのだろう。

僕に早く思い出せと。

怖い、死にたくない。

消えてしまいたくない。

物語を残した。

だからそれでいいなんて、目前に迫った恐怖の前でそんなことは言えなかった。

僕は、消えたくない。

だが、彼は僕ではなく。僕でない頃の僕。つまりは、記憶を失う前の僕に話があるのだろう。

記憶を失う前の僕にも、この街で生きていた。そして、残したものがあった。

昔の僕も、こうやって、存在がなくなってしまうことが怖かったのだろうか。

いや、怖かっただろう。

当たり前だ。

それならば。

あぁ、僕が自己犠牲で、昔の僕を思い出す選択を取った時。

もしそれで、僕が僕でなくなってしまったら。

エマを傷つけ、僕を信頼して結婚を許してくれた主人を裏切り。

新しい本を望んでくれる人々に、それを見せることができなくなる。

今は描きかけの原稿を見た。

僕はどうしたらいい。

僕には、それらの責任があることをわかっていても、過去の僕から目を背けて生きていくという選択肢を取ってもいいのかと、ずっと考えてしまうのだ。

記憶を失う前の僕はずっと、死んだままなのだ。

彼を生きかえらしてあげることができるのは僕だけだ。

でも、その時、僕が僕でいられるかは、わからない。

僕は、自分のこれまでの記録を見た。

ここ10年で随分と書いた。

使用人の時の仕事のこと、病院の中での思い出も。

物語を創ったこと、二人で絵本を書いたこと。

エマの料理がこの半年で随分と上達したこと。

本当はこの記録だけでは足りないぐらい。

僕は濃密で幸せな10年を過ごした。

思い出したところで、僕が消えるとは限らないではないか。

思い出してあげてもいいのではないのだろうか。

あの絵が、再び頭をかすめた。

怖い。

寝室に入って、眠っているエマの頭を撫でた。

そして、抱きしめた。

愛おしい。

エマと二人、この幸せをずっと噛み締めながら。

エマが目を覚まして、僕を強く抱きしめ返してくれた。

もし僕が明日目を覚ましたら、僕でなくなったらどうする?

エマにそう尋ねようとしたが、その言葉を飲み込んだ。

それを聞いてしまったら本当に消えてしまいそうで。

涙が溢れる。

僕はどうしたらいい。

僕はこの生活を手放したくない。

だけど、それでも。

僕は、過去の僕から目を背けて逃げることも許せないのだ。

ただ、思い出すだけ。

ただ、過去の自分を認識してあげるだけだ。

エマを抱きしめながら、僕は過去を認識しようとした。

激流のように、記憶が僕の中に流れ込んできた。

メアリーのこと、父のこと。

僕は僕だ。

そう強く認識しているはずなのに。

どうしてだろうか。

次に目を覚ますとき、僕が僕でなくなってしまう確信が僕の胸を貫いた。

多分、これはどうしようもないのだ。

俺は、エマを寝かせて、最後に手紙を書いた。

親愛なるエマへ。

そして、これからの自分へ。

そして、俺はベッドに入り、眠りについた。

これが最後だ。

怖くて仕方ない。

エマの手を強く握って眠りにつく。

どうか、エマを想う気持ちだけは、消えないようにと、そう祈りながら。


「そして、そのまま。何かに怯えたまま今日を迎えました。それが私の知っているデイビットさんの全てです」

「そうですか」

俺は、全てを聞いて、知っても何も思い出すことはできなかったことに少しだけホッとした。

「何か思い出しませんでしたか?」

恐る恐るエマは、俺に尋ねる。

「すいません、何も」

「そう、ですか・・・。謝らないでください。しょうがない事ですから」

エマは、笑顔を作って俺に気を使う。

「すいません」

どうしてか、彼女に謝ってしまう。

俺が、俺でいることが罪だからだ。

この世界は、どこまでも、俺を必要としていない。


 家の中をエマに紹介してもらうことにした。

一階は生活のための部屋が多く、リビング、台所、お風呂場、洗面所が一階にあった。

内装は、落ち着いたもので、居心地の良いものになっていた。

ただ、一階の廊下に魚の絵が飾ってあった。

それだけは、昔のことを思わせて俺の胸をゆるく締め付けた。

 二階には、俺の書斎、そしてエマの部屋、寝室、物置部屋、そして、エマが絵を描くための仕事部屋があった。

トイレは、一階にも二階にもあった。


 書斎に入ると、強いインクの匂いが鼻をついた。

別に嫌いな匂いではないが、少しだけ面食らってしまう。

正面に、机があり、その上には、いくつかの本と、万年筆そして、何か描きかけの原稿があった。

両脇には本棚があり、床には、入りきらなかったであろう本が置いてあった。

一つ手にとって、眺めてみる。

グリム童話。

有名な童話集だ。

きっと、俺は、本気で創作をしていたのだろう。

本棚には、童話や各地の伝承をまとめた本がずらりと並んでいた。

その中に一つ、やけに古びた本を見つけた。

ギルガメッシュ叙事詩。

どうしてだろう、聞いたことがあるような。

俺が、そうやって本に夢中になっていると、エマが机の中から、手紙を見つけたらしく、声をかけてきた。

「あの、手紙があったんです」

俺は、手に持ったギルガメッシュ叙事詩を、本棚に戻してエマのもとに向かった。

「手紙?誰から」

「デイビットさん」

「俺、か」

手紙は封筒に入っていて、封筒には、親愛なるエマと、僕を忘れてしまった僕へ。

と、そう書かれていた。

「エマさんが、先に読んでください」

俺にそれを先に読む資格は、ないだろう。

昔の俺、いや、僕だって、それを望んでいないはずだ。

僕を忘れた僕へ、その言葉は、俺の一人称が、僕であったことの証左で。

俺が、自分のことを俺と言うたびに、エマを傷つけていた事実を浮き彫りにした。

そうか、僕か。

真面目で、努力家だった僕と、ただ、環境に流されて、家畜のように、魚のように生きていた俺。

どうしたって、比べてしまう。

本当に、この10年を僕が俺として生きてきたのだろうか。

本当は、別の人物で、これは夢で。

それだったらどれだけ良かっただろう。

エマが読み終えた手紙を俺に手渡した。

彼女は、そのまま部屋を出て行った。

俺は、視線を手紙に落とした。


親愛なるエマと、僕を忘れた僕へ。

まず、最初に。

僕がもし、ちゃんと僕のまま生きているときにエマがこれを見つけて読んでいるなら、恥ずかしいからやめてください。

まずは、エマへ。

これを読み進めているってことは、僕は僕でなくなっちゃったってことだと思うから。

まず、最初に相談できなくてごめんって言わせて。

僕は、記憶を思い出すことが怖くて、怖がっている僕をエマに見られたくなくて強がってた。

わかってくれとか、許しては言いません。

僕は、僕の都合で、消えてしまうのだから。

記憶が戻ってきてしまうかもしれないと思い始めたのは、冬の頃だった。

だから、僕には、エマ、あなたにこの事実を相談して、話す時間はあった。

でも、できなかった。

僕の弱さのせいだ。

僕はずっと僕の弱さに気付くことすら出来なかった。

気づいたのは、ここに何を書こうかと考えていた時だったから。

僕は、僕と向き合うことも、あなたと向き合うこともできなかったんだ。

ごめんなさい。

それでも、やっぱり、僕はあなたを愛しているから、手紙を残します。

自分勝手で、ずるいと言われても、僕は、あなたへ言葉を残します。

愛していますと。

僕の人生、僕の物語は、あなたのためにあって、あなたが全てでした。

でも、僕の物語は、他の人の、僕でない僕から借りたものだから。

いつか返さなきゃいけなかったんです。

僕は、できれば一生、あなたとの物語を紡ぎたかった。


 僕でなくなってしまった僕へ。

困惑しているのでしょうか、怒っているのでしょうか。

どんな人なのか、どんな人生を送ってきたのか。

僕には全くわかりません。

記憶の手がかりも、僕を描いた小さな絵が一枚と、ボロボロのコートだけだったので。

この書斎の机に、それらが置いてあります。

二段目の引き出しです。

僕は、あなたの物語を奪って、僕の物語に染め上げました。

どういった理由があって僕が生まれたのか、あなたが記憶を失ったのか。

僕にはわかりません。

でも、僕は生まれて、僕は生きた。

そこに、罪はあるのでしょうか。

許して欲しいとは言いません。

僕は僕として生きた。

だから、あなたはあなたとして生きればいい。

エマも、僕のやってきた仕事も、気にしないでいい。

僕が、僕の物語をここまで紡いできたように、あなたにはあなたの人生を紡ぐ権利がある。

それは、すべての人間に許された、行為のはずだ。

あなたの物語で、僕を演じる必要はない。

どれだけ、この世界が、あなたを否定しても。

あなたには、あなたの物語を紡ぐ権利がある。

奴隷のように、三文役者のように。

下手な芝居で、僕の物語をなぞる必要はない。

むしろ、そんなことで僕の物語を汚さないで欲しい。

僕の物語は、あなたがこれを読んでいる時点でもう終わってしまっているのだから。

あなたのことを探している探偵がいました。

古教会の南の方の出口から、まっすぐ進んで、三つ目の路地のところに事務所を持っている探偵なので、そこにいけば会えるでしょう。

最後に、少しだけ。

エマが、傷ついているでしょう。

でも、あなたは、心配しないでいい。

彼女は強い。

だから、大丈夫。

きっと、僕のことを上手いこと忘れて、強く生きてくれるでしょう。

だから、あなたは安心して生きて欲しい。

あなたの物語を。


ため息が漏れる。

どうして。

どうして、俺を肯定してくれるのが、僕なのだろうか。

何が物語だ。

何が僕だ。

ふざけている。

俺は、自分が子供で、それでいて、わがままで俺として生きていく選択をしていると自覚していた。

子供のままでいろと?

俺は、それを肯定できない。

見てしまった。

エマの傷つく姿を。

彼女が強いだと?

僕は何を見ていたんだこの10年。

彼女は、脆い。

俺は、そう思った。


 手紙を机に置いて、二段目の引き出しを引いた。

そこには見慣れたボロボロのコートと、一枚の紙が置かれていた。

紙には、俺の絵が描かれている。

これは。

メアリーの描いた絵だ。

最後にこれを見て。

これを見て?

その先は、靄がかかって思い出せない。

コートの胸ポケットをさわれば、そこには手帳が入っていた。

手帳をポケットにでもしまおうと思ったところでまだ寝間着のままだったことに気が付いた。

コートと手帳を持って、寝室に入り、クローゼットから適当に服を出し、着替えた。

エマは、今どうしているのだろうか。

俺は、それが気になって、一階に降りた。

リビングの扉を開けると、エマと目が合った。

扉を開けた音に反応して、机から顔を上げたのだろう。

「デイビットさん、服着替えたんですね」

力なく笑うエマ。

「着替えさせてもらった」

「私、私。許せないです」

机の上に、握った拳を置いて、彼女は話す。

「どうして、私に相談してくれなかったんですか。どうして私を信じてくれなかったんですか。急じゃないですか。私が傷つくことも、私が、どれだけあなたを想っていたか。そんなこと分かってるはずでしょう?」

エマは力任せに、机を叩いた。

「結局、デイビットさんは、逃げただけじゃないですか。何が物語ですか。何がエマは強いですか。私は強くない。物語だって、絵本だって、あなたとだから描けた。二人だから生み出せたのに。どうして。勝手に。何が弱さだ。強くなってくださいよ」

俺に向かってただ叫ぶ。

「私に言ったじゃないですか、愛しているって。なら、私のために、強くあってくださいよ。私と一緒に居てくださいよ。分かんないですよ。僕じゃない僕とか、俺とか。ふざけるのも大概にしてください」

俺は、ただそれを見ている。

「言いましたよ、確かに。あなたが辛いって、でも、やっぱり。私だって辛いですよ。助けてってあなた言いましたけど。私だって助けて欲しいですよ。これからどうやって生きていけばいいんですか。デイビットさんの居ない人生をどうやって生きていけばいいんですか。望んでもいいのなら、今すぐにでも、あなたが、僕って言うデイビットさんに戻って、僕は今ここにいるって、私と一緒に居てくれるって。そう言って欲しいですよ」

「それは、できない。出来ないけど。俺は、俺は。」

俺は、何だ?

この先、俺は何て言う。

「俺は、僕にはなれない。でも、僕を知って、それで」

この先は、僕もこれまでの俺も。

全て否定するだけの言葉なのかもしれない。

それでも。

「俺は」

言え、言え。

僕の代わりになれるよう頑張るからと。

そう言え。

そうしたら、もう俺は否定されなくなる。

それでいいじゃないか。

言え。

言うのだ。

口を開くと、ヒューっという音が出て、喉から空気が抜ける。

「俺は、」

「もう、いいです。いいですよ。何も言わなくて」

エマは、そう言ってリビングを出て行った。

俺と、一緒に居たくないのだろう。

彼女が出て行って、俺は崩れ落ちるように倒れた。

どこまで行っても。

俺は、俺として生きていたいらしい。

僕になることを許してはくれないらしい。

「クソ」

どこまでも、子供な自分が情けない。

僕になれば、全て解決して楽になれるのに。

そんな選択肢を俺は取ることが出来ない。

頭でわかっていても、取れないのだ。

心が叫ぶ。

俺は俺だと。

俺が俺として生きることに罪はないと。

理性がそれを拒んでも。

俺は、俺として生きていたいのだ。

如何しようも無い自分の心の底を自覚したことで、さっきまでの迷いが吹っ切れた。


ガスマスクをとって、ボロボロのコートを羽織り、手帳をコートのポケットに入れた。

玄関の扉に手をかけて扉を引くと、そこは、あぁ。

昔と変わらない街並み。

というには、少々語弊があるが。

それでも、昔馴染みの街が広がっていた。

一歩踏み出して、息を吸う。

ガスマスク越しに、あの、むせそうになる空気が肺を満たす。

一歩一歩、舗装された街を踏みしめて、俺は、教会へ向かう。

あの教会だ。

メアリーと出会った。

聖ロバーツ教会。

古教会だ。

薄汚れたステンドグラスのあるあそこへ。

教会へ向かう途中、パン屋がある路地に差し掛かった。

もしかしたら、まだ。

パン屋だった店の扉に手をかける。

扉の窓から、中が見えた。

中には、何もなかった。

「あんた。ここの店は、もう去年になくなっちまったよ」

後ろから声をかけられて振り返ると、長身の男が立っていた。

「ここのパン屋、うまかったんだけどな。ご主人が他界してから、ばあちゃんおかしくなっちまって」

「あぁ、そうなんですか」

「もしかして、だが」

男は少し貯めてから聞いた。

「あんたデイビットさんかい?」

「えぇ、ただ、あなたが想像しているであろう、作家ではありませんが」

「ビンゴ」

「え?」

「俺は、作家でも何でもないあんたを探していたんだ」

「それは、つまり。えっと」

「まあ、ここで立ち話も、何だから、俺の事務所まで来てくれないか?」


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