第4話 探偵
1
その日、オレは仲間を全て失った。
古教会での爆発。
大事故だ。
仲間の捜査官は、捜査対象もろともみんな死んでしまった。
瓦礫の山のうえで、オレは仲間だったものを拾い上げる。
すり潰されたようにぐちゃぐちゃになった腕だ。
手をしっかりと握って、そして、それを抱いた。
「どうして、死んでしまったんだ」
あの日、オレが、あの絵画と出会わなければ、こいつは死ななかっただろうか。
いや、そんな事はないだろう。
これからどうしたものか。
署内にオレの居場所はもうすっかりなくなってしまった。
対異物対策班は、オレを除いて壊滅してしまったからだ。
そもそも、異物に対する危険意識の低い上層部からは、目の上のたんこぶのようにされていたから、オレのクビを切って対策班の存在は消されてしまう。
「オレを巻き込んでおいて、先に逝くなんて、勝手すぎるんだよ」
遺体を回収させ、現場を見渡す。
目ぼしい物はないか。
すると、神父のものでも同僚のものでもないコートと、その近くに少女をみつけた。
駆け寄って、少女の脈を確認すると、どうやら生きているようんだった。
ガスマスクが壊れ、綺麗な顔が見える。
左耳が潰れている事に目を瞑れば、だが。
「おーい、こっちに生存者がいる」
瓦礫をひっくり返すことに躍起になっていた救助隊のメンバーのうち一人が、こちらに来る。
「この子だ」
その救助隊の人は一瞬驚いたような顔を見せる。
「この子は、いや、こいつは。化け物ですよ。助ける価値もありません。むしろここで殺すべきです」
「急に何言い出すんだ」
「5年前の血の池事件、覚えてないですか?」
「いや、覚えているよ」
それはもちろん、オレが初めて関わった異物がらみの事件だった。
異物についての捜査は一般の捜査と異なるし、表に出ることもないのだが。
「こいつは、その事件の犯人、あの忌々しい半魚人の娘です」
「だからって、娘が化け物ってわけじゃないだろう」
「私は、現場にいたんですよ。あの惨劇を見たんです」
こちらに訴えかけるように、大きく身振り手振りをしながら男は話す。
「信頼する仲間だっていた。友人だっていた。そして、あぁ。愛する人だって」
「そうか」
「ジャックさんだってそうですよね、あなたの仲間ここで沢山死にました。許せますか?」
「いや、許せない」
「じゃあ」
「だが、彼女がその惨劇を生み出したわけじゃない」
「でも、いつ父親のような化け物になるか、分からないじゃないですか」
「冷静な頭で考えろ、人は化け物に変身できたりしない」
「だって」
ラチがあかないと思ったオレは、他の人を呼んで、病院に運ぶよう言った。
そいつは、しぶしぶそれを受け入れると、少女を連れて、病院の方へ向かった。
他の救助隊の奴らが何か、ギャーギャーと喚き続けていたが、しばらくすると、落ち着きを取り戻したのか、仕事に戻っていた。
少女の近くには、血だまりのようなものがあり、それがどこかに向かって続いていた。
この血の跡と、神父の死体、そしてここにあるはずの異物。
それがこの事件を解決するための手がかりになるだろう。
だが、もうすぐオレは警官としての仕事が失われてしまう。どうやって捜査しようか。
2
再建された古教会の近く、廃屋が立ち並ぶスラム街の中、不倫の証拠を掴むためにオレは廃屋に忍び込み、息を潜めていた。
自分の呼吸音だけが聞こえる中、オレはどうしてこんなくだらない事をしているのだろうかと自己嫌悪に陥る。
オレは、一刻も早く、あの古教会の事件を調査したいというのに。
この街で、探偵を始めたは良いものの、依頼が来るのは不倫調査ばかりでこのガスマスクというやつが生み出した社会への影響の大きさを実感する。
不倫してる奴は大抵こういうんだよ。
思ってた顔と違ったって。
男も女も同じことを言う。
別にそれを責める気も起きないが、不倫調査ばかり行っていると、人間不信にでも陥ってしまいそうだ。
そんなことをぼやぼや考えながら、廃屋から覗く道に立つ女の不倫相手を待っている。
しばらく待っていると、ボロボロな少年が現れた。
ガスマスクにはヒビが入っていて、今にも壊れそうだ。
彼は、その女性の前で、膝をついて、地面に頭を付した。
女性は、彼の頭を踏みつけると、首に首輪をつけた。
気持ちが悪い。
オレは、嫌悪感と正義感からか、決定的な瞬間を写真に収めるよりも先に体が動いていた。
「オイ」
女性はオレを見ると、すぐに駆け出した。
首輪を捨ててここを逃げ去ったのだ。
オレはため息をついて、少年の方に目をやった。
「大丈夫か?」
ビクリと体を震わして、まるで怯えたようにオレを見上げる。
「はい」
「安心しろ、オレは別にお前をどうこうしようとは思ってない。ただ、あの女が気持ち悪くて許せなかっただけだ」
「あの、でも僕、お金がなくて。その」
貧困ゆえに、女に体を売っていたって訳か。
「そうか」
「体の弱い弟がいるんです」
「だから、体を売ってたってか?」
「はい」
「もっと自分を大事にしな」
銀貨を一枚渡した。
「駄賃だ、受け取りな」
「いや、でも。僕何もしてない」
「良いって言っただろう」
「でも」
「良いってば」
オレは後ろに手を振りながら、事務所に戻った。
さて、なんて報告しようものか。
3
異物がらみの事件ばかり捜査していた、あの非日常的な生活から離れると、すっかりオレは浮気調査のエキスパートとなり、探偵としての日常を過ごすことになった。
もちろん例の事件の捜査は怠っていない。
血の跡を辿ってたどり着いた病院には事件の日に怪我をしてきた男がいたが、記憶を失っており、何の役にも立たなかった。
その男を連れてきたという女性にも話を聞いたが、古教会の近くで彼を拾った、轟音が教会の方から聞こえてきた、という、特に手がかりになりそうにない情報だけもらえた。
残った手がかりといえば、少女だけだが、オレはすぐに捜査から外され、クビになったから、拝めていないわけだ。
ため息をつきながら、今日もガスマスクをつけて、浮気調査へと街へ出る。
またあの少年だ。
あれから、何度かあの少年と浮気現場で遭遇する。
男にも、女にもずいぶん人気なこった。
「おい」
「あ、探偵さん」
「あぁ、そうだ。お前のせいで浮気が絶えなくて捜査に駆り出されている探偵さんだ」
「ごめんなさい。でも、僕」
「あぁ、分かったから」
「ごめんなさい」
「弟さんってのは、どこにいるんだ?」
「えっと、教会の近くにある小さな小屋です」
「そうか」
「えっと、ごめんなさい」
「そう謝るな」
「いえ、その。何というか、ごめんなさい」
ずいぶんと謝りグセのある子供だ。
ひどく虐められていたのだろう。
よく見れば、体には、ミミズ腫れのようなものが、服で隠せないほどある。
「見てらんないし、これも何かの縁だな」
頭を掻きながら、少年の目を見た。
「オレの探偵事務所で働く気はないか?」
「え?」
「うちの事務所内でなら、二人とも寝泊まりしても良い、廃屋よりはずいぶんと過ごしやすいはずだ」
「でも」
「こう見えても、結構稼いでんだ、取り敢えず、弟の所に連れてきな」
ボロボロの廃屋の中で、弟は眠っていた。
弟の上には、おそらくどこかで拾ったのであろうコートが布団代わりにかけられていた。
それがなければ、彼は凍え死んでいただろう。
このへんの冬は寒い。
よく眠る彼の顔には、新品同様ぐらいの綺麗なガスマスクが、つけられていた。
「喘息持ちなんです」
「そうか。じゃあ、こんなオンボロな小屋には置いとけないな」
「えぇ、まあ、そうなんですけど」
「何だ、オレの下は嫌か?」
「いや、別にそういうわけじゃないんですけど」
「じゃあ良いじゃないか」
「何というか、良いんですか?」
「良いも何も、オレが誘ってるんだから良いだろ」
「でも」
「気にしないで良いよ、これからコキ使ってやるから」
「わかりました」
「あ、そうだ、名前は?」
「ノアです」
「弟の名前は?」
「テオ」
「じゃあ、ノア、テオを事務所まで運ぶから手伝ってくれ」
「あ、あの、探偵さんの名前は?」
「ジャック」
「わかりました、ジャックさん」
テオを担ぎ上げると、その軽さに、驚いた。
「ちゃんと飯食えてるか?」
「その、いえ。たべれてません」
「分かった、事務所でうまいもん食わしてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
道中ずいぶんと人目を集めたが、何とか事務所にたどり着くと、来客用のソファーにテオを寝かせた。
ノアには、その隣に座らせ、オレは、彼らのために、作り置きの、豆のスープを温め、小麦のパンと出した。
「ほら、オレお手製のスープとパンだ、あったまるだろ」
ノアは、ガスマスクを取ると、それを恐る恐るとって、食べ始めた。
「美味しいです」
「なら良かった」
「ジャックさんは、食べないんですか?」
「食べるよ、ただ、その前に。行っておかなきゃいけないことがある」
「何ですか?」
「まあ、まず見てくれ」
ガスマスクを取る、毛が引っかからないように気をつけながら。
「ヒッ」
テオが目を覚ましたのか、悲鳴をあげた。
オレの顔を見たせいだろう。
目覚めてすぐ、顔の半分が、獣の人間を見たら誰だって驚く。
「オレは、訳あって、半分動物なんだ」
テオは、呆然とするノアの服を掴んでじっとオレを見ている。
「お兄ちゃん、この人誰?」
「えっと、あの」
理解が追いつかないのか、あたふたとするノアに変わって、オレが説明することにした。
「今日からお前のお兄ちゃんが働く探偵事務所の所長だ。ジャックって呼んでくれ」
テオは、オレを怖がって、ノアの後ろから出ようとしない。
ノアもノアで、少し怖がっているようだ。
「あのな、お前ら、人は見た目じゃないぞ。別にオレはお前らを獲って喰ったりしない」
そこまで言って、オレは台所から、人参を持ってきた。
「ほら、オレは菜食主義者なんだよ」
人参を生で齧る。
流石に生だと、硬いしまずい。
「うぇ、まず」
つい、人参を吐き出してしまうと、ノアが、吹き出すように少し笑った。
「変な人ですね」
「そうかもな」
オレもつられて笑った。
すると、テオも、笑い出した。
「ともかく、オレは強面だが、お前らを食べたりしないから安心しろ」
「はい」
ノアが返事をすると、テオも続いて返事をした。
「あと、ここはフィルターがちゃんと機能してるから、ガスマスクを取ってもいいぞ」
そう言って、テオのガスマスクを取ってやる。
「ほら、普通に空気が吸えるだろ?」
「あ、」
「喘息の症状が出たら言ってくれ、何とかするから」
「あの、えっと。分かりました」
テオとやっとまともに話せたような気がして、少し安堵した。
会話もまともにできなければ、どうやってこれから過ごそうかと考えていたから。
「さて、じゃあ、今日は飯食って寝るか」
テオとノアには、仮眠室を使ってもらうことにして、自分は、事務所の椅子で寝ることにした。
だが、寝る前に一つだけすることがある。
仮眠室を除き、テオが眠っているのを確認して、ノアを起こした。
「ノア、仕事について話がある」
眠そうに目をこするノアを連れて、応接間のソファーに座らせた。
「オレの仕事について、そして、これからしてもらう事について学んで貰わなくちゃならない。だから、聞いてくれるか?」
ノアの目をじっと見つめながら話す。
ノアは、頷いた。
「まず最初に、どうしてオレがこんな顔なのか、について話そう」
「はい」
「あんまり話を長くしても眠たくなるだけだから簡潔に話す。これは、人狼の童話が原因だ。オレがまだ幼い頃、もちろん、テオやノアよりもずっと幼い頃さ、母親に読み聞かせてもらった人狼と人間の取替え子の童話さ、小さい子供が、人狼の子供と入れ替えられて育てられる。そんな話さ、オレはそれを真に受けちまった。オレは、悪い事ばかりしてしまうから、きっと人狼と人間のハーフなんだ、なんて思っちまったのさ」
境目を指でなぞる。
「その結果が、これさ。幼いオレは、まんま半分半分になるって想像しちまったのさ」
ボケのつもりで言ったのだが、ノアはオレの話を真剣に聞いているのか、ボケだと理解していないのか、ただ、真顔で、オレの話を聞き続ける。
「話を判りやすくしよう。例えば、ここにペンがあるだろう。これは何処をどうしたってペンだ。だが、世界中の人間が、ここにいるオレたちを除いてみんなこれを林檎だと認識したとする。そうすると、これは林檎になるのだ。これが認知的な力の話だ。ただ、この力は普通物質的には影響を及ぼさない。しかし、影響を及ぼすようになってしまった」
一息のうちに話して、一度ノアを見る。
「理解は付いてきているか」
「はい、一応」
頷く彼を見て、続きを話す。
「これの原因を探ぐる、これが大まかなオレの仕事だ。表面上は探偵をしているがな」
「なる、ほど」
「さっきは認知的な力がまるで万能のように話したけれど、それは実は万能ではない。他者からの強い認知で、現実に影響は及ぼさない、自己に対する強い認識がそれを実現させるんだ。しかも条件がつく。よく晴れた夜、アルデバランの星が見える時だけ。そして、この認知的変化は一方的で、可逆性はない」
ノアの顔がだんだんと険しくなって行く。
「まあ、この辺は理解出来なくてもいい。大事なのはここからだ。この条件を満たした時に描かれた絵画、小説、童話、童謡、なんだっていいけれど、これらは条件を無視して、人間の自己認識を強く歪めて変化させてしまう力を持つようになるんだ」
「それはつまり?」
「一定の条件を満たした創作物は、人をこうやって変化させてしまうものになってしまうのさ。オレたちは、それを異物と呼んでいた」
「たち?」
「あぁ、話していなかったな。オレは元々、警察というか、政府お抱えの調査団の一人だったんだ。先輩が、半分人狼のオレを拾ってくれてね。オレの場合、異物によってねじ曲げられた訳じゃなくて、晴れた夜にこうなった訳なんだけどな」
「そうなんですね。じゃあ、僕たちの他にも仲間がいるんですね」
「いや、全滅した」
深く息を吸った。
「教会が、爆発した事件があっただろう?」
「はい」
「それで仲間は全員動かなくなっちまった」
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
「嫌な事を思い出させてしまいました」
「嫌な事だが、説明しておいたほうがいい事だろう」
「すいません」
「だから、謝らなくていいぞ」
ノアの謝りグセは、なんというか、こっちまで恥ずかしくなってくる。
「ごめんなさい、勝手に出ちゃうんです」
「そうか。まぁ、いい。続きを話そうか」
「はい」
「さっき説明した異物を回収し、保管するのも仕事だ」
そう、それらを保管するのだ。
「保管?燃やしたりはしないんですか」
「それは、生み出された作品たちを消してしまう事になる。それは出来ない。作品に罪はないからな」
「でも」
「あぁ、そうだな危ないものだな。だが、異物を無効化する手立て、というか異物が発生する原因となった本があるんだ。それは、認識の王」
「認識の、王?」
「あぁ、本当のタイトルは王の名前になってるんだが、それは読めないようになっている。だから皆、認識の王と呼んでいる」
「それは一体、どんな本なんですか?」
「それはな、」
その時、チャイムの鳴る音がした。
4
ガスマスクをつけ、扉を開けると、そこには、人間のものとは思えないギョロリとした魚の眼があった。
「なんだ。テメェ」
オレがそう問いかけるよりも早く、奴の鋭い爪が、眼前を通り過ぎた。
一歩下がって、間合いを取る。
「ずいぶんと、ご機嫌な挨拶じゃないか」
返事は無い。
向こうに会話する意思は全く無いようだ。
奴は、ガスマスクもつけないで、その鱗にまみれた姿を晒している。
「奇遇だな、オレも、お前みたいに変な体してんだ」
右手につけた手袋を外し、腕を捲る。
「じゃあ、やろうか」
腰を落として、相手の出方を伺う。
勝負は一瞬。
オレの爪が、奴の喉を裂くか、それともその逆か。
フーッと、息を吐いた。
フルフェイスのガスマスクだから、視界が狭くなっている分、オレの方が不利だ。
でも。
奴が踏み込むのが見えた。
随分と思い切りが良い踏み込みだ。
まるで、自分が負ける事は無いとでも思い込んでいるような、自信すら垣間見える不用心な一歩。
奴の振り上げた手が、オレの顔めがけて迫ってくる。
勿論だが、奴はオレの右半身を中心に警戒している。
右半身だけが、人狼の姿だからだ。
それをよく理解していたから、オレは、左足で踏み込み、攻撃を避ける。
右耳を爪がかすめた。
鋭い痛みが走るが、それを気にしないで、右手で首をつかんだ。
この魚面どもは、鱗が硬いから自分は死なないと、調子にのる節がある。
「首元のエラ、隠しとくんだったな」
呼吸するたびに赤黒く蠢く首元のそれに、オレは狼の爪を突き立てる。
「お前、誰の指図でここにきた。どうしてオレを襲う」
返事はなく、代わりに、右手に気持ちの悪い感覚が伝わる。
生暖かい、柔らかい肉が裂けるような感覚。
その魚面は、返事がわりに、オレの爪に自分から、引き裂かれに行ったのだ。
血を吹き出しながら、それは倒れた。
「お前、どうして」
気持ちの悪い感覚と、返り血を帯びた、自分の右手だけがオレの頭を埋め尽くした。
「ヒッ」
後ろで、ノアが腰を抜かしていた。
「ノア、大丈夫だ」
「あ、あぁ、あ」
オレから逃れようとするように、手足をばたつかせながら後退する。
「まあ、怖いよな」
血に塗れた、自分の腕を見ながら呟いた。
「ごめん」
オレは、魚面を連れて、街を流れる川へ向かった。
死体が見つかって、オレが捕まれば、この先誰がこの事件を解決できるのか。
オレがやらなければならない。例え、どれだけ化け物の見た目をした人間を殺したとしても。
この異物による事件を全て無くすために。
5
「それだけの力があって、どうしてあなたは王を拒むのですか」
いつの間にか、背後に男が立っていた。
「今日は、なんというか、厄日だな」
「それは可哀想に」
「なぜ拒むのかって?誰が好んで半分人狼なんかになる。オレは元の姿に戻りたい」
「王さえ復活すれば、永遠の命だって夢じゃない」
「そんな簡単に永遠の命が手に入るわけないだろ。そもそもお前は王を勘違いしている。王はそんなに簡単な奴じゃない。というか、ただの厄介な認識災害さ」
「そんなことない。王は私たちを選んで祝福してくれた」
「こんなものが、祝福な訳があるかよ」
「その子は、ニコと言いましてね」
きっと、その子というのは、オレが川に捨ててやろうとしていた魚面を指しているのだろう。
「虚弱体質で、家から出られない彼は、ずっと夢見ていた。強い人間になりたい。父さんのように立派な軍人になりたいって」
腕が震える。
「やめろ」
「必死に祈っていたら、王が答えてくれたんですよ。祝福を受けたあの絵画に出会ったんです。冒涜的で、気持ちの悪い絵だ、なんて人々は言うけれど、私もニコも、この絵に出会って、人間である事をやめた時、とても晴れやかな気持ちだった。人間離れした力、体躯、銃弾すら弾くこの鱗。素晴らしいものだ」
「やめろ」
「ニコは大変喜んでいた。これで立派な軍人になれるって」
「やめてくれ」
「あなたは、そんなニコを殺したんだ。惜しい子を亡くしました」
「違う、知らなかったそんな事は」
「知っていたでしょう、祝福者が人間である事なんて」
「祝福なんかじゃない」
「少なくとも、ニコにとって、それは祝福だった」
「オレじゃない。こいつが勝手に、オレの爪に」
「まあ、良いです」
「オレは、違う」
「ともかく、これ以上、私達の邪魔はしないように」
「あ、あぁ」
「あと、返り血に塗れたあなた、まるで本物の人狼のようでしたよ。残忍で、好戦的で、血の気の多い」
「違う、オレは、人間だ」
「いいえ、人狼さんです」
「違う」
「いずれ、また会うことになるでしょう、人狼さん」
オレが、振り返ると、そこには誰も居なかった。
「畜生、畜生」
人が魚人になる様を描いた絵画が、晴れた夜に生み出された。
その効力は、ゆっくりと、その絵画に示されたように人間が魚人になっていくというものだ。
オレたちは、10年以上前、その絵画の回収に失敗した。
その力に魅入られてしまった一団に邪魔をされたからだ。
「オレは、人だ」
それから、あの爆破事件の少し前、調査団によって、その組織は壊滅させられた。
はずだった。
その絵画も確かに回収したはずだった。
「どうして」
呆然と立ち尽くし、オレはその生気を失った魚面の人間を見続けた。
6
どうやって家まで帰ったのか覚えていない。
ただ、確かなのは家に戻って、事務所の椅子に腰掛けたまま、眠りこけていたことだけだ。
「おはよう、ございます」
声の方へ振り向くと、ノアが、怯えた顔でオレを見ていた。
「あぁ、おはよう」
「おはよう、ジャックさん」
テオの元気な声が聞こえた。
「喘息は大丈夫か?」
「はい。今は大丈夫です」
胸を張るテオを眺めて、オレは。
獣の腕を見た。
殺した。
オレは、ニコを殺した。
きっと、テオやノアとそう変わらないような子供だったのだろう。
奴の言い分を聞いていれば、そう推察できる。
「それは良かった」
昨日人を殺しておいて、オレは、今日テオの心配をする。
ノアが、怯えた目でオレを見る。
オレは、手袋をつけて、コートを羽織った。
もうこの腕を見たくなかったからだ。
「さあ、テオ、ノア。朝ごはんにしようか」
殺人鬼が出した飯なんて食いたくないのかも知れないが。
「ジャックさん、あとで、お話、いいですか?」
震えるように、絞り出した声でノアが言う。
「あ、あぁ。そうだな」
「お仕事の話?」
「そうだよ、テオ」
ノアが、テオの頭を撫でる。
「ご飯食べたら、一人で待っていられるかい?」
「うん」
「ジャックさん、外で話しましょう」
「分かった」
机に朝ごはんを並べる。
「さ、朝ごはんだ、うまいぞ」
簡単な目玉焼きと、パンだ。
オレは一人パンを持って席を立った。
なんだか、二人の間にいてはいけないような気がして。
7
ガスマスクをつけ、二人で外を歩く。
「あ、あのジャックさん。昨日は、えっと何があったんですか?」
しばらく歩いて、人がいない路地裏に差し掛かったところでノアが切り出てきた。
「そうだな、そうだ」
昨日の経緯について話す。
どこを取っても現実味のない話だが、ノアはそれをゆっくりと聞いてくれた。
「それで、オレは、そのニコを、連れて、墓所まで行って、そして、埋めてきた。小さなお墓を作ってそれで、それから家に帰った。でも、この時はもう何も考えられなくて」
ダメだ、これからこいつの上司になるってのに。こんな調子じゃあ、ダメだ。
「すまん、ワザとじゃなかったなんて言わないし、オレは人殺しだ。相手が何だったのであれな。だから、ノア、別にお前がここに残る必要はない。お前だって、人殺しと暮らしたくないだろう?」
しばしの沈黙。
風の音だけが、痛いくらいに耳の中で響いた。
「僕は、あなたに救われたような気がしたんです」
ノアが口を開き、沈黙は終わる。
ガスマスクのせいで少しくぐもった声になってしまっているが、その綺麗な声でノアは続けた。
「僕も、テオもあまり体が強い方ではなかったから。どこに行ってもうまく働けなくて。だから、僕は、身体を。嫌だったんです。気持ちが悪かったんです。でも僕にはそれしかできなかったから」
身体を売るなんて、誰だって嫌だろう。
こんな少年のように小さな子が。
「いっぱい鞭で打たれました。僕はまるで家畜みたいに扱われて。それでも食べ物だけじゃなくて、テオのために綺麗なガスマスクを買わなきゃいけなかったから」
聞いていて、胸糞の悪くなる話だ。
「ジャックさんに、声をかけてもらえて、働き口をもらえて。もう身体売らなくても良いんだって。救われたような気がしたんです」
ノアは、オレの前に出て、こちらへ振り返った。
「だから、あなたが分からなくなった。良い人なのか、怖い人なのか」
「そう、か」
「でも、ジャックさんは僕たちに素顔を見せてくれた。本当は見せたくないものだろうに」
「あぁ」
「僕は、あなたをいい人だと思いたい。信じたい。そこまで見せてくれて、仕事の話だって。きっと僕を信用して話してくれたんでしょう?」
「あぁ」
「あなたが、あなたが僕にとっていい人じゃないと、僕はもうダメなんです。もう、身体を売りたくないんです。やめられた、なのにもう一度売らなきゃいけない。そんなの耐えきれないんです」
「そうか」
「僕は、ジャックさんが分からない。でも、僕はあなたを信じないともう生きていけないんですよ」
絞り出すように、それを言い切ると、こちらに背を向けた。
「昨日の続きの話をしましょう。探偵のイロハ、異物とやらについて。僕はまだ、何にもわかってないんですから」
「分かった。でも、これ以上オレに関わると、またあの魚面に襲われるかもしれない。それでもいいのか?」
「えぇ、僕にはとっても強い人狼と人間のハーフが付いてますから」
こんなに調子のいいやつだったか?
「まあ、そうだな」
「えぇ」
ガスマスクの下がどんな表情かは、分からない。でも、きっと悪い顔はしてないだろう。
「じゃあ、そうだな。どこから話せばいいか」
「その、認識の王って本の内容についてです」
「あー、そうだったな」
周りに人がいないことを確認してから話し始めた。
「認識の王、その内容は正しく伝わっていない。この本は、ある古代遺跡の発掘調査で発見されたものだ。サム・オーウェンという考古学者が発掘したものだ」
「発掘された本?」
「あぁ、そうだ。メソポタミアの地の底から発掘されたんだ。異常なほどに状態は良かった。遺跡発掘の過程で、それがどれだけ危険な内容なのか、それが表されているような壁画があったそうだが、目の前に古文書があって、それを読まない考古学者がいるだろうか」
人が来ないか警戒を強めつつ、話を続ける。
「だから、彼はそれを読み、狂ってしまった。その本が発掘されてから、異物が世界中で生まれ始め、世界に異常が起き始めた」
「それが、異物とか、魚人とか、そういうものなんですか?」
「あぁ、そうだ。だいぶ前にあった、血の池事件でそれが浮き彫りになったんだ」
「血の池事件、ですか」
「魚人の姿になった人が、大量に殺人を起こした事件だ。その時に、ガスマスクの下でどんな人間が生きているのか、それが全く分からなくなったんだ」
そう、オレみたいな半分人狼もいる。
「だが、こんなことが表沙汰になれば、それこそこの国は疑心暗鬼の大混乱に陥る」
「でも」
「オレもノアと同じ考えさ、でも伝えた方がいいと思う。しかし、国やお偉いさん。それに賢い人たちはそうは考えなかったってことさ」
「他の国ではどうなってるんです?」
「分からない」
「どうして」
「この国は島国だろ?外の国は、大体混乱に巻き込まれて、大変なことになってる。この国は、もう何処とも外交をしていない」
「でも新聞紙とかには」
「そうだ、偽りの世界情勢が書かれているのさ」
「そうなんですね」
「まあ、そもそもガスマスクを取る機会も少ないから、他の人が魚人になっているかどうかなんて分からない。だから、この国の人々にこんな非現実的なことをいくら訴えかけたって、狂人の妄言程度にしか思われないのさ」
人は、当事者にならない限り、どんなに近くで起きた事件でも遠くのことに感じてしまう。
「そんな状況が、一度血の池事件で崩れそうになったんだけどな」
「どうして?」
「犯人の魚人のような姿を多くの人が目撃したからさ」
「そうなんですね」
「それがきっかけで、この異常な事態、異常な事件を捜査する組織が作られた。この時は、まだ異物の存在にも気づいていなかったから、特務班みたいに呼ばれた組織だった」
「そこにジャックさんが」
「そういうことだ」
「それがどうして全滅を?」
「全ての元凶、認識の王は、その発掘主であるサム・オーウェンの起こした劇場爆破事件によって、行方をくらませてしまった。しかし、その居場所がついにわかった、それがあの古教会だった」
「古教会って、あの、僕たちが出会った場所の近くにある?」
「あぁ、そこだ。あそこが建て直される前の時のことだよ」
「なるほど」
「認識の王を回収する作戦の中で、そこにいた神父がある反政府組織との繋がりがあって、武装している恐れがあった。だから、オレたちは作戦を立てていた」
「作戦」
「まあ、どこから侵入して、どう制圧するか、そんな感じの計画だよ。オレは後方支援だった、一番若いからって」
いい奴らだった。オレの見た目も気にしない奴らで。
「それで、オレ以外が死んだ。連絡も何も取れなくなって、急いで教会に向かったらそこは壊滅してたのさ」
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
「嫌なこと思い出させました」
「前も言ったろ、こっちが説明したくてしてるんだ気にするな」
「すいません」
「謝らなくてもいいんだけどな。まあ、謝ったほうが、気楽ならそれでいいよ」
「ごめんなさい」
「じゃあ、続きを話すな」
「はい」
「続きといっても、そう話すことはないんだけど、この事件を洗っても、認識の王は見つからなかった。オレたちの班は非常に多くの予算を使ったことから、上の人の一部に嫌われて解体、オレはクビ。だから、個人で探偵になって捜査している。異物を見つけたら、人に迷惑かけないように回収してる」
「異物を見分ける方法があるんですか?」
「そうだな、基本的にない。だから何か不可解な事件が起きた後に原因を探って、それが異物だったら回収するって感じなんだ。後手後手に回った解決さ」
「そうなんですね」
「もちろん、オレたちが、それを見たって影響を受ける」
「はい」
「強く自分を持てるか?」
自分に言うように、そう言った。
オレは、オレさ。
人狼でも、人間でもないのかもしれない。
それでもオレは、オレだ。
ノアは、少し、俯いた後、こちらに向き直って口を開いた。
「はい」
「なら良かった」
「これから、オレが保管していた異物たちを見に行く。事務所の地下に保管室があるが、見て即座に影響を及ぼす物には、布がかけてある。それでも強く自分を認識しろよ」
二人、事務所に向けて、歩を進めた。
8
事務所に帰ると、テオがこちらに走ってきた。
「おかえり!」
「ただいま」
ノアがテオの頭を撫でる。
「一人でもちゃんとお利口できたよ」
テオに何もなかったことに安心して、事務所に入る。
と、紙が落ちる音がした。
下を見れば紙が一枚あった。
そこには簡素にこう書いてあった。
『警告したはずだぞ、これが最後だ。大人しく探偵業に勤しめ』
冷や汗が背中を伝う。
オレは、一人じゃない。
テオとノアがいる。
かつて仲間と違って、彼らは強くはない。
オレが守らなければいけない。
ノアは、まだ覚悟があるかもしれない。
だが、テオには。
オレは、その紙を握りつぶして、それからため息をついた。
どうして、活動する方のオレやノアでなくてテオに危険が及ぶ可能性を考慮できなかったのだろうかと、自分の思慮が浅かったことに毒づいた。
「ノア、やっぱさっきの無し」
「え?」
「とりあえず、今日は探偵の業務を済ませよう」
事務所の扉にかかった、クローズの札をひっくり返して、オープンにした。
「お前ら裏に行ってな、呼んだらお茶出しとかしてもらうから」
その日は、浮気調査の結果を報告する日で、その元凶をオレが使ってるとなると、マッチポンプを疑われかねない。
だから、彼らには裏に行ってもらった。
資料を準備しながら、これからどうしたものかと、考える。
準備はすぐに終わってしまい、約束の時間まで、しばらくの間、暇になる。
この隙に、ノアに地下室を見せ、異物とはどんなものなのかを知ってもらうつもりだったのだが。
椅子に深く腰掛けながら、窓の外を見た。
ガスマスクをつけ、コートを羽織った人が、街を歩く。
コート?
何かが引っかかって、ふと思い出した。
テオが最初に羽織っていたあのコート、どうしてオレには見覚えがあった?
席を立ち、コートを見に行こうと思ったところで、事務所の扉がノックされた。
なんとタイミングの悪いことか、と一人ため息をつきながら扉の方へ向かった。
9
ノアの存在については上手くぼかしながら、浮気調査の報告を済ませ、とりあえず浮気していたこと、少年を買っていたことを伝えて、証明写真は取れなかったとごまかした。
依頼主が帰ったところで、店じまいにした。
昼にもお客さんが来なかったし、夕方からは、もっと客足は遠のく。
だから閉めたのだ。
「テオ、ノア、ちょっとこっち来てくれるか?」
二人は、何か本を一冊持ってこちらに来た。
「あの、ごめんなさい。テオが言うこと聞かなくて」
「この絵本好き!ジャックさん呼んだことある?」
それは異物の恐れがあるとして回収された一冊の本だった。
結局それらしい事件や異常は起きなかったから、一冊だけ、ここに置いてあったものだ。
「あぁ、呼んだことあるぞ」
名前は、英雄の子、タイトルの話を含めていくつかの短編が含まれた短編集だ。
「いっぱい話があってね、でも僕はこれが好き」
テオはそう言うと、お気に入りのページを開いて指差す。
狼と少年が心を通わせて、一緒に村を助ける話だ。
「あのね、狼さんとね」
「ごめんなさい、テオがはしゃいじゃって」
「いや、別に構わないよ」
「それでね、村がね」
テオは、たどたどしくもどんな話だったのか、どう感動したのかを楽しそうに話す。
そんな話だったかと、懐かしく思い出しながら、それを聞いた。
ノアは、こちらに申し訳なさそうな顔をしている。
「ジャックさん、それで用事っていうのは」
「あぁ、そうだった」
テオの話が一息ついたところで、ノアが切り出した。
そこでようやく、コートのことを思い出した。
「テオ、君がここに来た時に来ていたコートはあるかい?」
「あ、それなら」
ノアが、後ろに引っ込むと、コートを引っ張り出してきた。
「これです」
ボロボロの紺色のコート。
ポケットがいくつかあるが、ほとんど穴が空いていたりして使えない。
コートを眺めながら、どこでこれを見たのか、ゆっくり思い出す。
これは。
「思い出した。そうだ、これは記憶喪失になった少年が来ていた。そう、デイビット」
つい声が漏れてしまう。
もう失ってしまったと思っていた、手がかりが、こんなに近くにあったなんて。
穴の空いていないポケットを探して、それを探ると、一冊の手帳を見つけた。
「これは、ノアとテオの手帳か?」
「いえ、違います。これはただ、掛け布団がわりに使っていただけで、そんなものが入ってるなんて、気づいていなかったです」
となると、デイビットの物なのだろう。
「これ、どこで拾ったんだ」
「病院の近くです」
「なるほど」
病院から出る時に捨てたというわけか。
この手帳は確実に何か手がかりになるはずだ。
それでもどういうわけか、呼んではいけないと、強く本能が叫んでいた。
表紙をめくる。
すると、ヒラリと一枚の紙が落ちた。
それを拾ってみると、どうやらそれには男の子が描かれていた。
オレの記憶が間違っていなければ、それはデイビット本人だった。
「なるほどね」
手帳をめくると、日記のようなものがつらつらと書かれていた。
パラパラと流し目にページをめくっていくと、あるところで手が止まった。
そこには日記も書かれていなくて、真っ白な紙があるだけ。
だが、なぜかこの先を開いてはいけないような気がするのだ。
ここまで手がかりがあって、どうしてこれを開かない。
オレは手帳を閉じて、目を瞑った。
とりあえず、手前の日記の部分だけ読むか、そう決めて目を開けると、こちらをまじまじと見つめる二人がいた。
「あ、すまない。自分の世界に入ってしまった」
「いえ、大丈夫です」
「とりあえず晩飯にでもしようか」
ご飯の準備をして、夜にこれを読もう。
ノアやテオについてどうするかは、この手がかりを見てから考えることにしよう。
10
夜も更けて、ノアとテオが寝静まったところで、改めて、その手帳を開いた。
強い意志で持ってして、その手帳を開く。
これが最後の手がかりだ。
まず、日記の部分に目を通した。
どうやらこれは、サム・オーウェンの息子が書いた日記らしく、身寄りのなくなった彼が救貧院で生活していた様子が描かれている。
メアリーと呼ばれる女性と出会ってから、日記の内容は明るくなっている。
彼女は絵が得意とされているから、多分挟まっていた絵は彼女が書いたのだろう。
最後の日付は、事件の1日前になっている。
つまり、この時に何かあったはずだ。
ただ、デイビットという少年が事件に大きく関わっていることはわかった。
彼は例の教会の灰降ろしもしていたから、彼に話をもう一度聞ければ、彼の記憶喪失は治っているだろうか?
そもそも、今の彼とどうやって、コンタクトを取ればいいか。
地道に聞き込みでもするか。
さて、残りは読むなと感じさせる文章だけだ。
ページをめくると、赤い血で書かれた文字で大きくページを使って一言書かれていた。
『気をつけろ』
一体何に対してだ?
続きをめくる。
『これは、私の罪。これは、小さな認識の王。私が生み出してしまった、怪物たちへの贖罪の意味を込めて、私が殺してしまった人々への贖罪の意味を込めて』
何が言いたいのか、掴めないが、文体、一人称から、これがデイビットによって書かれたものではないことだけは推察できた。
吸い込まれるように、手帳に意識が集中する。
『王の物語を知ったものは、皆あの残虐非道な王になる。王へとなるのだ。自己認識が王に変わることが原因だろう。それは、遺跡発掘の際に発見されたこの王へ言及している本からわかったことだ。あの忌々しい王は、そうして不老不死を得たのだ』
ここまでは、昔の調査時点でわかっていたことだ。
『その王を封じるものがいた。王の存在を冬の空に浮かぶ小さな星程度の認識に変え、本自体を地下深くに封印したものだ』
アルデバラン星のことか、この星との因果関係を見抜いた仲間はもう死んでしまっていない。
『それを私が掘り起こした。私がそれを開き、私が王となって、王は再び、世に放たれたのだ』
荒れた字で続く。
『王は、私の部下たちを、化け物に変えた。彼らは皆、自分を化け物だと認識させられたのだ。王、奴は、いわば認識災害、神にも等しい力を持っている』
『私は劇場で目が覚めた。目の前には大量の死体、そして自分のしでかした罪だけがあった』
『王に体を奪われている間、私には意識があった。かろうじて、それがどこかにあったのだ。私の体が取り戻せたのは、王が私に体を返す気になったから、他に大量の王が生まれたから。劇場で公演されたのは、そう、王の物語。演者、観客その全ての自己認識が王になったからだ。私は、劇のために用意された呼びの火薬を集め、今からこれに火を放つ』
それから、どうなった。
次のページをめくると、一面赤で染められたページがあった。
その次のページを開こうとする。
指が固まったように動かない。
気をつけろ、やめろ、頭の中に男の声が響く。
オレは、手帳を閉じた。
この先を読む度胸がないからだ。
11
気持ちの悪い夢を見た。
オレが、人々を殺して周り、月に向かって吠える夢だ。
まるで、狼男の伝承のようだ。
寝汗でびっしょりと濡れて、肌にくっついたシャツを剥がすように、脱いだ。
オレは、狼男か?
寝室の鏡に映った自分は、半分獣で、それはまるで、右だけ狼男のようだった。
左手で、頭をかいた。
長い灰色の毛が手についた。
それが、まるで狼の毛のようで。
クソ、朝から気分が悪い。
服を着替え、事務所に続く扉を開ける。
「おはようございます」
どうやら、オレが最後に目覚めたようだ。
テオの声が、聞こえた。
「おう、おはよう」
挨拶もそこそこに、朝ごはんを作ろうと台所へ向かうと、
どうやら、先にノアが準備していたようだ。
「先に準備しておきました」
「お、ありがとう」
ノアの用意してくれた朝ごはんを食べながら、昨日のうちに決めたことを話す。
「お前らに話しておくことがある」
「なんですか?」
「別に大した話じゃない。これからオレは少しばかりここを空ける。その間、お前らにはこの家のことを任せておきたい」
「えぇ。それはいいですけど」
「よかった」
二人の頭を撫でた後、ノアの頭をポンと叩いた。
「ノア、少し来てくれるか?」
「えぇ」
ノアにこっそりと、小さな紙を手渡した。
「じゃあ、オレは、少し家を空ける」
それだけ伝えて、家を出た。
ノアに託した手紙、それさえあれば、彼らに危機が及ぶことは、ないだろう。
コートと手帳を、持って、デイビットの居所を探し始めた。
彼の似顔絵が、捜査を助けてくれた。
行きつけだったパン屋の老婆が、知っていると。
ただ、もう彼女は随分と気がおかしくなってしまったからそれを鵜呑みにする訳にはいけないかも知れない。
ただ、それを知っていて、教会で働いていると言った。
教会、どうしたって、あそこが関係してくるらしい。
12
教会に着くと、一人の女性が、祈っていた。
聖堂の真ん中、何かに祈るように。
冬にこんなところで、寒いだろうに。
「ちょっと」
「はい、なんでしょう」
「この絵に描かれた男、知っていないか?」
「これは、デイビットさん。この人がどうかしたんですか?」
「知っているんですか」
オレも、彼女も、ガスマスクをつけたままだった。
「えぇ、知っています」
「今、会いに行くことって、可能でしょうか」
「えぇ、ただ」
「ただ?」
「あの人、記憶喪失だから」
「構いません」
「あなたは、主人と、どんな関係なんです?」
主人?デイビットは、結婚しているのか。
「というと、あなたは、メアリーさん?」
「メアリー?それは誰ですか」
「いや、失礼、忘れてください」
メアリーでない、この10年の中で別の女性と出会い、結ばれたということか。
「オレは、デイビットさんとの古い友人でして」
「古い友人、ね」
「えぇ、だから、救貧院にいた時代の」
「あぁ、そうでしたか」
「だから、会わせていただきたい」
一歩、彼女との間合いを詰めて言う。
多少威圧的に見えてもいい。
そうして彼女にオレが引かないことを理解させるのだ。
彼女は、どうしてか、オレをデイビットと会わせたくないように見える。
「ごめんなさい、今、主人は大事な時期なの。だから、古い友人であるあなたには会わせたくない。主人の創作の邪魔をしたくないの」
創作、か。
つまり、何かしらの作品の作り手である訳だ。
「失礼、今、デイビットさんは、なんの仕事をなさっているのでしょうか」
「絵本作家です」
「へぇ」
「だから、創作の邪魔になってほしくないんです」
「そうですか」
絵本作家ね。
絵本作家で、デイビットと言えば。
「あの、英雄の子を、書いた」
「はい」
「なるほど」
「じゃあ、もういいですか。私、帰りたいのですけど」
「いや、ちょっと待ってください。いつなら、会いに行ってもいいでしょうか」
「分かりません」
彼女は、オレにそう答えると、悠然とここを去っていった。
「やむおえないな」
オレは、彼女をつける事にした。
13
たどり着いた家の場所を覚えて、とりあえず、今日の調査はここまでとした。
家に帰る途中、何度か、殺気を感じた。
首筋が、チリチリとする嫌な感じだ。
人通りの多い所に紛れる事で、それは消えたが、確実につけられている。
「不味いな」
彼らが、何をしようとしているのか、オレを始末して、何をしようとしているのか。
オレにはさっぱりわからない。
だから、デイビットが、これからどうなるかも分からない。
彼にも危険が及ぶかも知れない。
オレが、彼を追っていることが、彼らに伝われば。
全く、厄介だ。
一人じゃ、如何しようも無い。
だが、オレは一人じゃなくなった。
ノアには、少しだけ悪いことをした。
ただ、すべて解決すれば、彼も元に戻るはず、許してくれる。
そう信じる事にした。
オレは、ただ、目の前にある、認識の王への手がかりを追うだけだ。
時間が経ち過ぎている。
14
結論から言おう、全て解決して、ハッピーエンドに終わった。
いや、正確には一人男が亡くなっているのだから、違うのだが。
まあ、それでもいいだろう。
魚男達は、存外呆気ないもので、簡単にその素性が割り出せた。
大体、あの教会の地下に潜んでいるのが良くないんだよ。
あんなに事件の要素が詰まった場所にいるから、俺に捜査されるんだ。
しかも、俺をあんな風に挑発して。
まあ、いい。
ノアに渡した紙には、こう書かれていた。
危険が迫ったら、地下室に逃げ込め、そこにある、連作の絵画を、完成された順番と逆に見せるよう誘導しろと。
そう見せられるように、地下室のレイアウトを変えておいたから、逃げているうちにそれを見る。
それは、人が魚人になっていく絵画の連作。
しかし、これを反対から見れば、と言うことだ。
まあ、人にしたところで棄権は危険だろうから、彼らが動揺している隙をついて、隠し扉から逃げるように指示してあったが、どうやらノアはそれらをうまくやってくれたようだ。
その間に、魚人達のアジトを突き止め、元警官のよしみから突入させた。
全員逮捕できたよ。
彼らはいわゆる選民思想に染まった革命家気取りで、捕まっても尚、反抗を続けたそうだ。
裏には、俺一人になった異物対策班をなかった事にした貴族もいた。
これで、俺も晴れて刑事に復帰と行きたかったところだが、それはうまくいかなくて、結局探偵を続けている。
デイビットの記憶は相変わらず戻らなくて、捜査は進まない。
あの教会で、あの日、何があったのか。
認識の王は、どこへ行ってしまったのか。
俺は、それを突き止めるべく、デイビットの記憶が戻るのを待っている。
15
その日、あのコートを着たデイビットに出会った。
「あんた。ここの店は、もう去年になくなっちまったよ」
パン屋の前で、立ち尽くす彼に、そう声をかけた。
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