第3話 10年
1
何か、悪い夢を見ていたような気がする。
寝汗でピタッとくっついた寝間着が気持ち悪い。
体を起こして伸びをすると、締め付けられるような痛みが頭を襲った。
あまり心地の良い目覚めではない。
ベッドから降りて、カーテンを開けると、窓から昼か夜かも分かんない暗雲の立ち込める空が見え、どうにも気分が悪くなった。
壁に立てかけてある時計を見れば、時刻は午前10時を指していた。
もうそんな時間になっていたのか。
今日は朝から画材の買い出しに行く予定だったのだが。
今更、起きられなかったことを後悔したって仕方がない。
今から買い出しに出ると、帰ってくる頃には、正午を回ってしまうが、まあしょうがないだろう。
顔を洗い、外に出るため軽く身だしなみを整える。
鏡に映るやつれた自分を見て、情けなくなった。
これではまるで、幽鬼のようだ。
ため息をついて、自由に伸びた髭をガスマスクに引っかからない程度の長さに剃る。
身だしなみと言っても、ガスマスクとコートのおかげで、人に見られる部分は少ない。
よって、必要最低限自分の過ごしやすいように整えれば、それ以上やることはない。
だから、腕に生えた毛も剃っていない。
シャツを変えて、トレンチコートを羽織る。
ずっと使っているものだから、所々、穴が開きかけている。
そろそろ買い替えるべきなのかもしれない。
ガスマスクを着ける。
鏡を見れば、何処にでもいる得体の知れない人間だ。
技術の発展に、こうした影響は付き物なのかもしれないが、もう少しばかり、慎ましく発展をすることは出来なかったものなのか、と、技術者でもないが思ってしまう。
外に出れば、灰とガスに蝕まれるが、ずっと引きこもっていれば、体がなまってしまうし灰が屋根に積もって家が潰れてしまう。
まぁ、屋根に積もった灰は大抵救貧院の子供が、片付けてくれるから、そんなに心配することはないのだが。
外に出てやらなければならないこと、例えば灰を下ろすだとか、家の周りの灰を積もらないように集めて捨てるだとかは、救貧院の子供がやってくれる。
灰には利用価値があるのだとかで買い取ってくれる施設がある。
救貧院はその施設と提携しているのだ。
画材の調達や、食料品の買い出しは、自分の目で見てやらなければならない。
物乞いや救貧院の子供達には任せられない。
金が絡むことで、彼らを信用することは出来ないし、彼らの大半は読み書きのできない人間なのだから。
外に出ると、ガスマスクも着けていない少年が、真っ黒な歯をこちらに向けて話しかけてきた。
「お兄さん、何か仕事ないかな、なんでもやるよ」
灰にやられたのか、潰れた声で少年は私に声をかけたのだ。
私に向けて差し伸べられたその腕は、少しの衝撃で折れてしまいそうなほど細い。
目は虚ろで、生気に欠けていた。
ここまで酷い物乞いや救貧院の子供はあまりいない。
あまりの醜さに、少しだけ同情した。
けれど、私に彼を助けてやることは出来ない。
もし、彼を助けたら、彼は仲間に私の家を指差して言うだろう。
あの家は金になる、と。
そうなってしまっては、子供が家の周りに群がっておちおち絵を描くことすらできなくなってしまうだろう。
「仕事、ちょうだいよ。なん、でもやるから」
だが、この子供を放って生活できるほど、私は冷酷ではなかった。
「分かった、簡単な仕事をやる。ただし、私は、静かに暮らしたい。だから、ベルを鳴らしたり仕事をくれと喚いたりそういうことはうちでしないでくれ。一度仕事をやったからってお前を雇うわけではないのだから」
そうして、彼に小銭を何枚か手渡した。
「これで、パンを一つ買ってきてくれ、余った小銭はくれてやるから。買ってきたパンはそこのポストにでも入れといてくれ」
パンは届かないだろう。
彼が小銭を持って逃げることは明白だからだ。
数日分の食事が取れるだけの小銭を握らせたから少しは彼もマシな状態になるだろう。
「分かったよ、兄さん」
小銭を握った彼は、小走りで私の前を去った。
彼が路地を曲がり見えなくなったところで、私は画材屋に向けて足を進めた。
街を歩けば、嫌でも物乞いが目に入る。
物乞いの中には、さっきの少年のようにガスマスクすら、持っていない奴もいる。
そんなやつらは、大抵3ヶ月もしないうちに肺炎に蝕まれて死に至る。
一人につき、一つ国から配布されているはずだが、戸籍がなかったり、お金欲しさに売ってしまったり、様々な理由でガスマスクを失ってしまう人がいるのだ。
そのような人は、ガスマスクもないから、ろくに仕事をする事ができず、物乞いになるしかない。
十中八九、あと一年もない命。
けれども彼らは懸命に生きようともがくのだ。
私はそれらの物乞いを見ないように街を歩く。
まともに見てしまったら、多分手を差し伸べてしまう。
皆を助けるだけの財力も、余裕もないから、私は見ないフリをするのだ。
早足で歩いて、画材屋についた。
テレピン油の匂いが、ガスマスク越しにも鼻を突く。
欲しかった赤の画材を何種類か持って、店の奥のカウンターにいる恰幅のいい男の店主に持っていった。
店主は、椅子に座って、何か考え事でもしているかのような険しい顔で、新聞紙を読んでいた。
「すいません、これを」
「お、エドワードさん家の兄ちゃんか」
「その呼び方はやめてください」
「わかったよ。勘当されてエドワードじゃなくなったんだったな」
「その話を蒸し返すのもやめてください」
声を荒げて言う。
すると、店主は申し訳なさそうな顔をする。
「悪かったよ兄ちゃん」
「いえ、私も声を荒げてしまって申し訳ない」
店主は、申し訳なさそうに画材を受け取ると、それをしみじみと眺めた。
「兄ちゃんもう一度、絵を描くのかい?」
「えぇ、まあ」
嘘だ。
私は、今絵を描く事ができない。
正確には、満足のいく絵を描く事ができないのだ。
そうこうして、何一つ作品を完成させられなくなってしまってから、もう1年以上経っている。
途中から、筆を握ることすらできなくなってしまっていた。
「しばらく来ないから、もう絵を描くのを辞めたのかと思っていたよ」
「辞めようかとも思ったのですが、私には絵を描くことしか残っていませんから」
「そうか」
店主は代金を受け取ると、紙袋に入れた画材を私に差し出した。
「これで、いい絵を描いてくれよ」
「まぁ、その。はい」
「なんだよその覇気のない返事は。もっとシャキッとしな」
「はい」
「それでいいんだ」
これだから、ここの店主とはやりづらいのだ。
かと言って、この街の画材屋はこの店ぐらいしか知らないから、私はここに来るほかないのだが。
「いつか、おっちゃんにも兄ちゃんの絵を見してくれよ」
「はい、いつの日か」
そんな日は永遠にこないだろうが。
「それでは、お暇させていただきます」
「おう、また来てくれよな」
それだけ言うと、店主はまた小難しそうな顔をして新聞に目を落とした。
私には、この人の空気感がわからない。
ガスマスクをつけ、店を出る。
久々に、見知った人間との会話をして、疲れてしまったせいか、それとも、荷物が増えてしまったせいか。
先ほどよりも、足取りが重く、視線は下になってしまう。
ドンっと、言う衝撃と同時に、自分が人にぶつかってしまったことを自覚する。
「ごめんなさい」
私がそう言うと、舌打ちだけ残して、相手は歩いていった。
情けなくなってため息が漏れる。
人にぶつからないようにと思って顔を上げると、遠くで警察の制服を着たガスマスクが、事情聴取を行なっているのが見えた。
面倒ごとに巻き込まれるのは、ごめんだ。
回り道にはなるが、道を変えて帰ろう。
こっちの道には、確か、古教会があったはずだ。
古教会こと、聖ロバーツ教会は、ここが元々異教の土地であった時に建てられていた宗教施設を改修して教会にしたと言われている。
だから、この街の中では異質な雰囲気を醸し出しているはずなのだが。
目の前には、瓦礫があるだけで、教会は無くなっていた。
この街の中では、好きな雰囲気の建物だったのに。
ステンドグラスの破片が、キラキラと光って、なんだか嫌な色の輝きを放っていた。
気味が悪い場所だ。
私は、一刻も早く、この場所から去りたいと思ったので、早足になって、ここを抜けようとした。
その時、呻くような声が聞こえた。
よくよく耳をすませると、それはどうやら、瓦礫の中から聞こえて来たようだった。
「ゲホッ、ゲホッ。誰か、誰か助けて」
聞こえないふりをすることは簡単だろう。
だが、聞こえないふりをした男としてこれから生きていく事を私は許せるだろうか。
足が止まった。
「どこだ」
声をかける。
「ここよ」
声が聞こえる方へ進むと、瓦礫の山に埋もれる様にして少女が倒れていた。
右足を怪我したのか、右足を抑える様にして倒れ込んでいた。
「良かった。助かったのね」
それだけ言うと、彼女は瞳を閉じた。
その絹糸の様に美しく細い声をしていた。
「大丈夫か?」
駆け寄って、脈を計る。
どうやら生きてはいるようだ。
ガスマスクは壊れてしまったようで、近くに割れたガスマスクがある。
少女の顔は、美の象徴そのものだった。
中性的で整った顔立ちに、ブロンドの長い髪。
綺麗に整えたら、そこらの舞台女優なんかよりも美しくなるだろう。
「とりあえず病院に連れて行くからな」
彼女を背負って病院へ向かった。
私は少女を抱えて、病院に駆け込んだ。
治療されている彼女を見ながら、私は、これからどうしたものかと思案する。
彼女の親族がいれば、その人らに彼女を引き渡すだけだが、親族を探すのも大変面倒臭い。
兎にも角にも、彼女が目を覚まさない限りは、どうしようもないだろう。
治療がひと段落して、医者が去った病室でベッドの横に座り窓の外を眺めていると、どうやら彼女が目を覚ました。
「ここは?」
目をこすり、体を起こす。
「病院だよ」
「あなたは?」
「私はウィリアム、君は?」
「私はメアリー。あなたが助けてくれたの?」
「まあ、そうだね」
「そっか、ありがと」
「あ、あぁ」
人に褒められるなんて、何年振りのことだろうか。
単純に人と関わることが少なかったこともあるが、元々、私が褒められるような人間ではないから、本当に褒められる事には慣れていないのだ。
「メアリー、君は一体どうしてその、あそこに倒れていたのかい?」
「それは、私もよくわからない」
予想外の返答に面食らってしまう。
「それは一体どういう事なんだい?」
「昨日の記憶がうまく思い出せないの。昨日何かがあったはずなんだけど」
昨日か。
昨日は、珍しく晴れた以外は。
いや、夜に轟音が鳴ったような気がする。
「昨日、ね」
「そ、昨日」
「じゃあ、親のことは思い出せる?」
「親はもうここには居ないの」
捨て子か、親がいれば、そこに返せばよかっただけなのに。
「孤児院か、何かには入っているかい?」
「えぇ、そのはず」
「どうして、そんな確証のない言い方をするのだ」
「うまく思い出せないの。何か、何か大事なものがそこにあったような気がするのだけれど」
「それはつまり、どの孤児院にいたかも思い出せないということかな」
「そうね」
困ったな。
彼女の引き取り手がない。
病院に、いつまでも入れておくこともできないだろう。
いつかは、追い出される。
その時、引き取り手として真っ先に名前が挙がるのが、私になるわけだろう。
なぜなら、この病院に彼女を運んだのが私で、彼女には引き取り手がいないのだから。
「これからは、どうするつもりなんだい?」
私が尋ねると、メアリーは、少し考え込むような仕草を見せる。
「何か、誰かとどこかへいく約束があったと思うんだけど。思い出せないから」
右耳にかかったブロンドの髪をかきあげるようにするメアリーを私はおもわずじっと見つめてしまった。
窓から差し込む、ガス灯の光と、メアリーのその仕草が、あまりに画になっていたからだ。
「どうしたの?」
メアリーが私に話しかける声で、やっと気を取り戻した。
「あ、あぁ。ごめん。少しぼーっとしていた」
「私の話、聞いてた?」
「いや、その。もう一度頼めるかな」
「行くあてがないから、これからはどうしようもないの」
どうせ行くあてもなくて、引き取り手もいないのなら。
「もしよければ、君がその大切な何かを思い出せるまで、私の家に来てくれないか?」
「いいの?」
「その代わりに、絵のモデルになってもらいたい」
さっきの光景が、目に焼き付いて離れない。
アレを、あの光景を絵にできたら、
「絵のモデル?」
「そうだね」
「私みたいな魚でもいいのかしら」
「構わないよ。私には、君が魚には見えないから」
「でも、魚よ?」
「構わない」
「ふーん、あなた、変わった人なのね」
「よく言われる」
「そう。わかったわ、ガスマスクも無くなってしまったことだし、思い出すまで、絵が完成するまで、お邪魔させてもらおうかしら」
メアリーがそう言って、私に微笑みかけてくれる。
私は、おもわず視線をそらして、窓の外を見る。
ガス灯の鈍い光が、どうしてか、いつもより綺麗に見えた。
入院の必要がないことがわかると、私はメアリーを連れて、家に帰った。
家を出たのが、午前中だったのに、気がつけば、もう時刻は夜の8時を指していた。
郵便が何か届いていないか、確認するためにポストを覗くと、パンが入っていた。
律儀な物乞いもいたものだ。
そう思いながら、少し灰のかぶったパンを丁寧に取り出した。
「ポストにパンが入っているなんて、変わってるのね」
ガスマスクがわりに、私のハンカチを口に当てたまま、彼女が喋る。
「ハンカチで口抑えながらもごもご喋る君の方が変わっているさ」
「しょうがないじゃない、ガスマスクがないのだもの」
「それはそうだが」
「そのパン、灰が少し積もっているけど、食べるの?」
「この程度なら、灰を払って、少しばかり洗ってやれば、食べられるさ」
「ふーん」
「それにこれは、私が頼んだものだから」
「そっか」
軒下で灰を落として、家の中に彼女を招き入れた。
私のような独り身では、持て余してしまうほど広いこの一軒家を、使用人も雇わないで暮らしていたわけだから、家の中は散らかっている。
「散らかっていてごめん」
私は、彼女を机の椅子に座らせて、台所へ向かった。
「晩御飯を作ろうと思うが、ベーコンとチーズは苦手か?」
「いいじゃない。美味しそうな組み合わせね」
「そうか、なら良かった」
ベーコンとチーズをパンに挟んで焼いた、簡単な料理を二人分作って机に置いた。
「はい、ベーコンサンド」
メアリーはそれを見て、少し難しそうな顔をする。
「どうした?」
「知ってる気がする」
「これか?」
「そう。どこかで似たようなもの見た気がするんだよね」
「まあ、こんなぐらいのものだったら、どっかのパン屋にでもありそうだからね」
「そっか」
「じゃあ、食べようか」
メアリーは、それを一口頬張る。
「おいしい。これ、おいしいよ」
そう言って、目を丸くする彼女は、どこからどう見ても、年相応の少女だ。
だからだろうか。
さっきの私は、魚だからという発言が、引っかかる。
ただの綺麗な絵になる少女。
いや、絵になるような素養は、自身を魚と呼ぶような暗い側面の中にあるのかもしれない。
「食べないの?」
「いや、食べる」
「そっか」
飯を食べながら、これから、どうしようか、どう彼女を絵に落としこもうかと意識を思考に落とした。
気がつくと、メアリーが心配そうに私を覗き込んでいた。
「おーい」
「あぁ、すまない」
気を取り戻して、時計を見れば、すっかりもう夜も更けており、絵を描こうにも頭がまともに動かなくなってきていた。
「少し考え事をしていて」
「そう」
「君をどうやって絵にしようかって」
「そうね、私は、大きく描いて欲しいな」
「それは、どうして」
「どうせ絵になるのなら、私みたいな魚も居たんだって。証明になるように」
「証明?」
「そう、証明」
「証明、ね」
創作をする根幹に、そういった証明や、擬似的な永遠を求める人は一定数いる。
かく言う私も、そうだ。
あの忌々しい家の中で、普通でなくても、どれだけ認められなくても。
どれだけ罵られても。
どれだけ否定されても。
絵を描いている間だけは、自分の存在を強く感じることができた。
ここにいるという、私の声が、そのまま絵になっているようで。
そこから、私は、ずっと絵を描き続けている。
家を勘当された今もなお。
「わかったよ、君を大きく綺麗に書こう」
「ありがと」
「ただ、今日はもう遅い。絵を描くのは、明日からにしよう」
「わかったわ。ただ、私は、その。どこで眠ればいいのかしら」
ほとんど衝動のままに彼女を家に連れ込んできたせいで、そんなことを考えていなかった。
自分の計画性の無さに驚かされるばかりだ。
一応、この家を建てる時に、使用人を雇うつもりで作った部屋はあるが。
あそこは、メイの部屋だ。
だが、他に泊める場所はない。
いや、いつまでも過去に縛られているから。
「案内しよう」
過去を振り返るのはやめて、彼女を使用人の部屋に案内した。
使用人の部屋だけは、他の散らかった様子とは違って、綺麗に整えられていた。
机に積もった埃をそっと撫でて、指についた埃を見た。
「すまない、あんまり掃除が行き届いてなくて」
「別に構わないわ。立ったまま寝なくてもいいのなら」
「広い家だから、私一人で住んでいると、どうしても使わない部屋が出てくるんだよ」
「そう。使用人でも雇えばいいのに」
「それはそうなんだがね」
「雇わない理由でもあるの?」
「別にないんだけどね。家のことは一通り自分でも出来るからさ」
「ふーん。そっか」
「この部屋にあるものは、使ってもらって構わない。多分君でも着られるぐらいの大きさの服が、そこのクローゼットに入っているはずだから」
「ありがと」
ベッドの端に座って、メアリーが笑顔で私を見る。
それが、どうしてもメイと重なって見えてしまう。
「あのさ」
「何?」
「色々と揃っているけど、本当に使用人雇ってなかったの?」
「まあね」
「言いたくない事だったかしら」
「そう、だな」
「じゃあ、もう聞かないわ」
メアリーは、少しだけ申し訳なさそうな顔をして俯いた。
私は、メアリーを置いて、部屋を出た。
一人になって、リビングの机に腰を落とすと、どっと疲れが体を襲ってきた。
久々に外に出て、久々に人と話した。
よく頑張ったじゃないか、私にしては。
目頭をぐっと指で押さえ、天井を見上げる。
疲れたから、嫌な事ばかり思い出してしまうのだ。
メアリーと、出会えた。
新しい絵が描けそうな予感がする。
良かったことだけ頭に浮かべて、しばらくぼーっと天井のシミを見ていた。
“私は、元々、貴族の生まれだった。
貴族とはいっても、いわゆる軍人貴族で、成り上がりと呼ばれる貴族だが。
だから、父と母は、周りに舐められないように、貴族としてふさわしく振舞うことを考えて、長男である私を厳しく育てた。
ところが、私には、勉学の才能もなければ、身体能力が高いわけでもない。
社交的でもなく、内向的で。
私は、いわゆる貴族社会に、てんで馴染めない人間として生まれてしまったのだ。
ところで、私には弟がいる。
それが、よくできた弟なのだ。
要領が良いのか、勉学も、運動も。
私が苦労して乗り越えてきた事柄を、弟は、随分と簡単そうにヒョイヒョイとやってのけてしまうのだ。
私が、弟より優れている点など、有りはしなかった。
いつしか、私は、なぜ長男として生まれてしまったのだろうか。
私じゃなくて、弟が長男であったら。
そう考えるようになっていた。“
気がつくと、眠っていたようで、私は、メアリーの「痛っ」という声で、目が覚めた。
「おはよう」
伸びをしながら、そう声をかけると、彼女は、私の方を見た。
「おはよう」
彼女は、どうやら、使用人の服を着て、台所にいるようだ。
「何をしているの?」
「朝ごはんを作ってみようと思ったのだけど」
焦げたパンを私に見せる。
「慣れないことはしない方がいいわね」
「そうかもね」
少しだけショボくれたような顔をして、パンを皿の上に乗せた。
「私が焦がしちゃったから食べるわ」
「二人で食べよう」
「でも」
「別にもっと焦げているのも食べたことあるから」
「これより?」
「そう」
「そこまでいくと、もう炭みたいな物じゃないかしら」
「そうだね」
二人で焦げたパンを食べる。
硬く、苦いパンを飲み込んで、紅茶を淹れ、一息つくと、懐かしい気持ちになった。
“新しい使用人が入ってきた。
メイという名前の人だ。
別段、私の生活が変わることはない。
弟との差が、徐々に明らかになってきて、父は、私への教育を諦め、弟にばかり構うようになった。
だけど、一度だけ、弟より褒められたことがあった。
絵を描いた時だ。
絵画の先生に君には、才能があると褒められた。
私は、褒められることに慣れていなかったから、すっかり嬉しくなって。
父に、私の絵を見せた。
父は、絵だけかけても意味がないと私を一蹴した。
それから、私はすっかり引きこもるようになった。
部屋の中でする事もないから、唯一褒められた絵を描くことだけずっとするようになって。
どうやら、メイは、引きこもりの私の世話をするために雇われたようで、やけに私の部屋に尋ねてきた。
「どうして、あなたはずっと私の部屋にいるんだ」
「あなたの絵が好きなんです。もう少しだけ見ていていたくて」
彼女は、私を認めてくれた。
私の絵を褒めてくれた。
この家の中で、初めて私の味方ができた。
そう思った。“
朝のブレイクタイムもそこそこに、そろそろメアリーを描こうと思った。
「メアリー、窓際のその席に座ってくれないか?」
「わかったわ」
彼女が私の指定した席に座ったのを見届けると、私は、自分の部屋から、イーゼルを持ち出し、彼女が横から見える位置にそれを置いた。
カンバスをイーゼルに立て掛け、木炭を手に取った。
「今から、デッサン描こうと思うから、こう、ポーズ取ってくれるか?」
右の耳にかかった髪をかきあげるような仕草をして見せる。
「いいけれど、なんだか恥ずかしいわね」
彼女は、窓の縁に肘を置いて、右の髪をかきあげた。
描けそうだ。
それから、私は、木炭を動かして、彼女を描こうとした。
うまく輪郭がつかめない。
指で、距離を測って、彼女をじっと見る。
違う。
彼女は、メイじゃない。
彼女は、メアリーだ。
どうしても、姿が重なってしまう。
仕草、声、姿。
どれを取っても、どうしても彼女がメイに見えてしまう。
震える腕をなんとか抑えて、線を引く。
彼女の輪郭を掴もうとして。
描いては、消して。描いては、消して。
繰り返しているうちに、気付けば、もう昼を過ぎ、夕方になっていた。
「そろそろ、お腹が空いてしまうのだけれど」
メアリーの訴えで、私は気を取り戻して、夕飯の準備を始めた。
「今日は、あんまり進まなかったわね」
「すまない」
「そんなに私難しい形をしているかしら」
「いや、そんなことはないんだけど」
「やっぱり、魚は描きにくいかしら」
「魚だったら、むしろ描きやすいさ」
「本当?」
「あぁ。本当だよ」
「なら描きやすいはずなんだけどな」
「人間に良く似た魚だからかな」
「母さんは、人間だからね」
「じゃあ、さしずめ、君は人魚さんか」
「いいえ、そんな綺麗なものじゃないわ。魚の化け物よ」
「化け物にしては随分と可愛らしい気がするけど」
「そうかしら」
「そうだよ」
会話もそこそこに、台所で適当な料理を作った。
「お風呂ってあるのかしら」
「一応シャワーはあるけど」
「使ってもいいかしら」
「もちろん」
一人になって、机に座り、天井を見た。
急におしゃべりをしすぎたせいか、頭がポカポカとして、気持ちのいい痛みが、締め付けるように頭を覆った。
「特に何もしていないのだけれど」
ふと、こんな夜を繰り返していた日々のことを思い出した。
隣に、メイがいて。
“メイは、私の全てを受け入れてくれた。
勉学が出来ない事も、体が弱い事も、そして、精神の弱さも。
どうして、彼女がここまで私を受け入れてくれるのだろうか。
ふと、尋ねたことがある。
その時、メイは、私もあなたの絵に救われたから。
そう答えて、一枚の絵を指差した。
それは、最初に描いた絵。
窓の外に見えた、公園で遊ぶ少年と少女の絵。
それを描いた頃はまだ、今ほど空気が汚染されていなくて、窓から外が綺麗に見えた。
メイは、田舎町から一人出稼ぎにきたらしく、故郷にいる弟を思い出しては、私の絵を見に来るそうだ。
描かれた少女と少年に自分と弟を重ねてこの絵を見るのが寂しさを紛らしてくれる。
そう言っていた。
私には、その言葉が嬉しくて仕方がなかった。
私の絵に価値が生まれ、私の存在価値も生まれたような気がしたからだ。
それから、メイのために何枚も絵を描いた。
その内の一枚を、メイに頼んで、こっそり絵画商に見せてもらった。
そこまで、大した金にはならなかったが、それでも、金になることがわかった。
私の絵には、金になるような価値がある。
私は、絵で生きていける。
これだけで、私には価値があるじゃないか。
その日から、私は引きこもりをやめた。“
幸せな日々は、それから3ヶ月ほど続いた。
相変わらず、私は、うまくメアリーを描けず、デッサンすら完成させられていない。
勘当された時に渡された金も、徐々に減ってゆく。
幸せな生活に、反する様に現実はどうやったって好転しなかった。
どうして、メアリーをうまく描けないのか。
理由は明白だ。
わかって尚、ダメなのだ。
メアリーは、何も言わないで、モデルになってくれる。
私は、その優しさに甘えているばかりで、何も出来ない。
そんなある日のことだった。
「あのさ、ウィリアム」
「どうした?」
「実は、私も絵を描いていたの」
「そうなのか」
「あのさ、私も何か、描いていいかな?」
「別に、良いけど」
メアリーは、窓の外に見える曇った空を見ながらイーゼルにキャンバスを立てかけた。
「特に、描きたいものも、思い出せないんだけど。何かを描きたいんだよね」
そう言って木炭を握り、曇った窓の外を見ながら、手を動かした。
絵を描くことを、心底楽しそうに。
踊る様に動く、白く細い指を私はただずっと眺めていた。
“活動的になった私は、親との不仲も解消し、弟にも普通に接することができる様になった。
嫉妬に狂っていた頃では考えられないことだ。
全て、メイのおかげだ。
メイが認めてくれたから、自分を許すことができた。
二人で、図書館に行って本を読んだり、喫茶店に行っては、紅茶を嗜んだり。
いつだったか、私が画家として大成したら、弟にこの家を継いでもらって、ここを出よう。
そんな会話をした。
弟にも話を通して、父にも話した。
当然揉めたし、非難された。
長男としての責務を果たす気がないのか。
貴族としての自覚はあるのか。
絵に没頭したいのは理解したが、貴族としての責務を果たして、それからするべきだ。
私は、もう一つ父に話すべきことがあった。
メイと結婚をするつもりだと。
父は、いよいよ呆れた。
使用人と結婚する貴族がどこにいる。
そう吐き捨てる様に言った父の顔を私は生涯忘れられないだろう。
その場で私に勘当が言い渡された。“
窓の外に何か見えるわけでもないのに、メアリーの腕は止まらなかった。
デッサンもそこそこに、私に筆を求めた。
「あの、ウィリアム。色を塗りたいのだけど」
キャンパスには、窓の外にある通りが黒と白で表されていた。
上手い。
まるで、その景色を見て描いたように写術的であった。
「どうしたの?ウィリアム」
「え、あ、色だっけ。ちょっと待っていてくれるか?」
「わかった」
椅子から立ち上がって、道具を取りにアトリエへ向かう。
アトリエの扉を開こうとして、自分が拳を強く握っていることに気がついた。
拳を開くと、爪の跡が、親指にはっきりと残っている。
「どうして」
扉を開いて、アトリエから、必要なものを取り出すと、メアリーの元へ戻った。
筆、パレット、絵の具、それら諸々を渡して、私はメアリーに尋ねた。
「油絵用の道具しかないけれど、油絵でよかったか?」
「油絵って?」
「そうか」
絵の種類すら、習っていないのか。
「ならいい。私が、一から教えるよ」
「色塗りってクレヨンで描くものじゃないの?」
クレヨン、数年前の万博で金賞を取ったとされる、水も油も使わない棒状の絵の具だ。
その後、児童向け絵具として発売され、手軽に絵が描けると、人気を博した。
ただ、色数が8色しかないのだが。
「クレヨンでも描けるけど、色の数が少ないしな」
「ふーん」
パレットに絵の具を出して、テレピン油を混ぜる。
特有の匂いが、部屋に広がる。
私は、この匂いが好きだ。
「こうやって、絵の具を出して」
一通り、色の塗り方、作り方を教えてから彼女に筆を握らせた。
私は、彼女に好きなように色を塗るよう伝えた後、色を塗る様をただ、何も言わず眺めていた。
随分と楽しそうに筆を動かすな。
色使い、筆の使い方。
どれもなっていない。
ただ、それでも、楽しそうに筆を動かす。
いいなぁ。
“家を追い出され、私は一人になった。
無一文の私に、メイは付いてきてくれた。
ボロボロの集合住宅の一室に、二人で、貧しさに耐えながら暮らした。
メイが働きに出て、私はひたすら絵を描いた。
私の絵は小銭程度にしかならなかった。
それでも、絵を描くことしかできない私を肯定してそれでいいと言って、メイが支えてくれた。
次第に、私の絵を良いものだと見てくれる人も増えてきて、小銭程度の値段から、働くよりも多くもらえる程度にはなってきた。
これからだ。
そんな風に思っている時だった。
一枚絵が売れて、そろそろ、メイに仕事を辞めさせて楽にさせよう、そんなこと考えて家の扉を開くとメイが倒れていた。
病院に連れて行くと、どうやら流行病に罹っていたことが分かった。
治療に必要な薬は、高額で、とても今の私に払えるお金ではなかった。
実家の力を借りるのは、不本意極まりないことだが、私には、もう自分の家に頼るほか道がなかった。
どのツラ下げて、帰ってきやがった。
そんな罵倒をかけられるものばかりだと思っていたが、そんなことはなかった。“
「絵を描くって、楽しいわね」
メアリーのその声にハッと気が付いて顔を上げると、時計は夕方を指していた。
「それは良かった」
完成された彼女の絵を見て、ハッと息を飲んだ。
踊るように乗った絵の具から、曇り一つない澄んだ街が描かれている。
街を歩く人々は、いつかのようにガスマスクを取っており、そこには、自由な顔をした人々がいた。
獣のような顔の人、翼の生えた人、緑の肌をした人、そして、魚のような姿の人。
共通しているのは、みんな笑顔で、楽しそうにしていることだけだ。
「これは」
「私の理想、私みたいな魚でも、みんなが受け入れてくれる。そんな世界の絵」
思ったことをそのまま絵にしたようなものだ。
「そうか」
「私、本当は、人に産まれたかった」
ぼそっとこぼすようにそう呟いた彼女の言葉を私は、聞き逃した。
「何だって」
「いや、何でもないわ」
「そうか」
漠然とした恐怖が私を襲っていた。
それは、彼女の才能に対して感じるもので、私はその恐怖で頭を働かせることもままならない。
「どうしたの?」
ただ、まともな応答もしないでただ絵を眺める私を心配したのか声をかけてくる。
「いや」
私は、これまで絵についてしっかりと誰かに教えてもらったわけでも、競い合う相手がいたわけでもない。
ただ、描いていただけだ。
身近に才能が現れた。
自分の思うような絵を描けなくなった私の右手を見た。
ただ、それは震えているだけだった。
私には、私には。
絵を描くことだけしか出来ないというのに。
「大丈夫?私の絵、下手くそだった?ダメだった?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
嫉妬。
そんな醜い気持ちを一瞬でも抱いてしまった自分を戒めるように、右手の拳を強く握った。
食い込んだ爪の痛みで、ようやく私は理性を取り戻した。
「むしろ上手いよ。私がちゃんと色々教えたら、私よりも上手くなれるかも」
声が震えないように気をつけて言葉を吐き出す。
「本当?よかったわ」
無邪気に笑う彼女を、私は彼女の中に美しさを見出した時と同じように見ることができなくなっていることに気がついた。
“これで、あなたもこの家に戻ってこれるわね。
母親のその言葉に、理解が追いつくよりも先に、父が続けた。
お前の人生もまだ長い。その使用人のことはさっぱり忘れて帰って来なさい。
何を言っているのか分からないまま、私は呆然と立ち尽くしていた。
母親が、また口を開いた。
あなたの絵をみました。とても素敵な絵だわ。我が家にピッタリね。
そうして母親が指差す先を見ると、確かに私の描いた絵がそこにいくつも立てかけられていた。
頭から血が抜けていくのがわかる。
寒い。
そう思うのを最後に、どうやら私は倒れてしまったようだった。
目を覚ますと、隣に弟が座っていた。
弟は、私が声をかけようとするのを遮って、話を始めた。
兄さんが家を出たせいで色々大変だった。
そんなような話だ。
そして最後に続けた。
それでも僕は兄さんの味方だから。
弟は、私の話を聞いて、流行病の薬と、二人で暮らせる家を手配してくれた。
才能に恵まれた弟は、もうすでにその才能を買われ、領地の管理やお金の管理を任されていたため、親にはバレないままそうすることができた。
助かった。その時はそう思っていた。”
それから、私が筆を握ることは稀になり、代わりにメアリーが握る日が増えた。
私は、メアリーの絵を眺めながら、アドバイスを繰り返す。
ただ、そのアドバイスも彼女のレベルが上がるにつれ少なくなっていった。
生活費は、メアリーの絵を売って稼いだ。
彼女に了承を取って、練習で描いた風景画や、名画の模写を売ったのだ。
メアリーの優れた点は、世界を見る瞳に有った。
素晴らしい着眼点や発想、世界の捉え方には悲しいくらい低い自己認識も関わっているのだろう。
ただ、その瞳から見た世界が落とし込まれた絵には、確かに人を惹き込む力があった。
それは、最初に描いた彼女の絵から感じたことであり、だからこそ、技術が追いついていなくても、あの絵に惹きこまれたのだ。
私には、できる事はなくなった。
毎夜のように、焼け付くような嫉妬に襲われるが、癇癪を起こすことも出来ないまま眠りにつくことも出来ないまま。
気がつけば、私は死霊のような姿になっていた。
心配するようにメアリーが声をかけてくる。
心のうちを隠すように、私は最大限の笑顔を取り繕って話す。
内心に渦巻く嫉妬の炎が、大きくなり、私のプライドを溶かし、捻じ曲げ歪ませていった。
ある日のことだ。
私は、画商にメアリーの絵を持っていった。
その時、メアリーが、少なくなってきた画材を買って来てと言っていたのを思い出して画材屋に寄った。
必要なものを買い集め、店を出ようとする私に、店主が声をかけた。
「あんた、すっかりスランプが治っちまったみたいじゃないか」
「はあ」
「おっちゃん見たぞ、あんたの絵。すっかり綺麗な絵を描くようになって」
「何を言うんです」
「気づかないかい?おっちゃんあんたの絵がすっかり気に入ってな、これほら」
店主の指差す方を見上げると、そこにはメアリーの描いた絵があった。
「これはわた」
「本当にいい絵を描くようになったな」
言いかけた言葉を遮るように店主の言葉が重なった。
私は、すっかり言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ん?なんか言ったか」
「いえ」
「相変わらず、ナヨナヨしてんな。ほらシャキッとして」
「はい」
「あんたは誇っていいよ。立派な絵しかおっちゃんは買わないんだ」
胸がチクチクと痛む。
「ありがとうございます」
「いいってもんよ」
帰り道、胸に残った罪悪感はただ大きくなっていった。
メアリーの絵を、私は、私の絵としてしまった。
「私は。私は」
握った画材の入った袋を、今すぐにでも投げてしまいたくなった。
振りかぶったところで、力なくそれを落とす。
落としてしまった画材を拾い直して、自分の惨めさを感じた。
道にいた、乞食が、一つそれを拾ってくれた。
ガスマスクさえつけていない彼は、真っ黒な歯を見せながらニッコリと笑って、私にそれを差し出した。
「絵描きさんですか」
掠れた声で、私に尋ねる。
「はい、いや、その」
私は、今は描いていないんですが。
「そうですか。そうですか」
乞食は私に向かって手を出した。
「絵描きさんなら、お金持ってるでしょう」
「えぇ、まあ」
メアリーの描いた絵で稼いだお金ですが。
「ほら、出してくださいよ」
私のお金ではないですがどうぞ。
「はい、どうぞ」
その銀貨は、私でなく、メアリーが稼いだお金です。
「ありがとう。こんな乞食に恵んでくれるんだ、きっと大層な絵描きさんなんだろう」
私は、そんなことありません。
「えぇ、まあ」
小さな嘘が重なって、私を押しつぶそうとする。
ただ、それでも、私の中にあるちっぽけなプライドが、獣が。
嘘を重ねさせるのだ。
ニッコリと笑う乞食が気持ち悪く見えて、私は早足でそこを離れた。
“薬は間に合わなかった。
メイと最後に話したのは、病院で、私が、メイの入院している間は、自分で料理を作らなくてはいけなくて大変だと言うと、退院したら、あなたの作るご飯が食べたいわと返してくれたのを最後に、私が、病院を出ると、その夜に息を引き取った。
両親が家に戻るように言ってくる。
私は、両親に拳を振るって、叫んだ。
意味もない言葉を叫び続けた。
私が、ちゃんと仕事して、メイを支えていれば。
メイが仕事しないで済むように、ちゃんとしていれば。
メイを連れて、家を飛び出さなければ。
一人でいたなら。
頭の中で、いろんな可能性を考えた。
そのどれを選んでも、私は後悔していただろう。
だが、メイに変えられるものが一つでもあっただろうか。
絵さえ、描かなければ。
でも、メイと私を繋いだのも絵だ。
私には、絵しかない。
弟の用意してくれた、広い一軒家の中で、私は、ひたすら泣きじゃくった。
彼女が居たから、絵を描けた。
彼女が居たから、絵を続けられた。
絵を描き続けたから、彼女が死んだ。
私は、叫ぶようにして、筆を床に叩きつけた。
それでも治らない。
今度は筆を持ち上げて、両端を持った。
力を込めれば、簡単にそれは折れるだろう。
拳に力を込める。
それでも、私は、筆を折ることはできなかった。
力なく筆を落として私は、絵を捨てることが出来ないのだと悟った。
しかし、壊れてしまった心では、まともな絵を描くことが出来なくなっていた。
”
家に帰ると、メイが私を出迎えてくれた。
「おかえり。ちゃんと頼んだ画材、買ってきてくれた?」
「あぁ」
私は、それを渡すとイーゼルの前に座った。
「絵を描こう」
「お、やっと私を描いてくれるの?」
「あぁ、今日はメイを描こうと思う」
「メイ?」
「あぁ、そうだ」
私は、メイを窓際に座らせると、筆を握った。
こうして、愛するメイを絵にするのは初めてだ。
そもそも、最近の私の絵は、風景画や模写など、練習ばかりであったからな。
「いや、あの、メイって?」
「君のことだろう?」
「いや、私はメアリーだけど」
何をいっているんだ。
多分、彼女は疲れているのだろう。
最近は、彼女に家事を任せてばっかりだったからな。
「今日は、私が家事をするよ。疲れてるんだろ?メイ」
「いや、あの私は」
「わかっている。メアリー、だろ?」
「そうだけど」
「君は疲れているからそんなことを言ってしまうんだ、メイ」
「いや、その。えっと」
「疲れているんだろう」
「えぇ、まあ。そうね」
戸惑いと諦めの混じった顔で、メイはそれを受け入れた。
私は、メイを窓際に座らせると、キャンパスの上に、筆を乗せた。
デッサンもいらない。
今の私には。
“
その日、私は少女を拾った。
それは、かつて愛した女性とよく似た顔立ちをしていた。
顔が似ているから拾った。
それに過ぎない。
拾った時には、大層な理由を自分への言い訳のように考えていたが、そんなことは関係ない。
ただ、失った想い人を取り戻せる。
そんな風に思ってしまったんだ。
”
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