第2話 少女


紐に体重を預けだらんと腕を伸ばし、立ったまま眠ることにはもう慣れたが、バケツの水で叩き起こされることだけには、どれだけ経っても慣れなかった。

救貧院とは名ばかりで、貧しい人間を助けるのではなく、食い物にしているだけだ。

孤児である俺に、当然お金などあるはずもなく、この施設に入れられたのは道理とも言えるわけだ。

孤児、とさっきは言ったが、つい最近まで両親はいた。が、テロリストとして処刑された。

売国奴の息子として忌み嫌われた俺を、母方の実家も父方の実家も引き取ってくれず、結果孤児のようになったというわけだ。

父はスパイなんかじゃない。

声が枯れるくらいに、俺はそう訴え続けたが、子供一人の意見が通じるほど、この世界は甘くない。

どうにかお金を手に入れて、ここを脱出し、父の無念を晴らす。

ただ、それだけを考えて生きている。

「起きろ、売国奴」

ぶっかけられた水によって目は覚めていたが、体を動かしていなかったせいで起きていないとされ思いっきり腹を蹴られた。

「ほら、早くしろ」

ここから出ることはできない。

きっと、このまま死ぬまでここに蹲ったままだ。

暴力を前に俺は無力だった。

今日も自分の無力を突きつけられながら1日が始まる。

蹴りの痛みでのたうち回っていたが、寝たままだともう一度蹴られかねないので体を起こす。

「すいません」

それだけ言って、俺に蹴りを入れたヤツの横を抜けて、仕事場に向かった。

仕事場といっても、それは街全体である。

産業廃棄物として、街中に撒き散らされている灰を掃除する。

それが俺の仕事だ。

自分のロッカーに向かう。

そこだけが、この世界で唯一の俺の場所だ。

ロッカーからガスマスクと父の形見でもあるボロボロのコートと、手帳を取り出した。

ガスマスクは最近新調されたものだからまだいいが、このコートはもう5年ずっと酷使しているから、穴だらけで汚い。

コートに袖を通して、ガスマスクをつけた。

まだマシなポケットに手帳を入れて、それから少しでも身だしなみを整えた。

今日も、代わり映えのしない苦痛が続く。


俺の今日の仕事場は、聖ロバーツ教会だ。

古くからある教会ではあるが、近くにできた工場のせいで灰がよく積もり、施設の劣化も目立つようになったからか、あまり人は来ない。

「灰を下ろしに来ました」

教会の扉をあけてそう言うと、中から歳をとった牧師が出てきた。

「あぁ、そう」

それだけ言うと彼は身を翻して扉を閉じた。

冷たい対応ではない。

まだ、売国奴と罵られて無意味な暴力に晒されないだけマシだ。

ただ、一つ難点を挙げるとしたなら、一人で灰を下ろすには仕事量が多すぎることだろうか。

せめて、もう一人いてくれれば楽になるのに。

無い物ねだりをしながら、教会の屋根に登る。

一週間下ろしていなかっただけなのに、どうしてこうも多くの灰が積もってしまうのか。

「ふぅ」

フィルター越しにため息をつく。

ラッセルを使ってしばらく灰を下ろしていると、ふと、下の方から声が聞こえた。

「灰を下ろす仕事をしたいの」

下の方を見ると、牧師と子供が会話していた。

ブロンドの長い髪からしておそらく女の子だろう。

「もう上に一人いるが、まぁいいだろう。そこに梯子あるから登ってくれ。仕事は上の彼に聞いてくれ」

もう一人、この寂れた教会に仕事をしにきた人がいるみたいだ。

ガッガッと梯子を登る音が聞こえるのと同時に、俺の心臓もドクドクした。

長らく、まともに人と会話していないせいだ。

「ねぇ」

声をかけられたのでそちらの方に振り向くと、ガスマスクをつけたその子がいた。

「何?」

「灰を下ろす仕事がしたいの。ここの仕事について教えてくれないかしら」

彼女はぶっきらぼうにそう言った。

「そこに箒がある。それで灰を下に落としてくれ。灰はだいたい溝に入るから大丈夫だ」

端に置いてあった箒を指差すと、彼女はそれを持って灰を下ろし始めた。

灰を下ろすと、下にある窪みに灰が落ちる。

最後にそれを一箇所に集めて袋に入れれば、仕事は終わりだ。

二人、黙々と灰が降る街で灰を屋根から下ろしていた。

切りの無いことだ。

いくら下ろしたところでまた積もる。

どれだけやっても、この仕事をした痕跡はこの世界に残らない。

そう考えてしまうと、虚しさだけが胸を支配する。

だから、俺は何も考えないで黙々と仕事をするのだ。


灰を下ろす作業も三分の二ほど終わり、体も疲れて来た頃だった。

「ねぇ」

「何?」

「そろそろ、お昼ご飯食べないかしら」

「そうだな」

教会の屋根から降りて、牧師に昼飯を取る為、少し離れる旨を伝えると二人で街に出た。

「金はあるか?」

「あんまり」

「まあそうか」

「聞く必要あった?」

「ごめん」

お互いに金がないなら、贅沢はどうしたって出来ない。

「いいパン屋を知っているから、そこに行こう」

「パンなんて買えるかしら」

「パンくずとか、失敗して焦がしてしまったやつを譲ってくれるところがあるんだ」

「なるほど」

それは教会からもさほど遠くない位置にあり、少し入り組んだ路地の中にあった。

お世辞にも治安が良い街とは言えないが、この辺はあまり人がおらず、落ち着いた場所である。

「このお店だ」

俺は、そう言って扉の前に立って、服についた灰を払った。

彼女も横に立って同じように灰を払う。

いつも一人だったせいか、自分より一回り小さい存在が隣にいる事実に違和感を感じて仕方がない。

「じゃあ、入ろうか」

一通り払い終わってから扉をあけた。

中では老夫婦が二人、楽しそうに談笑していた。

「すいません」

俺が声をかけると、その老夫婦はにこやかにこちらに振り向いた。

「あぁ、いつもの坊ちゃんね」

「今日は二人なんですけど、大丈夫ですかね」

「あら、珍しいわね。坊ちゃんが他の子を連れてくるなんて」

「たまたま、仕事をする場所が同じだったんです」

「そうなの。よかったわね、じゃあいつもの二人分でいい?」

「はい、大丈夫です」

それを聞くと、老婆は店の奥の方に行った。

彼女は、物珍しそうに店の中を眺めていた。

店の中には小さな棚にいろんな種類のパンが置いてあった。

きっと、ガスマスクをとればパンの焼けたいい匂いがするのだろう。

「にしても、坊ちゃんはどうしてもそのマスクを取らないね。普通の人は室内に入れたらすぐに取るのに」

「自分の顔に自信がないのです」

自重気味に笑いながら嘘をついた。

別に意味のない嘘だ。

本当は、ただただ、取りたくないだけ。

「その子も取らないのね」

老爺がそう言って彼女を指差した。

確かに彼女もガスマスクを取っていなかった。

「そうみたいですね」

「他人事のように言うが、友達じゃないのかい?」

「今日が初対面ですから」

「そうかい」

そんな会話をしていると、奥から、幾つかの焦げたパンと、綺麗なパンを少し持って老婆が帰ってきた。

「はい、今日は少しだけサービス」

「ありがとうございます」

俺は、紙袋に入ったそれを受け取って、なけなしの小銭を差し出した。

「なにさ、坊ちゃん。別に失敗したやつだからお金はいらないわよ」

「お世話になっていますから」

「坊ちゃんは偉いんだねぇ」

老婆はそう言ってそれを受け取った。

「では、失礼いたします」

「お仕事頑張ってね」

老夫婦に見送られて俺と彼女は店を出た。

「いい人たちだったね」

「あぁ、そうだな」

いい人たちだからこそ、彼らの好意に甘えてばかりの自分を情けなく感じてしまう。

だから、いつも少しばかりの小銭を彼らに差し出だしたのだ。


「どこで食べるの?」

「教会の中」

「食べてもいいのかしら」

「牧師さんには許可を取ってあるし、誰もこないから大丈夫だ」

「そう」

教会に向けて足を進めていると、彼女がふと、立ち止まった。

「どうかした?」

「いや、別に」

彼女はフィッシュ&チップスの屋台をじっと眺めていた。

「食べたいのか?」

「そういうわけじゃない」

そんなこと言いながら、彼女は目を逸らさない。

「じゃあどうしてそんなに眺める」

「ただ」

「ただ?」

「ただ、私の同類たちがどう料理されているのかそれを見ていたの」

同類達か。

灰が被らないように大きな屋根がついた屋台の下で白身魚をひたすらに揚げる店主がそこにはいた。

魚、か。

毎日同じ仕事を同じようにして、ただ、その日を生きるために生きている。

それでは俺たちも魚と同じ様な生き方をしているのかもしれない。

「同類ねぇ」

ため息交じりのそう呟いた。

「あなたは違うわ」

「何が?」

「あなたはどうしても人だもの」

「そうだな」

「私は魚の姿をした化け物なの」

「君も人間だろ」

彼女は視線を俺に向けた。

「化け物よ」

「違う」

「化け物なの」

「人間だろう」

「違うわ」

「どうして君が化け物にならなくてはならない」

「父さんが化け物だから」

「化け物から人は生まれないよ」

「いいえ、生まれるわ」

「じゃあなんだ、君は自分が化け物と人のハーフだとでも言いたいのか?」

「いえ、化け物よ」

「埒が明かないな」

「そうね」

お互いため息をついた。

屋台への興味を失った二人で教会に向かって歩きながら、魚の姿を思い出していた。

つやつやした鱗、ギョロリとした腫れぼったい眼、薄い緑の皮。

ガスマスクの下にそんな魚みたいな化け物の顔が待っているのだろうか。


教会の扉をノックして、牧師と挨拶を交わした後、聖堂の中にある椅子に腰をかけた。

隣を示すと、彼女は隣に座った。

さて、食事の時間だ。

ガスマスクを取ると少し煙たいような空気がスッと入ってきた。

思わずむせそうになりながら、彼女の方を見た。

彼女は、ガスマスクに手をかけたまま固まって動かなかった。

「どうした」

「いや、えっと」

「取らないとパンは食べられないぞ」

「そうね」

彼女は観念したようにそのガスマスクを取った。

ブロンドの美しい髪が一瞬ふわりと舞う。

中性的で、どこか少年のような面影を見せるその深く整った顔立ちは、思わず二度見てしまうかのような美しさを持っていた。

長い髪と、ふっくらと膨らむその胸がなければ、どちらかというと美少年に見える。

彼女は左耳を隠すように、髪を流していた。

俺は、彼女に見とれて、すっかり言葉を失ってしまった。

「えっと」

彼女が口を開くまでの間、どうやら俺はずっと眺めてしまっていたらしい。

「すまない、その。いや、何でもない」

「変な人ね」

「そんなことはない。君が少し、綺麗に見えたから」

「私は化け物よ、そんなことないわ」

「いや、君は人間だろう」

「ほら、見て」

そう言って、彼女は少しためらいながら髪をどかして左耳を見せた。

そこに耳はなかった。

穴だけがあったのだ。

赤黒いその耳のあたりは、美しい顔の中でひときわ異様に見える。

「私、化け物の娘なの」

耳がないことを、人でない根拠にしているようだ。

「それでも君は人間だ」

「どうして」

「それはただ、耳を怪我しただけだろう。それだけで君を化け物と認めるわけにはいかない」

「じゃあ、そうだな。どうしたら化け物って認めてくれる?」

「どうしたって認められない」

「だって、私は」

そこで彼女は口をつぐんだ。

少しの間、無言の時間が流れる。

俺は何も言えなくて、上を見上げた。

聖堂の上の方にはステンドグラスがあったが、それはすっかり灰によって黒く汚れてしまっていて、その美しさを見出すことができない状態になっていた。

「あのさ」

口を開いた彼女の方を見ると、左耳は再び髪で隠されていた。

「名前、聞いてもいいかな」

「あぁ、別にいいが、急だな」

「別にいいでしょ」

「デイビッドだ。デイビッド・オーウェン」

「そう」

「君の名前は?」

「私は、メアリー。それだけ」

「そうか」

再び沈黙が二人の間に流れた。

「そろそろ、パンを食べて、仕事に戻ろう」

俺はそう言って、パンの入った紙袋を開いて、その中から綺麗なパンを取り出し、彼女に差し出した。

「いいのかしら」

「いいよ」

「じゃあいただくわ」

パンを受け取ったメアリーはそれをすぐに頬張った。

俺は、焦げの少ないパンを選んで取り出し、それを口に入れた。

ライ麦パンの硬い食感と、焦げの苦味が口の中を襲い思わず顔をしかめそうになる。

いつものことだが、焦げたパンというものはあまり食えたものではない。


「あのさ」

パンを食べ終わる頃、彼女が話しかけてきた。

「私のこと、怖くないの?」

「全く怖くないぞ。どうしてそんなことを聞く」

「だって、私、化け物の子供だよ」

「たとえ、化け物の子供だということが事実だったとしても、化け物だといくら言われていたとしても、今、俺の目の前にいる君は、俺にとって、君は一人の少女だ」

淡々と自分を化け物だというメアリーに、俺は段々と苛つき初めていた。

どうして彼女は自分を頑なに化け物と言い続けるのだろうか。

それが俺にはどうしても分からなかった。

「そろそろ仕事に戻りましょう」

そう言うと、メアリーは左耳が無いのにも関わらず、器用にガスマスクをつけた。

メアリーがガスマスクをつけたことを少し残念に思いながら、自分もガスマスクをつける。

「そうだな。あとは灰を集めて救貧院に持っていくだけだ」

外に出ると相変わらず、空は曇っていた。

溝に溜まった灰を、二人で集めて袋に入れた。

その間、どうにも話しかけることができず、ずっと黙ったままだった。

灰が溢れないように気をつけながら、ゆっくりと袋を閉じる頃にはすっかりと周りは暗くなっていた。

牧師に一週間後にまた来る旨を伝えて今日の仕事を終えた。


帰り道、メアリーが別の救貧院にいる人間だと思っていた俺は、彼女が今日から新しくここに入ってきた孤児だと言うことを知ることになった。

そういえば、悪い噂を聞いたようなことを思い出す。

確か、そうだ。

「血の池事件」

俺がそう呟くと、メアリーがこちらを見た。

ガスマスクに隠れて、表情は読めないが、それでもこちらを見た。

「そうよ」

メアリーはそれを肯定するように答えた。

「私はあの、血の池事件での唯一の生き残りで、犯人の娘」

血の池事件。

それは5年前の事件だ。

大量の警官がたった一人に殺された事件だ。

「だから私は化け物なの」

たった一人で、何十人もの人間を。

しかも、武装した警官だ。

それを殺してしまうなんて不可能に近い。

だから、その事件に関した奇妙な噂が流れ始めた。

どうやら、目撃者によると、犯人の腕は鱗に覆われており、どこか生臭い魚の匂いを放っていたと。

犯人は魚人なのじゃないかと。

「分かったでしょ」

「いいや、分からない」

「どうして」

「魚人なんていると思うか?魚と人が混じるなんて更々あり得ない」

「そう。でも私は」

「違う。百歩譲って、君のお父さんが魚人の化け物だったとしても、君は化け物じゃない」

「どうして」

「さっきも言ったが、君がどんな過去を持っていようと俺にとっては仕事を手伝ってくれた綺麗な少女、だからだよ」

「そう」

「そうだ」

メアリーがガスマスクの下でどんな顔をしているのかは全く分からない。

「ねぇ。あなたは本当に私が怖くないの?」

「怖くない」

「どうして」

「君の理屈で言うと、俺も化け物だか売国奴だかになる。だが、俺はそうじゃない」

顔が見えなくて良かった。

きっと俺は今、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「つまりそう言うことだ」

会話を切り上げて、早足に帰った。

今の俺は多分うまく話せないだろうから。



救貧院で夜、食事をするわけだが、そのメニューは基本的にずっと同じだった。

「豆のスープだ」

「美味しそうね」

「そうでもない」

俺とメアリーが座る席には誰も近づこうともしなかった。

触らぬ神に何とやらと、昔父から聞いたことがある。

遠い国で教訓として多くの人に知られている言葉だそうだが、この国でもその教訓はどうやら生きているようだ。

豆のスープに、硬いライ麦のパンを一切れ浸して口に運んだ。

昼に食べた焦げたパンよりは幾らかマシだ。

スープに浸したおかげで、硬さも幾分マシになる。

スープは、野菜と豆がドロドロに溶けてしまっているせいか、喉に引っかかる。

苦みや酸味が強くて、お世辞にも美味しいとは言えない出来だった。

「美味しくないわね」

同じようにしてパンを食べるメアリーは、そんなことを呟いて俺を見た。

「言っただろう?」

「そうね」

周りがずっとざわついていた。

いつかに俺がここに入った時と同じような反応だ。

別に周りの人間と仲良くする必要は無いが、こうも奇異の目を向けられると、落ち着いて飯を食うことも出来ない。

だが、ここでいくら喚いても、意味はない。

誰も黙らないのだから。

ただでさえ不味い飯なのに、環境のせいでさらに不味くなってしまう。

「少し、外に行かないか?」

俺がそう言うと、メアリーは頷いて、ガスマスクをつけた。

俺もガスマスクをつけて、胸糞の悪い食堂を出た。

「あそこ、空気が悪いだろ」

「空気なんてどこに行っても一緒よ。灰まみれだわ」

「そうじゃない。人間の空気感だ」

どうしても、救貧院には余裕のないものが集まる。

金がなくなったやつが来るわけだから、当然とも言えるが。

救貧院にいるやつの未来はだいたいどうなるかが大体決まっている。

そのまま一生を労働者のまま終えるか、労働者を監督するやつになるかだ。

監督は、気分のままに労働者を殴っていい。

なぜなら、監督が彼らの仕事を握っているからだ。

逆らってみれば、すぐに路頭を迷うことになる。

皆、監督に殴られるのは当たり前で、監督になって殴ることを考えて生きている。

だから、俺たちみたいな気味の悪いものは、きっと目障りなのだろう。

化け物の娘とスパイの子供、手を上げれば、何をされるから分からないからだ。

まぁ、メアリーに関しては、根も葉もない噂が一人歩きしているだけで、決して化け物などではないと俺は思うのだが。

「それこそ、どこに行っても一緒よ」

「俺の育った田舎は、そんなことなかった」

「私はこの街で生まれたの。だから、外の世界なんて知らないわ」

「そうか」

「そうなの」

「でも、昼に行ったパン屋みたいに少しは優しい人がいる」

「それはそうね」

「だから、きっとあの救貧院の外に出れば、もっと良い出会いが待っているはず」

あそこからいち早く脱出して、俺は真っ当に生きる。

「でも、外に出たって何をするの?」

「父の無実を証明する。決してスパイなんかでは無かったって」

「そんなことできるかしら」

「できるさ、記者になって無実を証明する」

「そう」

「メアリーが化け物の娘なんかでないことも証明してみせよう」

「そんなことできないわ」

「やってみせるよ」

「そう、頑張って」

メアリーは観念するようにして首を振って見せた。

随分と口数が多くなってしまったような気がして少し恥ずかしくなった。

「あぁ、頑張るよ」

ガスマスクをつけているから、照れた顔が相手に見られるわけでもないのに、俺はつい顔を背けた。

道の端っこでは、ガス灯がぼんやりと街を照らしている。

灰のせいですっかりガラスは曇ってしまっているが、それでもこの小さな明かりだけが夜の街を照らす唯一の光だった。

夜の街には誰もいなくて、ただ、3月の冷たい海風が街を吹き抜けているだけだ。

「冷えるな」

「そうね」

「そろそろ、寝床の方に戻るか」

「でも、私どこで寝れば良いとか分からないわ」

「今日が、初めてだっけ」

「そうだね」

「基本的にはぶら下がり宿みたいな寝床だよ」

「ぶら下がり宿?」

「立ったまま、ロープにぶら下がって眠る」

「そう」

「最低限、屋根のあるところで眠りにつけて寒さは凌げる」

「野宿よりはマシって程度ね」

「一応、2ペニー監督に払えば椅子に座って眠れるけど監督が話を聞いてくれるかどうかは分からない」

「随分最低な施設ね」

「古い救貧院だったら、個室があったんだけどな」

「新しくなったの?」

「いや、壊れた救貧院を直すのも新しく建てるのも金がないから、街にあった大きめの講堂を改修して救貧院にした」

「だから狭いのね」

「そういうこと。個室なんて贅沢なものは当然ない」

「お風呂は?」

「雨が降るのを待ってくれ」

「酷い話ね」

「しょうがないことだ」

話していると、メアリーは随分と育ちが良いのではないかと推測できた。

「ぶら下がり宿は初めてか?」

「そうね」

「最初は辛いが、そのうち慣れる」

「そんなもの慣れたくもないけど」

「しょうがない話さ」

「じゃあ、そろそろ戻りましょうか」

振り返ると、どこまでも闇が続いていた。

時折ガスライトの薄明かりがぼんやりと視界に入るがその光も数歩歩けば見えなくなってしまう。



 それからしばらくの時が経った。

メアリーもすっかり仕事に慣れてきて、だいぶ余裕が生まれた。

相変わらず、俺とメアリーは周りに奇異の目を向けられているが、一人でいた時に比べて、もう一人いるだけで、俺は一人ではないと、強くなれた。

これまでと違う。

会話ができる。

それだけで随分と人間らしい生活ができている気がした。

今日も俺は、冷水で叩き起こされ、腹をおもいっきり蹴られる。

それでも、悲嘆に暮れるだけだった昔よりはこの不条理な暴力にも耐えることができる。

屈することなく、立ち上がることができる。

俺がすぐに立ち上がったことが気に入らなかったのか、もう一発顔面に拳をもらった。

痺れるような痛みが、鉄のような味が。

それらが、自分を人間であると実感させた。


 俺とメアリーはいつも、仕事場で嫌な顔をされ、避けられていた。

したがって、一人でいることが多かった。

一人でいるもの同士、結局は二人一緒になるのだが。

話してみてわかったことだが、彼女は随分と頑固で、自分を化け物だと思って譲らない。

それ以外に関しては随分と柔軟な発想をしている割に、そういうふざけたところだけは頑固だ。

だから、印象としては掴み所のない不思議な人。

といったとこだろうか。

他に特筆する点といえば、読み書きがしっかりできること。

そして、随分と絵が上手いことだ。

俺が、隠し持っていたペンを使って、俺の手帳にご機嫌な絵を描いてくれた。

魚と人間のハーフみたいな化け物の絵だ。


 教会の中、昼の休憩時間のことだ。

「私、絵を描くのが好きなの」

メアリーがそういうので、俺はペンを取り出して彼女に渡した。

「そうなのか。じゃあ、絵を描いてみてくれないか?」

「紙は?」

「ほら」

手帳を一ページちぎって渡した。

父の形見である大事な手帳ではあったが、それ以上に彼女の描く絵が気になったのだ。

メアリーはペンを動かす。

迷いも躊躇いもなく。

「絵を習っていたりしたのか?」

「別にそんなことはないわ。ただ、よくお父さんが絵を描かせてくれたの」

視線は紙に向けたままでそう答えてくれた。

「メアリーのお父さんは、絵をよく描いたのか?」

「いいえ、ただ、絵が好きで、よく絵画を買っていたわ」

やっぱり、メアリーも育ちがいいようだ。

貴族か、少し前の戦争で大儲けした商人の生まれだろう。

俺も裕福な考古学者の生まれだからあまり人のこと言えたわけではないのだが。

「何の絵を描いている?」

「魚人間」

「どうして君はそんな絵を」

「お父さんが魚人間の絵を買ってきたの」

ペンを止めて、メアリーがじっとこちらを見据えた。

「嫌いだった」

「どうして」

「だって、醜いじゃない」

メアリーは吐き捨てるように言った。

「でも、お父さんはそれになった」

俺は何も言えないで、メアリーの話を聞いた。

「だから、私もきっとこれになる」

そこまでいうと彼女は視線を紙に戻した。

俺は、絵が完成するまで何も言えなかった。

「ほら」

メアリーが完成した絵を俺に差し出した。

気味の悪い絵だ。

思わず目をそらしてしまう。

「どうしてそんな気味の悪い絵を描くのさ」

「私たちの存在を証明するため」

「証明?」

「そう。証明」

それからしばらくして、メアリーは俺にペンと紙を返した。

俺はそれから、その気味が悪い絵を捨てられずにいる。

どうしてか、この絵を見ると、メアリーを思い出すからだ。



 ロッカーから、コートと手帳を取り出して俺はガスマスクをつけた。

いつも通り灰を下ろしに行くためだ。

準備を整えて、外に出ようとするところで俺に近付いてくる影が一つ。

「おはよう」

気だるげな挨拶をしてきたのはメアリーだった。

「おはよう」

「今日はどこの灰を下ろすの?」

「教会」

「いい場所ね。私も一緒していいかしら」

「もちろん」

二人で扉をあけて外に出た。

この日は珍しく天気が良い。

雲が少なく、やけに空気も澄んでいて、霧が晴れていた。

いつもなら、灰の混じった霧が視界を曇らせているのだが、今日ばかりはそうでもないようだ。

「珍しいわね」

「そうだな」

天気がいいせいか、俺もメアリーもどこか、声が浮ついていた。

「あのさ」

「どうした?」

「今日も絵を書かせてもらえないかしら」

「あぁ、構わないよ」

「ありがとう」

ガスマスクの下には、どんな表情が待っているのだろうか。

そんなことを考えて、ぼうっと彼女の顔を眺めた。

ガスマスクの外から、流れるように伸びる美しいブロンドの髪が、今日は陽の光でキラキラと輝いている。

「どうしたの」

「いや、何の絵を描くのだろうかと、少し考え込んでしまった」

「あなたを描くわ」

「え?」

予想外の答えで、思わず声が漏れてしまった。

「それ以外描くものないもの」

「教会の中とか描くものたくさんあるでしょ。それこそ宗教画を模写してみたりとか」

「今、生きている人を描きたいの」

「そう」

「かっこよく描いてあげる」

いつもみたいに大人っぽく話すメアリーじゃなくて、子供みたいにいたずらっぽく話す彼女に俺はなぜだか、動悸が止まらなくなった。

「頼むよ」

焦っているのがバレないように早口で言った。

「えぇ、任せて」

今はガスマスクに感謝しよう。

動揺しきった顔を見られずに済んだから。

「じゃあ、仕事を早く済ませて絵を描きましょ」

メアリーは俺の手を掴んで駆け出した。


 教会に着くと、いつもの牧師が出てきた。

仕事をする旨を伝えて、屋根に登るといつもは曇って見えない街が綺麗に見渡せた。

「ちっぽけだな」

思わずそう呟いて、周りを見渡した。

煙をもくもくと吐き続ける工場群の煙突達。

薄汚れた住宅街の路地、そこに座る痩せこけた子供達。

ボロボロの救貧院、その周りに座り込む浮浪者達。

集合住宅や小さな一軒家。

少し遠くには、大きな家が立ち並んでいる。

貴族の家だ。

屋根から見る街はどこかちっぽけに見えた。

あれだけ、絶望に満ちていたこの世界が、ちっぽけに見えたのだ。

こんな街なら、こんな世界なら。

「あのさ」

「何?」

「もしよかったらさ」

「うん」

「二人で、この街を出よう」

「どうして?」

「この街は暗い。住んでいる人間も」

「そうかしら」

「そうだ。だから、二人で街を出て北に行こう」

「北なんて寒くないかしら。まぁ、あなたが行くっていうなら行くけれど」

「北の田舎町で過ごそう。君と絵を描いてさ。そうやって、そうやって平和に過ごしたい」

「そうね、そんなこと出来たらいいけど」

「できるよ」

「でも、私は魚よ。魚と北に引っ越すなんて」

「君は、魚じゃないよ。仮に魚だとしても構わないけれど」

「変な人」

「変で構わない。そもそも、二人とも周囲から浮いた普通じゃない人なのだから」

「そっか」

「だから、機関車に乗れるだけのお金が貯まったら二人でこの街を出よう」

「でも、いいのかしら。記者になることは諦めるの?」

何も返せなかった。

父の無念を晴らすことよりも、彼女と平和に生きることへの憧れの方が自分の中で大きくなっていたのだ。

しばし、無言と時が流れた。

「いや、北に行ってもそれはできる」

「そうなの?」

「あぁ」

苦し紛れに言って、自分を納得させた。

忘れちゃいない、父の無実を証明することを。

「なら、いいのだけれど」

「さ、仕事しよう。話してばかりでは終わらないから」

メアリーに顔を向けることが出来なくて、街を見ながらそう言った。

今日、ここの灰を下せばこの屋根に灰は積もらない。

少なくとも晴れているうちは。

いつものように何も残らないような仕事ではないような気がした。


 昼になる頃には屋根の灰を下ろしきっていて、あとは灰を集めるだけになっていた。

昼ごはんを手に入れるために、いつもお世話になっているパン屋へ二人で向かった。

「あら、いらっしゃい」

いつものように老夫婦が優しく出迎えてくれた。

「どうも」

「今日も女の子と一緒なのね」

「まあ、一緒に働いていますから」

「仲が良くて、いいことじゃない」

「そうですかね」

老婆と軽く挨拶を交わしながら、メアリーの方をチラリと見るとパンを楽しそうに見ていた。

「ねぇ、デイビット。このパン美味しそうじゃない?」

メアリーが指差したパンは、ベーコンとチーズをのせて焼いたパンだった。

「確かにうまそうだが、そんなもの買うお金はないぞ。今は少しでもお金を貯めないと」

「私、ベーコンとか食べたことなくて」

「我慢だ」

「そっか」

肩を落とし、しょぼくれる彼女に俺はどうしたらいいのかわからなかった。

「えーと、その。あー、わかったもう少し金が貯まったらまたここに買いにこよう」

「今食べたいのにな」

俯く彼女になんと声をかけていいのかわからず、あたふたしていると老婆が嬉しそうな顔をして話しかけてきた。

「あらあら、坊ちゃんは大変ね」

「いや、その。あはは。あの、いつものパンください」

「そっか」

しょぼくれるメアリーを尻目に、老婆に注文すると、老婆はなぜだか楽しそうに店の奥に行った。

老爺はずっと新聞を読んでいるだけだった。


 しばらく待っていると、奥から老婆が戻ってきた。

「はい、どうぞ」

いつもより重い紙袋を渡された。

「今日はお代はいらないよ。せっかく天気がいいからね」

優しい笑顔で渡してくれた。

「でも、」

「貰っときなさい」

老爺が優しい声で諭してくれた。

「すいません。ありがとうございます」

「じゃあ、お仕事頑張ってね」

老婆が、笑顔で手を振る。

俺も手を振り返して店を出た。


 とぼとぼとついてくるメアリーを連れて、教会に戻る。

陽の光が差して、いつも曇っているだけだったステンドグラスは、綺麗に輝いていた。

曇っている時は積もった灰と合間ってどんな絵のステンドグラスかわからなかったが、そのステンドグラスは王様に祈る男のような絵のステンドグラスであった。

王様?教会に王様はおかしいのではないか?

そんな疑問が一瞬頭に浮かんだが、それはその美しさを前に吹き飛んでしまった。

「綺麗ね」

「そうだな」

椅子に腰掛け、ガスマスクを取った。

空気が、今日は澄んでいるような気がする。

隣にメアリーも腰掛け、素顔を晒した。

紙袋を開けて、中身を見ると、ベーコンとチーズのパンが入っていた。

「コレは」

取り出してメアリーに渡してやる。

「え、え?」

「中に入っていたんだよ」

「そっか。そっか」

嬉しそうにそれを受け取るメアリーを見て、俺まで嬉しくなってきた。

「パン屋さんに感謝だな」

「そうだね」

二人で笑いながら、パンを食べた。

メアリーは、ベーコンとチーズの美味しさに目を丸くしていた。

多分、ここ数年で一番楽しい食事だった。



“あぁ、認識の王よ。”

“今、私がその認知の楔から解き放ってやろう。”

“もう二度と、封印されることのないように。”

“もう二度と、忘れられることのないように。”

“たとえ、すべての人が貴方を憎み、その存在を忘却の彼方へ追いやろうとしても。”

“私だけは、貴方を忘れない。何度でも認識しよう。”

“今宵、貴方は再び蘇るのだ。”



 メアリーに絵を描いてもらおうと、手帳とペンを取り出そうとして、手を滑らせた。

手帳が、地面に落ちて、ハラハラとページがめくれる。

止まったページを見る。

何故だろうか、これを見てはいけないような気がする。

何か、重大な何かだ。

見落としていた何か。

だが、これを見てはいけない。

本能がそう叫ぶ。

「どうしたの?」

メアリーの声も届かないまま、俺はその手帳のページから視線を反らせないでいる。

文字が滲んだように見えて認識できない。

「に、んしきの王?」

メアリーが、隣でそう呟いた。

にんしきのおう。

冷や汗が、背筋を伝う。

服に汗が沁みて、肌にくっつく嫌な感じだ。

認識してはいけない。

それを認識してはいけないのだ。

奴を、それを。

「君たち」

ふと、声をかけられ、我に返った。

顔を上げると、そこには牧師がいた。

牧師は一瞬手帳に目を向けた。

「君たち、今日の夜は、少しここに居てくれないか?」

「何故ですか?」

「頼みたいことがある。勿論タダとは言わないよ」

「そうですか。何をすればいいんですか?」

尋ねると、牧師は笑顔を浮かべて言った。

「ただ、ここに居てくれればいい。その時がきたら話すから」

どうしてだろうか、その牧師の笑顔を俺は、不気味に感じてしまう。

何故か俺はそれを知っているような気がする。

だめだ、思考が濁って思い出せない。

それに、思い出してはいけないような気がするのだ。

「二人とも、頼んだよ」

牧師はそれだけ言うと、そのまま外に出て行った。

「びっくりしたわね」

牧師が見えなくなったところで、メアリーがそうこぼした。

「そうだな」

「でも、牧師さんから仕事なんて珍しいね」

「確かにね」

いつもは、救貧院を通して、この教会の灰を下ろす仕事をしていただけだったから、こうして向こうから直に仕事をもらった事はなかった。


「じゃあそろそろ絵でも描いてもらおうかな」

手帳を拾おうとすると、もう手帳は何も書かれていないページが開かれていた。

手帳を拾い上げて、ホコリを払う。

これは、これは。

どうして俺はこれを大事に持っているのだろうか。

いや、そんな事気にしたところでしょうがないと思い、手帳の何も書かれていないページを一枚ちぎってペンと一緒に渡した。

「はい」

「ありがと、じゃあ、デイビットを描くわね」

前みたいに何を描くのだろうという不安はないが、絵のモデルになんてなったことがないので、真正面からメアリーにじっくり見られることが恥ずかしくてしょうがなかった。

相変わらずメアリーは、迷いのない手つきで、踊るように絵を描く。

「ねぇ、デイビット」

「どうした?」

「しっかりこっち見て」

「わかった」

藍色の瞳と目が合う。

照れてしまいそうになるが、メアリーの表情はいたって真面目で、俺が照れてしまうことに申し訳なく感じてしまう。

「なぁ、メアリー」

「どうしたの?」

彼女は手を止めないで話をする。

「今日の仕事でお金貰えたらさ、多分もう少しで外の街に逃げる資金が貯まるんだ」

「本当に?」

「あぁ。だからさ。その、一緒に行かないか?」

「その話朝にもしなかったかしら」

「そうだったかな」

「いいよ」

「本当に?」

「化け物だもの、人間と違って自由なのよ」

「化け物ではないと思うけど」

「化け物よ」

「自由ではあるな」

「でしょ?」

「そうだな」

そうして二人笑いあった。


 楽しい時間はあっという間に過ぎていくようで、気がつけば夕方になっていた。

仕事がいくつか残っている。

灰を集めなくては。

「メアリー、その絵の途中ではあるけれど、仕事をしなきゃ」

俺のその言葉で、ようやく周りが暗くなり始めていることに気づいたらしい。

驚いた様子で、俺を見ていた。

「あら、もうこんなに時間が経っていたのね」

そこでようやく手を止めて、ため息をついた。

「まだ完成していないのに」

「仕事が終われば、夜の仕事までにもう少し時間があるだろう」

「じゃあ、仕事頑張るしかないわね」

「そういうことだ」

二人で、ガスマスクを付けて外に出た。

夕焼けに染まる街の中、二人はただ、灰を集めていた。


 仕事が終わる頃にはすっかり夜になっていた。

しかし、いつもの夜よりも明るい。

月明かりが、街を照らしているからだ。

空を見上げれば、星がちらほらと見える。

「夜空なんて、いつ振りだろうな」

「そうね、もう何年も見ていないような気がする」

二人でそう言って、空を見上げる。

「知っているか?」

「何を」

「田舎の方は夜空が綺麗なんだ」

「これでも十分綺麗だと思うけど」

「空気が綺麗なぶんもっと多くの星が見えて、夜空いっぱいに星がある」

「へぇ、そんなにも。早く見てみたいわね」

「あぁ、そうだな」

二人、教会の前でただ、空を見上げていた。

いくつか明るい星が見える。

橙の星、赤い星、青い星。

星なんて、もう人生で、見られないと思っていた。

「どうして星は輝いているのだろうな」

「分からないわ」

たわいのない会話でも、隣にメアリーがいるだけで楽しいと思えた。

「ねぇ、デイビット」

「どうした」

「仕事って何をするんだろうね」

「分かんない」

「分かんないことだらけね」

「そんなものだ」

分からないものだらけで、理不尽なことばかりのこの世界で。

ただ、親の無実を証明するためだけに生きてきた。

でも、今は、メアリーの近くに居られるだけで嬉しい。

彼女の隣が、俺の居場所になってきている。

メアリーだけじゃ無い。

パン屋の老夫婦の優しさに触れて。

俺は、多分。

この現実を、ただ、辛いだけのものだと思えなくなっている。

だが、それが。

それが、どこまでも心地よいことで。

本当に幸せで。

それだけで、どんな理不尽でも乗り越えていける気がした。


 教会の中に戻ると、月明かりに照らされたステンドグラスの下に、牧師がいた。

牧師は、一冊の本を片手に俺たちをじっと見た。

「あの、牧師さん」

俺が、声をかけようとしたその時だった。

牧師は本を投げ捨てるようにして、高笑いをした。

甲高い耳障りな声が教会の中に響く。

「どうしたんです?」

「これで、これで」

「あぁ、君たち。君達にはね。私のために生贄になってもらおうと思って」

一瞬、そいつが何を言っているのか理解できなかった。

そのせいだろう。

窓を破って入ってきた、その化け物に反応するのが遅れた。

右の下腹部あたりに鈍い痛みが走って、体が浮く。

壁に叩きつけられて、うまく息ができない。

「はっ、はっ」

息を吐くだけで限界だ。

壁にぶつかった衝撃で、ガスマスクは壊れてしまった。

蜂蜜の甘い匂いと、腐った魚のような腐乱臭が入り混じった忌々しい匂いが鼻をつく。

「が、はっ。はっ。はっ。」

うまく呼吸ができない。

メアリーが、叫んでいる。

怪物が、彼女に手を伸ばす。

ダメだ。

それだけはダメだ。

やっと見つけられた居場所なんだ。

父が死んでからずっと無かった俺の居場所を。

俺が、隣にいても良い場所なんだ。

床を這いずり、メアリーの元へ進もうと足掻く。

痛みで、脳がうまく働かない。

化け物が、俺の足を踏んだ。

その鋭い爪が、俺の足を刺す。

「がぁ。ぐっ」

痛みで声が漏れる。

だが、そんなことは些細なことだ。

先に進まねば。

メアリーを助けねば。

手を伸ばして、床を掴み。

一歩でも良い。

メアリーの元へ。

化け物の爪が、俺の背中を裂いた。

「グあぁぁぁああぁぁああぁ」

痛みで、意識が飛びそうになるのを、なんとか堪えた。

目の無い黒いコウモリのような、虫のようなその化け物が俺を裂くのだ。

2・3メートルほどのその巨体で。

俺は虫けらのように地面に伏している。

だが、それでも。

例え、どのような理不尽でも。

彼女となら、超えられる。

そう思ったんだ。

「そう思えたんだ」

手を前に伸ばし、這う。

「嫌だ。もう居場所がないのは嫌だ。」

一歩。また、一歩。

「誰とも話せないなんて嫌だ。誰かと話していたい」

メアリーに届くまで。

「もう嫌なんだ。理不尽な暴力に屈して、ただ、生きるだけの人生を送るのは」

あぁ、非情。

俺の眼前には、化け物の爪がある。

きっと、時が進むのがゆっくりなのは、もう俺が死ぬからだ。

ゆっくり俺に爪が近づく。

嫌だ。

死にたくないなぁ。

せっかく居場所を見つけたのに。

せっかく救貧院を出られると思ったのに。

最後に、美味しいパンを腹一杯食べたかったな。

完成したメアリーの描く俺を見たかったな。


声が聞こえた。


 目を覚ますと、周りには化け物と牧師の死体、そして巻き込まれた人々の死体があった。

俺の手には一冊の本と手帳が握られている。

『認識の王』

タイトルにはただそれだけが書かれている。

そうだ。

思い出した。

この本を消すために、父は。

あの日、あの劇場で。

そして、あの手帳は。

もうすぐ、俺が世界の誰からも、俺として認識されなくなる。

俺すらも、俺を認識できなくなるだろう。

王の力を借りた代償だ。

メアリーは、瓦礫の中、寝息を立てている。

気絶しているのだ。

俺は、彼女の体が冷えないようにと、着ていたコートをかけた。

空を見上げれば、牡牛座のアルデバランの星がこれでもかと輝いている。

クソッタレが。

だが、こればっかりはどうしようもない。

天候なんて、人の手でどうにかできる様な物ではない。

手帳に挟まれた紙が一枚ひらりと落ちた。

そこには、描きかけの俺がいた。

「少し、俺よりかっこよすぎるんじゃないか?」

それだけ言って、その絵を俺はメアリー着ていた服のポケットに忍ばせた。

たとえ、俺が俺で居なくなったとしても。

これは、俺がこの世界に存在していた証明だ。

彼女が、言っていたことの意味が今なんとなく理解できたような気がする。

せめて、メアリーだけは。

俺のことを、忘れないでいて欲しいから。

誰かが、俺を思い出してくれるまで、俺はきっと俺でなくなってしまうのだろう。

薄れゆく意識の中、彼女の手をそっと握った。



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