メアリー

常本

第1話 幼児

 鏡に映る自分を見ると、嫌でも昨日のことを思い出す。

妻が、目の前で殺されたあの時のことを。

思わず吐きそうになる。

目の前で、妻は、まるで魚人のような男に、あの腫れぼったい目をした気持ちの悪い男に。

あぁ、気色悪い緑色の肌をしたあいつに頭を撃ち抜かれて。

クソ!

鏡を殴りつけるとヒビが入った。

「パパ、どうしたの?」

脱衣所の外からメアリーの声が聞こえた。

「あぁ、ごめんね。メアリー」

外に聞こえるよう大きな声を出した。


メアリー、愛しの我が娘。

俺に残された唯一の宝物。

俺にはもう彼女しか残されていない。

存在意義そのものだ。

メアリー以外の全てが憎い。

俺から、妻も仕事も奪っていった、あの魚面が憎い。

「畜生」

ガスマスクを着けてコートを羽織った。

産業革命以降、この世界はすっかり汚れてしまった。

早死にしたくなければ、ガスマスクを着けて外に出なければならない。


 脱衣所を出ると、メアリーがいた。

「準備、できたよ」

メアリーは、ガスマスクを着けて黄色いレインコートを着ていた。

「あぁ、良かった」

チャイムが鳴った。

誰だ?

これから、出かけようという時に。

「パパ? 出ないの?」

立ち尽くす俺にメアリーが問う。

「ちょっと待っていてくれ」

メアリーに言い残し、寝室に走る。

何が来るか分からない。

また、あの魚面かもしれない。

ベッドの下からショットガンを取り出した。

昨日でこれを使うのは最後にしようと思っていたのに。

メアリーの元へ戻ると、メアリーは玄関を開け、ナニカと話していた。

あぁ、それは。

それは、あの緑色の肌、気色の悪い鱗のようなデキモノ。

「かずゃえしあ、くはえ、さはほあどずょえそうくきにきっち?」

クソッタレが!ぶち殺してやる!

「あぁあああぁああぁああぁあぁ!」

叫ぶより早く、銃口をアイツに向けた。

バケモノが、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

「その汚い体で、醜い姿で、俺の大切な娘に近づくんじゃねぇ!」

引き金を引いた。

弾けるような音とともに、奴から緑色の液体が飛び散った。

メアリーに掛かってしまう。

クソが!

死ぬ時までこちらの気に触る。

「トモォ!」

バケモノの連れらしきものが、懐から拳銃を取り出しこちらに向ける。

その手はやはり緑色で、あぁ、この街は魚面しかいないのか。

「死ね!」

彼が放った弾丸は俺の腹をかすめ、俺が放った弾丸はやつの頭を貫いた。

不思議と痛みはさほど感じない。

外から悲鳴と怒号が聞こえる。

恐怖と怒りの声だ。

「メアリー、行くぞ」

ショットガンを片手に、メアリーを抱き抱え走り出した。

ここに居ては化け物の仲間たちが集まってきてしまうのではないかと思ったからだ。



 仕事に嫌気がさし、妻の実家がある田舎町に引っ越して穏やかに暮らそうと思っていた矢先、妻が死んだ。

 「メアリー、大丈夫か?」

 生きていく希望を全て失ったような気がした。

家族だけが、俺の心の支えだったから。

「パパ、怖いよ」

「大丈夫、また化け物が来たらパパが守ってやるから」

メアリーを抱き抱える腕に自然と力が入った。

「違う、パパ」

違う? 何が違うのだ。

「かう、にぬいとっあぢ?」

ぬるりとした何かが、俺の肩を掴んだ。

そちらを見れば、鱗のような出来物に覆われた緑色の腕が、俺の腕をつかんでいた。

化け物!

思うが先か、その化け物にショットガンを向け、引き金を引く。

大きな銃声、一瞬の静寂。

それから、メアリーの泣き声が響く。

「大丈夫、化け物はやっつけたよ」

片手でショットガンを撃ったせいか、反動で肩が外れそうなくらい痛い。

化け物は呻き声を上げながら、その緑の体液を撒き散らす。

「ごめんな、メアリー。怖いよな」

メアリーは震えながら泣き続けた。

俺は、いく宛も無いまま走った。


 3


 下水が流れる川のほとり。

俺たちは化け物に囲まれていた。

言葉にならない叫びを彼らはあげる。

皆、揃って拳銃の銃口を俺に向ける。

メアリーを物陰におろし、一人、立つ。

彼らは皆ガスマスクをつけて警官の着る制服を着ている。

化け物の人間ごっこか。

そうやって、ガスマスクをつけて人間世界に溶け込んで。

畜生。

この街はいつの間に化け物の手に落ちていたんだ。

そのうちの一体が手を挙げると化け物達は一斉に俺を撃ち始めた。

鈍い痛みが全身を襲うが、耐えられないことは無かった。

弾が尽きたのか一瞬の静寂が当たりを包んだ。

虚をついて、化け物たちに向けてショットガンを放った。

悲鳴のような怒号のような叫びとともに、化け物達はもう一度銃を撃ち始めた。

俺は、弾が続く限りショットガンを撃ち、弾が切れれば化け物が落とした拳銃で戦った。


 どれほど戦っていただろうか。

俺以外に立っているものは居なくなった。

「メアリー!」

叫んでメアリーの元へ向かうと、彼女は怯えた様子で俺を拒んだ。

「パパ怖いよ!やめてよ!」

何を言っているんだ。

「パパはメアリーを守るために」

本当だ。娘だけが、メアリーだけが俺の生きる理由だから。

「おかしいよ、パパ。どうして警官の人を殺すの?」

人?

「どうして話しかけてきただけの人を撃つの?」

何を言っているんだ?

「おい、メアリー。何を言っているんだ?」

手が震える。

頭が痛い。

何か、何かを思い出そうと頭が痛む。

うるさい、うるさい。

「パパ!ママが居なくなってから本当におかしいよ」

うるさい。

「やめろぉ!」

メアリーの顔を叩いた。

ガスマスクが飛んでゆく。

メアリーの顔を見た。

それは、魚のような化け物そっくりの見た目をしていた。

「あぁ、クソっクソっクソォ!」

手に持った拳銃を化け物に向ける。

手が震え、標準は合わない。

「さいうわ!ばえすと」

さっきまで娘の声だったそれは、化け物の意味をなさないダミ声に聞こえる。

「あぁ、ああぁ!」

娘の格好で、娘の声を出して。

クソクソクソクソ!

「クソォ!」

引き金を引いた。

化け物が倒れる。

涙が止まらない。

吐き気がして、川の方へ這いつくばって進む。

ガスマスクを外して吐こうとした時。

川に映る自分を見た。

あぁ、そうか。

そうだ。

俺が化け物だったんだ。

腫れぼったい目、異様に太い唇。

緑色の皮膚に、鱗のような出来物。

俺が買った、絵画の魚人のような見た目。

俺こそが化け物。

そうだ、俺が。

俺が。

人間から化け物に変わっていく現実を受け止められなくて。

ある日、妻に化け物になりつつある俺の顔を覗かれて。

それで。

俺が殺したんだ。

鏡の前で。

鏡に映る俺が、化け物だったから。

あぁ、あぁ。

畜生! 畜生!

俺は、俺は。

振り返ると、警官の死体の山。

倒れているメアリーは微かに胸を上下させ、かろうじて息があることがわかった。

最愛の娘の元へ行く。

銃弾はどうやら左耳を破壊しただけで、命までは奪っていなかったらしい。

惨たらしい彼女を見て。

俺は、父親を名乗る資格がないことを知った。


 海に行こう。

海ならば、俺のような魚人がいるかもしれない。

そうだ、海に行こう。

川に飛び込んでひたすら下流を目指した。

全てを忘れるために。


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