第9話 僕の過去と水のダンジョン

 陶器のように滑らかで真っ白な肌、鮮やかな銀の髪。まつ毛の長い瞳を瞑ったままの少女はとても同じ人間とは感じられなかった。 

 縫い目のない白と青の羽衣を纏って、裸足で佇む天女の如しその姿は俗世から逸脱した神々しさを想像させた。


「貴方は誰ですか」


 気付けば、敬語が口から零れていた。

 抑えきれない畏敬の念をもって、彼女を見つめる。


 そんな僕の言葉に対して、彼女の唇が小さく弧を描いて笑う仕草をした。

 それは笑いとはほど遠い名ばかりの微笑で、彼女の閉じたままの瞳は決して細まることなく僕の一挙手一投足を凝視している。


 そう思わせるだけの威圧があった。


『初めまして、夕陽。

私達は迷宮ダンジョンの一部、精神の拠り所の水の迷宮ー習志野迷宮ーに棲まう無数ある存在の一欠片ですわ』


 気を抜くと、心を預けてしまいたくなるほど恐ろしく綺麗な声音であった。


「迷宮の一部?」


『ええ。貴方にとって迷宮とはどんな存在かしら。敵? 富を与えるモノ? それとも人類を脅かす未知かしら』


 ルーカスは我々は迷宮を冒険するだけにあらず、未知と人類の生存方法を探しに征く、と説いた。さすれば彼は迷宮を人類を脅かす未知だと捉えていたのだろう。


 そして、上水流は魔獣を明確な敵だと僕に告げた。その魔獣を生む迷宮は最大の敵に相違ない。


 じゃあ、僕にとっての迷宮は?


 僕が大金を稼げるフィールドを与えてくれた唯一の存在。富を与えるモノになるだろう。


 けれど、それだけではないはず。


「どれも当てはまる存在だと思います。現に僕は命を脅かされながらも、お金の為に潜っている。貴方達は僕たち人間にとってどんな存在だと考えているんですか」


『そうね。私達迷宮は……貴方達の味方であり、敵であり、侵食者であり、付与者であり、脅威であり、未知であり、何でも無い、そんな存在です。

まだ、ハッキリとは決まってないのです。二百年も経ってない私達と地球さんとの関係ではね。だけど、それもあと数十年もすれば決まりますわ』


 会話が成り立つことに薄ら寒さを覚える。

 ふと、天井を見上げると雨はいつの間にか止んでいた。僕たち二人だけの会話が場を制している。


「数十年後に何か起こるんですか」


『ウフフ。それはその時のお楽しみ、です♪ だけどヒントはあげますわ。

貴方達が私達の一部を迷宮の外へ出し続けているそのおかげで、年々大気中の魔素濃度は上がっています。やがてそれが臨界点に達すれば、私達も迷宮の外にも出られるようになるのですよ』


 彼女が数歩ずつ、僕の元へと歩み寄る。

 足音も立てずに一歩、また一歩着実に距離を詰められる。


「そんな重要なことをバラして、迷宮資源を出すのを止められるとは思わなかったんですか。僕が協会に話せば」


『ウフフ。その言葉はナンセンスですわ。

人類には無理ですよ、欲を止めることは。楽をした生活を我慢し、再び不自由に身を置くなんて!

私達は地球の未来を千里眼を通してみましたわ。地球温暖化が進んで食糧危機が悪化し、遂には核戦争を始めた貴方達は自らの手で青い惑星を死の惑星へと変えていました。それは貴方達が欲望のままに生きた成れの果てでしたのよ』


 彼女が立ち止まり、両手を重ねてゆっくりと開く。その両手の中には地球とおぼしき物体が現れた。 


 そして突如白いきのこ雲が幾つもその球体から上空へ浮かんでいき、上がった部分からジワジワと茶色の惑星へとその姿を枯れされていく。


「核はまだしも、魔石をエネルギー源として二酸化炭素の排出をかなり抑えることに成功した現代で地球温暖化が進むとは」


『思えない? ウフ。夕陽は迷宮が存在しない21世紀の世界を生きていないのだから想像できないのは当たり前でしょうね。もっとも、核戦争になったのはずぅっと後の世紀ですけれど。どちらにしても人類に未来はありません』


 両手をパンと叩いて彼女は虚像の地球を消してしまった。再び開いた手は真っ白で、何もなかったかのように全て消え去っている。


雪のように白い素足で床を踏む。目の前まで歩み寄って、ようやく彼女は動きを止めた。


『ところで。私達は迷宮を通して、地球に溢れた魔素を通じて貴方達をずっと見ていました。夕陽の行動と心がかみ合ってない様は非常に私達を楽しませてくれましたわ。だから、逢いに来ちゃいましたの』


 彼女が再び両手を広げた刹那、僕たちの体が床をすり抜けて闇へと沈む。僕は声も上げられず、闇に飲まれた。


 落下が止まり、闇だけだった景色が替わる。


 隣の彼女は少女の姿のままであるのに、僕はいつの間にか学生服を着ていて心なしか体が縮んでいる。僕らは洞窟の天井近くから俯瞰して、眼下の光景を見下ろしていた。


『実は夕陽が中1の時に潜った土の迷宮ー松戸迷宮ーで、同級生から骨を折られる重傷を負わされた時もずっと見ていましたの。貴方の絶望と足掻きはとっても面白かったですわ』


 洞窟の中を、大人二人、中学生四人で歩いている。大人二人の手には刃の長い武器が握られ、僕らの手には催涙スプレーと殺傷能力の低い武器-僕の腰には木刀がぶら下げられていた。


あれは、特別に入場が許されたE級迷宮で、D科授業の一環野外学習として上位魔獣から逃げる訓練を受けた時だ。


同級生三名の内の一人を見咎めて、思わず体が震え上がった。


 四王天しおうでん 弓愛ゆみあ


 僕が連の友人であることを快く思っていなかったクラスメイト。

 名門大企業グループ創設者の孫娘にして当時レベル15の限界突破領域に達していた実力者で、人心掌握術にも長けた悪魔のような子。


 教室では人目につくからと、わざわざ当時の引率を勤めた探索者と教諭、班の取り巻き二人も懐柔して凶行に及んできた。


 当時の感情が、空気が、恐怖が込み上げてくる。


「なぁんで、アンタみたいな凡人が連様に図々しく付き纏ってんの? 

連様はアタシ達のような将来有望性のある子覚醒者やレベルの高い子同士で過ごすべきなのよ。ちょぉっとばかり頭が良いからって調子に乗ってんじゃないわよ。身の程知らずにはアタシ達が直々に罰を下してあげるわ!」


 恐怖に染まりきった僕の身体を二人の取り巻きが押さえ込み、四王天は僕の背に跨がって容赦なく右腕を折った。大人達は悲鳴を上げる僕から視線を逸らし、見て見ぬ振りをした。


 後で知ったが、四王天が二人に金を握らせて黙認させていたという。


 四王天らの悪意に堪らず、僕は全員を振り切って逃げた。子供も大人も一緒くたになった5人の悍ましさに涙が溢れて、彼女達からとにかく離れたかった。


 逃げて逃げて、ひたすら暗い洞内を走る。

 ゴブリンと遭遇する度に、催涙スプレーを振り回して奥へと逃げ続けた。


 それでも洞窟の行き止まりでゴブリンの大群に遭遇して、その時はもう逃げ切れなくてゴブリンが銘々の武器を手に襲いかかってくる。


 沢山の返り血を浴びたであろう鈍色の刃が、僕の体に迫ったその一瞬。壮烈と現れた連によってゴブリンどもは水の大剣に一瞬で切り刻まれた。僕はゴブリンの返り血をベットリ浴びて、彼に友情以上のモノを見た。


 勇ましく魔獣に立ち向かう連を見て僕は、それ以来彼を上水流と呼ぶ事に決めた。

畏敬の念を込めて、親愛の情を込めて、感謝を込めて。


 凡人で弱い僕に彼の名を呼ぶ資格はないと思って、それ以降態度には表さずとも僕は彼をずっと尊敬して下の名を呼ぶのを止めた。


 けれど、彼はその僅かな変化をすごく気にした。


 探索を一時止めるほどに心を痛めて、徹底的に四王天弓愛と対峙して僕の傍にずっと居続けた。四王天の手が僕にかかるのを全て防いでくれた。

僕が今も平穏に学校生活を送れているのは彼のおかげだ。


『これが夕陽と上水流連の差ですわね。今もその差は歴然と開いたまま、連は遥か高みにいますわねえ。連は私ではない存在に愛されたみたいですけれど、強いわ』


 傍でクスクス笑い声が起こる。ふと、横を見ると迷宮の彼女が僕の心臓部辺りに手を置いた。心臓が激しい音を立てて鼓動が全身に響く。


『私達は夕陽はもう潜らない弱き者になると思っていました。けれど、予想に反して貴方は私達の水の迷宮ー習志野迷宮ーを訪れましたわ。

 私達はずっとその様子も見ていましたの』


 彼女が手を離して下を見るよう指さす。その動きに従うように視線を彼女から移すと、眼下の景色が変わった。燦々と降り注ぐ太陽が草原を緑色に照らしている。僕と上水流が緑の草原を歩いていた。


 紛れもなく、あの腕を折られた数日後の光景。


 あの日、彼に無理やり頼み込んで僕は水のダンジョンー習志野迷宮ーに潜った。


 手足は震え、目には涙を溜めていたけれどそれでも、ぼくから彼を解き放ちたかったから。


 僕のせいで、偉大な上水流の探索者道が絶たれてしまうことに僕は恐怖した。

 それは僕がもう一度迷宮に潜ることよりずっと、恐ろしいことであった。


 二階層まで震える足で進んで、大丈夫だと引きつる頬で笑顔を作った。

 それでも彼の顔は曇っていて、時折爪を噛んで深刻な表情を浮べ続けていた。だから……。


 シトシト雨が降り注ぐ中、足下にいた蝸牛をつまんで声高々に歌った。


「でんでんむしむし かたつむり♪ おまえのあたまはどこにある♪」


 道化の僕を演じた。過去の事など全く気にしない無邪気さを装った少年の僕。

 その姿を見てやっと上水流の顔に笑顔が、それは苦笑であったけれど、険しく常に研ぎ澄まされていた顔が年相応の少年へと戻った。


『あの後の連の様子も見ていましたわ。彼はその次の日からまた迷宮に潜っていました。ここではなく、もっと上位の迷宮でしたけれどね。ウフフ。貴方は誰かの為なら行動できる子だった』


 彼女が手を叩いた。景色が元の、習志野迷宮のボス部屋へと戻る。


 けれど僕の体はいつの間にか仰向けに倒れていて、背中の傷が床からの圧迫に悲鳴をあげていた。右手の火傷も激しく痛みを訴えている。


「ッ……!!」


「痛いですの?」


 彼女が僕の顔の横に両手をついて、僕をのぞき込む。銀の髪が頬を撫で、初めて彼女は瞑っていた瞳を開けた。


 彼女の瞳は全てを映していて何も映してはいない。何色とも何に似ているとも形容できないこの世に二つしかない対の瞳であった。


『上水流とは今でも友達なのかしら? 今日も二人で潜りに来てたわね』


 今だに彼は僕の傍に居続けていてくれている。


「大切な親友です。彼に手を出すことは僕が許さない」


『ウフフ。怖い怖い。そんなつもりはないわ』


 彼女は今度は床に腰を下ろして、僕の方に向き直った。

 そして僕の右腕を華奢な手で撫でていく。肩、肘を伝って指先へとゆっくり優しく降りていく。彼女が触れた部分から熱と火傷の痛みが引いていった。


『かたつむり♪ 素敵な歌ですわ。

 けれど、夕陽はあの日を最後に迷宮を訪れなくなりました。だから私達は結局、貴方を何処にでも居る子供の一人だと思って見なくなりました。


 けれど、夕陽は愛する家族飼い猫のウタの為に再び潜りましたのね。また、道化のような真似をして』


彼女の手は急速に冷たさを帯びて、熱が吸い取られるようだったがその手は柔らかくて、甘く肌を撫でさする。


不意に、僕と彼女の間に三日前に潜った時の様子が浮かび上がる。


「我々は迷宮を冒険するだけにあらず.

未知と人類の生存方法を探索しに征くのである.byルーカス・ハワード」


 顔の前に手を当て、人差し指をピンと真上にのばし親指と中指を左右に広げた決めポーズをとり、声を潜めた低音ボイスで言い放った道化の僕がいた。


 『夕陽は水の迷宮ー習志野迷宮ーに、火土の迷宮ー勝田台迷宮ーに立て続けに潜っていました。

上水流がデトロイトへと去って、か弱い親と共に潜らなくてはいけない悲しみと不安を抑え込んで、今日も潜った。なぜなら、夕陽の心には炎が灯っていたから』


 勝田台迷宮に潜った時の、昨日の気持ちを思い出す。上水流を超えたいと思った。

 だからこそ、決意してこのボス部屋に来た。


「強く在りたい」


『ええ。貴方は愛するウタの治療費を稼きたいと願った。友を超えたいと、魔獣を倒して進む探索者になりたいと願った。

 スライムしか倒せなかった貴方が何匹もの魔獣を倒し、強く在りたいと、またあの歌を歌って自らを鼓舞した。

 だから、私達は応えました。大炎海蝸牛という形で貴方の前に現れましたの』


 彼女は僕の指に手を絡め、空いている方の手を僕らの間の宙へと向ける。残像が全てかき消されて、その指先に先ほどまで対峙していた魔獣-全身に炎を纏った小さな大炎海蝸牛が浮遊する。


『今の夕陽の周りには雨が降っているのですわ。大炎海蝸牛も倒せる実力があるのに、その雨のせいで倒せない。大きな雨が降っていますねぇ。だから、貴方を試そうと思いますの』


 彼女が大炎海蝸牛を指で弾くと、その姿が弾けて太陽を模した魔方陣へと変わった。刹那、繋がれていた右手の甲が燃えるように熱を帯びる。


『朝焼けの如く燃ゆる欲望の魂のままに潜って


無情の雨が降り注ぐ現実ウタの病と貴方を取り巻く環境をはね除けて、全てを晴れに変えて叶えて見せなさい。


 貴方の生命を賭けなさい。雨の今を晴れに変えるために。


 さすれば相応の力を与えますわ。夕焼けに輝く貴方の闘いを見せてくれた暁には、貴方の望む大金を稼げる力を授けますわ。人が呼ぶ”奇跡”というものを与えましょう。ですから、魔獣私達と闘うのです』


 彼女の手を強く握り返す。もう彼女を恐ろしいと思う気持ちは消えていた。これはチャンスだ。手放せば二度と来ない、凡庸な僕に訪れた一世一代の命を賭ける場だ。


「必ず、僕の闘いを見せます。だから、僕に力を下さい」


『ウフフ。素直な少年は素敵ですわね。いいわ。これは契約です』


彼女の絡めていた手が離され、右手に力が凝縮されていくのが分かった。


『朝焼けは雨、夕焼けは晴れ。これは夕陽だけの特別な契約。夕陽が輝きを放っている間は力が発現し、曇れば全てが消える契約ですの。この魔方陣を通して私達は夕陽の全てをみていますわ。貴方だけの面白い闘いを』


 床に散らばっていた全ての荷物が、彼女の手が離されて僕すらも空中に浮いていく。ゴゴゴ……と、扉が開く音がした。


 ハッと下を向くと、彼女は光の粒子となってその姿を散らしつつあった。


『私達の期待に応えますのよ。夕陽。これは先行投資ですわ』


 左手の中に何かが現れ、慌てて握る。それは石のように固い何かであった。


「僕を見ていて下さい。ありがとう」


 彼女の唇が小さく弧を描く。

 それはとても美しい微笑で、消えゆく指先で僕を外へと押し出していく姿はとても神々しく、まさに少女を依代として受肉した神であった。


迷宮の瞳私達は常に貴方を見ていますわ』


 僕は扉の外へと押し出され草地に放り出される。


 シトシトと雨が降り注いで濡れた青草の匂いがここは現実であると証明していた。怪我を負って血を流しすぎていた体が限界を迎えて意識が霞んでいく。


 微睡んでいく中で、確かに夕陽と叫ぶ親友の声が聞こえた気がした。

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