第7話 強く在りたい

6月1日(水) 自宅。時刻は17時過ぎ。

 今日は動物病院に寄ってから習志野迷宮のボスを倒しに行くつもりだ。両親は共働きなので必然的に平日は僕が病院に行く事になった。


「ただいまー」


 キャリーケースを揺らさないよう忍び足で廊下を歩き、居間の上敷きにそっと下ろす。中で小さく身動ぐ、飼い猫ウタの気配がした。


「おかおか」


 座卓テーブルを占領して勉強中だった上水流の声が飛んでくる。ちらりとそちらへ目をやると、熱心に取り組んでいる参考書は動物病院へ行く前と変わらず……。


「ページが同じ」


「バレたか。まあその、いや何でもねー」


 上水流の目が左右に泳ぐものの、開かれた唇はすぐに閉じられてしまった。


「?」


 しばらく待っても続きの言葉は発せられない。そして無言のままに参考書へと向き直ってしまう。さては言い訳が思い付かなかったな。

 

 視線をキャリーへと戻す。


「おかえり!」


「ニャー」


 はやる気持ちをおさえて扉を開けると、ヨロヨロとしながらも黒い足を動かしてキャリーからウタが顔を出した。


 真っ黒な体は所々骨が見えるほど痩せ細り、畳の匂いを嗅ぐ仕草に覇気はないけれど、嬉しそうな表情を浮かべている。

 小さな鼻を膨らませて久しぶりの我が家の空気を目一杯吸い込み、ほっとしているようでもあった。


 その頭を撫でると、確かな体温と少しベタついてしまった毛の感触が伝わってくる。ウタは喉をゴロゴロと鳴らした。


 動物病院でずっと治療を受け、五日ぶりに帰って来れたのだ。


「ちょっと待っててね」


 水で濡らしてよく絞ったタオルを持ってきて体を拭く。ずっと管に繋がれて毛繕いも禄に出来ていなかった毛並みはパサパサでベタついてしまっている。


「ニャオン」


 膝にのせて丁寧にタオルで毛を撫でていくと、ウタは気持ちよさそうに目を閉じて身を任せている。その姿はまるで年老いた猫のようであるが、ウタはまだシニアにさしかかる年ではない。先月までは元気に走り回っていたのに。

 

 あっという間に衰弱していく姿に、手から砂がこぼれ落ちていくような不安を覚える。目尻に涙が溜まって、慌てて拭う。


 通常治療は受けされてもらえることになったんだ。まだ三ヶ月の猶予はある。


「ウタ、絶対助けるからね」


 黒い毛並みを今度は乾いたタオルで拭い、水分を念入りに取る。小さな頭を項垂れて、ウタは膝で丸くなった。


「なあ、さっき留守預かってる時にな。協会から連絡があったんだ」


 唐突に重苦しい抑揚を孕んで上水流がそう呟いた。


 顔を上げると、今までに見た事がないようなバツの悪い表情をされる。


「連絡?」


 参考書が手につかないほど重要な事だったのだろうか。


「ああ。俺もデトロイト迷宮攻略レイドに参加してくれっていう要請だった。開始日が6月5日で、要請を受けるんだったら今日か明日中に返事をくれって」


「あ……」


 続く言葉が見つからず、開いた口はパクパク空気を吐くばかりで頭が真っ白になる。今上水流がいなくなったら、僕は。


「大変な時にすまん。話すタイミング逃しちまってたんだが、実は先々週Bランク探索者に昇格しててな。俺も海外迷宮に潜れるようになったんだ。昇格して初めての要請だからどーしよーかと思ってよ。まー断っても大丈夫だとは思うわ!B級は数合わせだろーしよ!夕との方が先約だし、それに5日は夕陽の誕生日だからな!」


 無理やり語気を強めて語る上水流の表情は、明らかに引きつっている。


 大丈夫なわけがない。


 探索者ライセンスの階級は八段階あり、F→E→D→C→B→A→S→SSへとランクが上がっていく。Bランクからは世界中の迷宮攻略レイドに参加することができ、また各国の政府や探索ギルドから要請を受ける事もある。要請は当然断ることもできる。


 しかしBランク段階での相当理由なしでの拒否は、海外迷宮を攻略する気はないと口外するようなものだった。

 さらに上位の一流探索者を目指すのなら、海外迷宮に潜ることは人脈を作る上でも、経験を積んで大金を稼ぐ為にも、日本探索者協会含む各ギルドから信頼を得る為にも欠くことの出来ない重要な案件。


 おまけに、今回の要請は彼のルーカス・ハワードが率いるレイド。

 蹴れば、ルーカスにその腕前を披露してお墨付きを貰うチャンスはもう巡ってこないだろう。

 メディアの注目を一身に受け、名門探索者高校・大学、企業ギルドにその名を広める機会だって奪われる。将来がかかっている。


 心臓が早鐘を打って、呼吸が荒くなり頭がぐるぐる回る。引き留めてはいけないと分かっている。口が裂けても行かないでとは言えない。


 上水流の探索者人生がここで決まってしまうといっても過言ではない。


 だけど……。


 膝で丸くなるウタに視線を落とす。ガリガリに痩せた身体がタイムリミットを激しく主張する。


『現段階での見解ですが、このままですとウタちゃんはあと3ヶ月が限界かと思われます。栄養状態が非常に悪く、治療で脱水症状は緩和できましたがかなり難しい状況です。今はとにかく痛みを和らげて、体力を回復させてあげるしかありません』

 

 獣医が語る言葉が脳裏に蘇る。


 ウタは小さく寝息を立てている。もう薬が効いて眠くなったのだ。これからは一日中、ぼんやり起きたり眠ったりを繰り返す日々になるという。


 現実は無情である。僕にはどうしようも出来ない巨大な波が、ウタの生命を押し潰そうとしている。

 勝田台迷宮ですら上水流に手助けしてもらってやっとなのに、僕はこれから一人で。僕はまだ彼の足下にすら及ばないというのに。


「要請、断ったら、ダメだよ」


 喉の奥から引き絞るように声を発する。目から大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちる。


「上水流の探索者人生がかかってる」


「夕陽…すまん」


 今までに聞いたことがないほど覇気の弱い上水流の声が僕の耳に届く。


 金もなく、弱いばかりに。上水流にもの凄い負担をかけてしまった。僕の我が儘に何日も付き合わせてこんな重い決断を下させて、僕は最低だ。

 早口になりながらも必死に言葉を紡ぐ。不安を見せないように、感じないように。


「僕のことは気にせず、その実力を周りに見せつけてきてよ。こんな千載一遇のチャンス、逃したらダメだ。上手くいけば上水流が行きたがってた夜ノ森高校の推薦だって貰えるかもしれない。絶対に行って!」


「そーだけどよ。俺がいなくなれば、夕陽は満足に潜れなくなる」


「土日に父さんか母さんが一緒に潜ってくれれば、どうにかなるよ。大丈夫、僕はすぐ条件をクリアしてみせるよ。平日は迷宮に潜る人にお供してもいいか、手当たり次第頼み込むし。中には僕と一緒に潜ってくれる優しい人もいるかもしれない」


「潜れても怪我して倒すことになっちゃ本末転…いや、すまん」


 上水流は口を噤み、視線を彷徨わせた。

 僕が迷宮に潜って感じていたことを上水流が思わないはずがなかった。僕は上水流に守られる弱者ですぐに怪我を負うほどに弱い。オアシスで思い知らされた。


「怪我が残ることは覚悟してるよ。致命傷さえ避けれればそれでいい。なんとか…ヒック…なんとかなるって!」


 言葉とは裏腹に僕が怪我で潜れなくなり、膝の温もりがやがて消えゆくことに恐怖する。僕一人でどうにかなる、そう言い聞かせても最悪の未来が頭を過っていく。


 ウタ……。

 弱い僕でごめん。すぐに助けられなくてごめん。


 僕にもっと力があれば!! 上水流のような力を持っていれば!!


 魔獣を屠る強さがあれば、難なく魔獣を倒す事だって、カードが出るまで狩りまくる事だって出来たのに。勝田台迷宮で数万円稼いでポーションを買って防具を買ってさらに稼ぐルーティーンも出来て、その金で脱出系カードを買ってすぐにでも探索者になれたのに。


 怒りと悲しみとやるせなさと、願ってもどうしようもない欲望が僕の心で渦を巻く。僕はどうすればいいのか、もう分からなくなりそうだった。


「すまん。アメリカに行く事になっちまって。肝心な時に頼りにならん俺ですまねえ」


 謝るのは僕の方だと言おうとしたけれど声にならず、ただ嗚咽が漏れた。


※※※※※


 習志野迷宮【一階層】 時刻は18時過ぎ。


 今日も通行証を貰う為に、ボスを倒すために潜りに来た。

 どんな状況だろうと、僕が今日できることを精一杯しなければ。だから……。

 目頭を押さえて、深く息を吸う。


 周囲に人はおらず、遠くの方にスライムの影が見えるばかり。相も変わらず、燦々と陽光が降り注ぎ、何処までも草原が続いていて緑の水平線となっている。


「今日はまず小蝸牛に魔石を食べさせようと思う。それから大蝸牛のボスに挑むよ」


「そうか」


 入口近くの草原に、二人で座り込む。


 互いに口数は少なく、心なしかどんよりとした空気が漂った。上水流は何か考え込んでいるようで、険しい表情を浮べて爪を噛んでいる。

 滅多に見ないけれどすごく深刻な事態になった時に出る、彼の癖だ。


 リュックからモンスターカードを取り出す。蝸牛かぎゅうのカードだ。蝸牛を進化させて、せめて魔獣に雨降りをかけられるまでにする。


 雨降りには、雨雲を呼ぶ指輪と違って相手のステータスを1~10%低下させる明確なデバフ効果がある。ザントマンですら互角なのに一人で潜る状況になるならば、勝田台迷宮攻略での雨降り使用は欠かせないだろう。

 

「おいで蝸牛」

 

 カードを召喚する。手の平にすっぽりおさまるほどの大きさの蝸牛が現れた。相変わらず、いつ見てもカタツムリと間違えてしまいそうである。


 上水流を見やる。彼はずっと考え込んでいる。僕の事情に巻き込んだせいで。


 ぐちゃぐちゃだった感情を抑え込む。強く在りたい。


 僕は心まで弱いままでいたくない。


 このまま、彼にしこりを残させたままアメリカに行かせれば僕は力だけでなく、心まで弱いままになってしまう。そんな心持ちでウタを救える訳がない。勝田台迷宮を一人で踏破できる訳がない。


 願うばかりでは何も出来ない。何も成せない。こんな体たらくで終わらせはしない。今、出来ることを僕はする。それは。


 スウッと息を吸い込んで、蝸牛に向き直った。かつて歌ったあのメロディー。


「でんでんむしむしカタツムリ~♪」


上水流が驚いてこちらを見る。なんで歌い出す、と言う表情をしている。


「お前のあたまはどこにある♪」


 それでも止めずに、大声で歌う。蝸牛が体を揺らす小さな振動が手から伝わってくる。無理やり気丈な声を喉から絞り出して、必死に陽気さを、僕は大丈夫だと歌に気持ちを込める。


「角だせ槍だせあたまだせ~♪」


 まだパチクリと目を開くばかりの上水流に、小蝸牛の乗っている手をリズムよく左右に揺らして二番の歌詞を歌う。


 僕は大丈夫。負けやしない。


 歌い終えると、やっと上水流の顔に笑顔が戻る。それは苦笑であったけれど。


「やっといつもの上水流に戻った。僕は一人でだってやってみせるよ。いつまでも弱虫の意気地無しではいないから。だから、安心して行ってきて。デトロイト迷宮攻略応援してる」


「ああ……。ふぅ……。歌だけじゃなくて、俺が帰ってくる頃には元気なウタも拝ませろよ。うただけに、な」


「うん。約束するよ」

 

 僕と上水流の空回りなユーモアは、幾分僕らの心を和らげてくれた。

 

「上水流、こんな僕に付き合ってくれていつもありがとう」


「ああ。夕は昔から泣き虫だけど、意気地無しじゃあねーよ。野外学習の時に俺のせいであんな怪我負わされてしばらく学校にも来れなくなって、正直、夕は二度と迷宮には潜れなくなると思った。だけどよ、中1の時も、今もこうして潜ってる。夕は…勇敢だ」


「最後のダジャレで全部台無しだよ」


「かかかっ。景気づけだ景気づけ!」


 上水流が僕の肩をバンバン叩く。そのブルーの瞳がうっすら涙に揺らぐ。


「俺の事を特別視しないでいつも、ふっつーに接してくれて俺の方こそありがとうな。親友!」


「うん。親友!」


 僕も空いている手でその肩を叩き返す。自然と互いに笑いが起こった。


 上水流は僕の手の中にいる蝸牛にそっと指をのばし、その頭を撫でる。


「夕陽を頼むぞ。きっとすっげー主に成長してくれるはずだ」


 蝸牛は分かったのか、分かっていないのか二本の角を左右に振って撫でられてたことを喜んでいた。


「お食べ」


 ファイアーモンキーのリーダー格が残した魔石をリュックから出して蝸牛に与える。蝸牛が角をピコンと伸ばし、ゆっくり紅い魔石へと近づいて光が煌めく。


 光がおさまって瞼を開くと、そこには無事にレベルアップをした蝸牛がいた。

 手をはみ出すほど大きい蝸牛に成長して、慌てて両手で支えるとピコピコ角を左右に揺らして喜んでいる。


「よし。今日のラストアタックに、お前のボスを倒しに行こう」


「しっかり稼げよ」


 絶対稼ぐよ。逆境は人を強くする、ってね。


運も現実も味方しなくたって、願うばかりの僕ではいないさ!! 

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