第2話『学校に猫を連れてきてはいけません』

 


 夢を見る。


 もう何度も繰り返し見た夢だ。

 その夢の中で、有真は子供だった。五歳くらいだろうか。


 夢の中で、子供の有真は廃墟とでも形容するのが適当な、荒涼とした場所に佇んでいた。あたりは土煙に覆われ、黒灰の瓦礫に塗れている。モノクロな世界だった。なんの色もなく、なんの音もない。安心もなければ、恐怖もない。

 ここには、何もない。

 ただ、虚無の静寂が、我が物顔で鎮座しているだけだ。


 けれども、その静寂は有真の周りにしかなかった。少し離れたところからは強烈な光が、さらに別の場所からは爆発音が、目を、耳を灼く。


 横を見ると、俯いた女の子が歩いている。ゆっくりと、だが確かに、静寂の場から離れつつあった。声をかけるけれど、女の子は振り返りもせずに歩みを進めていく。


──待って。そっちは危ない。


 引き留めてみるが、女の子はこちらに気をやる様子もない。有真はしばらく、歩き続ける女の子の背を見送っていた。


 どれほど見つめていただろうか。ふと視線の先、女の子のさらに向こうに、鮮烈な閃光を見る。


──あれは、駄目だ。


 そう直観した有真は、迫る閃光へ、女の子の方へ駆け出した。

 女の子はずっと俯いている。閃光に気づかない。


 一歩、また一歩、女の子との距離を縮める。

 しかし、眼前の閃光は、有真が女の子の背を追うよりももっと速く、迫ってくる。


──駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。


 有真は脇目も振らずに走る。前につんのめりそうになりながら、転びそうになりながらも、走る。

 ただ、目の前の女の子に、この危機を伝えなければという思いでいっぱいだった。 


 自身のことを顧みる余裕なんて、あるはずもない。


 駆けて、駆けて、駆けて。

 女の子の腕を有真がつかんだ時。


 閃光もまた、有真たちの存在をつかんでいた。




△▼△▼△▼△




 有真はけたたましく鳴り響くスマホのアラームを止め、起き上がる。まどろみながらもベッド脇のカーテンを開けた。朝の日差しを期待していた有真は、窓を濡らし、曇らせる数多の水滴に辟易した。


 今日は雨だ。


 着替えながら、昨日のことを思い返す。達人に誘われ商店街に行ったこと。そこでしゃべる猫に出会ったこと。そして、律花が魔法少女に変身したこと。


「……はは、あれも夢かよ」


 あまりの出来事に、思わずそう洩らす。

 もしかしたら、まだ寝ぼけているのかもしれない。ともかく、顔を洗おうと部屋を出た。


 有真(と律花)の部屋は二階にある。あくびをしながら階段を降りている時、なにやら誰かの会話が聞こえてきた。はじめは家族の誰かが話しているのだろうと思ったのだが、何やら聞き馴染みの無い声も聞こえてくる。眠気で冴えない頭はその正体をすぐには突き止められないまま、有真はリビングに入る。


「あっエス! 私のベーコンとらないでよ! 猫のくせに!」

 そこには、いつも通り朝からバタついている律花と。

「取られるほうが悪いにゃ!」

 いつも通りじゃないしゃべる黒猫。


 ああ。

「夢じゃなかった……」


 嘆き、呟く有真に気づく律花。

「おはよう弟」

 律花から奪ったベーコンを齧りながら、ふてぶてしくも乗じる黒猫。

「おそいぞ弟」


「ああ……おはよう」

 有真は半ば呆れ気味に挨拶を返した。

 リビングのテレビでは、ニュース番組だろうか。若い女性キャスターが健気に一週間の天気を解説していたけれど、騒ぐ一人と一匹はそれに目もくれない。


 昨日の事件の後、律花はこの黒猫を飼うと言い始めた。

 どうやらこの黒猫の声は、有真と律花以外にはただの猫の鳴き声にしか聞こえないようだ。昨夜、普通の猫だと認識している母さんが、この黒猫を飼うかどうかで律花と口論していたことを覚えている。結局は、律花の主張が通ったようだ。相当ごねたに違いない。


 有真としては、「自分の世話もろくにできないのに、ましてや生き物のお世話なんてアンタができるわけないでしょ」という母さんの言い分はもっともだと思うのだが。


 そこでふと気が付く。


「エスって、その猫の名前か?」

「そうだよ」

「へえ、律花にしては悪くないネーミングセンスだな」

「エスは愛称なの! 本名は、エスメラルダ・ゴンザレス!」

「エスメラルダ・ゴンザレス……!?」


 エスメラルダ・ゴンザレス……!?


 内心の驚愕と全く同じセリフを口にする有真。

 黒猫、もといエスは憮然とした声色で言う。

「おい、人間はみんな、あんなぶっ飛んだセンスなのかにゃ?」

「いや、あれは律花特有のセンスだ。たちの悪いことに、自分ではそれを最高の名前だと思ってる。残念だけど、改名は諦めたほうがいいぞ。ゴンザレス」

「せめてエスって言えにゃ!」


 どうやら、ネーミングセンスという点に関しては、この黒猫の方がよっぽど律花よりマシらしい。自分のセンスを棚に上げ、そんな事を考える有真。

 ふとテレビに目をやれば、ちょうど星座占いのコーナーが終わったところだった。

 普段家を出ている時間をとっくに過ぎている。


 黒猫エスが加わりいつにもましてやかましい陽咲家の朝。有真たちは急いで身支度を整え、家を出た。




△▼△▼△▼△




 有真たちの住む朝久市は、今ではごくごく普通の地方都市だ。


 主要路線は三本。大きな都市と観光地とを結ぶ立地にあることから駅がそこそこ大きく、またベッドタウンとしてもそれなりの発展を遂げている。

 路線の一本によって町の東西が分かたれており、同じ町でも東側と西側でちょっと雰囲気が違う。単純に、住宅地とそれ以外、というだけの話ではあるのだが。

 また、主要な施設や多くの住宅はここ十年で新たに開発された駅の南側に集中しており、こちらは新市街、と呼ばれる。北側は旧市街だ。


 有真たちが通うのはその新市街、私立日彩学園の高等部だ。


 昨日の晴天が嘘のように、今朝の朝久市には雨が降っている。

 そういえば、朝のニュース番組で梅雨入り宣言が出てたっけ。有真はえんじ色の傘をさして歩きながら、そんなことを考える。隣には紺色の傘。当然、律花のものだ。互いの傘にあたる雨粒が、質の悪い打楽器のように鼓膜を揺らす。

 いつも通りの通学路も、雨が降るだけで心なしかその道程が長いものに感じる。


「なあ」

「ん?」

「なんで猫がついて来てるんだ?」

「エスにゃ」


 自分のことを呼ぶならそう呼べ、と言わんばかりに鼻先をつんと上に向け、小癪な仕草を見せるエス。

 気に入ってんじゃねえか、名前。

 突っ込みを心中に押し込めながら、有真は足元のエスを見下ろす。


「別に猫には授業もないだろ?」

「暇なんにゃよ」

「そういう問題か?」

「まあいいじゃん。二人より三人のほうが楽しいよ」

「いや、そもそも猫は学校に入れ……まあいいや」


 問答の無駄を悟った有真は、それより、と話題を切り替える。


「なあ、お前ってシグマニオンなんだよな」

「そうにゃよ」

「シグマニオンってもっとこう……なんだ、凶暴な化け物みたいなやつじゃないのか? ビッグフットとか、ネッシーとか……」

「昨日私が倒した、ハンティングゲームのモンスターみたいなやつとか?」

「そうそう。暴れる怪物、ってイメージだ」


 律花の言葉に同調しながら、エスに問う。

 ちょうど赤信号につかまって立ち止まった有真たち。雨を降らす重々しい雲は日の光を完全にシャットアウトし、朝だというのに薄暗い。

黒い毛並みを水滴でつややかに濡らしたエスは、ぶるりと体を震わせて答えた。

 


「昨日も言ったけど、あれはシグマニオンにゃ。みぃはシグマニオン。明確に違うにゃ」

「その違いがよくわからないんだよ」

「そもそも、シグマニオンはどんな形にもなれるんにゃ」

「え?」


 エスの言葉に首をかしげる有真。律花も同様に、顎に手を当て、よくわからない、といった雰囲気を醸し出している。

 その雰囲気を悟ったか、エスは詳細に語る。


「シグマニオンは周りの生き物や物体に変化して生きる習性があるにゃ。その場その場の環境に適応するためににゃ。当然、猫にもなれて当たり前にゃ」

「えっ、化け猫ってこと!?」

「誰が化け猫にゃ!」

「何にでもなれるってことは、今朝のベーコンにもなれるの?」

「どんだけ引きずってんのにゃ。まあなろうと思えばなれんこともにゃいけど」

「じゃあ変身してみ……」

「待った」


 青に変わった信号を進みながら、有真は逸れかけた話題をえいやとひっつかみ、強引に本筋のレールに乗せる。


「つまり、シグマニオンは『変身する生物』ってことか?」

「そうにゃ」

「じゃあ河童とか、ツチノコとかは変な姿してるけど、あの姿になりたくてなってるんだ。私はベーコンの方が良いけど」

「あれについてはまた別にゃ。簡単に言うと化け損ないって感じにゃ」

「「化け損ない?」」

 有真と律花が揃ってエスの言葉を反復する。


「そのままの意味にゃ。その環境にいた何らかの生物に化けようとして、失敗して中途半端な姿になってしまったのがあいつらにゃ」


 もっとも、すぐに別の形に化けることが多いんにゃけど、とエスは補足する。

 へー、と、自分から質問したのに存外興味なさそうな律花を見やりながら、有真は質問を変えた。


「シグマニオンについてはまあ、なんとなくわかった。じゃあ、ネガシグってやつは何なんだ?」

「適当に略すにゃ」


 短く突っ込むエス。


「あれは……ネガシグは、みぃ達の同種にゃ」

「お前も略してんじゃねえか。……同じ生き物ってことか?」

「もともとは、にゃ」

「今は違うの?」

 律花が尋ねる。

「同じと言えば同じとも言えるんにゃけど……」


 エスの回答は要領を得ない。

 脇を走っていった乗用車が水たまりを通り、大きな水しぶきを上げる。もう少し早く歩いてたら危なかったね、と話す律花を気持ち車道から遠ざけながら、エスの言葉の続きを待つ。


「あれは、暴走しているシグマニオンにゃ。どういうわけか、自分が一番強いと思う姿になって同族ですら狙ってくる厄介者にゃ。だから、元同種と言うのが合ってるかもしれんにゃ」

「なるほど」

「そして、魔法少女にはそのネガシグを浄化し、元に戻す能力がある、はずにゃ」


「はず、ってそこ自信ないのかよ」

 不明確なエスの言葉に肩を落とす有真。


「え……き、昨日、おもっきりぶん殴って消し飛ばしちゃったけどあれは大丈夫なの?」

 律花は、まるで粗相をした子供が親に怒られるのを恐れるかのようにおずおずと尋ねる。

 それを見たエスは、問題ない、と言わんばかりに優雅に尻尾を振ってみせ、答えた。


「ネガシグの暴走は、その体を破壊しないと止まらないにゃ。昨日、律花があいつを倒したおかげでその暴走は収まって、どこか近いところで新しく体が再構成されているはずにゃ」


 エスの言葉に、律花はほっと胸を撫で下ろす。


「そうなんだ、よかった~。なら安心した」

「なんでそれがわかるんだ?」

「そういうもんだからにゃ。シグマニオンはシグマニオンによってしか殺せにゃい。魔法少女による攻撃は確かにシグマニオンの力にゃけど、そもそもの仕組みが違うんにゃよ」

「へー、そういうもんなのか」

「そういうもんにゃ」


 そうこう話しているうちに、校門が見えてきた。結構、話に夢中になっていたようだ。

 二人と一匹は校門前で立ち止まる。


「さ、学校だ。オレ達はこのまま行くけど、エスはどうする?」

 学校には入れないよな、と確認する有真。

「ついていくにゃ」

 当然のように放たれたエスの言葉に、有真は驚きを隠せない。

「えっ、着いてくって……お前、猫だろ? このまま入ったら騒ぎになるぞ」

「じゃあ、着いてこなければいいんじゃない?」

「は?」

 律花の提案の意味が分からず、有真は間抜けな返答をする。ちょっと待ってね、と律花はいたずらげに微笑むと、その場に屈んでエスに何やら耳打ちをする。

「なるほどにゃ」

 エスにもいたずらげな笑みが伝染する。


「そうそう、オッケイ。これをこうして……じゃん!」

 さっ、と立ち上がる律花。特に変わった様子は見られない。

「あれ」

 一方どういうわけか、今まで律花の足元にいたはずのエスが見当たらない。

「エスは?」

「ここにゃ」


 確かに、あの黒猫のふてぶてしい声は聞こえてくる。しかし、その位置は幾ばくか高いように思えた。まるで、有真の目線と同じくらいの高さから……

「あっ」

 そこで、ようやく有真は律花の変化に気が付いた。朝はただ下ろしているだけで、なんの装飾もしていなかった律花の髪。そこに、小さな猫を模したヘアピンが留められていた。


「エスか?」

 思わず問いかける。

 その表情こそ見えないが、エスは確かに得意げに、「そうにゃ」と言った。


 確かに、エスはシグマニオン……何の形にもなれるというのなら、別に必ずしも猫でなければいけないというわけではない。

「よく考えたな」

「でしょ」

 胸を張る律花。

「あ、でもエス。学校の中ではしゃべらないでね。私が一人でしゃべる変な人だと思われちゃうから」

「わかったにゃ」

「元から変な奴だろ……うッ」

 軽くこぼした言葉にすさまじい速度で放たれた無言の肘鉄。

 一瞬呼吸が止まるほどの衝撃を受けた有真は、震える声で提案する。

「ず、ずっと校門前でたむろしてても仕方ないし、学校入ろうぜ、律花」


 律花は動かない。腰に手を当てて口元は真一文字。不動の姿勢だ。


「……お姉さま」

「よろしい」


 哀れな弟に立場を理解させて機嫌を直した姉とともに、ようやく校門をくぐる。

 雨の中でもさわやかに投げかけられる生徒会の挨拶運動。哀れな弟は全くさわやかに返事ができず、代わりに情けない呻き声をあげて彼女たちの脇を通り過ぎる羽目に。当のお姉様は平然と「おはようございます」。白々しいクソお姉様ですこと。


 なんだか、やけに朝が長く感じたのは、降りしきる雨のせいだけではないだろう。

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