其の十一(それぞれの自己紹介と不文律の理由)
「初にお目にかかる、儂は檜の者。そなたらの想像している通り先代の護り手をしておった。そしてここにおるのは、当代の護り手の補佐である楠の者、そして桜の者となる。」
翁の紹介に合わせ、楠波が目礼し桜夜がぺこりと小さくお辞儀をする。それにも改めて目礼を返したあと、惟之が顔を引き締め勢いよくがばりと腰を折って再び大きく頭を下げたのに滝田もまた同じく倣う。
「俺は
なにひとつ弁解をすることもなく、揃ってただただ頭を下げ続ける主従にじっと視線を向けていた翁はだが、好ましいものを見る思いでほろりと顔を綻ばせ、次いでさもおかしそうにくくと笑いを漏らした。
「頭を上げられよ。あの者どもが成そうと企てたことは当の本人たちにその責任を負わせるが道理。ましてやそなたらもまた被害者であることだしの。それに如何に大の男であろうとも所詮は人の身でしかない。であれば、この娘を傷つけるなど天地がひっくり返ったとしても到底叶うはずもないことであろうよ。」
さも愉快だと言わんばかりに大きくからからと笑いだす翁に、横に控えていた青年が苦笑交じりにまあ確かにそうなんですけどね……と仕方なさげに同意する。当の少女が微妙そうな複雑そうな表情なのがこちらもどことなく笑いを誘われる。
樹霊たちのやり取りに何とはなしほほえましい気分でいると、幼い声に名を呼ばれてそちらへと顔を向けた。
「こうじょうのお兄さん、たきたさん。わたしは桜夜っていうの。こっちのお兄さんは楠波。よろしくね。」
楠波と呼ばれた青年の腕にするりと抱き上げられた少女がほにゃりと笑うのにつられ、惟之と滝田もまた顔を綻ばせる。
「惟之でいい。こちらこそお主のおかげで命拾いした。改めて礼を云わせてもらおう。ありがとう桜夜殿、本当に助かった。」
「うん。ちゃんとまにあってよかったね、のぶゆきお兄さん。」
顔を見合わせて互いににっこりと笑顔を浮かべる惟之と桜夜に、仕方ないと云わんばかりに滝田が苦笑いをこぼし、楠波もまたやれやれと首を振ってため息をついた。
ふと、楠波の腕に抱き上げられたままの少女が檜の翁に視線を転じてこてりと首を傾げた。
「そういえばおじいちゃん。さっきのおじさんたち、みんなが連れていっちゃったみたいだけどどこに行ったの?」
桜夜のその言葉に惟之と滝田もやはり気にはなっていたのか、互いにちらりと目を見交わすと尋ねるように翁を見やる。三人分の視線を受けて翁はふむ、と顎に手をやった。
ちなみに楠波の視線はどうなのかというと、これは当然のごとく腕の中の桜夜に固定されたままだった。色んな意味でブレることなどないらしい。是非ともそのままアレな感じのヤバい方向に道を踏み外すことなく、立派な紳士になる方へと真っ直ぐ進んでいってほしいものである。切実に。
問いを受けた翁はほんの暫くの間だけ迷うように考え込んでいたが、ややあって口ひとつ頷きをかえした。
「まぁそうじゃな、この場合桜夜を含めてお主らは被害を受けた当事者でもある。今回の件の最終的な処分は紅丞の国元で裁定されることになるであろうが、それとは別に杜の者があやつらに下す仕置きの内容を知る権利はある。」
「んと、じゃああのおじさんたちはみんなからおしおきされてるの?」
「そうじゃよ、桜夜。例えお前さんに危害を加えていなかったとしても、あやつらの仕出かしたことは決して許されることでも許していいことでもない。だからこそ奴等が受ける仕置きはただ単純な肉体への責め苦のみにあらず。深く深く―その
重々しく頷いてそう告げる翁に、隣に立つ楠波もまた眉根を深く寄せた厳しい表情で嘆かわしいと深く同意する。
「そうですね。彼等は杜で争ってはならない、血を流してはいけない、という不文律を知ってはいても、血の量が少なければ多少はいいのではなどと随分と軽く考えていたようです。実際は量の問題ではなく、争いごとによって血が流されるということ自体が穢れを生み出し、杜へソレを蔓延させて住人を狂わせていく大きな要因になるのだというのに…。」
硬い声音で語られる、杜で血を流すことが厭われ禁止されているその理由を知り、紅丞の主従もまた真剣な面持ちで楠波の説明に聞き入る。しかしそこで楠波の話を聞いて少しばかり考え込むような様子を見せていた滝田が何かに思い至ったのか、ふと顔を上げた。
「……気になったことがあるのですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ふむ、どうやら早速気づいたようじゃのぅ。感心感心。」
顎髭をしごきながら、楽しそうな声をあげた翁が細めていた目をすぅと見開いた。
その奥には、ふかいふかい杜の中にひそむふかいふかいみどりのいろが強い光を放っている。
「気づいたというよりは気づかされたと言った方が正しい気もしますが、知ってしまったからにはきちんと確認を取ることも重要事でありましょう。」
敢えて試すような言葉を聞かされていたことにやはりと苦く笑い、滝田はその場にいる者たちを一度だけ見回して最後に惟之へ目線を留めた。惟之もまた滝田の視線をしっかりと受け止めると、促すようにひとつ頷きにやりと口端をあげる。
それに返すように滝田もひとつ頷いて、ひとつひとつ頭の中で順序を確かめながら自分の考えを述べはじめた。
「先程からのお話で気になっていた点が幾つかあります。私も惟之様も幼少の頃より”鎮めの杜で血を流してはならない”という件を始めとして、この杜において守らなければならないとされている幾つかの掟―不文律を、周囲の大人たちから折に触れては繰り返し教えられて知ってはいました。しかしその掟が何故、どういった理由に基づいて決められたものなのかを知らなかった。いや、聞いたことがなかったことに今更ながら気がついたのです。それは恐らくですが濃島たちもそうなのでしょう。あれらを擁護しようなどという頭の悪い酔狂さは、皆目毛頭これっぽっちすらも持ち合わせてはいませんが、だからこそ身勝手なことだとも思いもせず、自分たちにとって都合のいいように軽く考えて今回のような暴挙、いや愚挙を起こしたのではないかと思ったのです。」
一旦ふぅ、とため息をひとつ吐いて、滝田は改めて翁と楠波を順に見やる。
そこでふと、吸い寄せられるように未だ楠波の腕に抱き上げられたままだった幼子に視線が流れた。その小さな顔に浮かんでいるのはきっと、まだ話の内容が理解できないことを如実にあらわすきょとんと不思議そうな表情だろう。
――そう、直前まで思っていた。
だが真実いまそこに浮かんでいる表情に、その瞳に宿る理解を示す強い輝きに、けしてそうではないことを悟り、知らず驚愕に息を詰めた。
「ふふ…流石は紅丞の後継者の補佐と言うべきでしょうか。予想していたよりも優秀なようで実に何よりです。」
「これ、わざわざそういう言い方をするでないわ。まったくお前というやつは…」
一瞬の意識の間隙を突くように、楠波の楽しげな皮肉と翁が呆れと疲れを滲ませて嗜める声が滝田の耳に届く。その声にはたと我に返り、内心の動揺をなんとか押し殺して答えを待つように翁へと顔を向けた。そこにいる全ての者の注視を受けて、気を取り直すためかごほんと空咳を落として翁が正面を向く。
「確かにお主の推測は間違ってはおらん。ただし、お主も気づいておるようにそれが全て的を射ているというわけでもない。」
「…やはり、そうでしたか。」
予想をしていたらしい滝田が翁の答えに得心がいったと頷くのに、惟之の問いかけるような視線が向けられる。
「先に滝田殿が言うたな。”杜の掟が何故、どういった理由に基づいて決められたものなのかを知らなかった”と。だがそれは知らなくて当然と云うべきなのじゃよ。正確には一部の限られた者以外には一切知らされておらん。無論、今回のような件が今後も起こるかもしれぬという懸念もあろう。しかしそれをおしても敢えて周知すべきではないと約定にて決められておるのじゃよ。」
「それは、どうしてなのかとお伺いしてもよろしいものなのでしょうか?」
「うむ……この件は本来ならば、国の総領となる者が代替わりの際に腹心とともに先代より申し伝えられる話になる。故にこの件を知るのは各国の当主、王、宗主、もしくは宰相などの、国元で一定以上の要職に就いている者とごくごく一部の腹心のみ。該当者らもこの件を聞かされるよりもずっと前に、その心根も含めて詳細に精査され、関係する者以外には決して口外せぬよう厳重に箝口令も敷かれ、呪による誓約も為されておる。……じゃがまあ、今回ばかりは仕方なかろう。ただし、後ほどそなたらにも呪による誓約は受けてもらうことになるぞ。それが話すための最低限の条件じゃ。」
思っていた以上に厳重に厳重を重ねて秘されてきたとわかる重要事項に、滝田のみならず惟之もまた条件を飲むことを即座に了承して重々しく頷くと、言葉の続きを待って自然と身を固くした。
「……随分と、古い話になる。それこそ儂が生まれてそう間もないぐらいのことじゃ。そうさな、ざっと千年近くは前といったところかのぅ。いつの時代でも傲慢に自分の望みのまま、勝手に愚かなことを目論む輩というのはおるものでな。その頃、周辺の国を武力によって次々と併呑して己こそが大陸の覇者にならんとした一人の
「なんという大それたことを…」
翁の口から語られはじめたかつて実際に起こったという想像以上の大事に、惟之も滝田も茫然と続きに聞き入る。
「当然ながら杜に住まう者たちと戦いが始まったが、当初は両者の勢いは拮抗しておった。奇襲まがいのやり方で襲ってきた者どもと、不意を突かれたとはいえ各々が様々な能力を持つ杜の住人たちじゃ。今考えてみれば必然とも言えるかもしれん。―だが次第に杜側が圧しはじめた。皮肉なことに、まるで理性を喪ったように滅茶苦茶に暴れ始めた住人が一人、また一人と増えてきたことによっての……。」
感情を削ぎ落としたように、淡々とただ静かに当時の様子を語る翁の声に、その表情に、紅丞の二人は揃って言葉を紡ぐことすらできないでいた。
ふと見やれば、桜夜を抱えたままの楠波もまた翁と似たような表情に少しだけ苦いものが浮かんでおり、桜夜は悲しそうに眉を寄せて俯いている。彼らもまた、この話をよく知っているのだろう。
だがそれも当然のことだろうと思う。彼らの心情を思うと迂闊に声をかけることもできず、事を起こしたという君主と同じ人であることが無性に恥ずかしく、嫌悪感すら覚えてしまう。
しかしだからこそ、自分たちが同じような間違いを犯さないためにも、一言でも聞き漏らすことのないように顔をあげて当時を知る生き証人と云うべき存在を、檜の翁をじっと見据える。
「当然、杜側が圧し始めたとはいっても一気に事態が動いたわけではない。最終的にじりじりとそうなっていったというだけのことじゃ。理性を喪った者たちはそれでも敵のことはわかるのか、基本的には敵の兵士どもを相手に暴れておったが、無論それだけで済むはずもなく、他の住人たちにも少なくない被害が出ておった。そして再び膠着状態になるかと思われたときに、限界を悟った儂の先代の護り手がその持てる力の殆どを割くことによって、狂化した者たちを沈静化させて彼らと襲撃者どもを別々に結界へと隔離することに成功し、何とか事態を収束させることができたのじゃ。……ただし結果的に、その存在が消滅しかねないほどに己が生命力を大幅に削ることになったのじゃがな。」
静かな顔で、声で、苦く絞り出されたかつての顛末に、もはや言葉を発することなどできるわけもなく。
ごくり、と喉が動く。
知らず渇いていたそこを少しだけ潤した気もするが、またすぐにひりつくような痛みが襲う。
檜の翁は怒りをあらわにしているわけではない。声や態度を荒げているわけでも、ましてや恫喝しているわけでもない。どちらかと言えば淡々と響くその声も、どこまでも落ち着いた様子で静かに語るその表情も、哀しんでいるのだろうとは思う。
だがだからこそと云うべきか、その場の空気はずしりと重みを増し、身体全体に圧し掛かってくるかのように感じる。
何かを言わなければと思っても、頭は空回りするばかりで喉からは空気しか漏れ出てはこない。
その場を支配する重苦しい空気に、誰もが視線を下げてうつむくしかなかった。
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