其の十(危機一髪!…と、思うじゃん?)
惟之はしっかりと目を見開いて、自らを切り裂かんと迫る
次に聞こえるのは、感じるのはきっと、肉を裂き骨を断つ鈍く重い音と灼けつくような激しい痛み。そして何よりも己の命を削り取ってやろうと襲いかかってくる強い強い悪意。
そのはずだった。
だがいつまで経ってもそれは聞こえず届かず。
代わりに響いたのは、黒鋼が刀を重く受け止める鈍く硬質な音。
惟之は己自身が目を閉じることも視線を逸らすことも一切してはいないと間違いなく断言できる。国の守護獣に、いやこの杜におわすという護り手の存在に誓って、一瞬前まで自分の前には敵となった男以外は確かに誰もおらず何もありはしなかった。
しかし今、眼前には大の大人の男が渾身の力で放ったであろう一撃を、軽く開かれた漆黒の扇でしっかりと受け止めている幼子の姿。つい先程まで少し離れた場所で濃島に行く手を阻まれていたはずの娘は、そんな事実などなかったかのように自分の目の前にいる。
そういえば金属特有の固く重い音がしたということは、華奢に見えるそれはもしかすると鉄扇だったりするのだろうか。
そのような場合ではないというのはわかっているのに、知らずそんな方向に思考が逸れていってしまう。目の当たりにしていてもどうにも信じがたい光景に、茫然と目を見開いて固まっている周囲などまったく気にも留めず、すぅと酷薄に目を眇めた彼女は、その体格差からはありえないと思われる程の力をもって至極あっさりと持ち主ごと刀を払い飛ばした。
「うおおぉっ?!!」
それは純粋に肉体だけに頼った力のみの技にあらず。
どのような術で成されたものか、突如発生した風が力強く大きな渦を巻き起こし、すべてが自身の数倍はあるだろう鍛え上げた体格を持つ大の男を軽々と吹き飛ばし、数メートル後ろにどっしりと聳えていた大きな樅の木の幹へと強かに叩きつけた。
重力に従ってずるりと樅の根元に崩れ落ち、そのままぐったりと倒れ伏した男に最早何かを握る力などあるわけもなく。手からがしゃりとこぼれ落ちた刀が、彼がとうに意識を失っていることをありありと教えてくれた。
よくよく見やればそれは、先程己こそが正義であると信じこむ未熟な考えのもとに、愚かにも少女に乱暴を働いた若年の男、三井。
茫然としたままの一同が、もしやまさかいやでもそんなだがしかしと内心盛大に冷や汗の流れる心持ちになってしまったのも無理はないと思われる。
そうしてただただ見つめることしかできないその先で、夕が近くとも未だ明るさを保つ深遠の杜を背景に突如大きな炎の塊が三つ、ぼぅと出現した。
周りに燃え移ることもなく、ふらりゆらりと宙を漂いながらもごうごうと勢いよく燃え盛るは青色、朱色、白色の鬼火。
ぎょっと目を瞠る者たちのことなど素知らぬ風で、挨拶をしているのかじゃれているのか何事か頷く少女の周りをふわりと回ると、気絶したままの三井をぐるり取り囲んだ。
「なっ…!」
「おのれ、妖の類か!三井殿をどうするつもりだ!?」
先程からの異常とも言える事態に、敢えて声を出すことで己を鼓舞しようとでも云うのか、過敏に反応する者たちに構いもせず、三井を中心としてくるりと緩やかに円を描いた鬼火たちはそのままふい、とばかり唐突に消え去った。
気絶したままの三井をその共連れとして。
「!?」
「消えた?!」
驚愕し狼狽える襲撃者たちを尻目に、この隙にと滝田は立ち上がっていた惟之をその背に庇う位置をとる。それに目敏く気づいた濃島が小さく舌打ちをした。
「もう少しだったというのに…!」
口惜しさを隠そうともしない濃島に、同じように状況に気づいた他の者が同調し、激昂して声を大きくする。
「我等の邪魔立てをするか、小娘が…!」
「三井殿をどこへやった!?返答次第ではただでは済まさんぞ!」
自分を口汚く罵り、この期に及んで脅しをかけてくる男たちのことなどまったくもって意に介さず、桜夜は扇をはらりと広げた。
闇色の表に描かれているのは、鮮やかに舞い踊り優美に渦をまいて風と遊んでいるかのような薄紅の桜吹雪と金銀の蝶。
その意匠の美事さは、いずれ名のある匠の手によるものであろうか。
「どうただではすまさないのか知らないけど…さっきも言ったじゃない。このしずめの杜で血をながしてもらってはこまるって。」
幼い中に凜とした意志を宿した声が、最終宣告のようにその場に響いた。
一瞬の間のあと、何を言われたのか理解した男たちが再び激昂するよりも早く、りぃんと不思議なほどに脳裏に響く鈴の音をさせて扇が滑らかな軌跡を描く。
その動きに誘われたかの如く、瞬きの間に周囲に現れたのは此の世ならざる異形の者たち。
先に姿を見せた鬼火はおろか、彼女と同じ精霊らしき者たち、大蛇の半身を持つ者や全身を金属の光沢を持つ長い毛で覆われた者、更には額に鋭い角を生やした鬼とおぼしき者すらもいる。
この光景には濃島や他の襲撃者たちばかりでなく、惟之と滝田までもが我知らず畏れを感じてびくりと身を竦めた。
「だいたいほかのみんなをよぶもなにも、そもそもこの杜の中でみんなの目がとどかないところなんてあるわけないじゃない。」
そんな中、何言ってんだかとばかりに呟かれた言葉がその場にぽろりと落ちたが、当然誰かに気づかれることもなく。
「これは…!?」
「おのれ、妖ども!何をしにきおった?!」
予想外の事態の連続に、怯んでいることを見透かされまいとしてか口々に叫んで刃を向ける者どもはだが、低くびりびりと大気を震わせ十重二十重に連なって辺り一帯に響きわたった厳しい声に、雷に打たれたように揃って身体を硬直させた。
「黙りおれ、この愚か者どもめが!先程から見ておれば、我等が杜で身勝手な振る舞いをしたばかりか桜の君にまで手をあげるとは…最早黙って見てなどおれぬ。貴様等、覚悟はよかろうな?」
怒りに満ち満ちた宣告に、中でも気の弱い者は言うに及ばず、簡単には動じぬはずの者、はては濃島までもが目に見えるほど全身からざっと血の気を引かせて、気圧されたように後退って自然その身を寄せ合う。
先程までとは逆に、今度は自分たちが囲まれる立場となった襲撃者たちは、段々と狭まってくる包囲の輪に焦りと恐怖を覚えることしかできないでいた。惟之と滝田もただその様を見守るしか為す術もなく。
はっと気づいた時には完全に囲まれた襲撃者全員が、狼狽える声や惟之と滝田の二人を睨む憎々しげな視線を残して、妖たちと共に掻き消すようにいなくなった後だった。
そしてその場に残るのは、糸の切れた静寂と沈黙。呆気にとられた気配だけ。
「いったい、何がどうなっておるのやら…。」
「何というか……いや、まっこと此の杜の住人たちとは不可思議な存在なのであるなぁ…。」
思わずといった様子で呟く滝田のあとから、惟之がどうにもピントのずれたことを続ける。
「………。まったくもって、その通りですな…。」
明らかに大きな何かを無理やり呑み込んで、それでもそのまま同意する滝田も何かずれている気がしてならない。
そんなどこかずれている主従に、桜夜がついつい「大丈夫かこいつら」的な呆れを微妙な配分で含ませた目を向けてしまっても無理はないだろう。多分。
「…それ、なんかものすごくずれてると思うわ…。」
敢えてぼそりと呟かれた、心情をよくあらわすその言葉に、度重なる衝撃のあまり暫くぽかんとしていたのから一転、次第に顔を綻ばせた惟之は、周りの状況にも向けられる視線にも構わずにからからと笑い出した。
「そうか?しかしすごいなお主!鬼火や妖たちにも驚いたが、己よりも格段にでかい大の男をよくもああまで軽々と吹き飛ばせるものよ!」
心底から感心したと言わんばかりに豪快に笑い飛ばす惟之を、今度は桜夜がきょとんと見やる。
「…こわくないの?」
不思議なものを前にしている気持ちが伝染でもしたのか、惟之もまたきょとんと不思議そうな顔で聞き返した。
「何故怖がらねばならぬのだ?」
「だって…」
「先程のことか?」
問えば、先に垣間見せたその心の有り様から思えば妙に幼く見える表情で少女がこくりと頷く。
「あれはお主の力量を見抜けなかったあやつの自業自得であろうし、単純な力のみで成した事でもあるまい?」
「それはまあ、そう、なんだけど…。」
どこか躊躇うような素振りを見せる少女に向け、惟之は猶も言葉を重ねた。
「それにな、いくら驚こうが俺は命の恩人を恐れるなどというそんな恩知らずな真似をする程に臆病者でも落ちぶれてもおらんぞ?」
心外だと言わんばかりにふんす!と鼻から息を吐いて、惟之が腕を組んで大きく胸を張る。
「そうですな。それにもし惟之様が命の恩人にそのような態度をとるあほう、もとい礼儀知らずな方であったならば、私とてとうに愛想を尽かしております。」
惟之の横で、同じく腕を組んだ滝田がしかつめらしく頷きながら、さらりと茶化すようなことを口にした。口調は明らかにどこか面白がっている様子なのに、その表情はあくまでも動かず眉根を寄せたしかめ面なのが何ともはや。
「な?これではおちおち軽口も叩けんわ。というか、誰があほうだ誰が。」
「なに、惟之様は違うというのならば何も問題はないでしょう。」
滝田にちらりと目を向けて、正しく軽口そのものを叩く惟之に、桜夜も思わずと笑みがこぼれた。それを耳にしてむ、とますます顔をしかめながらもさらりと返す滝田もまたご多分に漏れず同類ということなのだろう。
「ところで…お主いったい何者だ?よもやただの樹霊ではあるまい。…いやまあ、言いたくなければ俺はそれでも構わんのだが。」
無理に暴きたい訳でもなし、と軽く首を捻ってあまりにもあっけらかんと言う惟之に、滝田はぎょっと目を剥き桜夜はぴくりと肩を揺らした。同じことを考えてはいたものの、まさか今ここで惟之がそのことを口に出すとは思わず、滝田は無言で二人を見守る。
「…どうしてそう思うの?」
先程の微かな動揺などもはや微塵も見せず、じっと自分を見つめる少女に惟之はひとつひとつ疑問に思った点をあげていく。
「まず見た通りの歳にしては落ち着いた態度と口調。次にその力量。そして先程の妖たちの態度と桜の君という呼び方、といったところか。」
ひとつひとつ指折り数える惟之に、桜夜が感心した表情を浮かべた。
「さすがにこうじょうのこうけいって言うか…意外によく見てるのね。」
驚きを隠さずにしみじみと云われたことに、惟之が嬉しげににかりと笑う。
「おう。観察眼などというものは、養っておいて得になりこそすれ決して損になるものではないからな。」
さらりともう教えてくれてもいいだろうと言外に告げる惟之に自然と苦笑を誘われ、これはもう仕方ないと軽く諦めを含んだため息を零した。
「ちょっとだけまっててね。」
言いおいてついと背後を向き、未だ惟之たちには姿を隠したままの翁と楠波へとことこと歩み寄る。当の二人は桜夜が何故いきなり後ろを向いたのかわからず不思議だったが、待っててと云うからには自分たちにはわからない何かをするのだろうとおとなしく小さな背中を見つめて待つ。
そんな彼等の様子に気づいているのかいないのか、それとも特に気にしていないのか、少女は虚空に向かい呼びかける。
「おじいちゃん、楠波。出てきてもらってもいい?」
少しの間のあと彼女の言葉に応えてか、瞬きの間に景色から浮き上がって滲み出るように二つの人影が忽然と現れた。
それは先程妖たちと共に現れた樹霊たちと比べても、その身に潜む力も気配も明らかに一線を画していることを理解せずにはいられない程の強い存在。
そのような存在が突如出現したことに、本能的な警戒態勢を取ってしまった惟之と滝田がぎょっと目を見開いて見つめる中、二人の樹霊は目の前の少女と何事か話していると思っていたら、その体勢のままこちらへと視線を向けてきた。
改めて惟之たちへと向き直り、心の中までも透かしているようにひたと見据えてくる二人の人物。
一人は苦虫を噛み潰したような顔を隠そうともしない樹霊の青年。見た目だけで判断するならば、惟之よりも多少なりと年嵩であるようにも見える。
ただし樹霊という人ならざる存在に人としての判断基準が当てはまるのならば、という話ではあるのだが。
その目は少女を心配してか、彼等を映す眼差しには少しばかり険しいものが滲んでいる。
いま一人は見た目穏やかな、しかしどこか底の知れない笑みを浮かべる樹霊の老爺。
一体どれほどの時を重ねた存在であるのか、柔らかいながらもずしんと身体の奥底に響いてくるような独特の空気感を持ち、長く伸びた緑混じりの白髪とひげが印象的だ。
そして何よりそのあらゆる光を吸いこみ取りこみ、その色の深みがどこまでも増し続けているような、深淵の泉の如き緑の双眸が強いひかりを放っている。
老爺が何者であるかを容易に知らしめるその深緑に、惟之と滝田の緊張が一気に高まる。弾かれるようにざっと片膝をついて、粛々と頭を下げて礼をとった二人に穏やかな顔で目を細め、檜の翁が口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます