リンネ

やなぎ怜

リンネ

「エルハと僕はね、前世からの縁でずっと結ばれているんだよ」


 リンネ様のロマンチックな物言いに、わたしは胸を高鳴らせました。今、思い返せば正気とは言えないその物言いは、しかし無知蒙昧なわたしをときめかせるにはじゅうぶんだったのです。


 わたしの両親はとても心があるような人間ではありませんでした。あたたかな赤い血が通った人間とはとても思えませんでした。少なくとも、わたしにとってはずっとそうだったのです。


 わたしは両親にとって、娘というよりは小間使いのようなものでした。いえ、小間使いよりも、もっと扱いは悪かったかもしれません。リンネ様に輿入れして、その立派な門構えのお屋敷にきてから、そう思うようになったのです。


 朝から晩まで働き詰めで、寝起きする場所は納屋の中でした。それでもわたしは己の置かれた立場が幸か不幸かすらわかりませんでした。物心ついたときから、ずっとそうでしたので。


 しかし知識というものは意外と外から入ってはくるもので、わたしは一四を数えるころには、己の置かれた立場にうっすらとした違和感を覚えるようにはなっていました。


 けれどもそれでもまだ、決定的におかしいとまでは思ってはいなかったのです。繰り返しになりますが、物心ついたときからずっと両親からは小間使いのように扱われておりましたので、その状況に慣れきってしまっていたのです。


 ざんばらの髪に、ボロきれをまとい、その手足は枝のようで、手指の先は荒れきっている一四の少女。それが当時のわたしの特徴のすべてでした。


 幸い、そんなみすぼらしい身なりでしたから、わたしを女性として興味の視線を送る御仁はおりませんでした。


 けれどもただひとり、リンネ様だけがわたしを見初めてくださったのです。


 運命だと思いました。いえ、そう思い込みたかったのです。


 とてもとても寒い冬のことでした。歯の根が合わずにガチガチと音を立てながら、冷え切って痛い手指を動かして、洗濯をしていたときのことでした。鼻の先と耳たぶが、ひどく痛かったときのことでした。


「嗚呼、此処にいたんだね」


 気がつくと庭先に立たれていたリンネ様は、わたしをひと目見て微笑んでくれたのです。そんな風に微笑まれたことのなかったわたしは、リンネ様の表情の意味がそのときはよくわかりませんでした。


 リンネ様は彫刻の大家たいかが造り上げた石像のごとき容姿で、じっとこちらを見つめられたので、わたしは初めて己の身なりを恥じ入りました。


 それほど美しかったのです。季節の折々に花をほころばせる緑とはまた違った美しさは、わたしにとっては衝撃的でした。思い返しては、うっとりとしてしまうほどに。


「君を迎えに来たんだ」


 氷のように冷たくなったわたしの手を取り、リンネ様は微笑まれました。


 それからのことは、とても目まぐるしくて、当時のわたしがいったいどう感じていたのか、思い出すのは難しいのです。


 ただ、ふわふわと浮ついて、夢見心地であったことは覚えています。


 リンネ様はわたしの両親に輿入れの打診をされました。持参金の類いは要らない。嫁入り道具もすべてこちらで用意する。――それどころか、リンネ様はわたしの輿入れに際して、両親に大金を支払ったと聞き及んでいます。


 わたしは、男女が結婚することのなんたるかをも知らぬまま、言われるがまま、輿入れの支度をしました。と言っても、わたしがしたことなどほとんどありません。すべてリンネ様が手配されましたから。


 わたしはただ、もう寒い冬の朝に洗濯をしなくてもいいと言われたことを、無邪気に喜んでいました。


 それでも無知蒙昧なりに、疑問は生まれます。


「リンネ様、なぜわたしを妻にしようと思ったのですか?」


 リンネ様は微笑んで、


「エルハと僕はね、前世からの縁でずっと結ばれているんだよ。だから、今世でも夫婦めおとになるのは、なんら不思議なことじゃないんだ」


 と言いました。


 わたしは、リンネ様の物言いをありのまま、あまりに素直に受け止めました。


 とても素敵だと思いました。前世で結ばれ、今世でも同じように。とってもロマンチックで素敵だと思いました。


 わたしは初めての率直な愛情に溺れていました。それはもう、きっと見苦しいほどに。無邪気に喜び疑わず。


 わたしを深く愛してくれるリンネ様と結ばれるのは、とっても幸福なことなのだと、信じて疑っていませんでした。


 夢見心地のままにわたしはリンネ様と式を挙げ、祝福の声に酔いしれながら初夜を迎えました。


 その夜にあったことは、今でも忘れられません。


「これなら、一生忘れないでしょう?」


「痛い痛い」と泣き叫ぶわたしを容赦なく雄で貫き、リンネ様は微笑みました。手ひどく乱暴に純潔を散らされて、わたしは夢から覚めました。苦痛のままに初夜を終え、体中が痛みを訴える朝を迎え――そこから先のことは、もう思い出したくありません。


 リンネ様はひどく嫉妬深く、猜疑心が強く、他人を手ひどく扱うことに一切の躊躇を覚えないかたでした。


 精神病質的偏執気質。それはリンネ様の親族のかたがたも承知されていて、しかしだれもリンネ様のやることなすことに口を挟もうとはしませんでした。


 リンネ様のお仕事を、今でもわたしはよく理解できていません。ただ、リンネ様はとてもお金を稼ぐ才に長けていたようです。投機の天才で、負け知らず。リンネ様が生み出す、唸るほどの金に魅了されて、だれもかれもがリンネ様を褒めそやすのです。


 親族のかたがひそひそと噂されていました。リンネ様には「憑きもの」が憑いていて、その「憑きもの」がリンネ様の運を操っているだとか、天啓を与えているのだとか。


 要はみな、恐れているのでした。リンネ様が持つ財力はもちろん、その「憑きもの」も恐れて敬っているのです。


 わたしは、大変なひとと結婚してしまったと思いました。しかし後悔先に立たず。わたしは元のあのみすぼらしい暮らしに戻るのが嫌なのもあって、とてもこちらから離縁を打診するようなことなどできませんでした。


 そうです。そのときはまだ、耐えられると思っていたのです。それくらい、とさえ思っていました。


 リンネ様は、わたしを愛しておられるからです。


 だからきっと、大丈夫だと――わたしは、信じ込もうとしていたのです。


 けれどもリンネ様の欲望は底がないようでした。


 毎晩のようにリンネ様とは同衾しましたが、それはときに乱暴で、ひどく苦痛を伴うものでした。かと思えば一転してこちらを甘やかすように優しく触れてくるのです。わたしは、今夜はどちらのリンネ様が現れるのか、ひどい恐怖心を抱くようになりました。


 それからリンネ様は決してわたしを屋敷の外へ出そうとはしませんでした。わたしの世話をする使用人も、最低限。老女か、まだ花盛りを迎えていない少女か。それ以外の人間がわたしに近づくことをリンネ様は嫌がっておられました。


「僕はね、もう二度とエルハをくしたくはないんだよ」


 リンネ様は悲痛に顔を歪ませて、そう言いました。


 わたしは、それをリンネ様なりの深い愛の形なのだと思い込もうとしました。そうして己を欺瞞することで、まるで大海で嵐に遭遇した舟のごとき不安定な精神を落ち着けようとしたのです。


 けれども、わたしが暮らす離れの庭に迷い込んできた幼子の首をリンネ様が折ったときに、わたしの心も折れてしまったのです。


 幼子には悪いことをしてしまったと、今でも心が痛みます。わたしがリンネ様のもとへ嫁いでさえこなければ、きっとその幼子は無惨な死にかたはしなかったでしょうから。


 怒りに震えるリンネ様を見て、わたしは恐怖に身がすくむ思いでした。


 いつ、なんとき、リンネ様のその凶暴な衝動がわたしに向けられるか、きっとそれはだれにもわからないのでしょう。リンネ様にだってわからないはずです。だからわたしは怖くて怖くて仕方がなくなりました。


 もう、リンネ様から向けられるすべての感情を、わたしは愛情なのだと受け取ることができなくなってしまいました。


 寒い冬のことでした。わたしはもう、わたしが死ぬか、リンネ様が死ぬか――そのどちらかでしか、もはや事態は解決できないのだと確信しました。


 ですから、わたしはリンネ様をこの手で殺したのです。


 とてもとても寒い冬のことでした。


 思い出すたびに凍えて死んでしまいそうになりそうなほど、寒い冬のことでした。


 白雪に深い足跡をつけながら、わたしは冬山を進みました。気を抜けば凍死してしまっていたことでしょう。


 けれどもそのときのわたしは、わたしが死ぬか、リンネ様が死ぬか。その瀬戸際にあると思っていましたから、とにかく必死でした。


 リンネ様は逃げるわたしを追いかけました。どんな顔をしていたのかは知れません。けれども捕まればきっとまたひどいことをされるという確信は、わたしの中にありました。リンネ様は、わたしが屋敷から出るのを許しておりませんでしたから。


 崖の先に到達して、わたしは足を止めました。肺がとても痛くて、気管も冷え切っているような感覚でした。荒い呼吸が白い息になって口や鼻から素早く出て行きました。わたしは大きく肩を揺らして、ぜいぜいと息を切らせていました。


「エルハ」


 わたしの背中に、リンネ様の声がかかりました。腕の、ひじ関節の辺りをつかまれました。しかし思ったよりもその握る力は弱くて、貧弱なわたしにも振り払えてしまうほどでした。


 リンネ様の顔は、見られませんでした。いえ、きっと、見たことでしょう。リンネ様を崖の先から突き落としたときに、きっとその顔を見たことでしょう。……けれども、わたしはなにひとつ思い出せないのです。


 あとのこともよく覚えていません。必死で山をおりて、ちょうどあった炭焼き小屋の戸を叩いて、そこで一晩過ごしたはずです。震える声で遭難したこと、夫が足を滑らせて崖から落ちてしまったことを伝えました。それを聞いた炭焼きの男性がどんな顔をしていたのかは、思い出せません。


 リンネ様は死にました。リンネ様の親族のかたがたが、わたしを責め立てたのかどうかは覚えていません。ただ、不思議なことにだれもわたしがリンネ様を殺したのだとは言いませんでした。


 非力なわたしがリンネ様を殺すなどという、大それたことができるはずがないと思われたのでしょうか? いずれにせよ、わたしの罪は露見することなく終わったのです。


 けれども村のひとびとは、うすうすわたしのしたことに気づいていたように思います。


 しかしわたしを一晩泊めてくださった炭焼きのかたを含めて、だれもわたしの犯した罪を糾弾するような目を向けませんでした。むしろ、哀れまれていたように思います。


「ここであったことは、悪い夢だとでも思いなされな」


 追い立てられるようにしてリンネ様の屋敷を出ることになったわたしに、世話役だった老女はおにぎりの包みを渡してそう言ったのです。だから、きっと、わたしの犯した罪はわかっていたのだと思うのです。


 実家には帰りませんでした。上京して住み込みの仕事を渡り歩いているうちに、とある雑貨店で子守りの仕事をするようになりました。


 あきれるほどの自由があるわけでも、余裕のある暮らしでもありませんでしたが、たしかにわたしは幸せでした。きっと、身の丈に合った幸せというのは、こういうことを言うのでしょう。


 リンネ様のお屋敷での暮らしには余裕がありましたが、それは金銭的な面での話でした。肉体的自由はなく、精神的にも余裕はなく、あれはきっと幸せからは一番遠い場所にあったものでしょう。


 わたしはリンネ様との生活を忘れよう忘れようと、必死に働きました。幸いにも雇い主の一家はわたしにも大変よくしてくれたので、わたしは精神的にはとても満たされていました。


 その出会いは唐突でした。


「こういうとき、どんな顔をすればいいんでしょうね……」


 トオルさんは、リンネ様の異母弟でしたが、顔のつくりはまったく似ておりませんでした。ですから、気づくのが遅れたのです。


 トオルさんも、わたしが異母兄の妻だった女だとはすぐには気づかれなかったようです。気づいたあとは、とても気まずそうな顔をして目をそらされたものです。


 わたしもトオルさんもおどろき、当初はぎくしゃくとしていましたが、しかし縁とは不思議なもので、いつの間にやら親しく会話をする間柄になっていました。


 トオルさんはご実家――つまり、一時的にわたしが輿入れしていた家――の空気が合わず、上京して手に職を得て働いていました。わたしも、あの屋敷の空気に耐えかねて罪を犯した人間でしたから、互いに引かれ合ったのは必然かもしれません。


 トオルさんはなにひとつ悪くないのに、わたしに謝罪されました。わたしの置かれていた状況は、風の噂で聞いていたそうです。それでも、ご実家には帰ることなく――兄であるリンネ様の死と、わたしが追い出されたことを知ったそうです。


「なにかできたとは思わないけど、でも、一度くらい顔を出しておくべきだった」


 律儀な性格なのでしょう。一方でトオルさんはすこし小心でもありました。けれどもわたしからすれば、気負わずともいい相手でありました。リンネ様はいつだって己のなすことに疑問を抱かず、そばにいて息が詰まる思いでしたから。


 やがてわたしとトオルさんは男女の仲になりました。不安はありました。片方だけとはいえ、トオルさんとリンネ様には血の繋がりがあるのですから。


「憑きもの」の話を丸きり信じていたわけではありませんが、トオルさんがリンネ様のようになったらどうしよう、という不安は、常につきまとっていました。


 けれどもわたしは、トオルさんを愛してしまいました。


 トオルさんはロマンチックな言葉なんてひとつも言えはしないけれど、わたしはむしろそこに安心感を覚えたのです。


 トオルさんは、リンネ様とは違う。わたしはそう確信して、トオルさんに身を委ねました。


 リンネ様の家に輿入れしたときよりも少ない祝福の声は、しかしあのときよりも熱量を持ってわたしたちを寿ことほいでくれました。


 トオルさんと夫婦めおとになれたことは、わたしの人生で最上の幸福だと思いました。けれども、トオルさんとの子がわたしのお腹に宿っていると知ったときは、さらに上の幸福があるのだとおどろいたものです。


 トーヤが生まれたのは、寒い寒い冬のことでした。


 わたしの幸福な生活が終わりを告げたのも、その寒い寒い冬のことでした。


 わたしはトーヤを愛せませんでした。トーヤを見た瞬間に思い知りました。わたしは、腹を痛めて生んだ我が子を愛せないのだという純然たる事実を。


 呆然としました。なぜ、トーヤを愛せないのか、わたしにはわからなかったのです。けれども、愛せないという事実だけは痛いほどわかりました。


「はじめはそんなものよ」。通いで働いていた雑貨屋の女将さんはそう慰めてくれました。


「お産で気が滅入ってるんだよ」。トオルさんはそう言って微笑んでくれました。


 お医者様からは「育児ノイローゼ」だと言われました。けれども違うのです。わたしはトーヤをひと目見たときから、彼を愛する自分がいないと確信してしまったのですから。


 トーヤはあまり泣かず、手間のかからない「いい子」でした。けれどもわたしはどうしてもトーヤに乳を含ませることができませんでした。


 とっくに見放されても仕方のないわたしを、それでもトオルさんは愛してくれました。けれどもその愛を実感するたびに、わたしはひどい自己嫌悪に悩まされました。


 トーヤは、無垢な目でわたしを見ました。その瞳はわたしを愛していると言っていました。不甲斐なく冷血なわたしを。そのたびに、わたしはひどい自己嫌悪に悩まされました。


「だいすきだよ」


 トーヤはわたしがトーヤを愛していないことをわかっていたのでしょう。いつもこちらをうかがう目をしていました。……かわいそうなことをしました。


 もしわたしがトーヤを愛せていたのならば、もしかしたら……未来は変わったのかもしれません。


 けれども、もう、わたしにはわかりません。


 なにもかもわかりません。


 寒い寒い冬のことでした。


 トーヤがトオルさんを殺しました。


 いえ、トーヤも死にました。


 リンネ様に殺されたのです。


「言ったよね? 『エルハと僕は、前世からの縁でずっと結ばれているんだよ』って」


 トーヤの顔でリンネ様がそう言いました。


 とてもとても寒い冬のことでした。


 トーヤの七度目の誕生日のことでした。


 窓の外ではしんしんと雪がふりしきり、地に落ちて降り積もっていたことでしょう。わたしの魂も冷え切って、あの日、リンネ様を殺したときのような吹雪に心を覆い隠されて行くようでした。


「エルハ、逃がしはしないよ。この体が精通したら、今度こそ僕たちの子供を作ろうね。今世でも来世でも、ずっとずっとその先の世界でも、僕たちはいっしょだよ」

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