頑張れ私 アンリミテッド 【番外編】


 イノベーションという言葉には人の心を鼓舞する力強い響きがある。

 新たな価値の創造。この激しく流動を続ける現代社会においては、イノベーションなくして繁栄なし、という言葉が言い過ぎとはならないであろう。資本主義の世を生きる我々現代人は皆、その研ぎ澄まされた本能で革新を追い求め続けているのだ。



 例えばこの蒸し暑い夏の午後の授業などはまさにイノベーションが必要な案件の一つだ。窓辺の席に座っている私などはもはや死の瀬戸際にあり、授業などはそっちのけで今日この時間を生き残る術を必死に探していた。

 もしもカーテンを閉めてしまえば蒸し風呂地獄となった教室で、一人また一人と生徒たちが命を落としていくことになるだろう。ならばとカーテンを開け放てば多少の涼しさを感受出来る代わりに、直射日光という名の灼熱地獄が私を襲うことになる。窓を開けてカーテンを閉じれば良いではないかという凡人たちの愚かな声も聞こえてくるが、その行為はカーテンと窓の両方を開け放った場合とメリットにおいて遜色がなく、むしろ風に動くカーテンが直射日光と共に私の頬を攻撃してくるといったデメリットの方が大きいのだ。

 教育のイノベーション。これこそが現代日本における最重要課題であり、夏の授業革新こそが生徒たちの学習意欲を向上させ日本の未来を明るくする光となるだろう。

 別に難しい話をしているつもりはない。例えばそうだな、全教室にクーラーを完備するだとか、夏休みを6月から10月までとするだとか、もういっそのこと全てオンライン授業にしてしまうだとか方法は色々とある。だが、伝統主義とでも呼ばれるべきこの日本の傾向がそれらの改革を難しくさせているというのもまた事実なのだ。

 まったく、伝統だの常識だのと、それらが社会を停滞させている諸悪の根源だという事にいいかげん気付きたまえ。世界は常に動き続けているのだ。もう日本人は子供から大人までクーラーの涼しさに慣れ親しんでしまっているのだ。スポ根などもはや過去の遺物。真夏の直射日光を浴びながら授業など受けられるはずなかろうに。

 なぁ松田よ、お前に言っているのだ。現代文教師の松田克夫よ。お前はこの状況で生徒たちが授業に集中出来ていると本気で思っているのか。お前のその遠くの蝉の鳴き声より小さな声が私たちの耳に届いていると本気で思っているのか。

 今の私を支えてくれているものは私の左手に掲げられた黒い下敷きのみである。こいつは時に影を生み出し、そして風も生み出してくれるという優れもので、夏の間は私の相棒とも呼べるような頼もしい存在だった。

 本来ならばノートの下に挟む為に文具なのだが、このクソ暑い授業中にシャーペンを動かすなど愚の骨頂であり、夏の間はこいつがノートに挟まる事などないだろう。そもそも松田の授業はその九割がただひたすら教科書を読み続けるのみであり、ノートの余白が埋まっていくことなど殆どないのだ。春からずっと現代文の時間は教科書を読み続けているせいか、私などはもはや教科書を見ずともその内容が分かってしまっており、そんな同じ内容を毎度毎度たらたらと読み耽る松田に対して言いようのない怒りを感じてしまうほどに、この現代文の時間は私にとって苦痛そのものであった。

 なぁ松田よ。お前の授業は本当につまらないのだ。頼むからイノベーションしてくれ。もっと面白いものを読ませてくれ。新しい話を聞かせてくれ。つまらない上に暑いという二重苦で私のストレスは溜まっていくばかりなのだ。

 因みに言っておくが、別に私は現代文の授業が嫌いではない。むしろ好きな部類にあると言ってもよく、私は文学少女とも呼べるような愛読家だったのだ。そんな読書家の私がなぜ今の時間を苦痛に感じているのかといえば、それはやはり夏の暑さのせいであり、繰り返される同じ文章に飽きてしまったというせいある。

 そもそも私はすぐに終わりを迎えてしまう短編小説があまり好きではない。広大でかつ終わりの見えない長編小説こそが私の好みであり、明るい未来を夢見て歩く長い長い旅の途上にこそ幸福を感じるのだ。

 私は終わりが嫌いである。短編は寂しい。楽しいことはずっとずっと続いていって欲しいのだ。

 そんな本好きの私なのだが、最近私はあることに気が付いてしまった。恐らくこれに気が付いた人はほんの一握りだろう。それ程までに微細な変化であり、それが社会に及ぼしている影響というものはごく小さなものである。

 なんと小説のタイトルが長くなってきているのだ。

 シンプルイズベスト。単純素朴。質素な生活の中でも勤勉を怠らない我々日本人の中には侘び寂びという名の独特の美意識が息づいている。昔から日本人は慎ましさと呼ばれるものに美徳を感じてきたのだ。

 ではなぜ、決して簡潔とは言えないようなタイトルを持った小説が現代日本で流行しているのだろうか。なんと100文字をゆうに超えてしまっているようなタイトルの小説すらも存在しているのだ。シンプルなタイトルにこそ美しさが宿るというのに、いったいなぜ長いタイトルの小説が当たり前と呼ばれるような時代が訪れてしまったのだろうか。もはや文章ではないかと思えるようなタイトルの小説が本屋の店頭に並んでいたりするのだ。いったいなぜ……。何かとんでもない事態がこの日本で起こっているのではあるまいか……。日本人全体の感性を動かしてしまうような、とんでもない何かが………。

 なぜ小説のタイトルは長くなったのか。

 その答えは至極単純だった。長いタイトルもまたイノベーションという概念の内にあったのだ。

 イノベーションが先か、需要が先か。イノベーションが需要を生むのか、需要がイノベーションを生むのか。

 読んだときに響きの良い短文。かつての日本では短いタイトルにこそ需要があり、そして、それこそが日本人の好みであると誰もが信じて疑わなかった。だが、とある小説の登場によりそんな常識が覆される。なんと16文字のタイトルを持ったライトノベルが世間の注目を集め、大ヒットしてしまったのだ。つまり長いタイトルの小説に需要が生まれたのである。

 16文字など今の感覚からすれば短いと思えるかもしれない。だが、その当時はそれが革新的であった。兄妹の恋愛を描いたそのライトノベルは内容もさることながら、そのタイトルもまた見た者に分かりやすい説明口調で、明らかに今までの小説とは一線を画すものだったという。いわば花より団子である。日本人は時に質素な美しいよりも派手な面白さを好むのだ。

 その成功を皮切りに業界はこぞって長いタイトルの小説を出版し、そうしてやがて説明型のタイトルが世間一般の常識として受け入れられるようになったそうだ。現在ではビジネス書ですらも説明型のタイトルが主流となっており、やがては1000文字、2000文字を超えるタイトルが当たり前となる時代が訪れるのかもしれない。

 いやはや、1000文字、2000文字などと、それではまるでプロローグではないか。そんな事が本当にあり得るのだろうか。いや、もしかしたらあり得るのかもしれないな。

 イノベーション。常識とは革新を前に覆されていくものなのだ。

 因みにだが、プロローグ、つまり序章とはその作品の前置きのような部分であり、だいたい400文字から4000文字の間が基本であると言われている。もしも小説のタイトルが1000文字を超えるようになれば、プロローグなど必要なくなるのではないかという疑問が当然生まれてくるだろう。だが、あくまでもタイトルとは小説全体を表す標題であり、作品の意図を示す前置きとはならないのだ。つまり、いくら小説のタイトルが長くなろうとも、その作品を彩るうえでプロローグはなくてはならない存在なのである。

 しかしである。それほどまでに作品にとって重要なプロローグも、それがあまりにも長くなってしまえば読む側が飽きてしまう可能性があり、作品自体をぶち壊しかねない猛毒ともなり得るのだ。つまり書き手はプロローグの文字数に注意せねばならず、それが5万文字を超えてしまうようなことなど決してあってはならないのだ。

 おや。「本当にそうなのか」という声が何処からか聞こえてくる。

 松田の声だろうか。それとも暑過ぎて幻聴を聞いているのだろうか。

 イノベーション。短いタイトルに美徳を感じていたのも今は昔。100文字をゆうに超えるようなタイトルが当たり前となっている現代において、プロローグは最大でも8000文字までが基本であるなどといった常識が果たして通用するのだろうか。確かに短いに越したことはないだろうが、別にそれが5万文字を超えてしまおうと問題ないのではなかろうか。始めは一話2000文字の三話構成でプロローグを書こうかと思っていたら、あれよあれよという間に5万文字を超えてしまっていた、などというプロローグがあってもいいのではないだろうか。

 激しく流動を続ける現代社会。そんな世界に置いて行かれそうになる私たちの疲れ切った心をイノベーションという言葉が鼓舞してくれる。

 長いタイトル結構。プロローグが5万文字を超えてもいいじゃないか。私たちに必要なのは革新なのだ。それこそが現代を生きる私たちの……。

「天野さん」

「……はぃ!」

 突然の名指しにバッタの如く飛び跳ねた私は、こちらを見つめる松田克夫の皺のよった目尻に恐怖心を抱いた。

 なんだ。なぜ私の名を呼んだのだ。なぜこちらを見つめているのだ。まさか私が授業に集中してなかった事を怒ってるのか。でも、でも、そんなの私のせいじゃない。こんな暑さで集中出来るわけがないのだ。絶対に私のせいじゃない。

「天野さん」

「……ぃ」

「二段落目から声に出して読んでみてください」

「……ぇ?」

 不意打ちである。生徒の名を口に出すこと事態が非常に稀な松田克夫が、授業中に生徒に指示を出すなどまさに青天の霹靂だった。

「ほら天野さん、立ち上がって」

「……ぅ」

「さあ」

「……ぅぅ」

 窓際の一番前の席で、ほんの僅かに腰を上げた私に視線を向ける生徒はいなかった。皆、夏の暑さと午後の気怠さにやられてしまっているのだ。無垢な少年のように瞳を瞬かせた松田のみがその満面の笑みを羞恥に震える私に向けている。

「さあ天野さん、読んでみてください。さあ!」

 まさかこれが松田にとっての教育イノベーションなのだろうか。夏の暑さに意識を朦朧とさせる生徒を辱める行為が、こいつにとっての新たな教育スタイルなのだろうか。

「……ぁ……私……を見た……先生……脱いで……するところ……私……」

「うんうん」

「……ぅ……濡れた……上がって……二人……動いて……私……先生……」

「うんうん、ほっほっほ」

「……」

 イノベーション、イノベーションと、最近の凡人たちはイノベーションそれ自体に価値が宿っているという幻想を信じてやまない。あまりにも「愚か」で「哀れ」な傾向であり、我々ホモ・サピエンスが本当に重んずるべきものは、過去から受け継がれてきた伝統と全体によって培われた常識なのだ。

 伝統なくして進歩なく、常識なくしてイノベーションなし。

 伝統と常識を軽んじる革新主義者などは単なる破壊者として分類されるべき野蛮人なのだ。

 なぁ松田よ、お前のことだぞ。覚えておけよ、松田。

 そんな憤りを胸に、私の声はいつも通り夏の風に飛ばされていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

長谷川くん!頑張って! 忍野木しか @yura526

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ