頑張れ私 ミッション6

 

 人は人か人形か。生は運命か因果か。

 人は動いているのか、動かされているのか。

 人の幸、不幸は予め定められた運命なのか、はたまた、原因によって生じた結果なのか。

 


 私は走った。

 今日も昨日と変わらぬ青い空だ。少し冷えた大地。降り注ぐ朝日が青葉の露を目立たせる。欠伸が出るほどに見慣れた日常の景色である。

 私は走り続けた。

 手足が跳躍する。髪が風を切る。通学路を歩いていた学生らしき男が颯爽と走る私に驚いて道をあける。メガネを掛けた細身の男だ。およそ運動とは無縁の存在だろう。青春を勉学に費やすガリ勉くんといった所か。よく見ておけよガリ勉くん、これが走るということだ。

 そうして走り続けること数十秒。距離にしておよそ100メートル。常人ならば車を使おうかと思い悩む距離を走り抜けた私の呼吸が微かに乱れ始める。そろそろ良いかな、と立ち止まった私の視界がぐわんと歪んだ。

 マズい、酸欠だ。久しぶりの運動に体がついてこなかったのだ。うう、き、気持ち悪い。吐きそうだ。誰か助けて……。

「君、大丈夫?」

 子鹿のように足を震わせていた私に声を掛けてくれたのは先ほどのガリ勉くんだった。軽い恐怖を覚えた私だったが、彼の制服が同じ学校のものだと気が付いた私は肩の力を抜いた。同じ学校ならば大丈夫だろう。昨日のようなことは起こるまい。

「息を吐いて、ほら、吐き切ればちゃんと吸えるから。吐いて、吸って。吸うよりも吐くことを意識するんだ」

 ガリ勉くんが私の背中を力強く揺する。ガリ勉とは思えない程のエナジーである。やっと吐き気が治まってくると、今度は羞恥という名の目眩が私に襲いかかってきた。

 これはいったいどういう状況なのか。ただ走っていただけなのに。ナンパ男たちから奇襲を受けたあの忌まわしき地点を走り抜けただけなのに。厄災を回避しようと動いた先に別の厄災が待ち構えていたとでもいうのか。一難去ってまた一難。やはり人は抗えぬ運命に縛られた人形なのだろうか。

「どう? 気分は落ち着いた?」

「……ぃ」

「そっか、良かった」

 いや、厄災というほどでもないか。昨日のナンパ男たちと違ってこのガリ勉くんからは一切下心というものが感じられない。勉強以外は興味がないタイプの男なのだろうか。もしそうだとすればこの男は草食系、いや、いわゆる絶食系男子というやつなのかもしれない。身長体重は男子の平均くらい。顔立ちは整っているが、その端正な顔がまた彼から特徴というものを奪ってしまっており、薄い唇や通った鼻筋、ほっそりとした顎が彼の線を細く見せていた。安全安心の無害メガネといった認識がこのガリ勉くんに対する万民の総意だろう。

 しかし、だ。何かがおかしい。たとえそれが緊急事態だったとして、果たして異性の体に気安く触れられるようなガリ勉くんがこの世に存在するのだろうか。いや、そうか、姉妹に囲まれて育ったガリ勉くんという可能性も考えられる。それならば女慣れしたうえで絶食系となるのも頷けよう。しかし、何か妙だ。何か強い違和感を感じる。ミステリー小説の冒頭で犯人が判明してしまった時のような、陽気な味方が急に冷たい笑みを見せた時のような、この既視感はいったい……。

 そうか、私はこの男の顔を知っているんだ。いや、同じ学校ならば当然何処かで顔を合わせている可能性もあるのだが、そうではなく、何かこう見覚えのある顔というか……。もしかしてこのガリ勉くんは誰かの兄弟だったりするのだろうか。

「はい、お茶」

 おずおずとガリ勉くんからペットボトルを受け取った私は歩道のベンチに腰を下ろした。とにかくお礼を言わねば、と肩に力を入れた私に向かってガリ勉くんが手を上げる。

「しっかりと水分はとるんだよ。じゃあ僕は朝練があるからもう行くね」

「あ、あ、ありがと……!」

「いいって、じゃあね」

 言えた。

 嬉しくなった私の頬が自然と緩む。ガリ勉くんが朝の通学路を走り去っていくと、そんな彼の背中に向かって私は小さく手を振った。意外にも足が速い。身のこなしも軽やかだ。運動が出来るタイプのガリ勉くんなのかもしれない。朝練と言っていたし、まさか卓球部のエース的存在だったりするのだろうか。勉強に部活、ガリ勉くんにはちと荷が重そうだ。でも、君ならやれるさ。頑張れガリ勉くん。

 ベンチに座った私の前を登校中の生徒たちが通り過ぎていく。朝の風が爽やかである。久しぶりの運動に疲れ果てた私はそんな心地良い眠気にまどろんだ。

「なに呑気に座ってんだよ」

「……ん?」

 水島涼太の登場である。朝日を浴びた涼太の少し長い髪がピアノの黒鍵のような光沢を帯びている。過ぎゆく人の波では彼の存在は隠せない。本当に絵になる天才型の男だ。今日は会いたくなかったのだが、どうやら追い付かれてしまったらしい。だが、構わない。今の私は気分が良いのだ。先ほどの成功が私の心を光で満たしているのだ。昨日の羞恥は何処へやら、酸欠に虚ろな目を細めたまま私は涼太の前に手を伸ばした。

「ん……」

「は?」

「ん……!」

 掴めと言っているのだ。まったく、察しの悪い男である。先程まで私は死の一歩手前を彷徨っていたのだぞ。今の私にとってのベンチは常人にとってのエベレストに等しい。今の私が一人で立ち上がる困難さは常人がエベレスト冬季無酸素単独登頂に挑む困難さと同等なのだ。だから早く掴め。私は疲れ切っているのだ。このままでは遭難してしまうぞ。

「たく……」

 私の手を掴んだ涼太が私の体を引っ張り上げる。やれやれといった態度である。そんな涼太に私は「ありがと」と微笑んであげた。涼太と二人きりならば私はマシンガン・トーカーとなれるのだ。今の私の前では噂好きのおばちゃんも辟易することだろう。饒舌な私に涼太もたじたじである。どうした涼太よ、怖いのか。私の多弁が怖いのか。

 私が一歩足を踏み出すと、何やら恐怖で顔を真っ赤に染めた涼太の体が後ろに下がる。ふふ、と暗黒の微笑みをみせた私が涼太に背を向けて歩き出すと「お、おい!」と声を上げた涼太はすぐに私の隣に追い付いた。ふふ、可愛い奴め。

「なぁ美雪、大丈夫なのか?」

「……何が?」

「いや、何がってよ……」

 言葉を濁す涼太に私は視線を向けない。考えていることが分かったからだ。おおよそ昨日の私の失敗に対する気兼ねだろう。いや、昨日今日の話ではないのかもしれない。最近の私はずっと一人ぼっちなのだ。

 一年生の頃の私は喋らなかった。喋る必要がなかったからだ。その頃の私には仲の良い親友が二人いて、そして、その二人はおしゃべりだった。だから私は相槌を打つだけで良かった。そんな日常が心地良かった。

 だが、二年生に上がった私の周囲に変化が起こる。親友だった二人が別のクラスに行ってしまったのだ。変わってしまった環境に対して変わることの出来なかった私の存在がふわりと浮かび上がる。そのまま何処かへ飛んでいくのかと思えば、浮かび上がったままの私の存在がまた変わらない日常の一部となってしまった。一向に変わることのない私という存在。それは変えられない運命の象徴だろうか、それとも、変えようとしない原因の産物だろうか。

 いや、私はリアリストなのだ。運命など存在しないと私は知っている。

 私の失敗は私に起因する。新たなクラスメイトたちに対して私自身がそっけない態度を取り続けたのだ。会話は続かず、会話しようとせず、目を合わさず、視線すら上げようとしない。誰がそんな奴と仲良くなろうと思うのか。私は完全に殻に閉じこもってしまっていた。

 だが、変わらなければいけないとも思わなかった。一人が好きだからという理由からではなく、いつか何かの拍子に変わってくれるだろうと楽観的に考えていたからだ。いつか変わらざるを得ないような凄まじい変化が私に訪れるだろうと、例えばテロリストが学校を占拠したり、氷河期が世界を白銀に染めたり、誰もが憧れるような理想の男子生徒に告白されたり……。だが、そんな都合の良い変化はなかなか訪れなかった。

 受け身だった。いつまでも受動的だった。そんな私はリアリストではなく、運命論者とも呼ばれるべきスピリチュアリストだったのかもしれない。いつか何かが訪れるだろうと、何かが私を導いてくれるだろうと、私は何もしてこなかった。そんな私に変化など訪れるはずもなく、幼馴染の涼太や親友の璃子にすら本気で心配されるほどに落ち込んでいたのだ。

 まぁ、璃子関しては賛否あるが、それはともかく、そんな私に必要なのは変化だった。緩やかながらも変わり続ける世界に対応する為に私自身が変化する必要があったのだ。

 いや、小さな変化があったにはあった。気になる人が出来たのだ。その人を目で追うのが二年生の私の日課となっていた。だが、その程度の変化である。その程度で根本は変わらない。

 受動から能動への移行。陰から陽への変換。本質の変化は単純に見えて非常に難しい。やはり自分を変えるには外からの力が必要となるのだろうか。クラス替えに匹敵するほどの強烈な変化が再び必要となるのだろうか。テロリストよ、早く来てくれ。氷河期よ、世界を白く染めるのだ。

「おい美雪、ぶつかるぞ」

「ん?」

 おっと、危ない。気が付けば学校ではないか。顔を上げた私の瞳にグラウンドを走るサッカー部員たちの青いユニフォームが映る。校舎に入っていく白い制服の波。芝生の上で体を伸ばす陸上部員たち。いつも通りの光景である。

 一人の女生徒が正門前で肩をすぼめている。白い制服から伸びる小麦色の肌が眩しい。活発そうなショートヘアの女生徒だ。早瀬奈帆は昨日と全く同じ姿勢のまま、昨日と全く同じ表情で水島涼太を真っ直ぐ見つめていた。そんな彼女の姿に私は慌てて視線を斜め下に落とした。うむ、大丈夫だ。手は乾いている。今日の涼太はオロカモノでは無さそうだ。

「おはよ、水島く……」

「ああ、おはよ……」

 奈帆の声が風に飛ばされていく。昨日と同じぎこちなさである。再び興味をそそられた私は同時に違和感を覚えた。なぜ昨日と同じように風に負けてしまうのか。お前は陽側の人間だろ。手を繋いでいた昨日とは違い、今日の涼太と私は一緒に登校してきただけなのだ。まさかそれだけでショックを受けているのか。それともまだ昨日のことを引き摺っているのか。それはそれで興味深いが、そもそもお前は私と涼太の間柄を知っているじゃないか。どうしたのだ、早瀬奈帆よ。頼むから本領を発揮してくれ。私は陽気なお前の無邪気なボディタッチにあたふたとする涼太の姿が見たいのだ。

「あ、あの、水島くん……」

「美雪、行こうぜ」

 恐る恐るといった様子で声を出した早瀬奈帆に対して涼太はあまりにも素っ気なかった。そうして私の手を掴んだ涼太が歩き始める。おい、痛いぞ。手を握るな、バカモノ。また女生徒たちの弾丸が私に向かって飛んでくるではないか。このオロカモノめ。

 それにしても、いったいどうしたというのだ。お前と早瀬奈帆の関係はそんなに冷え切ったものではなかっただろう。そういえばコイツ、昨日もこのぐらいの時間に私と登校していたな。サッカー部の朝練はどうしたのか。

 私の疑問など意に返さないように涼太は前へ前へと足を進めていった。グラウンドの方をチラリと見た私は、こちらを見つめるサッカー部員たちの視線に慌てて下を向く。

 そういえばコイツ、昨日の放課後も部活を休んでいたぞ。まさかサボっているのか。何があったのだ。お前はエースだろ。私も暇ではないのだ。余計な心配を掛けさせるな、バカモノめ。

 校舎に入った涼太と私は靴を履き替えると階段を上がっていった。終始無言である。登校中の心地良い無言などではなく、張り詰めたようなギスギスとした沈黙だった。

「美雪」

「はぃ!」

 突然の声に私の背筋が伸びる。やっとクラスが近づいてきたとほっと胸を撫で下ろしていた矢先だ。恐々と顔を上げた私の瞳に涼太の微笑みが映る。それは何処か疲れたような苦い笑みだった。

「また長谷川の奴が何か言ってきたら、すぐ俺に相談しろよ」

「え、あ……うん……」

 昨日の喧嘩を思い出した私はゴクリと唾を飲み込んだ。そんな私に向かって「じゃ」と片手を上げた涼太が背中を向ける。呆然とその後ろ姿を見送った私はやっと2年A組の扉を潜り抜けた。まだ疎らな生徒たち。長谷川勇大の姿はない。

 そ、そうだ、私の本命はこっちだった。今の私には涼太の身を心配する余裕などないのだ。私は生まれ変わった。そして、生まれ変わった私には使命がある。私は、私は、長谷川勇大に「ごめんなさい」と「ありがとう」を言わなければならないのだ。

「あ、あの……」

「ん?」

 私の声に教壇前の席に座っていた三波由香里が振り返る。切れ長の唇を赤く煌めかせた長い髪の女生徒だ。ファッションモデルのように美しい足を持った彼女はクラスの人気者だった。明朗で活発で誰からも好かれるような彼女と私の間に当然接点などない。いきなり難易度が高過ぎたかな、と怯んでしまった私に向かって三波由香里が首を傾げた。

「どしたよ?」

「あ、あ……」

「ん、なんかあったん?」

 細い腰を上げた由香里の唇が近づいてくる。濡れた宝石のような赤である。思わず後ろに下がりそうになった私はグッと肩に力を込めるとなんとかその場に踏み留まった。だが、喉が締め付けられるような極度の緊張に上手く呼吸が出来ない。いったいどうすればいい。このままではまた私の体が宙に浮かび上がってしまう。分からない。吐きそうだ。誰か、誰か助けて……。

 吸うよりも吐くことを意識するんだ。

 先ほどのガリ勉くんの言葉が頭に蘇ると、咄嗟に私は腹に力を入れて息を吐き出した。そうして息を吸い込んで、また息を吐く。

 なるほど、と私は思った。理屈はよく分からないが、確かに息を吐き切った方が呼吸が落ち着くのだ。新鮮な空気が私の血管を駆け巡る。これもまた変化の一つなのだろうか。新しい体を手に入れたような清々しさである。そんな爽快感に私の心が光で満たされると、私はやっと由香里に向かって精一杯の笑顔を返すことが出来た。そうして私は吐く息に声を乗せる。

「お、おはよ……」

「え?」

「お、おはよ……!」

「ああ、うん。おはよ、美雪ちゃん」

「う、うん! お、おはよ!」

「あはは、二回も言わなくていいってば」

「あ、う、ご、ごめん……」

「あはは、どしたん、美雪ちゃん。何かいい事でもあったん?」

「ううん、ふ、普通だよ」

「ふーん、何か今日は調子良さげじゃん」

「う、うん、調子はいいかも……」

「そっかそっか、あはは」

 風が吹けば桶屋が儲かるという言葉がある。風に舞い上がった土埃で目を悪くした人が琵琶法師となると、琵琶の材料となるネコが町からいなくなり、代わりに町に溢れたネズミが桶を齧って回った為に桶屋が儲かったという諺だ。蝶の羽ばたきが予想外の影響を未来に及ぼすというバタフライエフェクトとは似て非なる言葉ではあるが、小さな変化がやがて大きな変化に変わるといった点では同じようなものだろう。これは運命論的な神秘主義の話ではなく、論理学的な合理主義の話だ。つまり、風が吹くことで桶屋が儲かることがあれば、蝶の羽ばたきが嵐を引き起こすことも現実にあり得るのだ。

 由香里はよく笑った。その笑顔は眩しかった。涼やかな声である。人気者であるのも頷けるなと私は彼女の笑顔に見惚れてしまった。普段の彼女のどこか冷たく見える怜悧な表情と相好を崩した際の人懐っこい笑顔のギャップが彼女の美しさをより一層際立たせていたのだ。そんな由香里の眩い笑みに同じ性である筈の私ですらも頬の緩みが抑えきれなかった。

 いかんいかん、と慌てて頭を横に振った私に向かって、由香里の真後ろの席に座っていた奥田まりこが「天野さん、おはよー」と声を掛けてきた。咄嗟のことである。だが、なんの心配もいらなかった。頬を緩めていた私の口から自然と「おはよー」という声が溢れ出てきたのだ。

 信じられない。天才だろうか。クラスメイトの前で自然な対応を見せれたのはこれが初めてかもしれない。そんな私の微笑みに奥田まりこも微笑みを返してくれる。自然である。まったくもって自然な対応である。もはや私はかつての私ではないということなのか。既に私は自在に言葉を操れる存在となっていたということなのか。

 風が吹いたことで桶屋が儲かったという。だが、そんな桶屋にとっても風は迷惑以外の何ものでもなかった筈だ。桶屋が感謝した相手はネズミであり、ネズミが感謝した相手は琵琶法師なのだ。犠牲となった猫はといえば感謝などする筈もなく、盲目となった琵琶法師もまた風を恨んだだろう。つまり、最良の結果は最良の過程によってもたらされたものではないという事だ。

 昨日の朝の出来事は本当に忌むべきものであった。あの憎たらしくも恐しいナンパ男たちのせいで、涼太に手を握られたまま登校するという辱めを私は受ける羽目になったのだ。精神が不安定となった私は昼食すらもまともにとる事が出来ず、そんな私を心配してくれた長谷川くんからは逃げ出してしまい、思わず泣き出してしまった私を心配してくれた涼太と長谷川くんが喧嘩する始末。長谷川くんに嫌われてしまったかもしれないと私は途方に暮れ、そして、そんな私を餌にしようとする大妖怪の出現により、やっと私は変わる決心をしたのだ。

 思えば、今朝のガリ勉くんとの交流もまた今の私を形作る過程の一部にあったのだろう。あのガリ勉くんの言葉と成功体験が私に勇気を与えてくれたのだ。ありがとう、ガリ勉くん。卓球、頑張って。

 あの忌まわしきナンパ男たちめ。昨日の授業中にいったい何発の地対空ミサイルを凧に縛り付けたお前たちに向かって発射させたであろうか。だが、私にとってのお前らの存在は、桶屋にとっての風だったのだ。何処の誰かは知らないし、もう会うこともないだろうお前たちにも、一応礼は言っておこう。ありがとう、天才くん。お前は時と場所を考えろ。ありがとう、才能無し男くん。お前は諦めるな。千発打ち込めば一発くらいは被弾させられるさ。頑張れ才能無し男くん。

 教室の扉が開く音に私の心臓が跳ね上がる。視界の端に男子生徒の影が映ったのだ。背の高い、ギリシャ彫刻のように整った顔の男子生徒である。

 文武両道。才色兼備。長谷川勇大の登場に私の心臓が暴れ始めた。

 落ち着け、私は生まれ変わったのだ。

 さぁ、立て。頑張れ私。長谷川勇大に想いを伝えるのだ。

 震える足に力を込め、ゆっくりと息を吐き切った私は視線を上げる。そんな私の視線と勇大の視線が重なると、私の目に涙が浮かんだ。

 頑張れ私。あと一歩だ。

 もう一度、深く息を吐いた私はギュッと手を握り締めると、大きく足を前に踏み出した。

 

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