頑張れ私 ミッション7


 ガザリアスは剣を振り上げた。

 その鋭い剣先は聳え立つ山に、鍛え抜かれた足が生まれ育った大地を踏み締める。鏡のような刀身。銀色の刃が山嶺の雪を映す。彼の背後の街は朝霧の静寂にあった。やがて霧が晴れる頃、街の人々は変わらぬ朝に大きく背中を伸ばすだろう。

 来い。

 ガザリアスは剣を中段に構えた。

 斬り裂く構えでなく突き抜く構えだ。巨大な相手に対して斬りつける行為は有効とならない。真紅の龍の逆鱗の一点。ガザリアスは全神経を剣先に集中させてその時を待った。かつて街を襲った悲劇。炎に呑まれていく父の背中。幼き日の母の悲鳴が耳の奥に響く。

 全てを終わらせてやる。

 刀身が朝日を反射させる。群青の空と重なる白銀の稜線。ガザリアスの瞳が山の頂を睨んだ。つっと汗が彼の頬を伝う。ドクンと鼓動が彼の胸の内を叩く。渦巻く怒りと悲しみ。焦燥。やがて赤い龍の鱗が青い空を覆い、赤い龍の吐息が白い山を溶かすその時を、彼は今か今かと待ち続けた。

 剣を持つ手が微かに震える。大丈夫だ、とガザリアスは自分に微笑んだ。この日の為にいったいどれほどの鍛錬を積み重ねてきたのか。来る日も来る日も剣を降り続けてきたのだ。皮膚が裂けようとも肉が切れようとも、あの日の想いを胸に、怒りと悲しみを力に変えて、今日この日の為にガザリアスは懸命に剣を振り続けてきたのだ。その努力の重みが、その想いの厚みが、幾度となく折れそうになった彼の心を支えてきてくれたのだ。

 ふっと空気が変わる。止まっていた風が空に舞い上がると、微かな振動が静寂を乱した。天を震わす咆哮。火龍の吐息が山向こうの空を赤く染める。

 き、来た……。

 全身の筋肉が硬直する。ガザリアスは高ぶる心を鎮めようと深く息を吐いた。大丈夫だ、とまた彼は自分に微笑む。乾き切った唇を舐めようと舌を動かしたガザリアスは、強張った筋肉をほぐそうと指の力を緩めた。だが、剣を握り締めた指は柄に張り付いたまま動いてくれず、噛み締めた歯も開かない。天を見上げたまま固定された視界。大地を踏み締めた足が鉛のように重い。

 おかしい……。

 ガザリアスは思った。陽光に煌めく火龍の爪。青い空を走る炎。かつての記憶が脳裏をよぎる。

 か、体が動かない……。

 赤い翼が天を覆う。巨大な影が刀身にかかる。火龍の視線はかつての平和を取り戻した街に向けられていた。忌まわしき記憶がガザリアスの体を蝕んでいく。

 や、やめろ……。

 火龍が頭上を通り過ぎる。背後に響き渡る咆哮。ガザリアスは涙を流した。鮮明な記憶が彼の頭を埋め尽くしていく。炎に呑まれる街。逃げ惑う人々。母の悲鳴。父の背中。

 繰り返してなるものか。俺が、俺が街を守るんだ。

 だが、ガザリアスの体は動かなかった。



 フラッシュバック。

 過去に受けた心的外傷が突然かつ鮮明に脳裏に蘇る現象である。その症状は様々であり、記憶の混乱により怒りが爆発することがあれば、恐怖により体が動かなくなってしまうこともある。

 幼き日に火龍に襲われた青年、ガザリアスは心に深い傷を負っていた。そのトラウマにより彼はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症していたと考えられ、再びトラウマ(火龍)と相対した彼の体は彼の意志とは関係なく動かなくなってしまったのだ。彼の鍛え抜かれた体も、鋼の意志も、トラウマを克服するには至らなかったのだろう。それ程までにPTSDとは重い病であり、トラウマを背負った者に対しての周囲の理解が必要となる。

 かくいう私も心に様々な傷を負っており、それらが不意に繊細な私の胸をかき乱すこともあるのだ。 



 今、私は大きく足を一歩前に踏み出す最中にあった。朝の教室である。まだ疎らな生徒たち。私の左手が届く距離ではモデルのように美しい三波由香里と彼女の友達の奥田まりこが談笑しており、私の視界の右側では白いカーテンが風にはためいている。そしてまさに今、私の足が教室の床を踏み締めようとしているその正面で、一人の男子生徒が私の瞳を見つめて立ち竦んでいた。背が高い、ギリシャ彫刻のように顔の整った男子生徒である。長谷川勇大と私の視線がいつも通りの朝の教室で交差する。文武両道の彼が放つ瞳の光は力強く鋭い。だが、その目のずっと奥底には温厚篤実な彼の木漏れ日のような優しい光が隠れており、人付き合いが苦手な彼は中々その光を表に出さないでいた。それでも私は知っている。彼が本当に優しい男だということを。

 長谷川くん、待たせたね。今度は私が手を差し伸べる番だよ。私が君の優しさを証明する。だけどその前に、その前に、私は君に言わなければいけないことがある。私は私の想いを君に伝えなければならない。ごめんねと、ありがとうを、君に言わなければならない。

 生まれ変わった私の足が床を踏み締める。一歩、私の体が長谷川くんに近付く。一歩、私の想いが前に進む。不安だ。怖い。でも、大丈夫。何故なら私は生まれ変わったのだから。もう今の私はかつての私ではない。私は想いを伝えられるのだ。大丈夫、長谷川くん、待っててね。

 その時、予想外の出来事が私の身に降り掛かった。あまりにも突然の状況に私の思考が追い付かない。本当に瞬きする間も無いくらいに一瞬の出来事だった。

 床を踏み締めたはずの私の足が動いたのだ。まるで重力が横に働いているかのように、私の右足が前に落ちていく。なんだ、と思う間も無く私の視界が反転した。地が天に、天が地に、ぐるりとすごい早さで形を変える景色を前に私はどうすることも出来なかった。衝撃。悲鳴。気が付けば私は朝の教室の床に仰向けに倒れてしまっていたのだ。

「ちょ、美雪ちゃん!」

「お、おい! 大丈夫か!」

 誰かの声が耳に響く。だが、状況が掴めなかった私には「うぅ……」といったような呻き声しか出せなかった。

 いったい何が起こった。なぜ、私は天井を見ている。あ、由香里ちゃんだ。わ、長谷川くんも。ああ、やっぱり二人とも、下から見ても絵になるなぁ。

 三波由香里と奥田まりこ、そして長谷川勇大に上半身を起こしてもらった私は、床に座り込んだまま辺りを見渡した。クラスメイトたちの視線がこちらに集まっている。その好奇の入り混じったかのような表情に私の心臓がドクンと高鳴った。

「天野さん、急に走り出しては危ないだろう。ちゃんと周囲の状況を確認しないと」

「こら勇大、先ずは心配してあげなよ。そんなだから、あんたはすぐ女を泣かせちゃうのよ」

「いや、だが……」

「だが、じゃねーよ」

 私の息が掛かるような距離で由香里と勇大が言い合いを始める。目を細めた由香里の長いまつ毛に勇大はシュンと肩を落とす。そんな二人の様子は何処か親しげで、楽しげで、心が通い合っているように見えた。私の心臓がまたドクンと高鳴る。

 なんだ……。いったい何が起こっている……。この頬を焦がす熱気はなんだ。この背中を震わす寒気はなんだ。何やら怪しげな由香里と勇大の関係に私の心が掻き乱されているのだろうか。

 いや、違う。むしろ二人の様子は私の好みの範疇であり、私の体を蝕む熱気や寒気とは無関係の筈だ。そもそも本来ならば熱さ寒さとは相反する性質であり、その二つが同時に私の体を襲うなど普通の事態ではない。何か尋常ではない異変が私の体に起こっているのだ。

 ズキン、と目の奥に痛みを感じた私は頭を押さえた。同時に焼けるような胸の痛みを覚えた私は深く息を吐く。悪寒や熱っぽさだけではない。いったいなんなのだ。何が起こっているのだ。まさか先ほどのアレか。あの酸欠の後遺症が私の体を蝕んでいるのか。

 そもそもなぜ私は急に床に倒れてしまったのだ。単純に床に落ちていたジャージに滑って転んだだけだとも考えられるが、万が一にも不測の事態が私を襲っていたのだとしたら、私は私の身を守る為にその真相を解明せねばならなくなる。

 例えば私の右足に対して何らかの攻撃が加えられていた仮定しよう。それが予め意図された攻撃だったのであれば何者かが私の命をつけ狙っていると推測できるし、また、意図されていなかった攻撃、例えば何処かの戦場から流れてきた小型ミサイルが偶然にも私の右足を撃ち抜いてしまったなど、であれば今後の対処が非常に難しくなる。

 その時、ドクン、とまた私の心臓が跳ね上がった。何やら息が苦しくなってくる。目がチカチカする。私の正面で私の顔を覗き込む長谷川くんの顔が眩しい。誰かが照明のボタンを弄り回しているのか、私の視界は先程から黄色と灰色に点滅を繰り返していた。

 ──くせにさ。

 頭の中を誰かの声が走る。日暮れ時の街並み。ヒグラシの音色に笑う子供たち。

 な、なんだ今の声は……。それにこの記憶はいったい……。

 ──ほんと美雪ちゃんかわいそう。

 ズキン、とまた脳に痛みが走る。ちょうど前頭葉の辺りか。耳鳴りのような声と共に、ノイズの走った映像が私の視界に覆い被さってくる。

 こ、これは、まさか……。

 ──長谷川くんのことが大好きなのに。

 うう、やめろ、やめてくれ……。私が悪かった。だからもうやめてくれ……。

 青年期のガザリアスを苦しめた記憶。そのトラウマにより異変を起こした彼と同じように私の体にも異変が起きていた。はるか昔の記憶だろうか。いつかの日暮れ時に誰かが呟いた言葉が私の脳裏をフラッシュバックしていたのだ。

 因みに、ガザリアスの背後の街を襲った火龍は、偶然街に滞在していた亡国の騎士エーレンフリートと謎の魔女ルイーズの手によって止められ、やがて激しい怒りによって覚醒したガザリアスが二人の手を借りて火龍を撃退するのだが、それはまた別のお話である。

「お、おい天野さん、大丈夫か?」

「まさか、頭打ったんじゃ」

「ほ、保健室連れてかないと!」

 由香里とまりこの不安げな表情。長谷川勇大の真剣な瞳。そして、私たちを取り囲むクラスメイトたちの視線。

 ── 好きな人からあんなこといわれたらさ、誰だって泣いちゃうよ。

「ち、違う……!」

「え? なんだって?」

「美雪ちゃん、大丈夫?」

 私の微かな声を聞き取ろうと勇大の顔が近付いてくる。クラスメイトたちの瞳は好奇と関心に大きく見開かれており、分不相応な恋心を抱いた私の醜態を待ち望んでいるかのようであった。

 ──美雪ちゃんに好かれてること知ってるくせにさ。

 ち、違う。絶対に違う。わ、私は、私は別に長谷川くんのことなど好きではないし、長谷川くんはただの観察対象なのだ。だ、だから、勘違いをしないでくれ。私は長谷川くんのことなど好きではないのだ。

 声にならない私の叫びは誰にも届かない。そんな私の脳裏を栗山璃子の声が埋め尽くしていく。

 ──大好きなのに。大好きなのに。大好きなのに。大好きなのに。大好きなのに──

 おのれ、リス子めぇ……。私に妙なトラウマを植え付けおってぇ……。

 まるで覚醒した青年ガザリアスのようである。激しい怒りが私の乱立した感情を僅かに統一させた。

 因みに、亡国の騎士エーレンフリートと謎の魔女ルイーズの手を借りて火龍を撃退したガザリアスはその後、亡国の姫シシィの行方を探す二人の旅を手伝うこととなるのだが、そんな話今はどうでもいいのだ。ガザリアスよ、お前の出番は終わったのだ。もう出てくるな。さらばだ、ガザリアスよ。

「わ、私、大丈夫……!」

 頬を引き攣らせた私の精一杯の声がやっと私の唇ギリギリにまで顔を寄せた勇大の耳に届く。もはや何がなんだか分からない。フラッシュバックは現状の感覚を麻痺させるのだろうか、勇大の吐息を首元に感じても私は冷静そのものだった。

「いや、駄目だ。保健室に行こう」

 私の眼前に迫る勇大の瞳は真剣そのものだ。そんな彼に対して私は首を横に振ることしか出来ない。今の私を支えてくれているのはリス子への激しい怒りのみである。そんな私の手首を勇大が掴むと、その手のひらの焼けるような熱に私は悲鳴をあげそうになった。

「勇大!」

 由香里のほっそりとした白い手が勇大の頬を叩く。パシンと鋭い音が教室に響くと、私を含めたクラスメイトたちは唖然として声を失ってしまった。だが、とうの本人たちにとっては何でもない出来事なのか、呆然とする私たちの視線などは意にも返さないように、私の目の前で二人は言い合いを始める。

「そういう乱暴な所が良くないっていつも言ってんじゃん!」

「き、君の方が乱暴だろ! それに怪我をしているかもしれない天野さんを保健室に連れて行くのは当然の事だ!」

「だからって無理やり女の子の腕を引っ張んなよ! 美雪ちゃん怖がってんじゃん!」

「怖がろうと何だろうと、それが必要な処置であるならばしょうがないだろ! まさか君は、病院を怖がる病気の子供を放置する親が正しいなどと思っているのではなかろうな?」

「泣き叫ぶ子供を無理やり引き摺って病院に連れてくのが正しいって、あんたは思ってるわけ? 先ずは話を聞いてあげて、それからしっかりと説明してあげて、恐怖心を取り除いてあげるのが先でしょ? 勇大はいっつも自分本位なのよ!」

「自分本位は由香里の方だ。そもそも天野さんは子供ではない」

「子供じゃないけど女の子よ! あんたみたいなデカブツに無理やり迫られたら誰だって恐怖を覚えるっつの!」

「変な言い方をするな! 君はいつも話を誇張する!」

「誇張なんてしてません! 実際あんた、この前の天体観測でも鈴香ちゃん泣かしてたし、昨日だって美雪ちゃん泣かせたじゃないの!」

「あ、あれは、彼女が夜の川に近付こうとしていたから注意してあげただけで、昨日だってそんな感じだ。僕は何も間違った事などしていない」

「それが間違ってるっつってんの! だからあんたはいつまで経ってもモテないのよ!」

「そ、それとこれとは関係ないだろ!」

「あるわよ! 勇大、あんたには女心というものが……」

「呼び捨て……?」

 私の呟きに由香里と勇大は言い合いを止める。二人の視線が私に向けられると、私はジッとその瞳を見返した。あまりにも親しげな二人の様子に私は困惑していたのだ。異性と激しく言い合う長谷川勇大の姿など私は知らない。そして、互いに名前を呼び捨てである。いったい何が起こっているのか。まるで全てが幻想だったかのような喪失感。まさか長谷川くんは異性と会話が出来ないというのは私の妄想だったのだろうか。長谷川くんは三波さんは付き合っているのだろうか。

「美雪ちゃん?」

「どうしたんだ、天野さん?」

「え、え……な、なんで呼び捨てなのか……て……」

「呼び捨てだって?」

 私の声が私の心臓の音に呑まれていく。勇大の顔にも困惑の色が浮かんでいた。当然であろう。私自身が私の質問に困惑しているのだ。ああ、もう何もかもがどうでもいい。床に落ちたジャージに生まれ変わりたい。

「ああ、そっか。あはは、皆んなの前で喧嘩したの、今日が初めてかも」

「み、皆んなの前……?」

「あたしたち家が近くってね、このデカブツがまだこんなガキンチョだった頃から、あたしたち知り合いなの」

 お、幼馴染ということなのか。

 膝ほどの高さに手を掲げた由香里の眩い笑顔に私は愕然とした。勇大がまた何かを呟くと、立ち上がった由香里と勇大がまた言い合いを始める。そんなスラリと足の長い二人が向かい合った姿は本当に美術館に並ぶ絵画のようだった。見つめ合う二人の端正な顔立ち。幼馴染だという二人の心が通い合っているかのような視線の交わりが真夏の太陽よりも眩しい。これほど尊い二人はこの世に存在しないだろうと、私は興奮が抑えきれなかった。だが、同時に寂しさに似た感情が私の心に覆い被さる。

 長谷川くんに抱いていた想いはやはり幻想だったのだろうか。孤独な私の勝手な妄想だったのだろうか。憧れの異性が実は私と同じように人付き合いが苦手なのだと、人気者の長谷川くんが実は私と同じように一人ぼっちなのだと、孤独な者同士いつか互いに惹かれ合うことがあるのかもしれないと、私が願っていただけなのだろうか。

「天野さん、立てる?」

 勇大と由香里の終わらぬ言い合いに呆れ果てた表情をした奥田まりこが私に手を伸ばした。コクリと顎を動かした私はその手を掴む。ゆっくりと立ち上がった私の体がフラリと揺れた。

 なんだろう。何やら気持ち悪いぞ。酸欠の後遺症か。いや、人に酔った感覚に近いような。それとも違うような。やはり私は頭を打ったのだろうか。何やら頭痛がする。吐きそうだ。

 フラフラと机に手をついた私は必死に吐き気をこらえた。頭が痛い。体に力が入らない。誰かの声が耳に響く。

 微かに目を開けた私の視線はまた天井に向けられていた。耳鳴りのような誰かの声は止まない。ノイズの走る視界の端に勇大の瞳を見た私の意識は、そのまま深い闇の底に呑まれていった。


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