頑張れ私 ミッション4


 前門の虎後門の狼という諺がある。それは前門の虎の侵入を防いだその隙に、裏門から狼が侵入したという故事に由来する諺なのだそうだ。まさに一難去ってまた一難。果たして虎と狼は同時に侵入を試みたのだろうか。それとも、時間差で狼が飛び込んで来たのだろうか。彼らがタッグを組んでいたか否かは議論の余地には入らない。どんな天才であろうとも同時に攻め立てられては勝ち目がないのだ。ましてや相手は食物連鎖の頂点に位置する虎と狼である。もはや戦おうとすること自体が馬鹿げていると言えるのではなかろうか。

 


 そしてまさに今、私はそんな状態の最中にいた。

 前門の天才と後門のリス。二人の強者が私を挟み込んでいたのだ。普段の私ならばさっさと両手を上げていたところだろう。だが、今の私に降伏の二文字はない。何故なら私は怒っていたのだ。親友ですらも己が食物としようと舌をなめずる卑しい節足動物に対して、そしてそんな節足動物に餌として選ばれた誉れと悦楽に打ち震えているであろう異常性癖を持った変態王子に対して、私は激しい怒りを覚えていたのだ。教室の真ん中で私の前後に立つこの二人はもはや私の知る二人ではない。後門のリスがリスなどという愛らしい生き物ではなく、無数の長い足を広げて大きな牙から毒を滴らせるリスグモとも言うべき醜悪な妖怪であれば、前門の天才もまた、ただ人に賞賛されるような天才などでは決してなく、己が欲望にのみ忠実なマッド変態サイエンティストとも言うべき変態だったのだ。

 いったい何故こんなことになったのか。怒れる私には冷静な判断がつかなかった。

「美雪ちゃん待ってよ、どうして怒ってるの?」

「うるさい……離せ……」

 リスグモの毒牙から逃れようと放たれた私の小さな声の砲弾が窓から吹く風に飛ばされる。しまった。敵の援軍だ。城門は閉じておくべきだった。

「おい美雪、落ち着けって」

「うるさい……変態め……」

「な、な、なんでだよ!」

 水島涼太の狼狽に私はほくそ笑んだ。涼太はすぐに消えて飛ばされる声の砲弾に向かって自ら飛び込んでいくような変態ネコ科王子だったのだ。ボールに飛び掛かる猫が如き愚行。虎も所詮はネコ科である。どうやら私は前門の虎の攻略法を解明してしまったらしい。やはり私は天才のようだ。

 だが、忘れてはいけない。前門の変態ネコ科王子と対峙する私の背後には私たちの会話を餌とする大妖怪リスグモが控えているのだ。リスグモの生暖かい吐息。その牙を光らせる毒液が床に滴り落ちる。まさか変態ごと私の体を食い荒らすつもりなのだろうか。前門の虎も私も、最後には狼に食い殺される運命にあるのだろうか。それでは漁夫の利ではないか。諺自体を間違えていたとでも言いたいのか。許すまじ、狼め。

 私は唸った。結局、同時に攻め立てられた時点で勝ち目はなかったのだ。ならば最後の抵抗である。ただ唸るのみ、それが私の抵抗だ。果たして凡人にこの意味をご理解頂けるだろうか。無抵抗の抵抗。そう、つまりは前門の虎にも攻撃を加えないということである。無抵抗の私を食い殺した後、果たして無傷の虎と狼が仲良く手を繋ぐことなどあり得るだろうか。いや、あり得るわけがない。どちらも血を求め続ける獣なのだ。私を食い殺した後、二匹の獣は互いの血を求めて殺し合う事となるだろう。ああ、哀れ。恐らくは虎が勝利を収めるだろうが、その虎も無傷では済まない筈だ。酷い傷を負った虎はもはや食物連鎖における弱者である。やがて別の強者に食い殺される事となるだろう虎の末路はまさに「愚かなり」なのだ。これが私の最後の抵抗である。

「ねぇ水島くん、美雪ちゃんに何があったの?」

「はぁ……?」

 無抵抗の抵抗を試みた私がその場にしゃがみ込むと、私の手を掴んでいた栗山璃子の声が私の頭上を通り過ぎた。虎と狼が互いに目を見合わせたのだ。運が良ければ私を食い殺すよりも先に二匹で戦いを始めるかもしれない。そんな私の願いもすぐにまた夏の風に飛ばされて消えてしまう。まったく、期待通りに進まない世の中だ。どうやら先ほど私が放った小さな砲弾が涼太の急所を貫いていたらしい。強者である筈の虎はもはや満身創痍であった。

「だって、水島くんだって部活休んでるし、何かあったから私に、美雪ちゃんに会ってやってくないかって頼んだんでしょ?」

「あ、ああ……」

「美雪ちゃんもなんだかいつもより口数が多いよね。やっぱり何か変だよ。ねぇ、美雪ちゃんに何があったの?」

「えっと……その……えっと……」

 栗山璃子の問いに狼狽を続ける水島涼太は上手く答えられないでいた。そんな涼太の額には玉のような汗が浮かんでいる。いくら急所に当たったとはいえ、それほどダメージを受けるような言葉だっただろうか。そんな疑問もすぐに答えへと導かれる。涼太は天才型なのだ。変態という暴言に彼は慣れていないのだろう。

 ふふ、どうやら私は完全無欠に見えた涼太の弱点を発見してしまったらしい。いや、言い過ぎればすぐに慣れてしまうだろうし、その内この変態ネコ科王子は変態であるがゆえに変態というワードに対して悦楽を覚えるようになってしまうかもしれない。まったく、困った異常性癖だ。いやいやいや、そんな事よりも先ずはこの場をどう乗り切るかが先決であろう。虎の負傷により二匹を戦わせる望みが絶たれたのだ。だが、よくよく考えてみれば別の希望が生まれたとも言えるのではなかろうか。狼の、いや、後門のリスグモの主食は私と前門の虎との戦闘によって生まれる会話なのだ。だが、今やその虎が満身創痍で会話どころではない。つまり餌の無くなったリスグモは餓死寸前なのである。これは、これは勝てるかもしれないぞ。

 希望を胸に抱いた私の視線が上がる。だが、この世は残酷なのだ。私の小さな希望はすぐにまた果てない絶望の闇に押し潰されてしまった。巨人が、いや、巨大な竜が我々を見下ろしていたのだ。竜からすれば虎も狼も私も同様の被食者であろう。そう思わせるほどに私たちの前に降り立った竜の、いや、長谷川勇大の視線は鋭かった。

「君たちはいったい何をしてるんだ?」

 重たい声だった。怒りのこもったようなその声にまた私の視線が下がる。しゃがみ込んだ私を挟む璃子と涼太の絵図が普通の状況には見えなかったのだろう。そうでなくとも璃子と涼太は他のクラスの生徒なのだ。いくら放課後だったとはいえ、クラスの違う生徒の侵入を真面目な勇大が許す筈もない。

「え、え、あ、そ、そ、その……」

 ガクガクと足を震わせた璃子の目が何処かに泳いでいくと、その小さな声は窓の外に飛ばされていった。饒舌に見えた璃子もまた極端な人見知りだったのだ。仲良くなりさえすればすぐに心を開いてしまう璃子だったが自分から距離を縮めることは大の苦手らしい。そんな璃子が初めて話すであろう長谷川勇大を相手にまともな会話など出来る筈がない。璃子も私のように怖がりなのだ。

 まぁ、それでも私なんかよりはずっとマシだろう。仲の良い友達にさえもまともに心を開くことが出来ない私なんかよりはずっと……。

「いや、俺たちは美雪……いや、天野さんに用があって来ただけなんだ」

 やっと平常心を取り戻したのか、背筋を伸ばした涼太が勇大の目を見返す。そんな涼太に対して勇大はふぅと息を吐いた。

「そうか。いや、ならばせめて待ち合わせは廊下にしてくれないか。ここは君たちのクラスじゃないんだ」

「ああ、まぁそうだけど、別にちょっとくらいはいいだろ」

「良くないさ、クラスの違う生徒たちが自由に出入りするようになれば、それだけで様々なトラブルが生まれてしまうんだ。校則でも禁止されている行為だよ?」

「校則ってよ……他のクラス入るくらい皆んな普通にやってるだろ」

「皆がやってるから良いなんて理屈はない。駄目なものは駄目だ。分かったら今すぐこのクラスから出て行くんだ」

「はあ?」

 涼太の眉が微かに吊り上がった。そんな涼太に対して勇大は断罪の視線を送り続ける。不穏な空気が二人の間に流れ始めると、クラスに残っていた他の生徒たちはそそくさと退散を始めた。

 私の手を握り締めていた璃子の手が細かく震え始める。しっとりと湿った汗は果たしてどちらのものか。ドクンドクンと鼓動ばかりを早めていた私は、心の奥底に沈んでいた感情の泥から勇気の水をギュッと絞り出すと、固まっていた唇をほんの少しだけこじ開けた。二人を呼んだのは私なのだ、と声を出そうとするも微かな吐息以外に音が出てこない。私が二人を呼んだのだ、と声の代わりに目で伝えようと試みるも一点に固定された視線は動いてくれない。

 おっと勘違いしないで欲しい。別に璃子と涼太を守ろうとしているわけではない。ただ、見ていられなくなっただけなのだ。真面目過ぎるばかりで人付き合いの苦手な彼を、不器用過ぎるばかりで本来の優しさを表に出せないでいる彼を、私は見ていられなくなったのだ。実直で真面目で言葉数の少ない長谷川勇大という男が、実はとても優しくて可愛らしい人なのだということを皆んなに知って貰いたい。才色兼備で文武両道の天才である長谷川勇大という男が、実は皆んなと仲良くなろうと日々努力を続けているような不器用で可愛らしい人なのだということを皆んなに理解して貰いたい。ただ、それだけなのだ。

 涼太と勇大は互いに睨み合ったまま言葉を発しないでいた。先ほどまで勇大を囲んでいた女生徒たちは既に廊下へと避難している。夏の風が吹いていた教室の空気はいつの間にやら重く苦しいものへと変わっていた。

 人は自由を制限されることを嫌うのだ。権力者が民衆の自由を制限すれば反発が起こるだろう。別に長谷川勇大は権力者ではないし校則だってあってないようなものである。だが、長谷川勇大は強者だった。なんでも出来る彼は強者たり得る要素を兼ね備えていた。背が高く容姿も整っている。勉強も運動も一番で弱点が目に見えない。そんな強者が頭ごなしに他者の自由を制限しようとすれば、たとえそれが正しかろうとも強い反感が生まれるだろう。私はそれが怖かった。私は長谷川勇大に嫌われて欲しくなかった。人気者で不器用な長谷川勇大のことが大好きだったのだ。

「美雪、立てるか?」

 結局、私の声は出ぬままに、涼太の優しげな声が沈黙を破った。ほっと息を吐いた璃子が握っていた手の力を抜くと、なんだか体が軽くなったような気がした私は涼太に向かって頷いて見せようとした。幼馴染である涼太もまた本当に優しい男なのだ。すぐに怒りを見せるような弱い男などでは決してない。そんな優しくて強い涼太と、優しくて、でも不器用で可愛らしい長谷川くんが喧嘩などしていいわけがない。だって二人とも本当に強くて優しいのだから。

 そうだ、そうだったのだ。私はただ二人に喧嘩をして欲しくなかっただけなのだ。そしてそれは私が声を出しさえすれば済む簡単な話だったのだ。誤解さえ生まれなければ喧嘩なんて起きないのだから。簡単な話なのだ。私が声を出せば。早く。早く。

 でも、でも、どうしても首が動いてくれない。声が出てこない。涼太と勇大の足の間を見つめていた私は、自然と首が動き出してくれるその時を早く早くと願い続けた。

「美雪、大丈夫か?」

「美雪ちゃん、大丈夫なの?」

 二人の声が私の包み込む。少し待ってくれ。あと少し、あと少しなのだ。あと少しで私は野生のライオンが如き勇猛さで視線を持ち上げられるのだ。あと少しで私は朝の小鳥が如き雄弁さで二人の優しさを証明してあげられるのだ。

 あと少しなのだ。だから、もう少しだけ待っててくれ。

「おい天野さん!」

 鋭い声だった。鋭い声が俯く私の後頭部に刺さった。待ってはくれなかったのだ。いや、待ってはいられなかったのだろう。真面目な彼は怠惰な私を待っていられなかったのだ。

「どうして二人を無視するんだ! 二人とも君の様子が心配だったから来てくれたのだろう! もちろん、校則を無視するような行為は許されないが、二人の優しさを踏み躙る君の行為の方が僕は許せないよ!」

 大きな声ではなかった。だが、風を切るような低く鋭い声だった。長谷川勇大のよく通る鋭い声が再び私の後頭部に突き刺さると、その衝撃で私の瞳から涙がこぼれ落ちた。あっと声も出ぬ間に私の涙が私の唇を濡らしていった。その涙が床に落ちると、何故だか焦ってしまった私はスカートの端で必死に床に落ちた涙を拭き始めた。

 何故、いったい何故。どうして、なんでこんなことに。別に怖くないのに。別に悲しくないのに。いったいどうして、どうして涙が止まらないの。大バカもの。これでは本当に長谷川くんが悪者になってしまうではないか。いったい、いったい私は何をやってるんだ。彼の優しさを皆んなに伝えたいのではなかったのか。私の大バカもの。

「お、おい、天野さん。泣くばかりでは分か……」

「もう止めろや!」

 窓ガラスを揺らすような涼太の怒鳴り声に教室を覗き込んでいた生徒たちは慌てて顔を引っ込めた。床で嗚咽する私を見下ろしていた勇大はオロオロと顔を上げる。そして怒りに満ちた涼太の目を見つめた彼はまたオロオロと私に視線を落とした。広い肩を丸めた勇大の瞳には困惑の色が溢れていた。どうすれば良いのか分からなくなったからだろう。だって彼は人付き合いが苦手なのだから。上手く思いを伝えられない彼はその対人関係においてのみ私と同じように凡人以下の領域を這って進む弱者なのだ。ただ違うところもあって、風が吹けば飛んでいくような小さな私と比べてみると、彼はとても大きかった。とてもとても大きくて、そんな大きな彼を守ろうとする者など、誰一人としていなかった。

「あ、いや、ほら……な、泣いてばかりではさ……」

「お前が泣かせたんだろ!」

「いや、まぁ、ほら……」

「先ずは謝れよ! 謝ることすら出来ねぇのか!」

「あ、いや……」

「や、やめて! 水島くん、やめて!」

 勇大の胸ぐらを掴んだ涼太に向かって私よりも小さな璃子の小さな体が躍動した。いったい何処にそんな勇気が隠されていたのだろうか。涙を止めることすら出来ない最底辺の私には想像すらも付かない。やがて、廊下を埋め尽くすようなざわめきの隙間から別のクラスの女性教員が姿を現すと、やっと涼太は勇大から手を離した。

「ほら美雪、栗山さんも、帰るぞ」

 少し落ち着きを取り戻したらしい涼太の声にコクリと頷いてみせた璃子がまた私の手を掴む。その反対側の腕を涼太が掴むと、前門の虎と後門の狼に支えられて立ち上がった私はやっと廊下に向かって足を踏み出せた。勇大と女性教員の話し声が背後から聞こえてくる。まだ微かな嗚咽が止まらなかった私にはよく聞こえなかったが、何があったのかという教員の質問に対しての勇大の説明がしどろもどろであるということだけは分かった。当然であろう。本人ですらも泣き出した理由が分からないのだ。それを彼に説明出来るはずがない。私は振り返りたかった。そして、話したかった。泣き出した理由が分からないなどというチンケな話ではなく、本当の優しさと本当の強さを兼ね揃えた二人の男の子の話を皆んなにしてやりたかった。だが、振り返ることが出来ない。声が出てこなければ首も動かない。ただ支えられるがままに足を動かすことのみが微生物以下の私に許された唯一の行為であるようだった。

「長谷川くんがまた誰かを泣かせたんだってさ……」

「うわぁ……」

「またやったの、あの人……」

「長谷川くんも喧嘩とかするんだね……」

 ミジンコの餌にも劣る私に向かって耳障りな声ばかりが届く。すぐに風に飛ばされていくであろう類の話ではあったが、私にとっては不快過ぎるほどに不快な噂話だった。その不快さが私を立ち止まらせる。困惑する虎と狼の間を抜けて、噂話に没頭する生徒たちを飛び越えた私の視線が廊下の向こうに送られる。伝えないといけない。謝らないといけない。そんな思いばかりが私の胸の内に溜まっていく。

 だが、私の足は動かなかった。


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