頑張れ私 ミッション3


 長谷川勇大は天才である。これは私個人の見解ではない。全校生徒共通の認識である。

 文武両道。眉目秀麗。温厚篤実。ペンを持てばダ・ヴィンチ。剣を持てば石舟斎。上に立てば太公望。下に立てばナイチンゲール。笑顔をみせればトム・クルーズ。澄ましてみせれば北村一輝。

 才色兼備とは長谷川勇大の為にあるような言葉だ。まぁ、容姿に関しては私の個人的見解なのだが、断じて誇張はしていない。

 そんな長谷川勇大を私は直視出来ないでいた。何故かと聞かれれば何故かは分からないと答えよう。この世にはまだ解明されていない謎が数多く存在するのだ。人の心の機微はその一つであり、死後の世界の有無を解明しようと試みる科学者がいれば、複雑怪奇な人という種の営みを観察と思考の繰り返しにより解きほぐそうと試みる稀有な天才もいる。そう考えてみると私の視点は天才と呼ばれる者たちの視点と重なり合っているのかもしれない。誰もが気にも留めないような異性間の交わりを私の広い視野が見逃してはくれないのだ。

「それでね美雪ちゃん、なんとなんと小花衣さん、受かっちゃったの! ほんと小花衣さんって凄いよね!」

 なんということだろう。私は、私は知らず知らずのうちに、天才と呼ばれる者たちの領域に立ってしまっていたのだろうか。凡人がどれほど必死に手を伸ばしても届かないような遙かな高みから、人という種族を見下ろしていたのだろうか。

 まぁそれも、普段通りの私ならばという話ではあるのだが。先ほども言ったように今の私は彼を直視出来ないでいた。普段の私ならば誰の目も気にせず、彼のその表情、仕草、会話、瞳の動き、唇の震えまでもをつぶさに観察するところなのだが、どういうわけか今の私は彼をまともに見つめられなかった。

「なんだかあたしね、小花衣さんが遠くに離れていっちゃうような、そんな気がしてたんだけどね、でも小花衣さんってばいつも通りなの! ぜんっぜん尊大になったりしなくって、むしろ謙虚で、優しくって面白くって昔のまんまで、ほら美雪ちゃん、よく有名人になると偉そうになっちゃう奴とかっているでしょ? あたしはお前らとは違うんだぞ、みたいな。でも小花衣さんはそんなことないの。凄いでしょ!」

 ホームルーム後の放課後である。部活動に向かう者がいれば、帰宅の準備を始める者もいて、分厚い参考書を机に叩き付ける者がいれば、仲の良い者同士で集まって談笑する者もいる。私はといえば窓辺の席で夏の風を楽しんでおり、長谷川勇大はといえば黒板の文字を消そうと持ち上げた腕はそのままに、彼を取り囲む女生徒たちの会話の相手をしていた。黄色い声と熱い視線の交わり。人気者の宿命。黒板前にあったのは学園ヒエラルキーの縮図とも言われるべき光景である。ああ、常夏の宴。艶やかな夢の花。青春の一ページ。長谷川勇大よ、やるではないか。やはりお前は天才型の男である。疑うべくものは何も無い。

「美雪ちゃんも小花衣さんのこと凄いと思うよね? ね? ねぇ美雪ちゃん、聞いてるよね?」

 と、凡人であればそんな長谷川勇大の姿に嫉妬と畏敬の念を覚えることだろう。まったく、そこが凡人の凡人たる所以だ。よく見てみたまえ。よく聞いてみたまえ。果たして彼女たちの瞳に淫靡な光が見えるだろうか。彼女たちの声が意中の相手を想う焦燥に打ち震えているだろうか。つぶさに観察してみてくれたまえ。それは情欲に囚われた者の興奮ではなく、また、意中の相手への好意の熱情といったわけでもない。そう、彼女たちのそれは純粋なる敬慕の視線であり賛美の声だったのだ。

「おーい美雪ちゃん、あたしの声聞こえてますかー? 聞こえてたら返事をしてくださーい! え、聞こえてるよね? 美雪ちゃん、聞こえてるんだよね? あ、もしかして、あたしのこと忘れちゃった? あたしだよ? 璃子だよ?」

 まったく、この世は不思議に満ち溢れている。複雑怪奇な事象の連続が絶妙に交差しあってやっとこの世を成り立たせているのだ。果たして信じられるだろうか。世間一般が認める才色兼備の大天才に対して、大多数の、いやこの学校のほぼ全ての異性が情欲の欠片も見せないでいるのである。果たしてそんな事があり得るのだろうか。いや、現実にあり得ているのだ。実際に私の目の前で起こっている事象なのだから。「大天才」長谷川勇大は異性から欲望の対象としてみなされていなかったのだ。

「も、もしかして、美雪ちゃん怒ってる? クラス変わってからぜんぜん話さなくなったから? ち、違うんだよ、美雪ちゃん! 別にわざとじゃないんだよ! わざと話さないようにしてたとかじゃなくって、美雪ちゃんのいるA組とあたしのいるE組って距離的に遠いでしょ? だから話す機会が無かっただけなんだよ!」

 いや、それでもである。それでも長谷川勇大は才色兼備の大天才なのだ。彼がほんの僅かでもその内に秘めた熱情を視線に乗せさえすれば、ほんの僅かでも「勇」を見せさえすれば、彼を取り巻く異性の純粋なる敬慕の果実は、重力に逆らえない林檎のようにポロリと情欲の大地に引き寄せられたであろう。簡単な話なのだ。何故なら長谷川勇大は天才なのだから。

「でも、でも、美雪ちゃんだって、美雪ちゃんだって話しに来てくれなかったでしょ! 小花衣さんはG組だし、あたしだって話す相手がいなくって寂しかったんだから! あたし一人のせいにしないでよ!」

 だが、そうは問屋が卸さない。世界は複雑怪奇なのだ。長谷川勇大はとある特異体質に悩まされていた。才色兼備の大天才こと彼は異性に対してのみ口が重くなるという奇病を抱えていたのだ。それは天才の命運を左右しかねないほどの難病であった。何故ならば彼を天才たらしめる人間社会において、彼を悩ませる異性の数が人口の半分に相当しているからだ。人という種族はおおまかに二つに分類される。それらは男や女と呼ばれ、互いにXとYの特徴を持ち、そして受けと攻め、いや、盾と矛のような役割を果たしている。どちらが欠けても人という種族は成り立たない。互いに対等な存在であるのだ。

「ねぇ、美雪ちゃん、答えてよ! あたしだって怒ってるんだからね! で、でも、でも、いくら怒ってるからって無視するのは卑怯だよ! そんなの最低だよ! ねぇ、何か答えて! あたしに嫌なとこがあるなら直すから! ね! だから美雪ちゃん、無視しないでよ!」

 彼を取り囲む女生徒たちの黄色い声は止まない。当然である。今武蔵こと長谷川勇大は先々月の中間テストで学年一位をとったばかりでなく、その所属する剣道部においても個人戦でインターハイに出場するという快挙を成し遂げたのだ。まさに天才。文武両道。一年時から学期末テストにおいて学年一位の座を逃したことがない彼ならば、今月行われるテストにおいても首位を独占すること間違いなしだろう。女生徒たちの止まない声援も頷ける。そしてその声に情欲の念が含まれないのも頷ける。長谷川勇大は遥か高みに立っていたのだ。天高くから地上を見下ろす彼に対して我々は仰ぎ見ることしか出来ない。我々に出来ることはただ待ち望むことのみである。いつか彼が手を差し伸べてくれるその日を。ただじっと、その時を。ああ、神よ。我が主よ。光を与えたまえ。その声を、言葉を、どうか我々の元に届けてくれたまえ。

「みゆぎぢゃん、ぶじじないでよぉ! あだじが悪がっだならあやばるがらぶじじないでよぉ!」

 だが、神は時として残酷な一面を我々に見せる。長谷川勇大の手が女生徒たちの元に届くことはついぞ無かったのだ。女生徒たちの様々な問いに対して彼は先ほどから「あ」とか「うん」とか「すん」とかいう答えしか返さなかった。それがいったい何を意味しているのか我々には想像もつかない。その「あ」という音の中にいったいどれほどの意味が込められているのだろう。いや、まさかただ吃っているだけというわけではあるまい。それではまるで私……いや、まるで経験無し男くんではないか。なぁ、長谷川勇大よ、もう少し先まで手を伸ばす努力をしてみてはくれないか。君の手は届いていないのだ。「すん」と言われても我々には理解が出来ないのだ。なぁ、長谷川くんよ、もう少し頑張ってくれ。

「みゆぎぢゃーん! み、ゆ、ぎ、ぢゃーん!」

「リス子、うるさい」

 まぁ、確かに興味深くはある。いや、非常に興味深い体質だと私はこの世界に対して感嘆せずにはいられない。もしもだ。もしも長谷川勇大という稀代の天才にその特異体質が備わっていなかった場合、いったいこの世は、いや、この学校はどうなっていたであろうか。想像して見てほしい。「知」と「武」を備えたカリスマがその「勇」を持って異性の牙城を切り崩していく戦国の世を。恋愛弱国に争う術などはない。やがて一人の天才によって治められたこの学園という名の世界において、果たして自由な恋愛競争など起こり得たであろうか。愚問だ。起こるわけがない。資本主義、いや、才能主義とも呼ばれるこの世界において、一人の天才による恋愛の独占を止める術はないのだ。やがて恋愛独占禁止法が施行されるその日まで、いや、それもまた数年後の話であろうが、恋愛駆け引きもてぇてぇも存在しない世界が、長谷川勇大の酒池肉林ばかりを見つめねばならぬ日々が、訪れていた可能性があったのだ。な、なんと恐ろしい世であろうか。ああ、神よ。感謝致す。長谷川勇大に特異体質を備えさせた其方の采配は見事であった。ああ、神よ。私好みの世をありがとう。

「み、美雪ちゃん! 美雪ちゃん美雪ちゃん美雪ちゃん! そうだよ、リス子だよ! わーい、美雪ちゃーん! また今度、お祝いの意味も込めて小花衣さんと三人で一緒に遊ぼうよ!」

 本当にうるさいのだが……。さっきからいったい誰の話しをしているのだコイツは……。

 ほんの一瞬、私の鋭く尖った視線が私の席の前でしゃがみ込んだミディアムボブの女生徒の瞳を射抜いた。リスのように小柄な女生徒である。リス子こと栗山璃子は私の数少ない友達の一人だった。一年生の頃はそれなりに仲が良かったのだが、クラスが変わってからは会話すらしなくなったような間柄である。およそ数ヶ月ぶりの顔合わせだったが、私の心には何の感情も浮かんでこなかった。何故かと言えば理由は三つある。

 一つ目の理由は私の精神がかなり不安定な状態にあった為だ。想い人とも言うべき長谷川勇大すらも直視出来ないような状態の中で、かつての友に傾けるような心は僅かにも残ってはいなかったのだ。

 そして、最も重大な二つ目の理由は栗山璃子のその性格にあった。

 因みに顔も名前も知らない小花衣さんとかいう誰かの話にうんざりとさせられていたというのが三つ目の理由である。

「あ、今、目が合ったね! うしし、ダメダメ美雪ちゃん、もう目が合っちゃったんだよ! もう美雪ちゃんはあたしを無視出来ませーん! だって今、目が合っちゃったんだもん! 合っちゃったんだもん!」

 ご覧の通り、声の大きな女生徒である。いったいそのほっそりとした体の何処から声が出ているのか、一度バラバラに解剖して調べ上げなければならないな、と時折私の科学者としての目が光ることがあった。いや、何も明るくて声の大きな所ばかりを敬遠しているわけではない。まぁ、たまにというか頻繁にそこを敬遠していたわけだが、彼女の底無しの明るさに救われることもあったにはあった。つまり問題はそこではないのだ。彼女の抱える心の闇。幾度となく私たちを絶交の危機へと追いやった栗山莉子という女生徒が抱える問題。それは彼女の性格、いや性癖にあったのだ。

「悪ぃ美雪! 待たせた!」

 透き通った声だった。透き通った声が2年A組の空気を震わせた。その突然の声に談笑していた女生徒たちの視線が25度持ち上がる。2年E組が誇る天才型、水島涼太の登場である。

 まったく、なんなのだ。お前はいったいなんなのだ。何故、どうして今、お前がこの場に現れるのだ。サッカー部はどうした。まさかサボりか。

 コンマ数秒の間に私の頭の中を思考が駆け巡る。待たせた、とはいったいどういう意味なのか。お前に待たされた経験など人生で一度もないのだが。

 はっと私の唇が縦に開いた。涼太を横目に睨んでいた私の瞳が大きく見開かれると、机の前でしゃがみ込んでいた女生徒の表情が鮮明になっていく。

「もう水島くん、遅いよ!」

 莉子の小さな赤い唇が横に開かれる。ほっそりとした顎の動きが生々しい。唾液を光らせる桃色の舌。細められた大きな瞳。その捕食対象を目前にした肉食獣のような表情に私を全てを察した。また彼女の度し難い性癖が発動してしまったのだ。その本性がまた私の前にさらけ出されたのだ。

 性の捕食者。暴食の女郎蜘蛛。彼女はもはやリスなどという生優しい生き物ではない。恐ろしく獰猛な野生の蜘蛛である。いや、リスと蜘蛛ではその体格差でリスに軍配が上がるのかもしれないし、野生ではない蜘蛛の存在を私は知らないのだが、問題はそこではない。栗山莉子は親友であるはずの私すらも己の性の対象として捉えていた。彼女は、私と、私とはただの幼馴染でしかない水島涼太との間柄をその捕食の対象として見ていたのだ。

 あり得ない思い違いである。恋愛経験に乏しい弱者にありがちな勘違いである。だが、それが思い違いであろうと何であろうと、度し難い行為であることには変わりない。私は見られることが大嫌いなのだ。それが私にとって嫌な行為であると、何度も何度も何度も、彼女に伝えてきたのだ。

 もう絶対に許さない……。

 私の孤独な心に怒りの炎が巻き上がる。熱せられ、瞳の奥が熱くなった私は、キッと莉子の顔を睨み付けながらも懸命に涙を堪えた。そして、もう帰ってしまおうと勢いよく立ち上がった。長谷川勇大は相変わらず女生徒たちに囲まれたままである。それが解かれるのを待つ暇はもうない。捕食者である女郎蜘蛛の複眼が私を待ち構えているのだ。

 どうして、どうして皆んな邪魔するのだろう。待ってただけなのに。長谷川くんが一人になるのを待ってただけなのに。どうして皆んな邪魔するのだろう。私はただ謝りたかっただけなのに。お昼のこと、ごめんなさいって言いたかっただけなのに。声を掛けてくれて、ありがとうって言いたかっただけなのに。

 立ち上がった私は鞄を手に取った。もう莉子とは一生話さない。そう心に誓った私の足が微かに震える。そんな私の前に涼太が立ち塞がると、莉子の小さな手が私の手を後ろから引っ張った。


 

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