頑張れ私 ミッション2

 

 私は友達が少ない。居ないのではない。少ない。

 孤独というわけではない。だが、満たされているというわけでもない。普通よりほんの少しだけ下の平均である。それが私の自己評価だ。



 例えば今、私は女子トイレの個室で弁当箱を開いている。色とりどりで美しい昼食だ。ミニトマトの赤にニンジンの赤。ソーセージの赤にハンバーグのケチャップの赤。そして極めつけは赤いチャーハンである。赤色ばかりではないかとツッコミたくなる凡人がいるかもしれない。そんな表面からしか物事を見られない一般大衆に向かって私は「浅はかである」と叫びたい。確かに赤色ばかりではある。だが、それがまた色とりどりで華麗であると言えなくもないではないか。つまり弁当というものはこの世を彩る背景の一つなのだ。日常生活の中で赤色を目にすることは極端に少ないだろう。空が澄み切った青色ならば大地は薄い茶色だ。灰色のコンクリートから望む緑色の山々。大衆の黒い髪。肌を黒く焼く者たち。黒い服を好む者たち。トイレの個室はといえば灰色、白、水色と落ち着いたものである。

 もしも、もしもだ。もしも赤が日常に溢れてしまえば、人は血を怖れなくなるかもしれない。そうして、やがて訪れるであろう日常は血を血で洗う殺戮の世だ。ああ、恐ろしや。そんな世が訪れてはならない。ああ、チャーハンが美味い。ハンバーグはちょっとしょっぱいかな……。ともかく、ともかくだ、赤ばかりの弁当箱は色とりどりなのだ。決して母親のセンスが問われるようなことはない。

 そしてまたトイレの個室などというと、狭くて暗くて汚いといったようなイメージが世間一般の凡人共の間に定着していることだろう。トイレで弁当箱を開くなどと言ってみれば、世間一般の愚民共はその言葉の端に孤独な思春期の少女を連想してみるかもしれない。まったく「哀れなり」である。トイレトイレと言ってみれば確かに何処か不清潔な印象を相手に与えてしまうだろう。だが、あくまでもそれは言葉の端をそのままの意味でしか受け取ることが出来ない凡人の間のみの話である。一から十を得られるような天才であればトイレという単語に一般大衆が抱くような印象は抱かないはずだ。例えばそう、そうだな、天才ならばトイレと聞いて……そうだな……人類が歩んできた歴史とか……うん、それと、ラブ……ロマンスとか、ミステリー、ホラー、トイレの神様……。などなどだ。などなどなのだ。まったく、いちいち私に聞くな。私は別に天才ではないのだぞ。そんなに知りたければ身近にいる天才にでも聞いてみればよかろう。

 まぁ、ともかくだ、ともかくである。たとえ私がトイレの個室で弁当箱を開いていようとも、それは世間一般の共通認識となっているような孤独な少女の特徴とは当てはまらないのだ。むしろ私は天才と呼ばれる者たちの領域に立っている、いや、座っているといっても過言ではない。何故なら私は昼食を食べるという一点において、世間一般の凡人共には得ることが出来ないような様々な利点を何の労もなく享受してしまっているのだから。

 まず第一にここは個室である。現代社会におけるストレスの筆頭ともいえる問題が人間関係であろう。それは私の通う高校においても顕著だ。大人と子供の間に立つ思春期の大衆に溢れた場所が高校である。様々な感情と思いが交差する空間において、どうすれば安心して昼食を楽しめるだろうか、という難問が我々高校生に課せられた議題の一つなのだ。仲の良い者で集まるか、視線を無視して俯くか。我々は、いや凡人は、常にそれらの問題に悩まされながら日々の学園生活を送っているのである。

 もうここまで来れば察しの悪い凡人でもお分かりになるだろう。そう、トイレの個室で弁当箱を開くという私の行為は、人間関係という問題を払拭した最強の一手だったのだ。個室という利点を最大限に活かした私の好プレー。私以外の誰に気付くことが出来たというのか。私がガッツポーズを取ると共に隣の個室の誰かが水を流すという方法で祝砲を放った。流れる水の濁音はまるで戦場の勝鬨である……。

 最悪だ。崩れたハンバーグを見下ろしていた私は慌てて目を瞑ると青い空を想像した。青い夏空の下の白いビーチ。青い海の彼方の白い雲。流れ続ける水の音。赤い弁当箱の中の崩れたハンバーグ。本当に最悪である。いや、トイレという空間ならば当然想定すべき事態ではあったのだが、あまりにも突然だった。まさか私以外にもステルス性を備えた女生徒が存在するとは。まったく、弁当を食べる気を無くしてしまったではないか。もう二、三の利点があったのだが、食べる気を無くすと共に語る気も無くしてしまった。もう出よう。

 弁当箱を鞄の奥に仕舞い込んだ私は、水を流す音で便所飯などしていませんよとアピールをすると視線を下げて個室を出た。先ほどの空気読めない水流しステルス女が手洗い場で鏡を眺めながら髪を弄っている。隣のクラスの名前も知らない女である。その空気読めない水流しステルス女を心の中でギロリと睨み付けた私は、視線を下げたまま手を洗うとそそくさと廊下に飛び出した。まだ昼休みである。早く一人で弁当を食べられる場所を探さねばならない。もうトイレで弁当箱を開く行為は懲り懲りだ。

 とぼとぼと廊下の端を歩く私の横を生徒たちが通り過ぎていく。皆んなはもう弁当を食べ終えたのだろうか。だとすれば天才である。昼食は何処で食べれば良いのかという誰もが思い悩むであろう問題を苦としない者たちなのだ。天才たちが私の横を通り過ぎていく。チラリと教室の中を覗き込めば、談笑する生徒たちがそこかしこに溢れかえっている。弁当箱と向かい合う凡人はごく僅かである。皆んな昼食はどうしたのだろうか。誰もが皆、私のように弁当箱を開ける場所を探す途上にいるのだろうか。いや、ならば呑気に教室で談笑などしている場合ではない。皆んな校舎を彷徨っているはずである。ならば、ならばである。談笑する者たちは皆、天才と呼ばれる領域に立った者たちなのだろうか。馬鹿な。あり得ぬ。私の気付かぬ間に、この学校は天才たちによって支配されてしまっていたというのか。

 とぼとぼと歩く私を振り返る者はいない。当然であろう。長い髪を前に落とした私の様相はさながらホラー映画の女生徒である。休日ならば私の髪が私の視界を邪魔することはない。平日でも朝であればしっかりと後ろに流れてくれている。だが、登校し、授業を受け、校舎を彷徨う事となる頃には、この長い髪が私の顔を陰鬱に覆ってしまっているのだ。何故だろうか。もしかして、私は幽霊なのだろうか。

 幽霊を振り返る者はいない。幸いである。万が一にも振り返り、そして恐怖する者があれば、いずれ私は何処ぞの寺生まれの誰かに滅せられることとなるだろう。まったくもって幸いである。もう、この廊下の真ん中で弁当箱を開いてしまおうか。だって誰も気にしないのだから。だって私は幽霊なのだから。

 廊下の隅に座り込んだ私は肩を丸めて壁に寄りかかった。鞄のチャックを開けようかと指を伸ばすも、食欲が無いからと手を引っ込める。誰も私の行動を気にしない。お腹も空いていない。幽霊とは心地が良いものだ。このまま、本当に幽霊になってしまおうか。

「おい、大丈夫か?」

 しゃがみ込んでいた私の背中に誰かの手の熱が伝わる。ビクリと肩を震わせた私は飛び上がった。まさか寺生まれか。だとすればヤバいぞ。存在ごと滅せられてしまう可能性がある。

 最大限の警戒を視線に込めた私は前髪の隙間からその誰かを睨み付けようと後ろを振り返った。ピッと皺の無い黒のズボンが視界に入る。背の高い男子生徒である。むむっと視線を上げた私の口がポカンと縦に開く。男子生徒の顔はギリシャ彫刻の英雄のように整っていた。

「天野さん、気分が悪いのか?」

 同じクラスの男子生徒だった。稀に挨拶はすれど会話などはしたことがない。名前を覚えていてくれたことが奇跡のような、そんなクラスメイトの男子が、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。視線など交わることの無い間柄である。ただそれは、私が異性に対してウブだからだというわけでも、実は幽霊だったからだというわけでもない。むしろ問題は彼の方にあった。彼もまた私のように人付き合いが苦手だったのだ。いや、人という種族そのものとの付き合い方がよく分からない私とは違って、彼は異性に対してのみ口が重くなるという特異体質に悩んでいた。不思議な男だった。このクラスメイトは同性とならば普通に出来るような会話が異性とは出来ないでいたのだ。いったいどういった体質なのだろうか。単に異性が苦手なだけだというわけではあるまい。私はそれが学園七不思議に組み込むことの出来る大いなる謎の一つであろうと密かに考えていた。

 とはいえ、このギリシャの英雄のように顔の彫りの深い男子生徒はクラスの、いや、学校中の人気者だった。人付き合いが苦手にも関わらずである。彼の名前を知らぬものが居ないのではないか思えるほどに彼の人気は凄まじかった。

 何故、彼は人気者なのだろうか。答えは簡単である。彼が天才だったからだ。同じクラスの男子生徒、長谷川勇大は天才だった。

 誇張ではない。そして昼飯を早く食べるのに特化したような賛否の分かれる天才でもない。長谷川勇大は世間一般が認める大天才であった。文武両道。才色兼備。運動においても学問においても、長谷川勇大の右に出る者はいなかった。

「顔色が悪いな……。天野さん、保健室まで頑張れるかい?」

 長谷川勇大の大きな手が私の小さな手を包み込む。大胆である。特異体質は何処へ行ったのか。知と武に勇まで加わった今の長谷川勇大ならば天下無双のハリウッド女優でさえも攻め落とすことが出来るであろう。

 まさか、いや、まさかまさか、まさかこの男は私を異性として見ていないのではなかろうか……。

 私の顔を覗き込む勇大の瞳に邪心は見えなかった。何処までも純粋な聖母の瞳である。激しい混乱の渦の中で、私は私の直感に背筋が凍るような戦慄を覚えた。恥ずかしさと恐ろしさと切なさに気が動転した私は「うわぁ」と素っ頓狂な声を上げると共に、鞄を引っ掴んで走り出した。

「あ、天野さん!」

 長谷川勇大の男らしい声が私の後を追う。怖かった。恥ずかしかった。だが、次第に勇大の声が遠ざかっていくと、激しい罪悪感が私の胸を蝕んでいった。廊下の端で蹲る女生徒を彼が放っておくわけがない。根が優しいのだ。そんな彼の純粋な優しさを私は踏み躙ってしまった。私は、私はなんと酷い事をしてしまったのだろう。ああ、もう取り返しが付かない。うう、弁当は何処で食べよう。

「美雪!」

 声はいつも唐突に訪れる。一階に向かって階段を駆け下りていた私に水島涼太は声を上げた。相変わらず透き通った声である。

「大丈夫か? 何かあったのか?」

 よく心配される日である。昼食の場を見失った私の存在が他人の目にはそれほど哀れに映るのだろうか。一階に降りた私は前髪の隙間から辺りを見渡した。案の定、昼休みの廊下は生徒の声に溢れている。

「おい美雪、本当に大丈夫か?」

 おい、近すぎだ。お前は自分が天才型だという自覚がないのか。いや、天才型ゆえの行動か。まったく、困ったやつである。また私に向かって女生徒たちの視線の弾丸が飛んでくるではないか。

「美雪……?」

「ち……ひっ……ち、ちか……」

 なんだろう、声が上手く出せない。出そうとすると喉元でつっかえてしまう。何故だ。知らぬ間に武の長谷川勇大の目に見えぬ手刀が私の喉を貫いていたのだろうか。声が、息が、喉元で止まってしまう。こんなのは初めてだ。

「何かあったんだな? まさか朝のあれか? 大丈夫だって、お、俺が付いてるからさ!」

 涼太の声までもがつっかえ始める始末である。もしかしたら流行り病の類かもしれない。大変だ。早く救急車を……。

 何とか声を出そうとした私の唇が激しい痙攣に歪んでしまった。震える喉。口の中が何やら塩辛い。そこで、やっと私は自分が泣いているのだということに気がついた。周囲の声が遠い。涼太の顔が歪んで見える。いったい何故、私は泣いてしまっているのか。大いなる謎の一つとして学園七不思議に推奨してみよう。

「美雪……」

「ひっ……ひっ……」

 涙が止まらなかった。鼻水も止まらない。だが生憎、私はハンカチを持ち合わせてはいない。緊急事態である。背に腹は変えられないだろう。

 鞄を下ろした私は弁当箱を取り出した。弁当箱を包んでいた赤色の布を解いた私はそれで涙を拭く。人前で泣いたのはいつ以来だろうか。恥ずかしい。特に最悪なのが幼馴染の涼太の前で泣いてしまった事だ。涼太の前で泣くのは恐らくこれが初めてである。屈辱だ。屈辱で涙が収まってきた。涙が収まってくるとお腹が空いてくる。まだ私は昼食を食べきっていないのである。

「ひっ……べ、弁当……」

 赤い布を下ろした私は前髪の隙間から涼太を睨み付けた。何やらオロオロと腹の前で指を絡ませていた涼太は、ほんの僅かに首を傾げると恐々と私の目を覗き込んだ。

「な、なんだ……? どうした……?」

「べ、弁当!」

「弁当……?」

「弁当……ひっぐ……食べる、場所、無い!」

「はあ?」

「食べる、場所、無いのっ!」

 また涙が溢れそうになった私は慌てて赤い布を鼻の上まで持ち上げた。肩をすくめた涼太の頬が緩んでいく。何がおかしいのだ。幼馴染を叱りつけようとした私の頬を涙が伝った。

「たく、んな事で泣いてたのかよ」

「泣いて……ない!」

「分かった、分かった」

 呆れたように笑った涼太の手が私の手を包んだ。よく手を掴まれる日である。昼食をとっていない私の体はそれほどフラついて見えるのだろうか。

「ほら、来いよ。一緒に昼飯食べようぜ」

 涼太は天才型である。その笑顔は夏空の青よりも透き通っている。喉がつっかえた私は返事が出来なかった。代わりに首を縦に振ってみせると、涼太は太陽のような眩い笑顔を見せた。

 天才型の涼太と並んで昼食を食べるなど本来ならばあり得ない。だが、今日くらいはいいだろう。私は疲れたのだ。早く弁当箱を開きたいのだ。久しぶりに幼馴染と昼を過ごそうではないか。

 涼太の手が私の体を引っ張る。その手を握り返した私は歩き出した。

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